大島渚監督・80年の人生

2013年01月15日 | 人物 -
日本映画界のヌーベル・ヴァーグの旗手:大島渚監督が逝った。

晩年の奥様との二人三脚の生活が、どうしてもイメージされるが・・・
仕事に対する攻めの姿勢は、世界でも注目される存在だった。


ず~っと前のことだが・・・
映画 「夜と霧」 というアウシュビッツ強制収容所の作品を鑑賞し、
衝撃的だったことを先輩に話したら、「日本の夜と霧」 という
大島監督の映画があることを教えてもらった。
テーマは、全く違うけれど、「夜と霧」 を意識した タイトル を
大島監督が (意図的に) つけたということだった。
社会性の強い作品を発表し続けてきた大島監督らしい話である。

あの頃の私は、大島渚監督の他、篠田正浩監督、吉田喜重監督、
鈴木清順監督、今村正平監督、などなど・・・
黒沢作品、小津作品、溝口作品以外で、過去の歴史を紐解くように
観ていた時期があった。


個人的なことだけれど・・・自分にとって・・・
作品を離れて、いろいろな意味で、大島渚監督は特別な存在で、
80歳という年齢を、あらためて感じ入った。

美しい奥様もご高齢になり、いろいろな問題を抱えていたことと
勝手に想像しつつ・・・
確実に、かつての「日本映画界」を牽引してきた人であることは、
間違いない・・・と思うと、感慨深いものがある。

ご冥福を心からお祈りします。

26歳のフィギュアスケーター

2012年12月23日 | 人物 -

人は、年齢 「26歳」 を、まるで拘っているかのように 本人に問う。

何度も、何度も、問われているようで、気の毒だ。


  「 若手の活躍を どう感じるか・・・? 」

追われる立場によって、同じ質問にも 違った答えがかえってくる。

その答えの内容と、答え方で、その人の内面性を感じ取れるものだ。





実際、「26歳」で、リンクの上に立ち続けているスケーター、
そして、トップ争いを常に続けているスケーター、且つ、
靭帯を切るほどの大怪我から復帰したスケーターはいない。
また、その大怪我の影響と闘い、折り合いをつけながらも、現在も
高みにあがっているフィギュアスケーターなど、存在しないはずだ。
それが、26歳の 「 高橋大輔 」 という人だ。


人あたりの “ 穏やかさ ” が 世界中の人々を魅了して、毎年、毎年、
ファンを増やしていった。
気持ちが込められた演技と、集中している生真面目な表情と、
演技後の爽やかな笑顔と、つい微笑んでしまう言葉や行動の・・・
あらゆるギャップに、はまりこんでしまう・・・。
まさに、「ドラマチック・キャラクター(スケーター)」 だ。


日本の業界でも、彼の切り開いてきた 「道」 を、知らない人は
(フィギュアスケートを観戦している人であれば) いないはずだ。
男子フィギュアスケート界の(本当の意味での) 開拓者である。
人気も 人一倍あり、全スポーツ界の人気ランキングングにも
常にトップ10に入っていることは、過去を振り返っても 珍しい。





昨年も、今年も、多くの人が 活動していた業界を引退したり、
若くして命を落としたりして、「人生」の転換期を迎えている。
彼にも、いつかは、何らかの決断を下す日がくるのかもしれないが、
今はまだその時期ではない・・・。

人間の “ 魅力 ” は、様々な部分があって、完璧でも面白くないし、
甘ったるくても噛みごたえがなく、本当に多様である。

その多様性の中でも、個性的で、「また観たい」 と思わせる・・・
そんな演技ができるスケーターは、数えるぐらいしかいない。

記憶に残るような、そんな演技ができるスケーターは、なかなか
いないものである。
そんな逸材は、時代ごとに語られていくのだろうけれど・・・
高橋大輔選手は、確実に、そんな選手になっていくだろう。
・・・だろうと書いたのは、まだまだ変容が期待できる人だからだ。


これからのソチまでの1年余りの時間を、心ゆくまで楽しみたい。
こんなに ワクワク・ドキドキさせてくれるスケーターは 久しぶりだ。





とにかく、彼を観ていると、年齢などで限界を決めつけてしまうことに、
無意味なものを感じる。

大怪我をして、一部の感覚がないからと言って、超難易度のジャンプが
飛べないのでは・・・と思いこんでしまったことを、恥じてしまう。
現実が、物語っているし・・・、実際、この目で見せてもらっている。
                   <現在進行形だ>


