中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

中学生の行為

2008-06-21 10:18:10 | 身辺雑記
 堺市立のある中学校で、午後の授業が始まる直前に、校舎2階の踊り場で遊んでいた3人の男子生徒に、保健体育課の女性教諭が教室に戻るように注意した。生徒達は反抗したのであきらめた教諭が非常階段のドアを開けて中にに入ろうとすると、生徒の1人が「ばばあ、どっか行け」と言いながらドアを強く押して閉めたので、教諭は右手の人差し指を挟まれて切断した。救急車で病院に運ばれて縫合手術を受けたが重傷だと言う。

 堺市の教育委員会は「生徒にけがをさせようという意図はなかったが、校内で起きた大きな事故。生徒は事故を予測できたはずで、口頭で注意した」と話しているそうだ。

 要するにこの悪ガキどもに悪意が無かったと言うことで、叱るだけで済ませたと言うことのようだが、学校も教育委員会も実に甘いものだと思う。意図があったにせよ、なかったにせよ、指を切断する大怪我を負わせたのだ。同じことを成人が起こしたら、少なくとも過失致傷罪に問われるだろう。車で人を轢いて怪我を負わせたりしたり、死なせたりした場合に、その意図が無かったからと言って済まされることはあるまい。

 おそらくこの生徒達は、いわゆる問題生徒だったのだろう。女性教諭もいったんは注意したが聞こうとしなかったので諦めて立ち去ろうとしたと言うから、普段から勝手気ままに傍若無人に行動していたのだろうし、教師達も腫れ物に触るような扱いをしていたのではないかと想像する。多くの中学校にはこのような生徒が何人かいて、学校でも対処に苦慮したり諦めたりしていることはこれまでにもあった。だからと言って、人の身体を損なうようなことをしておいて、口頭で叱る程度で済ませたら、このような生徒やその親はますます増長し、学校、ひいては世間を甘く見るようになる。まだ判断力の乏しい年齢だからと言って甘やかしていると、結局はその子を損なうことになるだろう。

                  


家族猫

2008-06-20 09:14:12 | 身辺雑記
 座椅子に凭れかかって足を伸ばしてくつろいでいると、よく猫のミーシャが近づいてきて胸の上にのっかる。そして頭を私の頬の辺りにおいてうずくまり、気持ちよさそうに目をつぶってじっとしている。4キロ近い体重ではないかと思うが、胸から腹にかけて重さが伝わり、それが心地よい。手で背中をなでてやると、毛の感触も気持ちがいい。私の耳のそばには鼻があるのでかすかに息の音が聞こえる。ミーシャも気持ちがいいのか身動きもしない。時々「ミーシャ」と呼ぶと尾を小刻みに動かす。そのようにして過ごしていると、ああ、この子も生きているのだなあと思い、愛しさがこみ上げてきて、時々顔をこちらに向けさせて、正面から目を見つめると彼女もじっと見つめている。鼻を彼女の鼻につけるとひんやりしている。お前はかわいいなあと話しかけたりする心休まるひと時である。

 しばらくすると急に起き上がり、ちょっと伸びをしてから胸の上から下りていく。その後姿を見ながら、何を考えてやって来たり下りて行ったりするのだろうとおかしく思うことがある。犬も飼ったことがあるが、気のせいか犬とは感情が伝え合えるような気がしたものなのに、猫は何を考えているのかさっぱり分からない。犬のように尾を振って甘えたり、餌をほしがったり、散歩をしたがったりして全身で要求することもない。音もなく近づいてくる。しかし、黙って胸の上にきてうずくまるのは、それなりに親愛の情からで、憩いを求めているのだろうかとも思う。

 ミーシャはいわゆるペットだが、10年近くも我が家の一員として一緒に生活していると、ペット(愛玩動物)という感じはなくなり、家族、仲間という感情になっている。英和辞書を引くと、petの項に《動物愛護家はこの語を避けてcompanion animal という》とあるが、その感覚はよく分かる。心が慰められる存在だ。妻が逝って1年後に空虚な気持ちを紛らわせる相手になるかも知れないと思って飼ったのだが、今では、もしこの子がいなければきっと毎日、特に夜が寂しく思われるだろうと思うようになっている。物言わぬだけに愛しさも格別なものがある。

            

