三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

正調さっぽろみそラーメン

2006年08月21日 05時04分57秒 | Weblog

さて、きょうは久しぶりに食べ物ネタで。
わたしの生まれ育った実家は、札幌でもやしの製造業を営んでおります。
まぁ、いまは豆腐やらなにやら、いろいろとやっていますが、
基本はもやしの製造販売なんです。
オヤジが始めてから、約半世紀。で、さっぽろラーメンの創成期から
もやし製造業として、関わってきている部分があります。
さっぽろみそラーメンの生みの親、故・大宮守人さんが毎日のように
わが家にもやしを買いに来てくれていたことを覚えています。
「もやし、わけてくださ~い」という声も耳に残っています。
って、古いヤツと、お笑いください。
当時は、もやしを数十キロ単位で買ってくれるなんていう業態はなかったのです。
それが、大宮さんは、味噌ラーメンに似合う添え野菜として
もやしに着目してくれて、大いに販売促進役を果たしてくれていたのですね、
オヤジは終生、いまの商売の恩人として、大宮さんの名前を挙げていました。

という昔話になってしまうのですが、
まぁ、それは置いておいて、ラーメンって、誰にでも一家言のある食べ物です。
身近な食文化の最たるモノですよね。
大宮さんが始めていた頃の、素朴な風合いのラーメンって、
なかなか巡り会うことが出来ません。
そんななかで好きなのが、ご紹介する「味忠」っていう店。
わたしの高校への通学路、「文化通り」に面した、
5人も入ったら満杯というほんの小さなラーメン店。
高校生時代から、よく通っておりまして、以前東京暮らしから
札幌に帰ってきた頃にも、思わず食べに行って、
「ホエー、なんにも味が変わっていない」と感嘆したモノです。
母娘2人でやっている店だったので、儲けようとか、
味にどんどん工夫を凝らして、商売繁盛させようというような
姿勢があんまり感じられないお店なんですね。(って、褒めてるのかどうなのか?)
なもんだから、むかし覚えた作り方をそのまんま、続けている。
ラードを引いて、挽肉を炒め、もやしなどの野菜をあわせてからスープを注ぎ
味噌味仕立てにして、できあがり。
このシンプルさが、なんとも、いいわけなんです。

まぁ、味は好みのあるモノなので、好きずきだと思いますが
基本的な部分で、さっぽろみそラーメンの正調の味わいが感じられるお店。
店も、確実に40年近く続いているんだよね、考えてみると。
住宅街の片隅みたいな店だけれど、
高校の友人たちも、みんなこの味にぞっこんなんですよ。
お近くに来られたら、寄ってあげて欲しいと思う店です。
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公園利用とマナー

2006年08月20日 05時48分26秒 | Weblog

写真の意味はおわかりいただけるでしょうか?
芝生の真ん中にバーベキューをしたあとの消えていない炭を
放置していったものなんですよね。
わたしの毎日散歩するコースの「発寒河畔公園」での様子です。
一歩間違えば、野火の危険もありますよね。
近隣には住宅も密集していますから、もし万一、こうした行為が原因で
火事にでもなったら、事実上、放火と変わらない行為だと思います。
この公園は、どこでもそうでしょうが、ゴミ捨て場というものもありません。
で、夏場の休日の前の日には、どうもここで大騒ぎ大会をやっている連中がいるようなんです。
まぁ、近場で気軽にキャンプ気分をどうしても、と考える気持ちはわかる。
ところが、これが翌朝にはとんでもないことになっているんです。
駐車場近辺に何枚もの立て看板が設置されていて
「ゴミ捨て厳禁」と書かれているのですが、
なぜなのか、その看板めがけて、ゴミの山が作られているんです。
そして、毎度のことながら、それを狙って大量のカラスが
大騒ぎして目も当てられないような光景になっています。
仕方なく、その周囲を迂回して散歩せざるを得ないのですが、
周辺に住んでいるみなさんの憤りはさぞかしと、思います。
最低限の、迷惑を想像するようなこころを持っていないのでしょうか?
いっときの自分だけの気持ちよさしか考えないのでしょうか?
見ているわけではありませんので、ゴミまで放置していくのが
どれくらいの割合なのか、まではわかりません。
キャンプ気分で、楽しみたいまでは何とかわかるけれど、
公園では禁止なのです。それをわかれば、ゴミまで放置していく行為は
とうてい、許されるわけがないし、さまざまな意味で累犯です。
やっぱりいちばん大きいのは、
こどもの倫理観を麻痺させていることかもしれません。
きっと子どもたちもこうした親たちに連れられて、
いっしょにこういう迷惑行為の共犯にさせられている・・・。

