前回のエントリでは、格差社会を捉えるアプローチを4つの類型に分類してみた。
それぞれのアプローチについて、もう少し詳しく考えをめぐらしてみたい。
まずは第一番目、格差の存在自体を否定的に捉える考え方について。
そもそも資本主義社会とは、格差の存在を前提にした社会だと言えよう。
先々週号だったか「R25」のコラムにも書かれていたが、「価値ある情報」とは「多くの人がそれを知りたいと思う情報」であり、且つ「殆どの人がまだ知らない情報」である。
たとえ重要な内容を含んでいたとしても、既にみんなが知ってる情報には価値が無い。
情報に限らず、モノであれサービスであれ、その人にしか作ることのできないモノ、他では経験できないサービスにこそ人は価値を見出し、そこに需要が生まれる。
いわゆる「差別化」というヤツである。
持つ者と持たざる者が存在することで需要と供給が生まれ、競争によりよりよいモノやサービスが生産され、経済社会が効率化する。
資本主義の下では「格差」はエネルギーの素となるのである。
「格差」の存在を否定的に捉え、結果平等を求めることは、突き詰めれば資本主義の否定に他ならない。
ロシア・東欧、そして中国を飲み込んだ資本主義は、今や世界の津々浦々まで席巻しようとしている。
かの北朝鮮でも市場経済を一部取り入れようとの試みが為されていると聞く。
世界各国で様々な社会運動が展開されていようとも、資本主義を捨て去ろうという主張がされている例は有力には存在しないと認識する。
人類は資本主義に替わるイデオロギーを未だ持ちえていない、というべきか。
だがその一方で、現在の日本に「アンチ資本主義」的な「気分」が漂っていることも事実であるように感じられる。
それは一体どういうことなんだろうか。
一つには競争に対する疲弊という側面が挙げられるのではないか。
グローバル化、そして情報伝達スピードの飛躍的に向上した現代社会において競争に勝ち抜くには相当な苦労とエネルギーを要する。
いいアイデアを思いつき、他者との差別化を図ることができたとしても、情報がすぐに伝わる現代社会ではすぐに陳腐化してしまう。
競争に継ぐ競争が必要とされる。
一方で、経済のグローバル化により、中国や東南アジアの賃金の低い労働者とも伍していかなければならない。
そのような非常に厳しい状況下で、個人は疲れ果て、競争そのものに嫌気がさす。
また、資本主義が標榜する合理性だとか効率性の神話に対する不信感も強まっているように思う。
合理的で効率的な世の中が、本当に幸せをもたらしてくれるのか?
こうした雰囲気は、世界的に広がる嫌米の潮流にも重なる。
要は、格差云々ではなく、「価値規範の揺らぎ」が問題なんだと思う。
高度成長で年々パイが大きくなっていた時代には真面目に努力すれば報われる世の中だった。
高度成長が終り、バブルもはじけた後は、競争で他人を蹴落とさなければ成功できない世の中になってきた。
とにかく効率化を極限まで推し進め、競争力を高めることが重要。
だけど、本当にそれでいいのか?
合理性・効率性に代わる(あるいは補完する)価値規範が今求められている。
教育基本法を改正して道徳教育を強化しようなどといった試みも、これに関連呼応した動きなのではないかと思う。
求められる価値規範とはいったいどんなものなのだろうか?
それが簡単に分かれば苦労はしないが、自分は「誠実さ」がキーワードになると思う。
人類が資本主義を選択し続ける限り、競争を続けていかなくてはならないことは否定できないが、その競争を正当で、且つ過当でないものにする必要がある。
それが「誠実な競争」である。
では「誠実」とは?
正直であること、嘘をつかないこと、それは当然である。
が、誠実とは単に真面目ということとは違う。
愚直に言われたことだけやってるのではダメなのだ。
常にイノベーションを心がける必要がある。
そして、そのイノベーションを実現しようとする努力の目的は、単に利己的なものであってはならない。
世の中のためになることをする、その結果として自分自身にも果実がもたらされる、そういったサイクルを常に念頭に置くべきだ。
それは滅私奉公、自己犠牲といったものともまた異なる。
そんな「誠実な競争」。
その結果として生まれる「格差」であれば、我々は受け入れることができるのではないだろうか。