本日の「第7回 青天を衝け ー青天の栄一」。私の研究対象の松平忠固との関連で少し補足しておきます。あいかわらず大森美香さんの脚本は冴えていて、ドラマとしては非常に面白いです。上信国境の山岳地帯でまさに青天を衝いた栄一が、村に戻って千代に想いを告白したシーンは感動的でした。
阿部正弘の死去後、政権の座についたのは堀田正睦とドラマで紹介されました。他の老中はセリフなしで「その他大勢」の扱いです。実際は阿部は死去前から堀田に老中首座を譲っていて、堀田政権へと移行していました。従来、政権の側は主体性がないまま、ハリスにいいように押し切られるといった感じに描かれることが多かったです。本作では、堀田が確固たる意志で開国と通商に向けて舵を切った様子は描かれたので、それは非常に良かったです。
さて、本作では斉昭の参与辞任の様子は描かれませんでした。阿部が安政4年(1857年)6月に死去すると、徳川斉昭は後ろ盾を失い、翌7月に参与を辞任します。そして斉昭辞任の後を受けて、二度目の老中に返り咲いたのが松平忠固です。忠固は斉昭によって失脚させられていました。斉昭と忠固は、代わりばんこに政権に入ったり出たりしていました。まさに「両雄並び立たず」の宿敵の関係だったのです。
当時の老中は、席次の順に堀田正睦(佐倉藩主)、松平忠固(上田藩主)、久世広周(関宿藩主)、内藤信親(村上藩主)、脇坂安宅(龍野藩主)の5名でした。堀田以外は全員セリフなしです。たぶん視聴者は誰も、誰が誰か見分けられなかったかと思います。一瞬でしたので私もムリでした(苦笑)。裃の家紋で見分けるしかなさそうです(苦笑)。この5人はいずれも生粋の開国派で、この5人の布陣で日米修好通商条約の調印まで成し遂げたのです。
この中で、日米和親条約交渉当時から老中だったのは忠固と久世で、当初から一貫して開国派で公儀の開国論を牽引していたのは忠固です。老中首座の堀田は外国御用掛(外務大臣)としてハリスとの交渉を主に担当し、通常は首座の職務である勝手掛(財務大臣)は次席老中の忠固が担当しました。この内閣は、実質的に堀田と忠固の連立政権という布陣だったのです。
本日のドラマで、徳川斉昭が、敏腕官僚の川路聖謨と永井尚志に向かって、「備中の腹を切らせ、ハルリスの首を刎ねよ」と言い放ちました。ああした発言は実際にあったのです。しかし正確には、「備中(堀田)と伊賀(忠固)は腹を切らせ、ハルリスの首を刎ねよ!」と言ったのです。しかし忠固の存在はドラマの中では相変わらず無視されています。
それにしてもこの発言、斉昭が堀田と忠固をどれだけ憎んでいたかが分かるエピソードです。史実では、これが大問題になって、息子の慶喜が自邸に川路と永井を招いて、斉昭の暴言を陳謝しているくらいです。
さて今回のドラマで良かったのは、家定が松平慶永を嫌っている様子が描かれていたこと、そして、井伊直弼を大老にしようと決めたのは家定本人の意志であることが描かれていたことです。
慶永が家定をバカにする発言を公言していたのは史実で、家定が慶永を嫌悪していたのも史実です。慶永役の要潤さんの家定をバカにしきったような目つき、じつに効果的で良かったと思います。迫真の演技でサイコーでした。実際に慶永は家定に対してあんな態度をとっていただろうと思われるのです。結局、一橋派の運動が失敗した主因は、一橋派のリーダーである松平慶永が家定を怒らせすぎたことに原因があると私も考えています。
従来の定説では、井伊を大老にする工作を影で行っていたのは松平忠固であると言われています。「忠固陰謀論」です(苦笑)。これは当時の一橋派がそう考えて、広めた噂話であり、証拠は全くありません。
今も昔も、陰謀論が広がるのは、集団的な被害妄想からかも知れません。私の近著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)では、井伊を大老にしたのが忠固であるという「定説」が、全くの根拠のない虚構であることを明らかにしています。
井伊を大老にしようと決定したのは誰の陰謀でもなく、家定本人であり、それは慶永を大老にしようと一橋派が工作したことに対する家定の生理的な嫌悪感からであると、私もそのように考えております。
ただ、家定をもう少しカッコ良く誠実な感じに描いて欲しかった気がします。家定は、慶永が考えていたほどに愚かでないのです。
