中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

女性乗務員

2009-07-21 08:29:06 | 身辺雑記
 近頃はJRでも、よく利用する私鉄でも女性の乗務員がしだいに増えてきている。私は声高に言うほどのフェミニストではないが、いろいろな分野に女性が進出するのは望ましいことだと思っている。

 JRは前身の国鉄時代から「男天国」で、女性の出る幕はなかった。自動発券機も自動改札機もなかった時代は発券も改札もすべて男の職員が行っていた。私鉄でも発券窓口には女性がいたようにも思うが、駅員や乗務員には皆無だった。長い間鉄道には女性はいないものとして、ことさらに不思議にも思わなかった。

 いつだったか、それほど前のことではないが、夜電車に乗っていたら車内にアナウンスする車掌の声が女性のようだったので、かなり混んでいた車中の乗客たちは怪訝そうな表情をする者が多く、若い女性客の中には「どうして?」というように顔を見合せたりしていた。駅に着いて降車すると、わざわざ最後部の車掌席を振り返る者もいた。実は車掌は正真正銘の男性だったのだが、どういうものか声が高く細くて、女性の声としか思えなかったのだ。それで乗客の多くは戸惑ってしまったのだが、それほどに女性の乗務員などはつい最近までは考えられなかった。

 5年以上も前のことになったが、新幹線の運転士に4人の女性が採用されたというニュースを見てホウと思ったことがある。今ではJR東海には女性運転士は5%、30人いるそうだ。それでも身近なJR線には女性乗務員の姿は見られなかったが、このところ急に多く見るようになった。週に1回しかJRを使わないから、もうとっくに採用されていて気がつかなかったのかも知れない。車掌などはざらに見かけるし、先日は女性運転士も見た。駅員にもかなりいる。まだJRほどではないが、私鉄でも女性乗務員を見るようになった。これからはJRでもその他の私鉄でも女性の勤務員は増えていくのだろう。良いことだと思う。

 元来鉄道勤務に、特殊な場は別にして男女の能力差があるとは思われない。女性パイロットもいる時代だ。むしろ車掌などはアナウンスする声が明るく柔らかくて、乗客に心地よさを感じさせる。中国の鉄道では列車の乗務員は女性だし駅員にも女性は多い。米国のことは知らないが、ヨーロッパの鉄道では女性乗務員が多いと聞いたことがある。もう「女のくせに」とか「女だてらに」などと言ったり、「女が強くなった」と慨嘆する時代ではないだろう。




玉製の胡桃

2009-07-20 10:10:19 | 中国のこと
 中国新疆ウイグル自治区の趙戈莉(チャオ・カリ)が送ってくれた私の誕生日のプレゼントが届いた。小包を開けてみると、玉(ぎょく)でつくった2個の胡桃の彫刻とそれを置く台座だった。同封されていた絵葉書には「爺爺 お誕生日おめでとうございます これは新疆の和田玉で作ったくるみのようなものです・・・」とあった。

 新疆の南に位置する和田(ホウタン)は古来有名な玉の産地で、ここで採れる玉の原石は今でも何億円もするものがある。中国では有史以前から玉が珍重されさまざまなものに彫られたが、材質は極めて硬く、古代にどのような道具を使って製作したのか謎とされているようだ。色彩も多様で、博物館や大きなみやげ物店に展示されている玉の彫刻は、溜息が出るほど見事なものだ。中国人は今も玉の装飾品を愛好する。

 胡桃を2個、掌で揉むようにしてすり合わせる運動をすると、掌の神経を刺激して毛細血管を刺激する。これは昔から大脳に良い影響を与えて老化防止に役立つとされた健康法で、祖父はいつも胡桃をコリコリと音をさせながら揉んでいた。長く続けていたから胡桃は手の脂を吸収してつややかに光っていた。

 プレゼントされた玉の胡桃は暗緑色をしていて重く、掌で掴んで揉むと快い音を立てる。思いがけない贈り物がとても嬉しかった。この玉の胡桃は戈莉の夫君が愛用していて推薦したようだ。高齢の私にはふさわしいと思ったのだろう。夫妻の厚意を嬉しくありがたく受けた。