南京からの手紙

2008-06-19 09:39:02 | 中国のこと
 東京の施路敏(シ・ルミン)が会社の休みを取って上海に帰り、いつものように南京の祖父母の家に行った。東京に戻ってから、お土産に南京特産の塩鴨と醤油煮の鴨、祖母たち手作りの粽を送ってくれた。その中に祖父の王明福(ワン・ミンフ)さんから私に宛てた手紙が入っていた。南京の祖父母の家には昨年夏に路敏と訪れ、快く迎えてもらった。

手紙は次のようなものである。

こんにちは
 中国と日本の両国は隣人同士です。お互いに関心を持つべきで、過去の戦争についてはもう何も言いません。あなたは中国人民との友好と世界の人民との友好のために励んでおられます。未来の生活はもっと良くなるでしょう。両国は互いに助け合って、共に向上していきましょう
 ご健康をお祈りします。
              中国平和老人
                    王明福

 王さんは83歳で、2年前に交通事故に遭ったために車椅子の生活をしている。手紙の末尾に、手の関節炎のために字がきれいに書けないことを詫びてあったし、路敏の話では耳も遠くなっているようだ。1927年の日本軍の南京占領のときには香港に避難していたが、その父親は危うく日本軍人に射殺されるところを九死に一生を得ている。奥さんは当時まだ幼かったが南京にいて、虐殺された死体を見ている。昨年訪れた時、日本に一部の新聞などには南京事件はなかったということも言っていると話したら、王さんは苦笑して「あったのですよ」と言い、父親から聞いた話をしてくれた。

 そんなことで祖父母は日本人に対しては良い感情を持っていなかったことは路敏から聞いていたが当然のことだろう。それでも訪れた時には、日本人には初めて会うと言って、家族の人たちと挙げて歓待してくれた。王さんは、中国人はお客さんを大切にしますと言ったが、本当に心温まる3日間だった。その折りにも家族の1人が、私に会って日本人に対する考えが少し変わったと言ってくれ、私なりに友好に役立ったのかと嬉しく思ったのだが、今度の王さんの手紙を読み、またその思いを強くした。

 現在の日本と中国との関係はかなりぎくしゃくしたものがあるし、何かにつけ意図的に反中国感情を振りまく者もいる。中国でもインタネットなどでは根強い反日感情があるようだ。おそらくは互いの国を訪れたことも無い者がほとんどで、偏った情報によって憎しみや嫌悪の感情を抱いているのだろう。そこからは何も明るい未来は生まれない。ささやかでも人間としての心の触れ合いをしながら互いに理解し合うように努力していけば、やがては日本と中国とは信頼し合える国になるだろうと信じている。王さんの短い手紙を読み返しながら、過去の戦争を体験した中国と日本の、平和を願う名も無い庶民の2人の老人が心を通わせ合うことができたことを嬉しく思い、その仲立ちになってくれた施路敏に感謝している。


     
 
  王さん夫妻と孫娘(向かって右が路敏)


高速水着

2008-06-18 09:05:27 | 身辺雑記
 北京オリンピックも近く、新聞のスポーツ欄やテレビのスポーツタイムはいろいろな話題で賑やかだ。最近の大きなニュースは水泳の各種競泳種目で世界新記録や日本新記録が続出していることで、この記録を作った「立役者」として英国のスポーツ衣料メーカー製の水泳着が一躍脚光を浴びた。

 この水着はレーザー・レーサー(LZR)と言い、アメリカ航空宇宙局や大学、専門家の協力によって開発されたものだそうだが、各部分の継ぎ目を超音波で溶着して縫い目がなく、水の抵抗が軽減され、撥水性にも優れていると言われる。着用した各選手は着た途端にこれは違うと思ったそうだから、よほど革新的なものなのだろう。日本水泳界の期待の星で2大会連続2冠を狙う北島康介選手が、この新しい水着を着用して男子200メートル平泳ぎで2分7秒51の世界新記録を樹立した。日本水連は北京オリンピックでは、この水着の選択を選手に任せることを決定したから、これを着ける選手は増えるだろう。



