品川が西郷のところを訪れたのは、挙兵計画の打ち合わせのためである。その夜、「原市之進に天刀が加えられた」と、薩摩藩士の内田仲之助が品川弥二郎に告げているのである。
「天刀」という表現の用い方は、まるで薩摩が原市之進に天誅を加えてやったと、長州藩の品川に自慢でもするかのような言い方である。もともと水戸藩周辺のテロリストは薩摩藩と深くつながっている。もともと井伊直弼の暗殺も水戸と薩摩の尊攘派の共同謀議である。5月に小三郎が議会政治の建白書を公儀に提出した折、原市之進はそれに理解を示していた一人だったと思われる。原も大政奉還を実施し、薩長との内戦を回避するというシナリオを描いていた。小三郎とは、その方向性において志を同じくしていたはずである。御所を襲撃し、天皇を拉致し、「幕府」と会津の屯所を襲撃するという壮大なテロ計画を固めた薩長にとって、原市之進も赤松小三郎も、事前に取り除かねばならない障害だった。二つの暗殺事件は連動しているのであろう。 . . . 本文を読む
徳川慶喜は、議会政治の導入を前提として大政奉還に同意したのであった。その上で渋沢は、慶喜がこのように決断するに至った背景として、当時、徳川政権の側も含めて議会政治を開始する機運が高まっていたことを論証する。嘉永年間より議会政治を求める気運が次第に高まって、大政奉還に至ったのであった。渋沢は、土佐藩の大政奉還建白書の提出に先立つ公議政体論の系譜を、ペリー来航時の老中阿部正弘にまで始原を遡って紹介している。とりわけ、その系譜についての全体の記述の半分近くを赤松小三郎の議会政治論の紹介に充て、それを評価するのである。 . . . 本文を読む