           

 
 


遭難

2009-07-19 12:32:50 | 身辺雑記
 北海道の大雪山系トムラウシ山と美瑛岳で、ツアー客など10人が遭難死した。強雨や風で動けなくなり、寒さで体力が奪われて低体温症になったようだ。

 トムラウシ山の遭難者は東京のツアー会社が企画して参加者を募ったもので、名古屋など各地から18人が参加し8人が死亡、美瑛岳の遭難者は茨城県つくば市の旅行会社が企画したツアーの参加者で、女性3人が参加し1人が死亡した。トムラウシ山では他に男性登山者が1人遭難死している。死亡した人の年齢は1人が59歳のほかは皆60代で、中には70歳近い人もいる。やはり高年齢ということで体力の消耗が激しかったのではないか。

 大雪山系は難しい山が多いらしく、夏でもかなり気温が下がることがあり古くからよく遭難者を出している。今度遭難者を出したツアー会社は健脚者向きと謳って募集したようだが、それでも参加者の体力や力量には差があって、ついていけない者が続出したようだ。いくら夏山と言ってもかなり温度は低くなり、雨が降ったり強風が吹いたりすると、体感温度は零度近くになると言う。やはり高年者には無理だったのではないか。警察はツアーを企画した会社の安全管理に問題がなかったか、業務上過失致死の疑いで捜査を進める方針で捜索を行った。警察は悪天候下でツアーを決行したガイドの判断を重視しているようで、このツアーでは帰途の航空便が日程に組み込まれていて、予定通り下山するために、日程を優先させた可能性もあるらしい。やはり計画そのものに万が一の事態を想定していない点があったのではないか。

 遭難した人達の登山歴はどれくらいのものなのかは分からないが、テレビのニュースを見た限りでは、50代になって山登りを始めた人はかなりいるらしい。おそらく大学の山岳部などに所属していた経歴の人はいないのではないか。最近は健康志向という風潮もあってか、休日の駅などには登山姿の中高年者の姿をよく見かける。最初はハイキングを楽しんでいて、それからだんだん山をトレッキングすることを覚え、更に有名な高い山を目指すというようになるのだろう。トムラウシ山は日本百名山に数えられているのだそうだ。今回はそれに憧れて参加し亡くなった女性もいるようだ。

 私も若いときには生物クラブの生徒達と乗鞍など信州の山に行ったことはあるがすべて夏山で、それも植物の採集や観察が目的だったから本格的な山登りではなかった。やはり山は怖い。決して侮ってはならないと思う。山登りには何かロマンティックな思いが付きまとうようだが、ひとたび変化すれば山は猛々しく、ロマンティックどころではない。今回遭難死した女性の遺族が、妻は山で死ねば本望だと言っていたのでと、自分を納得させるように涙声でインタビューに答えていたが、痛ましいことだと思った。山で死ねば本望などと言うのは、死者を鞭打つようだが、きれいごとではないだろうか。雄大で美しい光景を目の当たりにし、清浄な空気を吸えば、こういうところで死ねば本望と思うのも分からないでもないが現実は厳しい。捜索や救出、後始末に多くの人たちに多大の負担をかけるから、遺された者は本望などと到底割り切れるものではない。ロマンティックとは程遠いものなのだ。


はんなり

2009-07-18 08:28:51 | 身辺雑記
 近くの私鉄のターミナルにあるデパートの食品売り場で、茄子の佃煮を売っていた。売り子の女性に勧められてつまんでみるとなかなか旨い。加茂茄子という京都特産の茄子で、これをいったん塩漬にしてから炊き上げたものだ。それでその女性と商品について少しことばを交わした。その30代と思われる愛嬌の良い女性のことば遣いを聞くと、関西風のアクセントなのだが、このあたりのなまりと違って柔らかくて心地よかったので「あなたは京都の方ですか」と尋ねてみた。当てずっぽうではなく、この店が京都にあるからでもあった。大学を出て10年以上ずっと京都にいますと女性は答えたが、ことばの端々の京都風のアクセントは柔らかく、とても良い感じだった。