こういう見たくもない光景が展開するわけですが、
翌日には、たぶん周辺のみなさんが、カラスの被害も心配して
片付けていてくれているようです。
アウトドアブームでキャンプ気分を味わいたい、という気持ちは
わかりますが、周辺のみなさんの迷惑を考えたら、
相当、思い罰が科せられてしかるべきなのではないでしょうか?
カラスはまぁ、生きていくために必死に餌をあさっているワケで、
人間のゴミを処理しようともしているわけですから、
こういう最低の人間よりは、まだマシでしょう。
いろいろな犯罪というのはあると思いますが、
こういう自分勝手で、快楽本意な罪って、やっぱり増えているのでしょうか。
このままでいいとも思えないのですが、
さりとて、警察やパトロールでの摘発、というのも考えモノ。
結局、マナー、公益心などに訴えるしか道はないのかも知れません。
何ともやりきれないけれど、こういうのが現実でもあります。
こういう基本的マナーにおいては、どんどん日本はモラル低下が進行していますね、
大変、残念ですが・・・。
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金閣

2006年08月19日 06時26分51秒 | Weblog

写真を整理していて発見したのがこの金閣の写真。
いかにも、という観光写真の極めつけ、という感じですね。
以前、Microsoftのビルゲイツが全世界の写真の権利を買い漁っていて
このアングルからの金閣の写真の権利登録をしている、
という話を聞いたことがあります。
権利の限定性がかなり難しいだろうに、また権利侵害をどう調べるのか
そのニュースを聞いたとき、よく理解できなかった記憶があります。
にしても、Windowsって、儲かり過ぎですよね。
いまや、ほとんど税金と代わりありません。
ソフトウェアの値段って、もう少し激しい競争が起きてくれないと
ユーザー利益になりません。
現代の著作権関係の法律と、技術の社会発展でみたら
いまの現状は、けっして社会の全体から考えて、いいとは思えません。
単にOSのアップグレードという比較もおかしいけれど、
かろうじて存在する競争企業、Appleの最近の進化と比較して
確かにマネはしているけれど、あまりにも想像力がない。
そのうえ、技術的にはほとんど進展していない、停滞している。
結局、金だけ集めて巨大化したけれど、いまはその金を使って
市場に追随しながら、めぼしい技術を金で買いあさるのがビジネスになっている。
今度、大掛かりに取り組むのがiPodの二番煎じのZuneというヤツだそうですね。
そんな考えをするよりも、きちんとVistaとかいうバージョンを
言った通りの機能をしっかりつけて、約束通りの期限に出荷することに
専念すべきだと考えるのは、Macユーザーの気楽さが言わせるのでしょうか、ね。

さて、テーマが大きくずれていますね。
金閣、です。あまりにもポピュラーな建物なのですが
世界的にみて、どうなんでしょうか、木造で金箔を張りまくって、
こういう金ぴかの建物で、長く存続してきた建築って
どうなんだろうか。とは思うのですが、
こういう建築の感性を生んだのも、わたしたちの歴史なんですよね。
よく解説されるのは、戦国時代に至るこの時代の「バサラ」精神の発露、というもの。
絶えざる「下克上」が日常化して、非常に流動性や対流性の高い社会になって
そのことが、こういう表現を生み出す感性を育んだ、というもの。
まぁ、よくわかりませんね。
でも、こういうキッチュな衣装をまとっていますが、
プロポーションとかは、専門書を見るとかなり完成度が高い、ということ。
ほぼ日本人なら、だれでも見たことがある、代表選手のような建築ですね。
きっと、意識下の世界でも、この建物に影響を受けている部分があると思います。
日本人にわかりやすくひとつの典型的なるもの、を提示した、という意味で
やはりすごい建築だったといえるのでしょうね。
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05 愛知万博日本館にて