彼にとって、「26歳」や「27歳」が、勲章になる日が、きっとくる。

人の生き方や、希望や夢への “ まい進の仕方 ” を、想像させてくれる・・・
「 高橋大輔 」 選手とは、そんな稀有なアスリートである。

私自身も “ 根拠のない思い込み ” や “ 無用な想像 ” に囚われる日々を
繰り返しているけれど、それさえも、打ち砕いてくれることがある。
気持ちのいい “ 気付き ” を与えてくれる人だから、このまま自分のビジョンに
向かって、「前」 を向いて、 「今」 だけを見つめて、突き進んでほしい。

英国の 「 輝ける Dame 」

2012年12月12日 | 人物 -

今月9日で、「ジュディ・デンチ(Judi Dench、1934年生 ) は、
78歳になる。



私にとって、どうしても 目が離せない人物 (英国俳優) だ。

エリザベス女王からは最高の称号 (Dame:デイム) を得ている。


彼女は、私が この世に生まれる ずっと前の 1957年、
舞台 「ハムレット」 の オフィーリア役で デビューした。
「ロイヤル・シェークスピア・カンパニー」 で 永く活躍しており、
英国では、誰もが知っている有名女優である。

  


現在は、世界的に 映画 「007 シリーズ」 の 「M(役名)」 で有名だが、
私にとっては、「アイリス」 「恋におちたシェイクスピア」 の方が印象的だった。
しかし、新作 「 007 スカイフォール 」 では、往年の存在感を
しっかりと植えつけていたと、私は感じた。
シリーズ製作50周年記念作品となる当作品は、英国では興行歴代一位と
なったほか、他国でも第一位を樹立し通している。



ひところは、数十年前だろうか・・・
英国のウエストエンドのスケジュールを常にチェックして、
「ジュディ・デンチ」 と 「マギー・スミス」 が出演するという
舞台情報があれば、都合をつけて航空券をとって 渡航していた。
そんな時もあった・・・。

彼女自身は、「舞台女優」 の実績を、英国にて築いて、世界的に
知名度をあげたのは、映画出演が きっかけになっている。
それは、マギー・スミスも 一緒だ。



最新作の 「007」 では、「M」 の存在が浮き彫りになって
主役以上に印象に残るストーリーとなっている。

以前まで参加していた 「Q(役名)」 も、新しく若い青年に
なってしまって、不思議な感覚だった。
(ご高齢のため、「Q」役の俳優さんが亡くなり、降板した)


やはり、女優も、男優も、シリーズものに出演することの責任は、
変わらず持ち続けなければならないし、ある意味では、それが
モチベーションになることもあるだろう。
数年前、「あとニ作は、007に出演を快諾する 」 と言いながら、
それ以上の情報がなかったけれど・・・、あの時には、すでに
このような結果を、ご本人が 要望していたのかもしれない。


英国では、「アバター」を抜き、過去の歴代興行一位を樹立した。
アクション映画だから、当然、アクションの他.爆破シーンがあるが、
廃屋や廃墟がロケ地として たくさん使われていたのは、なんとなく、
(実際的な撮影環境を加味した理由以外に) 意図的な雰囲気を感じた。


  


彼女の声は、とても個性的で、皮肉屋のインタビュアーによれば、
“だみ声” と 言われることもある。

すでに高齢になったジュディ・ディンチだけれど、若い頃の舞台を
覚えている人は少ないだろう。
そして、成績は優秀で、舞台の存在感も秀逸で、「舞台人」として
素晴らしい評価を勝ち得てきたことも、私たちは何も知らない。

しかし、舞台好きの人なら、きっと理解できるはずだ。
デビュー作が 「ハムレット」 の オフィーリア役だというだけで、
当時の彼女の存在感と演技力が 想像できるはずである。


1970年、「英国ロイヤル・シェイクスピア劇団」 の一員として、
彼女は、初来日を果たして、「ウィンザーの陽気な女房たち」 と
「冬物語」 の 二作に出演している。
舞台は、1月だったけれど、当時の移動手段は 「 船 」 だったらしく、
おそらく往復三か月近くの時間をかけて、来日をしているはずだ。
(公演は、半月なのに・・・)
日本にて興行した外国カンパニーの (記念すべき) 最初の舞台である。
劇場が日比谷だったので、役者達は 歌舞伎座に毎日のように通っては、
歌舞伎のユニークなメイク方法や 演技の型を 真似たりして話題にして、
関係者の間で 「 KABUKI 」 というものが流行していったという。
その後、帰国して、英国の舞台には 歌舞伎に影響を受けた演出が目立ち、
それを取材した記事が 英国には残っている。

