名古屋するめクラブ

~名古屋発くうみるあそぶ~

<九州2011・3日目>博多駅デイトス。

2011年05月16日 12時12分12秒 | 旅(国内)

JR博多駅にあるショッピングスペース。

お土産のセレクションも豊富でセンスいいし、

レストランも同じくバラエティに富んでいて

なかなか楽しいスペースでした!


博多DEITOS(デイトス)
JR博多駅構内


<九州2011・3日目>天草四郎像@天草パールセンター。

2011年05月16日 08時08分08秒 | 旅(国内)

実は、

今回天草に来るまで、全く知りませんでした。

天草四郎って人のこと。

天草四郎(1621~1638)。

享年17歳。

江戸時代初期のキリシタン。

本名は、愛知時貞(えちときさだ)という説もあるらしいから、

愛知県民としては全く縁がないというわけでもないよね(笑)。

島原の乱の指導者とされ、幕府の攻撃による原城陥落により自害した。

どの像を見ても、少年の天草四郎像ばかりだったのは、

そういうことだったんだ(↓)。



以下、某HPより抜粋。

元和7年(1621)江部村(現在の宇土市旭町江部)に生まれる。父益田甚兵衛はキリシタン(切支丹)大名小西行長の元家臣で、小西家没落後、江部村で農業を営んでいた。家族ともに敬謙なキリシタン信徒だった。当時の天草・島原地方は、飢きんや重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していた。慶長18年(1613)、マルコス宣教師が追放される時「25年後に神の子が出現して人々を救う」という予言を残す。その予言にある25年目の寛永14年(1637)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂される。四郎の熱心な説教は人々の心をとらえ、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられた。

慶長6年(1601)、唐津城主の寺沢広高が旧小西領だった天草を統治する。その際、領内の石高を定めるが、耕地面積に乏しい天草にとって、4万2千石というのは実情を無視した余りにも過大な数値だった。寛永11年(1634)から続いた大凶作の中でも年貢の取立ては容赦ない。、生きたまま海に投げ込んだり、火あぶりの刑など想像を絶するキリシタン信者への迫害。このような過酷な徴税と弾圧に絶え切れずに、起こるべくして起きた一揆と宗教戦争が「天草・島原の乱」だった。寛永14年(1637)10月、年貢納入期を前に島原で農民が蜂起。呼応して天草でも一揆が起こり、島原半島に渡って島原勢と合流する。天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、幕府軍と果敢に戦うことに。しかし、正規軍の幕府連合軍(12万人)と素人寄せ集め集団の一揆軍(3万7千人)、力の差は歴然。寛永15年(1638)2月、島原城の落城ととも一揆軍は全滅。幕府軍にも8千人の死傷者を出して終結となった。当時、四郎はわずか16歳、一揆軍全員玉砕という結末はキリストへの厚い信仰心の証だったのかもしれない。

天草・島原の乱で全滅したと思われていたキリシタンだったが、明治のキリシタン解禁までの300年近く、厳しい弾圧に耐え忍びながらも、信仰の火を守り続け、明治6年(1873)のキリスト教解禁後、大江や崎津などに天主堂が建設され、キリスト教徒として次々と復活した。