 こういう感じを京ことばで「はんなり」と言うのかと思う。「はんなり」は、あるブログに「京都らしさを表すのに、これほどピッタリの言葉はないと、誰しも思うだろう。京都弁の中でも、そこはかとない美しさやたおやかさを感じられる独特の意味を持つ単語だからだ」とあったが、その通りではないか。このことばは華やかで明るい様を表すが、「花なり(花のよう)」に由来すると言う。何よりもその語感が佳い。

 京都を舞台にしたテレビのドラマやCMに出て来る京都弁は、俳優達が京都人ばかりではないからだろうが、京都人ではない私が聴いても、何か違和感を覚えることがある。典型的な京ことばの「・・・どす」、「・・・どすなあ」、「おへん」でも、もう少し柔らかく言ったほうがいいのではないかと思うことがよくある。この女性のことば遣いは、聞いているとこちらまでゆったりと落ち着いたような気分になったので、こういう感じは、これも京ことばだが、「ほっこり」と言うのかなと思った。「ほっこり」は元来「(心地よい)疲れ」の意味だが、「ほっとする、暖かい」の意味でも使われるようだ。

 この女性の物言いはとても柔らかくて愛嬌があり、何か人柄を映しているようにさえ思われてほのぼのとした気持ちになり、「ああ、いい人だなあ」(ほんにええおなごはんやなあ)と思ったことだった。それで、加茂茄子の佃煮を買ったことは言うまでもない。


年寄りの冷や水

2009-07-17 09:33:43 | 身辺雑記
 インタネットの『くろご式慣用句辞典』によると、「老人が冷水を浴びるという意味で、老人に不相応な危険な行為や、差し出た言動をすることの喩え。また、それを冷やかして言う言葉」とある。しかし続けて「『冷や水売り』(江戸では、大川=隅田川の水)の水を買って飲むこと、つまり、抵抗力の弱った年寄りが生水を飲むと腹を壊すことから出た言葉とする説もある。・・・「冷水を浴びる」という語源説より、こちらの方が、有力のように思う」と言っている。

 私はいい年をして冷たいものを飲んだり食べたりするのが好きだ。誰もそうなのだろうが、特に夏場は冷たいものに惹かれる。街に出ると冷たい飲み物が飲みたくなる。それも炭酸性の、飲むと喉を刺激するようなのが好きだ。冷たい飲み物を注文して氷が入っていると、飲み終わってもその氷を口に含んで齧るといういささかみっともないこともする。夏は麺は冷麺だし、蕎麦もざるだ。冷ややっこもいい。冷たい鱧の落とし(湯引き)などはたまらない。

 まさに「年寄りの冷や水」なのだろう。西安で謝俊麗の夫婦とその友人達と食事したとき、炭酸飲料のスプライト(中国語で雪碧シュエピ)を注文したら、小雨(シャオユウ)の母親に「年を取ったら冷たいものは体に悪いですよ」と言われた。中国人はとりわけ体の温とか寒、飲食物の温とか寒とかいうことに気を遣うらしい。特に食べ物は温かいものを好む。ビールも日本人が好むようなギンギンに冷えたものは飲まない。飲食物で体を健康に保つ食療ということには古来関心が強いようだ。

 私は暑がりだ。若いころは暑さも寒さも平気で、暑いときは汗を大量にかくと心地よく思うほどだったが、年を取るにしたがって暑さに弱くなり、それだけに冷たさを求めることが多くなったようだ。だから電車に乗っても弱冷車だと物足りない。部屋で寒がりの人がクーラーの温度を高くすると暑く感じることがある。

 この年になってあまり冷たさを好むのは、小雨の母親が言うようにたぶん良くないことなのだろうし、昔の人が言った「年寄りの冷や水」は言い得ているのだろう。今年の夏は少しは冷たさは避けようと思うが、これから猛暑の季節が訪れたら、それも覚束なくなるかも知れない。