英国と日本の古典のかけ橋をつけてくれた人たち・・・の筆頭が、
ジュディ・デンチ達俳優陣だったのだ とも 言える。
彼らが歌舞伎に魅入られたのは、脇役俳優の若手が観光で歌舞伎座へ行き、
あまりの衝撃に、俳優仲間にそれを伝え、どんどんと鑑賞者が増えて、
その次には舞台スタッフまで歌舞伎座通いをするようになったという。
今をときめく英国有名演出家も、そのメンバーの中にいる。

歌舞伎も、シェークスピアも、両国が誇れる国民的演劇である。

歴史の生き証人は、どんどんと少なくなっていくし、ご高齢を理由に
舞台にあがることも少なくなってきて、私としては寂しい限りだ。
(今年、彼女は、難病を理由に、身体の不調を公表している)




1970年の舞台を観劇した人に話を聞くと、「鳥肌がたった」 と
観劇した状況を話してくれた。
それから、私は、特に彼女の「演技」 を観たくてたまらなくなったが、
映像記録は残っていないので、当然、不可能なことである・・・。
だから、余計に、恋しく、求めていくのかもしれない。

現在のしゃがれ声ではない、若き 「ジュディ・デンチ」 が、そこには
確固とした演技力を示しながら、舞台上に立っていたことだろう。


彼女の作品を観るたびに、その1970年の舞台を 想像する。

また、当時の日本と英国の役者達の交流を、勝手にイメージしては、
楽しく、面白い時間を過ごす時もある。
英国シェイクスピア俳優が、歌舞伎俳優にメイクの仕方を教わったという
エピソードも残っているようで、全てに興味がわいてくる。
だって、演劇の歴史なのだ・・・から・・・。



健康に気をつけて、たとえ友情出演でもいいから、時々は仕事(映画)に
出演して、私たちに姿を見せてほしい。

彼女は、演劇界の変遷を見届けてきた英国の “素敵な生き証人” である。

山中伸弥教授の 「偉業 」

2012年12月09日 | 人物 -
京都大学教授の山中伸弥教授が研究して、発表から
たった6年という異例中の異例で評価された 「 偉 業 」。

 

ノーベル医学生理学賞受賞の決定だ。

今、山中伸弥教授は、奥様同伴で、ストックホルムに滞在しており、
論文を六つも抱えつつ、10日の「ノーベル賞授賞式」 に備えて、
準備中である。


若くしての評価に、世界中が驚いているが・・・
それだけ、この研究が 「素晴らしい」 ということに他ならない。



万能細胞 「iPS細胞」 の研究を可能にしたのは、山中伸弥教授を
取り巻く “多くの研究者の 努力の積み重ねが あった” からこそだ。

しかし、誰が信じるだろう。
山中伸弥教授は、奈良先端科学技術大学院大学の助教授に公募して
研究ができるようになったのが、「たった13年前のことだ」 と・・・。
その頃の 「途方もない発想」 に 飛びついて研究を始めた先生を
支えた五名の女性研究員がいなければ、何もスタートしていない。
その内の二人は、京都大学の研究チームに引き続き参加しているが、
ある意味で、スタートした時は「たった三名の研究チーム」だった
という・・・おそるべき事実!
成功の陰には、地道な努力があってのこと・・・。

でも、おそらく、ワクワク・ドキドキの・・・普通ではないビジョンが
明確にあって、皆で進んでいただろう・・・とは、想像できる。
泣いたり、笑ったりしながら、時間と共に、努力を重ねていたのだ。
そして、行動を起こす前には、山中教授の恐るべきプレゼンがあって、
研究チームのメンバーは、そのギャンブルのようなテーマの 「船」 に
一緒に乗り込むことになる。
すごいことだと、ただ、感動する・・・。



いつか、ドラマだけでなく、注目映画になって、この研究の流れを
描く時期が・・・将来的に くるだろう。
必ず来るだろうと、そう感じる。
背景には、驚くべきドラマが、たくさん存在していると思うからだ。




先生を入れた合計七名の研究チームは、どんどんと、成果をあげて
世の中がビックリするような結果を残していく。

本当に、ドラマチックで、感動的で、且つ、とてもシンプルで、
何よりも、仲間を信じて取り組む「確固たる結束力」 は、非常に
信じがたい 研究者の 「ブレイクスル―」 を経験していくことになる。

そして、当初は、“30年後” を目指していたが、たった数年で
発表できるような事実になっていくのである。
全てが、山中教授ならではの結果が、ここに もたらされた。

しかし、山中教授自身にとっては、臨床応用で患者を救うことが
可能になって、はじめて、彼の目的が達せられるのかもしれない。




この 「万能細胞:iPS細胞」 は、奈良の大学で生まれ、京都大学で
花がひらき、数年後に評価された 「日本のオリジナルの研究」 である。

それだけでも、ただ、ただ、“ 素晴らしい ” の一言だ。

私たち一人・一人が、世界に誇れる・・・ “世界最先端の研究” なのだ。
受賞の記者会見で、研究費のことを訴えていたが、山中伸弥教授であれば、
自費を提供(寄付)してもいい・・・ぐらいの想いが、私にはある。