 選手個人の競技能力以上に使用する道具などの性能が記録に大きく影響することは、目新しいことではない。スキーの滑降競技などはもはや測定機器に頼らなければ勝敗の判定はできなくなっているが、この何百分の一秒かの記録の差は、スキーの板に塗るワックスの差だと言われている。その点では水泳競技は男子なら水泳パンツ姿で、選手の体型や能力の差が記録を左右していた。それが新しい水着の出現で選手の姿も様変わりするわけだ。競技の進歩とはそういうものかも知れないが、いくら用具などが発達しても、やはり競技の主体は人間ではないのかと、もうひとつすっきりしない感じになるのは、たぶん私が時代遅れのせいなので、結局は勝敗以上に記録ということにこだわるのが今のスポーツ全般の傾向なのだろう。

 ところで、世界記録を達成した北島選手は「もちろん金メダルしか頭にはない。取れなかったら、日本に帰ってこられない」と言い切ったとある記事にあったが、私はこの「(金メダルを)取れなかったら、日本に帰ってこられない」という発言に違和感を覚え、これが私がオリンピックというものに何やら腰が引けるような感じを抱くことなのだ。勝敗を競う以上は勝つこと、それも優勝することを目指し、そのためにたゆまぬ努力をするのは当然のことだし、そこに美しさや感動がある。勝敗はその結果なのだが、オリンピックではそれ以上に「国家」と言うものが前面に出がちであることに違和感を覚えるのだ。やれ金メダルをいくつ取ったとか、銀がいくつ、銅は、トータルでメダル数はいくつかとかと騒ぐのは嫌いだ。獲得メダル数を言うのなら、選手を多く擁する米国や中国、ロシアなどの大国が有利であるのに決まっている。北京オリンピックの主催国である中国は、その威信にかけても最多のメダル獲得を目指すと言っているようだが、正直言ってつまらないことだと思う。主催国として心掛けることは、各国からの選手達のためににいかに快適な競技環境を作るかと言うことだろう。

 オリンピックは世界各国から人種を超えて選手達が集まり、それぞれが全力を尽くして競い合うところにすばらしさがあるので、「日の丸を背に」などとマスコミが好むような文句は願い下げだ。北島選手が「(金メダルを取れなかったら)日本に帰ってこられない」と言ったのは、オリンピックにかける決意の程を表現したのだろうが、これまでの日本選手にしばしばあった、過大な期待を背負ったために十分な結果を出せなかった轍を踏まないように、自分の目標、夢の実現を目指してのびのびと泳いできてほしい。




「居酒屋タクシー」

2008-06-17 08:26:49 | 身辺雑記
 秋葉原の通り魔事件で、やや影が薄くなったようでもあるが、事件の前に大きく取り上げられていたのは、深夜帰宅する中央省庁の職員が、利用したタクシーの運転手から金品の提供を受けていたことだった。

 深夜近くまで残業で居残り、終電車で帰宅できなくなった職員にはタクシー券が支給される。この場合利用するのが個人タクシーの場合には、サービスとして車内でビールやおつまみの提供をすることが20年ほど前から常態化していて、業界などではこれを「居酒屋タクシー」などと呼んでいたらしい。タクシー業界の競争は最近ますます激しくなっていて、とりわけ個人タクシー業者の実態は厳しいものがあるようだから、深夜の長距離利用の客は有難い存在だろう。そこでできるだけ馴染みの客を獲得したくなるのは当然で、そこからこのような「接待」が行われるようになったのだろう。

 サービスとしてはビールやおつまみ等の他に、茶や菓子、タオルなどもあったようだ。このようなサービスの提供が、法的に規制されているのかどうかは知らないが、私にはそれほど目くじらを立てるほどのことではないと思われる。遅く仕事をして帰宅する者が、サービスとして提供されたビールや茶を飲むことは、それほど問題になることなのか。それが役人であっても倫理に反することとは思われないのだが、間違っているだろうか。もっとも、そもそもそのようなサービスをすること自体が過剰、過当で問題だと言うのなら別の話ではあるが。