男人婆

2009-07-16 10:28:34 | 中国のこと
 前掲書『漢語的不思議世界 空巣老人と男人婆』(岩波書店)の副題にある空巣老人(コンチャオラオレン)は、一人暮らしの老人、男人婆(ナンレンポ)は男勝りの女性を指すとのことだ。

 男と肩を並べて活躍する女性は今では非常に多くなっているが、かつては少数で、そのような女性はとかく「男勝り」とか、「女傑」と呼ばれた。この言葉には少々揶揄的なニュアンスも含まれている。中国では近代になっても女性の地位は低かったから、男勝りの女性は特別視されたようで、執筆者は木蘭(ムウラン)という孝行娘の話を紹介している。

 木蘭は中国の伝承文芸や歌謡文芸で語られた物語上の女性主人公で、京劇でも演じられるようだ。老病の父に代わり、娘の木蘭が男装して従軍し、異民族を相手に各地を転戦、自軍を勝利に導いて帰郷する物語という。中国の南北朝時代の北朝の民間民謡に由来するとされ、南朝の最後の王朝である陳(557~ 589)の時代の『木蘭詩』が記録された最古の文献とされているようだ。孝と貞とを併せ備えていたとされ、「巾幗(きんかく)英雄」と呼ばれて別格視されているのだそうだ(巾幗は女性の髪飾り)。このような特別の女性は別として男勝りの女性はやはり揶揄の対象となり、最近では「男人婆」と呼ばれているとのことだ。執筆者が中国人の先生にたずねたら、「男性以上にバリバリやっているというだけで、美醜には関係ありません」と言う答だったそうだ。

 西安の李真が面白いことを言ったことがある。中国には3種類の人間がいて、男と女と女博士なのだそうだ。最近の中国では高学歴の女性が増え、博士号を持つ者も少なくないそうだ。それだけが原因ではないだろうが離婚も増えていると言う。中には急に夫に「アメリカに勉強しに行くから」と言って出て行った女博士も李真の身近にいたようだ。男人婆の項の執筆者は別のところでこんな話を書いている。

 先日わが大学の女子大学院生が、新婚の中国人男子留学生に、結婚の報告をしてくれないのは、同じ研究室で学びながら、あまりに水臭いではないか、と詰め寄った。「結婚なんて当たり前のことだから」と遠慮がちに言った彼の一言は、かえって女子学生の逆鱗に触れることとなった。
 憤然とする彼女らをなだめながら・・・(以下略)

 いやはや厳しいことである。結婚という個人的問題を報告しないからといっていきり立つこともあるまいし、「結婚なんて当たり前のことだから」という正直な答に憤然となることなど理解しにくい。よほど強気の院生たちなのだろう。こういうのが李真の言う女博士の予備軍のようなもので、男人婆と言うのかと思ったが、こんなことを言えば、これまた彼女達の逆鱗に触れるのかも知れない。

 

太平公主

2009-07-15 08:33:52 | 中国のこと
 一海知義・筧文生・林香奈共著『漢語的不思議世界 空巣老人と男人婆』(岩波書店)を読んでいる。中国の言葉や漢詩などについての斯界の学者の随筆集で、とても面白い。それぞれが学識は深く文章は巧みで、私のこのブログの文章などこれに比べると月と鼈どころか鼈の糞のようなものだ。

 その第一章は『現代中国語と漢語』で、現在の中国の新しい言葉や表現について述べていて、副題の空巣老人や男人婆もこの章にある。「太平公主」もその一節で、太平公主(タイピンコンチュウ)は唐の則天武后の娘で母親の愛情を一身に受け、権勢をほしいままにした美貌の女性だそうだ。この本の書評の中に出ていて、その意味がおもしろいと思ったので、卒業生達が集まっているところに来ていた大阪にいる西安人の邵利明(明明)に、「太平公主って知ってるか」と尋ねたら笑い出した。

 太平公主の太平は平安、平和と言う意味だが、「非常に平らである」と言う意味にもとれ、公主はプリンセスだから、「胸なし姫」とでも言うか、胸が平らな女性を言う中国の新語だそうだ。明明がすぐ反応したから、よく知られているのだろう。明明に「太平公主の胸は無かったのか」と聞いたら、「いえ、太っていましたよ」と言ったが、唐代の美人だから豊満だったはずだ。要するに、「太平」を洒落に使っているので、実在した女性の名前をこのように使うのは、中国人らしく面白い。