過去の「科学立国日本」を彷彿させるような、異端で、突拍子もない彼の
アイデアが、こうして 実を結んでいる。
その出発点には、 何よりも、今の日本人に欠けている要素が詰まっている。

私は、思う。      
山中教授こそ、 山中伸弥教授の人間性の中にこそ・・・
「今の日本が求めている“大切な原点となる要因”が詰まっているはずだ」・・・と。

18代目中村勘三郎 一代記

2012年12月06日 | 人物 -

今朝は、18代目勘三郎氏のニュースと、ご子息二人の取材が、
のきなみ並んでいる。
テレビでも、ずっと放送が繰り返されている。
歌舞伎界だけではなく、様々な世界に飛び込んで、とにかく
人気のある歌舞伎俳優だったから、当然のことだ。

TVでは「10月半ばが最後の交流だった(会話が最後)」 と
二人の息子さんが語り、父が逝った晩も「たまたま帰宅した」 と
不思議な出来事を披露していた。
偶然が引き起こしたことだったとは、思えないぐらいの偶然!
これは、必然だ。



ご長男は31歳。
「勘九郎襲名公演」ということで、二人はまた京都へ・・・・。
“親の死に目にも会えない” のが “役者の世界” だけれど、
二人は、偶然のことで看取ることができたようだ。


ご長男:勘九郎さんのしっかりとした口上に、囲み取材の笑顔は、
とても素敵な光景だった。
勘三郎さんは、本当に「いい家族をつくった」と思った。



歌舞伎界の世界で、ちゃんと男の子を二人も産んでくれた妻。
明るく、かわいい女の子の話をしても、おおらかな心で受け止め、
仕方ないわねぇ的に笑っている “腰の据わった人” だったのだろう。
奥様も、子供の頃から「歌舞伎界」で育ったので、何よりも
「歌舞伎」というものを知っていたからこそのサポート。
奥様:好江さんの存在は、大きかったと思う。
家の柱となって、支えていたのだ。
共通の目的を持ち、お互いを必要としていた夫婦だったのだと思う。


現在の市川団十郎さんのように、芸を教わる前に父が逝くことも
あるけれど、勘三郎さんは二人の息子に たくさんの経験をさせ、
中村家を守っていく自然な繋がりをつくってきた。
荒れた親に育てられると、荒れることが多いが・・・
中村勘三郎さんは常に明るく、芸を追求する生き方だったから、
何よりも二人の息子さんは「父の気概」を感じとってきたと・・・
そう思う。



父の偉大さに反抗するかのうように「勘三郎襲名」を拒否してきた
18代目勘三郎さんが、襲名したことそのものが “ 心の雪解け ”を
意味していたのではないかと 今更ながら思う。

そのことも、二人の息子さんは、すぐ傍で 見てきた。
海外公演も一緒に行ったし、トラブルがあっても 父は矢面に立ち、
中村家を(誠意を持って) 守り通した。



舞台に生きた印象が強いけれど、人間的な魅力で、歌舞伎界に
新風をまきこんで、新しいファンを開拓した。

演劇界の垣根も、ひょいと飛び越えて、舞台に精力を注いだ。
なかなかできることではない・・・。
日本中どこでも興行に行くのが歌舞伎界の役者さんだけれど・・・
自分から新しい繋がりと企画にも取り組んでいたし・・・
そういう意味では、全てが精力的だった。
パワフルだった。

人間のもつエンジンがあるとしたら、それを短い時間で使い果たし、
人々に記憶を植えつけた・・・という印象だ。

私にとっては、18代目勘三郎は、やはり「勘九郎」のイメージが
強いけれど、あとはご長男が引き継いでくれる。
そんな気がする。

「平成中村座」の勘三郎さん

2012年12月05日 | 人物 -

「第18代目勘三郎、今朝、死去 」 というニュースを観て、
ビックリしてしまった。

最近の情報誌で、かなり厳しい病状との記事が出ていて、
「そんなことはないだろう」 と、勝手に思っていたが・・・
残念である。



偉大な父:勘三郎氏を慕い、歌舞伎界に “新しい風” を
吹き込んだ勘九郎さんが、「18代目 勘三郎」を襲名した時、
誰よりも感無量だったように感じた。

若い頃の「破天荒」な生き方や、いろいろな場所で
お見かけした人情あふれる性格が、一番強く思いだされる。
友人が経営していたお店でも、女優さんをひきつれて、
よく飲みに来ていた。