 問題は彼らの中のかなりの者が、現金や金券の提供を受けていたことで、現金は受け取った運賃を割り戻すことを禁止している道路運送法に違反すると言う。だからそのようなことをした運転手は罰せられるのだろうが、運賃の割戻しを受けた者も処罰の対象になるのかどうかは知らない。しかし、たとえ罰せられなくても倫理の問題はあるだろうし、公務員ならばなおさらである。金券の場合も同じことだ。5年間で現金とコンビニで使えるプリペイドカードであるクオカードという金券を、合わせて200万円前後の提供を受け取っていた主計局職員もあるらしいから、完全に倫理感覚は麻痺していたとしか言いようがない。中にはあらかじめ馴染みのタクシー運転手に車を回すように電話すると、運転手はすぐにメーターを倒して迎えに行き、支払いの時にはその分をキャッシュバックするという手口もあるそうで呆れてしまう。魚心あれば水心ありと言うが、役人と運転手のどちらが魚でどちらが水だったのだろうか。

 今後はタクシー券の支給を止めて利用者個人が現金で支払い、後日経理に請求する方法にするということも考えているらしい。その場合も運転手に金額を膨らませた領収書を書かせるようなことはないかと疑ってしまうのはゲス根性かも知れないが、どうも一事が万事でついそんなことを考えてしまう。また法人のタクシー会社にしか使えないタクシー券も考えているということも聞いたが、これは個人タクシー苛めではないか。問題の本質がどこにあるかを見誤ってはならないと思う。

                      
 





便乗

2008-06-16 08:13:18 | 身辺雑記
 東京秋葉原での無差別連続殺人事件の後で、インタネットの掲示板には、その行為に共感するような書き込みがあったという記事を読み、またかと顔を顰めたのだが、犯行に便乗するような書き込みも現われた。

 1つは大阪のアメリカ村で無差別殺人を起こすと書き込んだ21歳の大学生で、軽犯罪法違反で警察に摘発された。この男は「秋葉の件で、こんな僕も勇気がわきました」、「6月16日3時にアメ村で無差別殺人おこします」、「20抜きはいきたいですね」(意味不明。20人は殺したいということか)などと、1時間あまりの間に無差別殺人を予告する内容を11件も書き込んだので、警戒のために警察官多数がアメリカ村一帯に配置されたようだ。逮捕されたこの学生は、「家も学校もおもしろくなくむしゃくしゃした」と供述して容疑を認め、「通報されるとわかっていたが、自分が特定されるとは思っていなかった」と言ったらしい。

 もう1つは北九州で携帯電話のサイトに「九州のある駅で歴史に残る大量殺人をする」と書き込みがあるのが見つかり、九州管区警察局が管内の県警に警戒を指示した。内容は「おれも加藤(秋葉原事件の犯人の名)と同じなんだ。加藤に共感したんだ。おれ死刑になる。加藤よりも多い人数を殺す」というものだった。警察は17歳のアルバイトの少女を特定して任意で事情聴取した結果、容疑を認め、「こんなに大騒ぎになるとは思っていなかった」と反省したので、軽犯罪法違反(業務妨害)の疑いで近く書類送検する方針という。

 この大学生にしても少女にしても、その単細胞と言うか、おから脳みその持ち主と言うか、幼稚さ、バカさ加減、程度の低さには呆れるばかりだ。本人は出来心や冗談半分なのかも知れないが、そのような書き込みがあれば、秋葉原の事件の後だけに警察も警戒態勢をとらざるを得ないだろう。人騒がせなと言う以上の悪質な行為だ。これからもこのような騒ぎを起こしてひそかに満足する「愉快犯」も現われるかも知れない。捕まっても軽犯罪法違反程度だから、微罪釈放ということになるのだろうが、たとえばかなりの罰金を課すような厳しい罰を与えることはできないものなのだろうか。

 インタネットの掲示板のような匿名の場では、今回のような人騒がせな書き込みをしたり、人を誹謗中傷あるいは脅迫するようなことを書きこんだりする者が出ている。このような反社会的な行為でも、規制することは表現の自由の尊重とやらで難しいらしい。こうして歪んだ心の持ち主が増殖していく。嫌な世の中になったものだ。


                       



                     

父の日

2008-06-15 10:03:13 | 身辺雑記
 今日、6月15日は父の日である。父の日はその年の6月15日~21日のうちの第3日曜日に該当する日となっている。朝刊に目を通して一息入れていたら、長男夫婦から父の日のプレゼントが届いた。私の好きな色のポロシャツだった。今ではプレゼントをもらうことはめっきり少なくなっているので、嬉しさもひとしおである。