2006年08月18日 05時05分24秒 | Weblog

先日もふれた昨年の愛・地球博、長久手日本館の竹かご内部の写真です。
PCデータ、メインマシンは今は手元にはないんですが、バックアップデータから
見つけてまいりました。きのうまでのブログテーマよりは
わたしのブログに、やや似合ったテーマ写真だろうと思えて一安心です。

写真からは冷涼感や、温度の感じなどは伝わってきませんが、
この竹かごに入って、その日射遮蔽感でまずは人心地がついて、
さらに、素材がすべて自然素材で作られていたものですから、
独特の香りや、癒し感が漂ってきて、
さらに壁面の緑化が、涼やかな印象を与えてくれていました。
そのうえ、屋根には光触媒の素材が使われた屋根材に「打ち水」が施されて
いろいろな自然素材・ハイテク活用による「冷房負荷の削減」技術が動員されていました。
今、思い出してもあの会場の暑さ、ちょうど7月の末だったのですが
住宅の性能って、こういう冷房負荷削減としても、
いろいろ取り組まなければならないのだろうなぁと、
体にたたき込まれたような体験でしたね。
まぁ、南の皆さんからみれば、単なる暑がりすぎ、ということでしょうが。
札幌も、ここんところずっと晴天続きで、気温も30度超の真夏日の連続。
さぞかし、もっと南の地方の皆さんは大変な思いで、
この夏をお過ごしと思います。
昨年の愛知万博でのこうした「冷房負荷削減」技術、
まだなかなか、一般的には広がってはいない気がします。
一部でドライミスト装置が、東京の街角に設置されているというニュースが
あった程度でしょうかね。もっと、普及を進めるべきだと考えます。
いかがなものなのでしょうか。

さて、写真って、膨大に撮ってあっても、なかなか使うってことはない。
そのうちにお蔵入りになって、存在も忘れてしまう、というのが
デジタルデータ時代の昨今の一般的なところかなぁ、と。
なもんで、最近、パソコンからの「検索」機能を
みんな強化しようとしてきていますよね。
自動で写真整理ができるソフトを使ってみて、
その便利さにびっくりしております。おかげで、すこしテーマが戻れました。
今夕にはメインノートマシンが復帰してくれるはずですので、
ブログのテーマも、もっと住宅寄りに戻れると思います。ふう~。
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散歩道の奇観

2006年08月17日 05時37分07秒 | Weblog

昨日ご案内の通り、メインPCが入院中なので
テーマ性のあるブログが書けないでいます。
サブマシンでいまはしのいでいるので、いろいろ不便この上ありません。
いろいろなソフトがないので、インストールしたり、
仕事をするというより、その環境を整えているだけで
時間がなくなってしまうような状態です。
なによりデータのたぐいが手元にないのが辛いもの。

ということで、申し訳ありません、写真はいつもの散歩道で
前から気になっていた面白い木を写してみたものです。
初めてみたときは、ブルドッグのような犬が吠えかかっている、
そんなイメージを持ちました。
ちょっとびっくりしたんですが、どうしてこんなふうな造形になってしまったのか、
一度、人間の手にかかって倒されたところから
しぶとく生き残って、そこからめげずに成長を続けた、
という感じがいたします。
まぁ、なんとけなげな生き様を見せつけてくれておりまして、
ひそかに畏敬の念を感じておる次第でございます。
というか、突っ張った犬から、伸びやかに屈託なく
新しい生命が、無関係に伸びていった、というところでしょうかね。

さて、さっぱり要領を得ないブログで恐縮です。
もう少し、テーマ性を考えなければ・・・ということで、
明日以降も、どうぞよろしく(汗)。
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PC入院いたしました・・・