こんな時に、こんなことを書いてはいけないが・・・
若い頃の「文学座の大女優との大恋愛」には、幼いながら、
ものすごい熱いモノを感じて、人の心の結びつきなどを
知ることになった。 情念のような強い気持ち・・・。
 (あの頃は、あまりわからなかったけれど・・・)



一般的に・・・
その人が、心から「愛する人」や、「選択すること」で、
その人の様々なことが 想像できるものである。


素晴らしい歌舞伎界の業績と、素敵な家族をつくり、
「これから活躍する年齢になった」ばかりだっただけに、
ご本人も無念だったことだろう。
ご長男のお子様を抱かれたことが何よりも良かった。
家と血脈が繋がっていくことは、歌舞伎界では大切なことだ。



なんとなく、生き急いだ感じがする。

若い頃から、お酒もあびるように 飲んでいた。

興味あることは、あれこれ~と、果敢にチャレンジして、
新しい事をつくり上げてきた人だから、歌舞伎界に与える
影響も大きいし、舞台業界にも大きな激震が走ることだろう。

わずか、57歳。

本当に、「これから」だったのに・・・。

ご冥福をお祈りいたします。

日本の「おかあさん」 逝去!

2012年11月14日 | 人物 -

ザックジャパンのアウェ―試合を観戦している時、
衝撃的なニュースを、ネットで見つけた。

森光子さん、92歳で逝去。 <11月10日>

森光子(92)さんと、八千草薫(81)さんは・・・
お子さんがいないのに、「おかあさん」 的なイメージが、
とても強い方で、それも優しいイメージがあって、
昔から大好きだった。
特別な存在だ。

優しさと厳しさがあっても、その厳しさは 常に 「おおらかな
包容力」が伴うイメージで、人として、尊敬する人だ。


その対極にあるイメージの「おかあさん」 としては、
市原悦子(76)さんがいる・・・。
この人も、何故か、実生活では子供はいない。
個性的で、自由で独特な“強さ”がある。
私が、女性として、カッコイイという印象を持つ。



「おかあさん」 って、呼びたくなる存在は、特別な人だ。

その人の性質や、与えるイメージ、優しさが・・・
たとえようもなく、愛しい。

長く脇役をしてきて、40歳代になってから主役を務めた
苦労の人が、後の大スターとなった森光子さんだ。
だからこその人間的な包容力を感じるのだろうか・・・。


体調の悪いことは、伝え聞いていた。
2010年、「放浪記」 の公演がキャンセルになったときに、
いつか「こんな日がくるだろう」 ということは、誰もが・・・
多少は感じていたのではないかと思う。


晩年、彼女の長寿の秘訣として、「よく食べる」 ということを
きいて、それも「肉」 をよく噛んで、口の中に肉がなくなるまで
咀嚼するのだと笑いながら言っていたのを思い出した。

高齢になっても、精力的に活動をこなしていたし・・・
あの時代に、正統的な芝居のほかに、コメディエンヌ的な要素を
入れることができたのが、女優としては 特別な魅力だったと思う。



私の憧れの「おかあさん」二人の共演作:「晩秋」 が・・・
最後の舞台(作・演出/マキノノゾミ) 観劇となった。
森光子さん、八千草薫さん、坂東三津五郎さんが共演した舞台で、
森さんは、歌って、踊って、華やかな衣装に身を包んで、
とても輝いていた。 

 <2009年11月>   



向こうへ行っても、多くの方が 迎えてくれるだろう。
素敵な性格だったから、誰からも愛された「おかあさん」 だった。

合掌。


石川遼の二年ぶりの勝利

2012年11月11日 | 人物 -

石川遼選手が、ちょうど二年ぶりに勝利を おさめた。
優勝だ!
それも、ちょうど二年前と同じタイトルで・・・。 
<三井住友VISA太平洋マスターズ>

この二年間は、怪我で療養・休養していたわけではなく、
試合をちゃんと続けながらも、「 勝てなかった 」。

二年前には、周囲の人々が温かく見守り、才能ある若者に、
大きな期待を寄せたものだった。


しかし、私は、恐縮だけれど・・・
「勝てないのには、勝てない理由がちゃんとある」 と、
あらためて感じる。

この二年間・・・彼を見ていて、誰よりも、それを感じた。
それには、あらゆる複雑な意味が含まれているけれども、
すべて個人的な見解にすぎない。
ただ、その勝てない理由は、しっかりと存在すると感じている。