 もっとも筆者によると、知り合いの中国人にたずねたらこの言葉ももう古いらしく、「最近ではそういう女性のことを飛機場(フェイジチャン 飛行場)と言うんですよ」という言葉が返ってきたとのことで、筆者は「いずれの言葉も言われる女性の側からすれば大変失礼な話だが、それにしても『飛行場』とは何と直接的な言い方よ。『太平公主』のほうが、言葉としてはまだ気が利いていると思うのは、私だけだろうか」と結んでいる





「脳死は人の死」

2009-07-14 08:55:05 | 身辺雑記
 参議院で改正臓器移植法案が可決された。先に衆議院を通っているから、これで成立したことになる。

 この法案はA案とされていたもので、「脳死は人の死」を前提にして、本人の意思が不明な場合でも家族の承諾で、9歳からの臓器提供を可能にするものだ。「待ちに待っていた」と歓迎する声もあれば、きびしく批判する意見もある。現行法では臓器移植の場合に限って脳死を人の死と認めているから、新しい法律によって死の定義を大きく変えると懸念されてもいるようだ。

 昔から私たちは、目の前にいる危篤状態の親族などの心臓が動きを止め、息が絶えると、死が訪れたことを知ってきた。わたしの妻のときもそうで、最後の呼吸をし、脈拍も止まると急速に体は冷たくなっていき、とうとう逝ってしまったのだと思い知らされ嘆いた。祖母や母の時もそうだったが、そうやって迎える死は本人にとっても見送る者にとっても、言葉では尽くせない厳粛で静謐なものだ。

 「脳死は人の死」・・・。脳死と判定されても呼吸も心臓の動きも継続しているし、体も温かい。これまでの死というものへの理解からすると、これはまだ生きている状態だ。私には理屈としてはそうであろうが、何か納得できないものがある。仮にあの時の妻が脳死状態と判定されても、私には死んだのだとは受け容れられなかっただろう。ましてそのような妻の臓器を提供することなど到底認めることはできなかっただろう。妻の死後、テレビのこの問題を扱った番組で、ある夫婦が採りあげられていた。その夫は生前から臓器提供を承諾し、ドナーカードも持っていたが、死後その妻はどうしても認められなかったと述懐していた。私にはその人の気持ちが痛いほど理解できた。

 逆に重い疾病のわが子などに臓器移植を必要とする立場だったらどうだろうか。例えばあの時の妻が重い心臓病であればどうだっただろう。何としても生かしてやりたいと考えるのは当然だが、臓器移植しか方策はないと告げられたらどうするだろう。やはりそれを願うだろうか。このような仮定は現実的ではないから答を出すことは難しい。ただ観念的には、そのような場合には当然のことながら、未知の人の死を「待つ」あるいは「期待する」ことになるのだから、それに対する倫理的な葛藤はある。1人の命を救うために1人の命が必要になり、どちらの命も掛け替えのないもので、脳死した人にとってはもう不要になったものだから他の人にとはなかなか割り切れるものではない。考えれば考えるほど悩ましくなる。

 臓器移植はこれからの医療に不可欠になるものだろうが、安易に右から左へと受け渡しするようなことではなく、これからもいっそう人の生と死については倫理的な面からも絶えず考えていかなければならないと思う。

「新型インフルエンザ」その後

2009-07-13 13:10:03 | 身辺雑記
 もう「新型」と言っても古くなったような感じもするが、例の新型(豚)インフルエンザは、暑い季節に入っても感染者を増やしているようだ。

 大阪府の南部では6月以降に100人以上が感染したようで、児童の感染が確認され学級閉鎖になった学校もある。兵庫県や広島県、京都府でも広がっているらしい。全国的には6月下旬から感染が再び増え始めたと言う。

 夏に向かい湿度と温度が高まるとウイルスの感染力は低下すると言われていたが、人間の側に免疫がないので、ウイルスにとって条件の悪い夏でも、感染を拡大させているとも言われているようだ。

