今、長塚節の本「白き瓶」・藤沢周平•著を読んでいる関係で、子規と弟子とのの関りを思い返しています。
「正岡子規の百ケ日」を再アップします。
◆ ◆ ◆2021年12月21日◆ ◆ ◆
『葯房主人歌草』の著者の
鈴木葯房師は(鈴木虎雄)京都大学名誉教授、文化勲章受章者です。
あけび歌会の大先輩です。
鈴木師は明治34年に新聞「日本」に入社している。
病に倒れた正岡子規に代わり短歌選者を務めた。
子規の晩年の生活の面倒を見た新聞社「日本」の社長の陸羯南(くがかつなん)の次女と鈴木師は結婚されたので、子規の日々は鈴木師に良く届いていたと思います。
鈴木師は明治41年に東京から京都大学へ赴任する。
『葯房主人歌草』に鈴木師が書かれた子規の葬儀の様子と百日忌の様子をお伝えしています。
リコの短歌結社は大正10年(1921年)の創刊から後、8年で創刊100号に成ります。
てすから、古くからの会員さんの鈴木虎雄先生は正岡子規と同じ会社(日本)で働き、同じ時代を生きてみえました。
鈴木葯房師
この本は昭和31年発行(1956年)で65年前なのでボロボロです。
★9月19日に正岡子規(1867年~1902年)の葬儀の様子をアップしましたので今日は百日忌の様子を鈴木葯房著『葯房主人歌草』から抜粋します。
この時38歳の伊藤左千夫(1864-1913)と28歳の香取秀真(1874-1954)の弔歌も掲載されています。
上の2枚は明治35年12月27日子規の百日忌の様子を書いたページの写真
子規子百日忌 明治三十五年十二月二十七日 「日本」
二十七日、根岸短歌会につらなる者はかりひて子規子百日忌を田端大竜寺に営まんとて二三の僧を請ひ心ばかりの読経をささぐ。母堂令妹及び二三の知るべの参拝終はりて、会者各々意を述ぶ。
秀真は前の日を此の日と取り違へて参詣しけるとかや。その歌に曰く
〇よもつべに歌つどひすか夢にだに百日にすれど音づれはなし
〇百か日に今日はたなりぬあなやめる足か冷ゆらむ墓に霜ふる
左千夫はその人の立ちたる姿は見ずて寝ねたるさまぞしのばるるなどいふ。曰く。
〇敷妙の枕によりて病伏せる君がおもかげ眼を去らずみゆ
〇梅椿みはかの前によろしなべ誰がささげけむ見らくうれしも
〇うつそみに吾ささげけむ野菊はもみはか冬さび枯れにけるかも
※野菊は手つくりのよし。
葬儀の様子を書いたページ。
明治33年12月23日 蕪村忌当日に行われた子規庵最後の俳句会の写真。
前列左から4人目の膝の前で手を組んでいるのが高浜虚子、後列左端が河東碧梧桐です。右上の丸の中の写真は子規です。
参考までに高浜虚子の立ち待ち月の子規への弔句
〇子規逝くや十七日の月明(つきあきらか)に
この短冊は兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に展示してありました。