かつて言われた 「才能豊かなプロゴルファー、石川遼さん」 だからこそ、
余計に、そう思った。
若くして注目され、人格形成に影響を与える10代の後半期に、周囲から
“ 大いなる期待 ”と共に “ 過大な待遇 ” を手にしていた彼にとって、
何かを微妙に勘違いしたり、安易にとらえる癖がついたりした可能性が・・・
全くないわけではない―と思う。



彼は、「特別な存在」。
とても人気があり、誰からも勝敗に対する期待がかかり、人々の目は、
常に 彼のプレーに注がれる。 
ギャラリーに、集中力をそがれることだってある。

スポンサー契約の金額だって、一般人の一生かけて稼ぐ金額を、
たった数年、あるいは、一年で、手にしているはずだ。



まだまだプロゴルファーとしては、不足している何かがあるのでは
ないかと思う。
どんなに強いプレッシャーでも、それに打ち勝つ「何か」がなければ・・・
いつまで経っても 結果はついてこないだろう。

彼は、まだスタートラインに立ったばかり!
これからのプロ選手としての時間の方が、はるかに長い。

この二年間は、いい経験になったのではないかと思う。

人生に比例する 「 夢 」

2012年10月12日 | 人物 -

  若いということは
  無限大の夢を持つことができる。
  そして、自分の持った夢に
  自分の人生は比例する。


            < by 孫 正義 >



日本の実業家、孫正義氏は、米国通信会社第三位の会社を、
傘下におさめる計画を、今日、発表した。

昨年「3・11」が起こるとすぐに現地に通信機を持ちこみ、
孫氏は 被災者と膝を突き合わせて、「何が困るのか」について
話し合って、その後「自然エネルギー」の分野に参入決断した。
携帯電話は素晴らしいツールでありながら、電源が切れたら、
その威力を発揮することはできない・・・・。
そんな構造の原点、本質的なことを思い知って、エネルギーを
クリーンな環境でつくる重要性を感じ、すぐに行動に起こしたのだ。

「3・11」震災の義援金も、個人資産から 100億円を出した。
破格の金額である。
彼の根底にある非常にピュアな心根と原動力を感じる。
ビジネスの駆け引きだけで、こんなことができるわけがない。


彼の発想力、理解力、決断力、行動力・・・すべてが、
まるで感動さえ覚える速度で、今後の日本経済を牽引する可能性を
秘めているように感じる。
変革を施し、新しい価値観をもたらし、人々の生活の利便さを
追及していく。

元気のない日本、日本の若者たちに、起業家精神を植え付けるため、
学びの機会を(結果など度外視で)与えている。
これも皆、個人的な貢献事業の一環として考え、実行しているのだ。



また、その一方で・・・実業家・経営者としてのチェレンジ精神は、
並々ならぬものがある。

まだまだ変貌を遂げていくであろう孫氏のビジョンは、凄い・・・。
わずか19歳で、50年計画をたてていたという未来志向の人!
今、私が 興味ある人である。


  
  

冒頭の孫氏の言葉は、まさに、「孫正義」という人間の基軸を
物語っている言葉だと思う。


孫正義氏のごとく、「夢」や「明確な意思」を持つ時期は、
早い方がよいと思う。
若い頃は失敗もするが、何よりも手にする可能性は大きい。
実際、彼自身がそうだったと思う。

ポジティブに物事をとらえて、具体的な思考錯誤を繰り返し、
自分自身にも問いかけながら、人生をつくり上げていく。
そして彼は、常に、着実に、グレードアップしていった。


人間の身体も脳も、意図した指令がないと、決して働かず、
怠惰な日々を過ごすだけになってしまう・・・。

“実のある成果” を 求めるなら尚更、大切なことである。

俳優「大滝秀治」大往生!

2012年10月05日 | 人物 -

若い頃から、年を経た役柄が似合っていた。
存在感は、ただならぬものがあったし、
ご高齢でありながら、非常に聡明な演技力を
私たちに提供してくれていた。

個性的で、独特なオリジナリティーというか・・・
そういう雰囲気を、かもしだせる稀有な俳優だった。
それは、昭和を代表する俳優 「笠智衆」 にも言えることだ。


程の良い主張と、程の良い調和ができる俳優!
私は、伊丹監督作品ぐらいから、「凄いなぁぁ 」 と
注目するようになったと思うが・・・
劇団のプロフィールや、過去の逸話を追いかけると、
苦労をした時代があったということを知った。
昔の容姿や声を重要視したオーソドックスな時代では、
個性的すぎる声を持つ大滝さんは、異例な存在だった。
しかし、場をわきまえつつ、役柄に徹していく姿勢に、
誰もが感動するようになっていく・・・。
多様な個性がもてはやされた時代になってからの活躍は、
本当に素晴らしく、注目された俳優人生だったと感じる。