阿部正弘の死去後、政権の座についたのは堀田正睦とドラマで紹介されました。他の老中はセリフなしで「その他大勢」の扱いです。実際は阿部は死去前から堀田に老中首座を譲っていて、堀田政権へと移行していました。従来、政権の側は主体性がないまま、ハリスにいいように押し切られるといった感じに描かれることが多かったです。本作では、堀田が確固たる意志で開国と通商に向けて舵を切った様子は描かれたので、それは非常に良かったです。
さて、本作では斉昭の参与辞任の様子は描かれませんでした。阿部が安政4年(1857年)6月に死去すると、徳川斉昭は後ろ盾を失い、翌7月に参与を辞任します。そして斉昭辞任の後を受けて、二度目の老中に返り咲いたのが松平忠固です。忠固は斉昭によって失脚させられていました。斉昭と忠固は、代わりばんこに政権に入ったり出たりしていました。まさに「両雄並び立たず」の宿敵の関係だったのです。
当時の老中は、席次の順に堀田正睦(佐倉藩主)、松平忠固(上田藩主)、久世広周(関宿藩主)、内藤信親(村上藩主)、脇坂安宅(龍野藩主)の5名でした。堀田以外は全員セリフなしです。たぶん視聴者は誰も、誰が誰か見分けられなかったかと思います。一瞬でしたので私もムリでした(苦笑)。裃の家紋で見分けるしかなさそうです(苦笑)。この5人はいずれも生粋の開国派で、この5人の布陣で日米修好通商条約の調印まで成し遂げたのです。
この中で、日米和親条約交渉当時から老中だったのは忠固と久世で、当初から一貫して開国派で公儀の開国論を牽引していたのは忠固です。老中首座の堀田は外国御用掛(外務大臣)としてハリスとの交渉を主に担当し、通常は首座の職務である勝手掛(財務大臣)は次席老中の忠固が担当しました。この内閣は、実質的に堀田と忠固の連立政権という布陣だったのです。
本日のドラマで、徳川斉昭が、敏腕官僚の川路聖謨と永井尚志に向かって、「備中の腹を切らせ、ハルリスの首を刎ねよ」と言い放ちました。ああした発言は実際にあったのです。しかし正確には、「備中(堀田)と伊賀(忠固)は腹を切らせ、ハルリスの首を刎ねよ!」と言ったのです。しかし忠固の存在はドラマの中では相変わらず無視されています。
それにしてもこの発言、斉昭が堀田と忠固をどれだけ憎んでいたかが分かるエピソードです。史実では、これが大問題になって、息子の慶喜が自邸に川路と永井を招いて、斉昭の暴言を陳謝しているくらいです。
さて今回のドラマで良かったのは、家定が松平慶永を嫌っている様子が描かれていたこと、そして、井伊直弼を大老にしようと決めたのは家定本人の意志であることが描かれていたことです。
慶永が家定をバカにする発言を公言していたのは史実で、家定が慶永を嫌悪していたのも史実です。慶永役の要潤さんの家定をバカにしきったような目つき、じつに効果的で良かったと思います。迫真の演技でサイコーでした。実際に慶永は家定に対してあんな態度をとっていただろうと思われるのです。結局、一橋派の運動が失敗した主因は、一橋派のリーダーである松平慶永が家定を怒らせすぎたことに原因があると私も考えています。
従来の定説では、井伊を大老にする工作を影で行っていたのは松平忠固であると言われています。「忠固陰謀論」です(苦笑)。これは当時の一橋派がそう考えて、広めた噂話であり、証拠は全くありません。
今も昔も、陰謀論が広がるのは、集団的な被害妄想からかも知れません。私の近著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)では、井伊を大老にしたのが忠固であるという「定説」が、全くの根拠のない虚構であることを明らかにしています。
井伊を大老にしようと決定したのは誰の陰謀でもなく、家定本人であり、それは慶永を大老にしようと一橋派が工作したことに対する家定の生理的な嫌悪感からであると、私もそのように考えております。
ただ、家定をもう少しカッコ良く誠実な感じに描いて欲しかった気がします。家定は、慶永が考えていたほどに愚かでないのです。
そして幕末の頃に龍野藩士から養子を貰っています。つまり脇坂安宅の家臣の子が松平忠固の家臣の子になったということで、今週の放送回は我が家にとっても他人事ではありませんでした。
そういえば、上田藩士で忠固側近の八木剛助は、堀田正睦の家来の佐倉藩士を養子に迎えています。これも主君同士の交流の中で生まれた縁かと存じます。
脇坂安宅もちゃんと研究して評価せねばならない人物と思われます。