2006年08月16日 05時11分08秒 | Weblog

思わぬときにパソコンって、いっちゃうモノなんですね。
わたしはこのブログでも触れたように、ノートパソコン派でして、
年中、どんな移動出張のときも相棒のように片時も離れないヤツでした。
お盆休暇中も、自宅からのんびりとHDのなかの写真データを整理して
最近のブログの写真ネタを用意したりして、
ちょっと以前のモノですが、旅行先の写真を使って
ブログテーマを継続してきておりました。
そんなパソコンだったのですが、昨日ちょっと終了せずに立ち上げていたら
見事な『熱暴走」ぶり。
どうも、CPUが発熱状態になってしまいまして、
クールダウンできなくなっているような状態に陥りました。
まぁ、Macで使ったり、Winで使ったりと、
いろいろ過激気味に使ってはいたもので、以前から
CPUは異音を感じる事もあったのです。
「やばい、メインマシンだし・・・」と思ったのですが、
さっそく連絡して訪れたケアで診断してもらったところ、
HDデータ自体は問題はない、たぶんCPU周り、
まぁ、ロジックボードに直づけされているので、そのボードの交換修理で
大丈夫でしょう。HDは初期化とかの必要はないでしょう、とのご託宣。
ということで、さっそくロジックボードの発注をかけてもらい
2~3日の入院で帰ってこれそう、ということになりました。

けっこうトラブルは慣れているので、まぁこんなこともあるなぁ、と。
無償修理でメインボード交換ですから、半分は、
リフレッシュできていいかな、などと不埒な考えもよぎりました。
でも、その間はどうするか、と考えていたら
ちょうど、カミさんがややサブマシンのように使っていた
妹分のようなiBookを思い出しまして、
写真のヤツですが、こいつでしばらくの間はしのぐ事にいたしました。
んなわけで、ちょっとのあいだ写真はあんまりいいのがありません。
ブログの更新では、日常的なテーマで行こうと考えています。

さて、マシンを換えると、設定やらなにやら、
以前の頃とは格段の面倒さが増えてきている事に気づかされます。
パソコンに記憶させている設定が多いので、
いちいち覚えていられる訳はないほど、たくさんの情報が必要になりますね。
ということで、きょうから仕事なんですが、
きのうは一日、パソコン設定で費やしました。
これからは、データバックアップ、いろいろ考えていかなければならないですね。
外付けHDにも、同期させるとか・・・、
夏休みの宿題に取り組んでいた息子とともに、
しっかり勉強させられた一日でございましたです。 はぁ~。
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京都のおいしい水

2006年08月15日 07時53分14秒 | Weblog

浄土・・・のテーマでブログを書いて
写真を探していて、そのときに京都旅行の時の写真が発見できて以来
どうも、写真からブログのテーマに、
という安直路線になってしまっております。(冷や汗)
なんですが、どんどん思い出してきておりまして(笑)
本日も、暑い盛りと言うこともあり、
京都のおいしい水のお話。
京都と言うところは、ちょっと井戸を掘るといい水がわき出す土地柄。
伏見という酒処がありますが、あれはこの水の豊かさを
産業として生かしたものなんだそうです。
江戸期までの日本では、酒造りというのは、
もっとも究極的な食品産業だったそうで、そういう面でも
京都という存在は、産業品質の面でも日本を引っ張ってきた首都だった。
よく「くだらない」という言葉を使いますが、
あれの語源は、江戸の人たちが京都からのうまい酒を極上品とあがめ、
京都から下ってきた「くだりの酒」と表現し、
それ以外の酒を一段見下ろして表現するときに
「くだらない」として使ったのが始まりとか。

まぁ、写真は町家建築の見学で訪れた造り酒屋さんの中庭の井戸なんです。
自由に飲んでください、ということで炎天の暑さのなか、
いただいた一杯の水は、たしかに澄んだ清冽なみずみずしさ。
周辺の北方の山地からの伏流水なんでしょうが、
強烈な暑さと対照的に、きれのある味わいです。
御所のなかにもわき水が出ていると言うことだそうで、
京都は、豊かな地下水の上にある都なのですね。
だから、千年間、日本の都になれてきたのかも知れません。
って、よく「千年の都」という言葉がありますが、
京都は本当に千年間、都だったのですよね。
風水的にまさに理想郷的な配置にある、とは言われてきましたが、
この豊かな水が、どうもいちばんのポイントなのかも知れません。