昨年(2011年)、文化功労者として勲章を頂いたそうで、
存命中の受章は何よりだ。

87歳の「大往生」 だが・・・病魔に侵されなければ、
まだまだ活躍ができただろう。


遺作になった「あなたへ」でも、とびぬけた存在感を
与えてくれている。

重ねて言うけれども、本当に稀有な俳優だったと思う。








私の大好きな二人のコラボCM。
当時は、「つまらん」が、流行語のようになった。
芝居の間の取り方が、本当にお上手な俳優だった。



劇団民藝といえば、宇野重吉さんの晩年の一人舞台を
観劇したことがあったが・・・
地に足がついた役者さんが多い劇団だと思う。
大滝さんは、現在の民藝の代表者ともいえるぐらいの
活躍ぶりだった著名な俳優で、あの年齢には珍しく、
アドリブにも対応できる許容範囲があった俳優だ。

ご冥福を心からお祈りします。  合掌。

内村航平選手の笑顔

2012年08月08日 | 人物 -

今日、アポがあり、たどりついた場所が「コナミ」で、
玄関先に、内村選手のオリンピックの笑顔が飾られていた。

それは、まさに本社の入り口で、
まるで、誇らしげに見えた。

内村選手の功績もさることながら、演技の素晴らしさが思い出される。
手の先、足の先まで、気が遣われている「美しいフォルム」。

演技と同じぐらい、あの笑顔には好感を持ってしまうし、
何か「あったかいもの」が感じられて、すごく“幸せ感” が 漂う。

会社のメンバーは、“毎晩のように応援していただろう” と、
そう思ったし、個人総合「金メダル」は誰もが手にできるような
メダルではないので、自分のことのように嬉しかったことだろう。

あの看板は、全ての演技と結果に対するお礼というよりも、
内村選手へのお祝いの看板のように感じた。

清々しい笑顔だった。



それにしても、思い返すと・・・
彼と お母さんとの「絆」の強さには、感動さえ覚える。
応援席で 日の丸を掲げた内村選手のお母さんは、演技が始まると
目をつぶって、ただ祈っていた・・・。
自分の息子の演技を見ることなく、何かにすがるように・・・
とても真摯に、そして、とても必死に、見守っていたお母さん。

素敵な親子だと思った。

「親孝行したい時に、すでに親はなし」という言葉は有名だが、
そういう現実を経験した人が多い中で・・・・
内村選手は、素晴らしい孝行息子だと思う。
親からしてみれば、なんて誇らしい息子だろう。

二人の結びつきは、とても自然で、且つ、美しい。
そして、私には、とても、うらやましい。


「イチロー」 の電撃移籍

2012年07月25日 | 人物 -


チームの若手のため、そして自分の今後の刺激ある環境のため、
イチローが、「マリナーズ」を去った。
自分からの希望だったという。

11年間の経験を胸に秘めて、前進するという前向きなコメント。
ただ、そんなに簡単な状況ではないとは想像できるけれど・・・
イチローが決断したことだから、信頼はしている。

電撃移籍先は「ヤンキース」。

一番負けていた球団から、一番勝っている球団に移籍するという
何ともビックリの・・・現実!


イチローが記者会見で語ったヤンキースのメンバーについて、
「 長いこと安定した結果を出している人間、
  勝つことを命じられている(あのような)人間は、
  ポテンシャルだけでは成立しない。
  そこには確かな人間性が存在していると・・・想像している 」
それが、ヤンキースという名門のチームメンバーに対する賛辞!



思い返せば、勝てないチームに、毎年所属していて、
一人、モチベーションを奮い立たせていた “彼の姿” が、頭をよぎる。
当時は、諍いに近いトラブルがあったと、想像している。
低迷するチームの雰囲気は、彼自身の大切なものを奪い去ったときも
確実にあったと思う。
イチローは、どんな時も、くさらずに身体を動かし、努力をしてきた。



今年、もしも、活躍ができたら・・・
存在感をアッピールすることができたら・・・
そして、ヤンキースにも、「刺激」や「変容」が与えられたら、
確実に優勝する可能性があり、また、同時に、
来年もヤンキースのユニホームを着ている可能性もある。

様々なニューヨークのメディアの攻撃に、負けないでほしい。



彼はスターだし、とても複雑な思考回路をしているので、
何が起こっても(実のところは)驚きはしないという部分はある。

私が、心から願っているのは、
後半にさしかかってきた野球人生だからこその充実感を、是非とも
イチローには味わってほしい。
違う環境で、新しいスタートを切ることも、今のイチローには、
必要ではないかと思う・・・。 (でも、ムネ君、すまん!)