 それにしてもこのような状況であるのに、かつてのように大々的に報じられることはない。インフルエンザ侵入の初期には、テレビでも新聞でも連日大きくとりあげられ、国民の関心を、と言うよりも恐怖を煽ったような感があった。空港での物々しい検疫体制、厚労相自らが記者会見に臨んでの状況説明など過剰ではないかと思うこともあった。感染してから回復した患者があっても、感染者数は上乗せされて膨れ上がっていく。それは既感染者数であって現実に存在している感染者数ではないが、患者はどんどん増えているように思ってしまう。また、テレビのニュースではそれまで感染者がなかった県に1人でも患者が発生すると、テレビ画面の地図のその県は塗りつぶされ、その県全体が危険であるかのような錯覚に陥れさせてしまう。マスコミの操作に嵌りやすくなっている国民は浮き足立ってしまい、街にはマスクが溢れ、海外から帰国した生徒が発症した学校にはあくどい非難、中傷が殺到した。感染者が多い地域に出張した社員には病院で感染していないという証明を取らせると言う愚劣なことをする企業もあった。京都に発生したと報じられると、修学旅行の中止が続出し、観光業は大きな損失をこうむった。感染の程度を表現するのにフェーズ5とか6とか言う指標があるが、これを日本人の過敏さの指標にたとえれば、初期段階から「フェーズ6」になっていたと言える。

 いったいあの騒ぎは何だったのだろう。そのような騒ぎはもう収まってしまったようで、依然として感染者は出ているのにローカルニュースにもならない。熱しやすくさめやすい国民性のなせることなのか、あまり騒ぎ立てることはバカらしいという教訓を得たのか、とにかく急速に関心は薄れてしまったようだ。ちょっと考えればそれほど大騒ぎすることはないと分かりそうなものだが、やはりマスコミはもう少し冷静な扱いをしてほしかった。

 これからもまた大々的な感染が発生するかも知れないから、そのためにも落ち着いた対応を心がけたいものだ。


ある女の子

2009-07-12 08:40:46 | 身辺雑記
 神戸に行った帰りの電車で、1人の女の子が乗ってきて斜め前に座った。学生の多い駅から乗ってきたから学生かと思ったが、それにしてはひどくけばけばしい感じだった。と言って勤め人風でもない。はたちそこそこらしく、やはり学生か、今頃は学生でもこんな子もいるのだろうなと思った。

 ふと目をやると、携帯電話を見ていたが、その指を見て驚いた。どの指も爪がひどく長く2センチ以上もあるようで、赤や青、白のメタリックな小さな円形のものがたくさん散りばめてあってまことに賑やかだ。これは自前の爪ではなく、今頃はやっているつけ爪(ネイルチップ)らしかった。それにしてもひどく長い。その長い爪で携帯をさして扱いにくそうでもなく器用に指を動かしていたが、その異様に長い爪の動きを見ていると、何かしら昔話に出てくる鬼ババアを連想させた。

 その子は化粧も濃く派手だったが、特に量の多い付け睫毛をしているので派手さが目立った。足元を見るとかなり高いヒールの靴で、これも言うなればつけ踵だなと思った。睫毛も爪も踵も皆付け足したものだな、他にもどこかに付け足しているところがあるのだろうかと、いささか下らないことを考えた。

 それにしても真昼間に見る姿としてはずいぶん派手で人目を引くものだが、これが学生とすると教えるほうは気にならないだろうかと思った。あんな長い爪でノートをとる姿はどんなものだろう。私ならこんなのが前に座っていたらどうにも落ち着かないね。今頃の女子学生、特に私学の学生にはかなり派手なのがいるが、この子は飛び抜けているようだった。どうせ勉強しにいくよりも何となく学校に行っているのだろう。手提げの袋のようなものを持っていたが、ノートなどは入っているのだろうか。そんなことを考えながらそれとなくその子の無表情な顔と活気のなさそうな様子を眺めていると、こちらまで何となくだるいような、気が抜けたような気分になってしまった。