で、この酒蔵で、重々しい扉を開けて、
昼間から、利き酒させていただけまして、
身も心もすっかり清められ、元気はつらつとなった次第です。
ホント、銘酒はいい水とともにあり、をたっぷり体感いたしましたです、・・・ハイ。
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京の町家

2006年08月14日 08時01分57秒 | Weblog

写真は京都での町家見学のときに撮影したもの。
日本の戸建て住宅は圧倒的に独立型が主流ですが、
都市住宅で考えれば、世界的には連棟式の、となりとの間が
壁1枚というスタイルの住宅の方が多いのではないのでしょうか?
まぁ、マンションというものがそれに替わっている存在とは言えますが、
欧米では、木造での連棟という住宅が多い。
以前に触れた、スウェーデンのハンス・エークさんが建てた「無暖房住宅」も
連棟式の住宅でした。
コスト面や敷地の利用などで、こういう住宅にはメリットが多い。
反面、やはり採光とか、そういう自由度は低いのですね。

さて、京の町家です。
間口が狭くて、奥行きが長く、入り口側は格子などが連続している。
たいていが内部に中庭を抱っこしたような間取りになっています。
これは連棟式のメリットを生かしながら、
採光や自然との触れあいを実現させているという意味で、
たいへんいい考え方のプランです。
都市計画の点で言えば、公共の道路と、私的な敷地利用の割合が
公共の側が少なくて済むメリットが大きいですね。
また、統一した街並みが展開していくので、調和が図られています。
こういう敷地利用計画のことを「街割り」とかいいますけど、
街割りで考えたら、鉄筋コンクリートがない時代、
低層の建物を連続させながら、密集的な効率のいい土地利用形態です。

こういうのはどういう形態で建てたのか?
複数の施主がいて、最初から共同住宅として計画して造作されたものか、
そうではなく、建て主が建てて、それを「分譲」して販売したものか、
いまとなっては、よくわからない部分なのでしょうね。
でも、こうした建物を見ていて、公共に対するそれぞれの家に態度に
よき共同住宅の規範や倫理観があるなぁと感じます。
街並みとしての調和を第1に考えて、
隣人への配慮を欠かさない態度で、マナーを守って暮らしてきたのですね。
ひるがえって、現代のマンションの騒音問題などで
それぞれの持ち主のエゴばかりが目立っている現状を見ると
もう一度、こういう倫理観に戻らなければ、と思います。
日本人の住まいの知恵と工夫が
いっぱいに詰まっている、京の町家です。
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浄土への思い_2

2006年08月13日 07時51分42秒 | Weblog

さて、きょうは朝から墓参り。
年々、朝のお参りラッシュの混雑が激しくなってきているなぁと感じます。
ことしはきょうがピークなんでしょうかね。
わが家は同じ墓地に、わたしの家の父母が眠る墓と、
カミさんの実家の墓、さらにカミさんの母の実家の墓と3つの墓が
一カ所にまとまっていて、墓参は便利なんですが、
さすがに行きも帰りも、まだ7時頃なのに、チョー混雑しておりました。
でもまぁ、無事終わって、なんとかこころに安堵感が広がります。
お盆に墓参りって、アジア人共通のような習慣でしょうが
先祖との同一性を感じる機縁ですね。
やっぱ、捨てがたい精神性をもったイベントです。

写真はきのうも触れた龍安寺の石庭です。
禅、という世界を視覚的に表現した傑作の庭園です。
毎日、この石庭は丹念に掃除したり、管理し続けてきたのだろうな、
その年月の積み重ねだけでも、畏敬の念を起こさせてくれます。
訪れるたびに、石庭に向かって座り込むのですが、
雑念と妄想のみわき上がる罰当たりな自分の存在を思い知らされる庭です(冷や汗)。
この石庭は、開園以来、さまざまな俗説を生んできたようですね。
いわく、海に浮かぶ島々だとか、いや宇宙を表しているとか、
こじつけに終始してきていますよね。

