ふとしたことから知り、聞き慣れない言葉だったので調べてみたのだが、「キャラクター弁当」の省略形で、アニメ漫画のキャラクターや芸能人の顔などを模したデザイン弁当だそうだ。
ある主婦が高校生の息子を驚かせようとして作り、それを自分のブログで紹介して瞬く間にブームになったと言う。この主婦はその後出版やテレビ出演で「有名人」になっているらしい。また何人かの作家によるムックが発売されたり、玩具など児童対象の商品を製作販売しているある企業は、キャラ弁の作製セットを販売しているようだ。この企業ではキャラ弁のコンテストもして作品を募集している。

インタネットで調べるといろいろな作品例が挙げられていた。



実に手の込んだもので、私には食欲をそそるものではないが、子どもが朝、家を出る前の限られた時間に、このような弁当を作るのは大変な手間だろうと思う。ブームとなりコンテストもあるとなると、だんだん凝ってきて、コンテストに出すための作品になってしまっているのではないかとも思った。
要するに子どもたちが楽しく弁当を食べたり、苦手なおかずも食べるようになるということらしいが、ここまで凝る必要があるのだろうか。「最近話題になっている『食育』という観点からも注目を浴びている」という紹介文もあったが、はて、食育とはこういうものを作ることだったのだろうかと首を傾げてしまった。
キャラ弁に対しては、親の自己満足に過ぎないとか、食べ物をおもちゃにしている、おいしそうでないから好まない子どもいるというような批判もあるようだ。私は最近多い共働きの家庭では、母親がこのような弁当を作る暇があるのだろうかと思う。忙しい母親からすれば、キャラ弁に凝る母親は有閑マダムに思えることもあるかも知れない。それにこのような派手な弁当を作ることが、母親の愛情のバロメーターになるのならおかしなことだと思う。
キャラ弁ではないが、昔からデザインした弁当や料理はあった。もっとも単純なものは私の子どもの頃にあった「日の丸弁当」だが、いくら何でも今どきこんなものを子どもに持たせるわけにはいかないだろう。デパートの食堂などでは「お子様ランチ」というのがあり、型で抜いたチキンライスの上に小旗を立てたり、車型の容器におかずを入れたりしたちゃちなものではあるが、子どもに持たせる弁当も飾るのはこの程度で、栄養のバランスを考えて、いろどりにも少し気を配ったものであればよいのではないか。何事も過ぎたるは及ばざるが如しと思う。
ある主婦が高校生の息子を驚かせようとして作り、それを自分のブログで紹介して瞬く間にブームになったと言う。この主婦はその後出版やテレビ出演で「有名人」になっているらしい。また何人かの作家によるムックが発売されたり、玩具など児童対象の商品を製作販売しているある企業は、キャラ弁の作製セットを販売しているようだ。この企業ではキャラ弁のコンテストもして作品を募集している。

インタネットで調べるといろいろな作品例が挙げられていた。




実に手の込んだもので、私には食欲をそそるものではないが、子どもが朝、家を出る前の限られた時間に、このような弁当を作るのは大変な手間だろうと思う。ブームとなりコンテストもあるとなると、だんだん凝ってきて、コンテストに出すための作品になってしまっているのではないかとも思った。
要するに子どもたちが楽しく弁当を食べたり、苦手なおかずも食べるようになるということらしいが、ここまで凝る必要があるのだろうか。「最近話題になっている『食育』という観点からも注目を浴びている」という紹介文もあったが、はて、食育とはこういうものを作ることだったのだろうかと首を傾げてしまった。
キャラ弁に対しては、親の自己満足に過ぎないとか、食べ物をおもちゃにしている、おいしそうでないから好まない子どもいるというような批判もあるようだ。私は最近多い共働きの家庭では、母親がこのような弁当を作る暇があるのだろうかと思う。忙しい母親からすれば、キャラ弁に凝る母親は有閑マダムに思えることもあるかも知れない。それにこのような派手な弁当を作ることが、母親の愛情のバロメーターになるのならおかしなことだと思う。
キャラ弁ではないが、昔からデザインした弁当や料理はあった。もっとも単純なものは私の子どもの頃にあった「日の丸弁当」だが、いくら何でも今どきこんなものを子どもに持たせるわけにはいかないだろう。デパートの食堂などでは「お子様ランチ」というのがあり、型で抜いたチキンライスの上に小旗を立てたり、車型の容器におかずを入れたりしたちゃちなものではあるが、子どもに持たせる弁当も飾るのはこの程度で、栄養のバランスを考えて、いろどりにも少し気を配ったものであればよいのではないか。何事も過ぎたるは及ばざるが如しと思う。