 今年の父の日のセールの売れ行きはどうもよくありませんと、メンズショップを営む卒業生が言っている。普段でもオヤジのものは後回しになるようですからねえとも言った。わざわざ衣類などを贈るよりも、ビールを数本などと簡単に済ましてしまうのではないかという憶測だ。真偽のほどはともかくとして、最近の家庭での父親の権威の低下を表しているようでわびしくもなる。

 ところで、母の日はアメリカから来たものだが、父の日は?と聞いたら、さあ日本の習慣でしょうと少々覚束ない返事だった。ではまた、バレンタインデーに対するホワイトデーのように商売人の仕掛けかと思ったのだが、家に帰って調べてみると、父の日も発祥は米国だった。

 1910年と言うから100年ほど前のことだが、ワシントン州のドットという婦人が、母親の死後、男手1つで6人の子どもを育ててくれた亡き父親を讃えて、父親の誕生日の6月に教会の牧師に礼拝をしてもらったのが始まりだそうで、彼女は当時すでにあった母の日に対して父の日もと願い出たそうだ。アメリカでは1916年に父の日が認められ、1972年に国民の祝日に制定されたとのことである。なかなか味わい深い由来の、由緒正しい日であったのだ。日本でも50年代に知られるようになったが、母の日比べると影は薄く、商戦に利用される程度で、それも卒業生が言っているようにあまりぱっとしないようだ。

 母の日にはカーネーションを贈るということは誰でも知っているだろうことだが、父の日の花は?となるとこれも戸惑う。前述の婦人が父の日に父の墓前に白いバラを供えたことから、バラとなっているそうだ。生存している母親には赤いカーネーションを贈るが、元気でいる父親には赤いバラを贈るのかどうかは知らない。

  
  
  


キャラ弁

2008-06-14 08:41:24 | 身辺雑記
 ふとしたことから知り、聞き慣れない言葉だったので調べてみたのだが、「キャラクター弁当」の省略形で、アニメ漫画のキャラクターや芸能人の顔などを模したデザイン弁当だそうだ。

 ある主婦が高校生の息子を驚かせようとして作り、それを自分のブログで紹介して瞬く間にブームになったと言う。この主婦はその後出版やテレビ出演で「有名人」になっているらしい。また何人かの作家によるムックが発売されたり、玩具など児童対象の商品を製作販売しているある企業は、キャラ弁の作製セットを販売しているようだ。この企業ではキャラ弁のコンテストもして作品を募集している。



 インタネットで調べるといろいろな作品例が挙げられていた。



  




 実に手の込んだもので、私には食欲をそそるものではないが、子どもが朝、家を出る前の限られた時間に、このような弁当を作るのは大変な手間だろうと思う。ブームとなりコンテストもあるとなると、だんだん凝ってきて、コンテストに出すための作品になってしまっているのではないかとも思った。

 要するに子どもたちが楽しく弁当を食べたり、苦手なおかずも食べるようになるということらしいが、ここまで凝る必要があるのだろうか。「最近話題になっている『食育』という観点からも注目を浴びている」という紹介文もあったが、はて、食育とはこういうものを作ることだったのだろうかと首を傾げてしまった。

 キャラ弁に対しては、親の自己満足に過ぎないとか、食べ物をおもちゃにしている、おいしそうでないから好まない子どもいるというような批判もあるようだ。私は最近多い共働きの家庭では、母親がこのような弁当を作る暇があるのだろうかと思う。忙しい母親からすれば、キャラ弁に凝る母親は有閑マダムに思えることもあるかも知れない。それにこのような派手な弁当を作ることが、母親の愛情のバロメーターになるのならおかしなことだと思う。

 キャラ弁ではないが、昔からデザインした弁当や料理はあった。もっとも単純なものは私の子どもの頃にあった「日の丸弁当」だが、いくら何でも今どきこんなものを子どもに持たせるわけにはいかないだろう。デパートの食堂などでは「お子様ランチ」というのがあり、型で抜いたチキンライスの上に小旗を立てたり、車型の容器におかずを入れたりしたちゃちなものではあるが、子どもに持たせる弁当も飾るのはこの程度で、栄養のバランスを考えて、いろどりにも少し気を配ったものであればよいのではないか。何事も過ぎたるは及ばざるが如しと思う。


 