しかし、石だけで、なにごとかを表現しようとしたことは間違いがなく
その超表現主義とも言える意志の力には
ひとを圧倒するようなパワーを感じます。
そうしてこの庭を訪れる人たちと、この庭は長い年月、
対峙してきたのですね。
まったく、表現をひとつのなりわいとしているものには
揺り動かしがたい、大きな山のような存在だと、深く思い知らされます。
この庭が表現しようとしたのは、やはりなにごとかの
宗教的な思い、涅槃浄土への切なる思いであっただろうと思い至るとき、
自分自身も、こういう文化世界のなかに存在することに
深くわき上がってくるものがあります。
いつ訪れても、結局、「これはなんなのだろう」という問いを
内語として発し続けながら、なにひとつ悟りうるものがなく、
ただただ、煩悩と迷いの世界から抜け出せないのが、凡人なのだろうと思います。

お盆に、ふと書いてしまいました。
わけわかんないブログで恐縮です。
みなさん、よい夏休みをお過ごしください。
って、ブログはエンドレスで毎日更新しますので、またごらんください。
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浄土への思いと建築

2006年08月12日 05時22分02秒 | Weblog

日本の建築のなかで、きわめて大きな部分を占めている寺社建築。
これらは、その時々の権力が、
まつりごと、として取り組んできた勢威を表すとともに
建築としてみたときには、一貫して宗教的なイメージの実現がテーマ。
古代律令制としてはじめて成立した時期の奈良の都の大寺院からはじまって
そのことは連綿と続いてきている気がします。
なぜか、日本では「篤く三方を敬え」という聖徳太子の言葉が
日本的権力の伝統的なかたちになってきた。
一種の公共事業的な性格ももっているのだけれど、
たとえば奈良の大仏は、当時の天皇が発願して、
全国からお金を集めるべく「勧進元」が指名され、
苦難の末に金を集めたうえで、税金の一変形としての労働奉仕によって
人員が動員されて、できあがったという経緯になっている。
それらのプロセスで、交わされるコミュニケーションのなかで
多くの人に一貫するのは、宗教への畏敬の念ともいえるべきもの。

なぜ、こうまで宗教的な要素が人々の心を打ちつづけてきたのか?
そもそも宗教とは、なんだったのか?
キリスト教、仏教、イスラムなど、
世界中で、ほぼ同時期に宗教というものはスタートして
深く社会や政治に関与してきているのが現実なんですが、
そもそも、まつりごと、という言葉に、政、という字が当てられている
その意味というのが、まだしっかりとは追体験できていない。
やはり、倫理としても自分は支配するに足る存在なのだ、という
メッセージを込めて、いわば権力の正統性を証し立てるものとして
こういう宗教的権威を使ってきた、ということではあるのでしょう。
そういう意味では、権力の内面性を表したものなのか?

写真は、京都・龍安寺の様子です。
石庭が有名なお寺ですが、反対側の庭園と建物のアングル。
柱・梁・軒、縁といった建築要素と
対照をなす庭園の様子、周辺の自然との境界の塀といった
視覚要素が動員されて、
ひとつの宗教的示唆を表現しようと考えたのでしょう。
美しい調和の世界。いわば理想郷としての涅槃・浄土が
この地上に、このように表現されたと言えるのですね。
日本で独特に進化したと言える禅の考え方が
込められているということなのでしょう。
そういう意味では、博覧会的な、一種の展示装置であったのでしょうか。

まだまだ、こういう部分は、リアリティは完全には持てておりません。
しかし、建築がこういう示威や誇示の最良の道具・手段だった
ということは理解できますね。
たしかにこういう空間に出会えば、ひとは宗教的体験をしたと認識するでしょう。
そういう意味では、芸術に近い「体験性」を持ってもいますね。
このテーマ、まだまだ奥が深いですよね。むむむ・・・。
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