中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

家族猫

2008-06-20 09:14:12 | 身辺雑記
 座椅子に凭れかかって足を伸ばしてくつろいでいると、よく猫のミーシャが近づいてきて胸の上にのっかる。そして頭を私の頬の辺りにおいてうずくまり、気持ちよさそうに目をつぶってじっとしている。4キロ近い体重ではないかと思うが、胸から腹にかけて重さが伝わり、それが心地よい。手で背中をなでてやると、毛の感触も気持ちがいい。私の耳のそばには鼻があるのでかすかに息の音が聞こえる。ミーシャも気持ちがいいのか身動きもしない。時々「ミーシャ」と呼ぶと尾を小刻みに動かす。そのようにして過ごしていると、ああ、この子も生きているのだなあと思い、愛しさがこみ上げてきて、時々顔をこちらに向けさせて、正面から目を見つめると彼女もじっと見つめている。鼻を彼女の鼻につけるとひんやりしている。お前はかわいいなあと話しかけたりする心休まるひと時である。

 しばらくすると急に起き上がり、ちょっと伸びをしてから胸の上から下りていく。その後姿を見ながら、何を考えてやって来たり下りて行ったりするのだろうとおかしく思うことがある。犬も飼ったことがあるが、気のせいか犬とは感情が伝え合えるような気がしたものなのに、猫は何を考えているのかさっぱり分からない。犬のように尾を振って甘えたり、餌をほしがったり、散歩をしたがったりして全身で要求することもない。音もなく近づいてくる。しかし、黙って胸の上にきてうずくまるのは、それなりに親愛の情からで、憩いを求めているのだろうかとも思う。

 ミーシャはいわゆるペットだが、10年近くも我が家の一員として一緒に生活していると、ペット(愛玩動物)という感じはなくなり、家族、仲間という感情になっている。英和辞書を引くと、petの項に《動物愛護家はこの語を避けてcompanion animal という》とあるが、その感覚はよく分かる。心が慰められる存在だ。妻が逝って1年後に空虚な気持ちを紛らわせる相手になるかも知れないと思って飼ったのだが、今では、もしこの子がいなければきっと毎日、特に夜が寂しく思われるだろうと思うようになっている。物言わぬだけに愛しさも格別なものがある。