落書き

2008-06-13 09:39:30 | 身辺雑記
 街の公共物にスプレーやマジックインクを使った落書きをよく見かける。私の周辺ではそれほど多くはないが、地域によってはひどいところもあるそうだ。見かけるものはローマ字をデザイン化したようなものが多い。

 

 これはタギングという様式化されたマークだそうで、米国の若者文化に影響された青少年が流行させたものらしい。かつてはストリートギャングなどが自分の縄張りを誇示するために用いたサインだったが、最近では無意味な、単なる落書き化やファッション化が激しいそうだ。



 人通りの多い場所にある公共物などに落書きをするのだから、「犯行」は夜、それも深夜に行われるのだろう。落書きの主たちは、昼間は土の中に潜んでいて夜になると出てきて野菜を食い荒らす夜盗虫のような有害な連中だ。夜中に出没して公共物や民家の塀、店舗のシャッターなどを汚損して姿を消す。






 
 かつて大阪のある町で激しい落書きが続き監視カメラを設置したら、深夜に落書きをして回っている1人の青年の姿が映っていたそうだが、このようなゆがんだ性格の若者が増えているのだろうか。この青年がつかまったかどうかは知らないが、夜盗虫が駆除しにくいように、こういう暗い性格の落書き虫たちを捕らえることも難しいらしい

 これは隣の市で見かけた落書き。蔦が上に這っているからだいぶ前に書かれたものだろう。きれいにデザイン化されているから、落書きというよりも意図的に描いたものかも知れないが、やはりタギングの一種か。地方の寂れた商店街では、ストリートアーティストと呼ばれる者に依頼して、店舗のシャッターにカラフルなデザインを描いてもらうこともあるようだ。



 落書きは古今東西にあるもので、中にはイタリアのポンペイの遺跡にある落書きなどは、貴重な資料的価値があるそうだ。日本の古代の寺院の修復をする時などに、隠れた場所に当時の宮大工たちの墨書きの落書き(自分の名前が多いようだ)が残されているのが発見されることがあるが、何となくほほえましい感じがしなくもない。それに比べると貴重な文化財に自分の名を書いたり彫ったりするのは嫌なものだ。落書きというものは、自己顕示の手段、あるいは自分がここに存在したことをひそかに示したい心理から来るものなのだろうか。




凶器

2008-06-12 10:03:14 | 身辺雑記
 東京秋葉原の通り魔殺人事件の犯人は、犯行の2日前に福井市のミリタリー輸入雑貨販売店で6本のナイフを購入し、そのうちの1本を犯行に使用した。そのナイフはダガーナイフと言われる薄刃の殺傷能力がの高いものとのことで、短時間に連続して人を刺し殺すことができる武器として作られたものだそうだ。一撃で人を殺すことができ、何度使っても殺傷能力が落ちないと言う。



 このような危険な武器が販売されていること自体が驚きだが、18歳以上なら誰でも購入でき、他のナイフと同じように販売規制はないのに等しいと言うのが実情らしい。ナイフ愛好家は観賞用にしていると言い、あるナイフ販売者は、収集家のためのもので実際に使うことは想定していないと言っているが、そのような「きれいごと」が通用しないことは今回の事件でもはっきりした。収集家の観賞用であるならば、美術品として販売されている日本刀のように刃引きして販売するように規制することはできないものか。あるいは本物の日本刀や銃砲のように、所持する場合には厳格に法の監視下に置くべきだろう。正当な理由がなくダガーナイフなどの刃物を携帯することは銃刀法で禁止されているようだが、購入に関する取り決めは業者の自主判断に任せられていると言うから、いい加減なものだと思う。

 日本は自由の国である。麻薬や覚醒剤、あるいは法律で禁止されている物以外は販売する自由がある。しかしこのような危険な武器を販売することは無制限に許すべきではないのではないか。その気になれば包丁でも小刀でも凶器になると言うかも知れないが、本来が人を殺すための武器の販売を野放しにするのは疑問に思う。犯罪が起こってから銃刀法違反を言っても、所持規制強化を言っても、後の祭りである。

 街のナイフ販売店は若者で賑わっているそうだ。彼らがすべて犯罪予備軍とはもちろん言うつもりはないが、その中から今回のようなナイフを使う凶行を犯す者は絶対に出ることはないと言う保証はあるのだろうか。