WBの当時の感情むき出しのイチローを思い出すと、余計に、
彼の人生の記念碑に、最高峰のゲームを経験させてあげたいし、
その価値がある功労を、メジャーにはしてきたと思う。



今、とりあえずは、
「 シアトルのファンに、心からお礼が言いたい気分だ 」。
 一人のイチローファンとして・・・。


   ※さようなら、マリナーズのユニホーム「51」

昭和を代表する女性ディオ

2012年06月27日 | 人物 -
「ザ・ピーナッツ」

昭和の音楽シーンを牽引した双子の歌手。
1959年、18歳でデビュー。

音楽的な才能ばかりでなく、ダンスのレベルも高かった。
俳優としての演技も断トツで、コメディセンスもあったという。

二人のメロディとハーモニーは、物悲しかったり、楽しかったり、
素晴らしいエンターティナ―だった・・・と思う。

「惜しまれながら辞めたい」 ― という二人の意志から、
1975年に引退するが、その後も、二人の存在は注目の的になる。


私は、その引退公演ライブのカセットテープを、誰かから頂戴して、
一時期、「ザ・ピーナッツ」に、はまったことがある。
彼女らが引退してから、随分と時間がたってからのことだ。

それから、思い出としては、これも随分だってからだが・・・
先輩に「恋のバカンス」のハーモニーの練習をさせられた。
今も、それは忘れずにいるぐらい、頻繁にカラオケに通ったものだ。
 <当然、私が、難しいハーモニーを担当! 余興のため>



ザ・ピーナッツは、素晴らしい歌唱力を併せ持つシンガーであり、
今、聞いても新鮮な歌謡曲は、素晴らしい音楽的才能だと思う。

引退してから、彼らの歌を聴くようになった私は、
現役中の活動については、全く接点がない。
後に動画サイトで、多くの楽曲を歌番組で歌っている画像を観たが、
やはり・・・その卓越した才能に、脱帽していた。
現在は、その豊富だった画像も、消されて、観ることができない。


沢田研二さんの元妻だった伊藤エミさん(姉)が、
6月15日に永眠したことが、発表された。
71歳だったという。  合掌!


○「可愛い花」





○「恋のフーガ」




香川真司選手のマンU契約

2012年06月24日 | 人物 -

日本サッカー代表MF、香川真司選手。
この数週間のオフを使って、いくつかのテレビ番組に出演している。
ご本人は明るくて、思い切りも良いみたいで、それでいて、
内に秘めたる “感情の起伏” が感じられる部分が時々露出して、
若い割に、強く「男らしさ」を感じる人だ。
それでいて、人当たりが、すこぶる良い。
さわやかな笑顔は、人をとりこにする魅力に満ちている。

性格的に壁がなく、凄くいい印象だ。


そして、ついに「マンチェスターU」の香川真司が、誕生した。
7月から4年間の契約だそうだが・・・ザックが語ったように、
しっかりと契約期間をプレーし続けられて初めて、彼の真価が問われる。
世界のビッグクラブだからこその厳しさは、本人が一番理解していて、
そういう環境に挑戦できる権利を得られたことは、何よりも素晴らしい。
インテル移籍当時の長友選手と同じぐらい喜ばしいニュースだった。


香川選手の貪欲な若さが、きっと後押しをしてくれると思う。
あとは、どこまで心身のコントロールをやっていけるか・・・だろう。



身長:172㎝。  23歳。
豪快で、マイペースで、爽やかさが にじみ出ている人だ。
今日放送された彼の番組を観て、「夢」を大いに語る香川選手に
心から応援したい気持ちが芽生えている。

来年、再来年の私は、おそらく長期イギリスに滞在する予定のため、
もしかしたら、応援にいけるかもしれない。
長年の希望⇒イチローの試合観戦は無理でも、マンチェスターUは、
意外と簡単に実現しそうな予感がする。


人は、「夢」を抱いていなければ、輝きが薄くなる。
その「夢」を、自信を持って語れる人は、さらに神々しく、
人として魅力的に輝いていくように思う。
彼が、「夢」という言葉を口にした途端、「やはり!」と感じた。


彼は なめらかな口調で、感じたことを、即座に言葉に変えて表現できる。


技術力の他に、目標設定の的確さと、実現する行動力・意志力の強さ!
これは、かなり他の選手よりも強い。
自分が進むべき道、目指すべき目標が明確になっている証拠である。

要は、目標を達成したいという気持ちが、強いということだ。
根がまじめであるというのも、影響しているような気がする。

また、若いというのに、その一年の重みも、分かっている。
本当に「サッカー選手の黄金時代(選手生命)は、短い!」 ということを―。



次のシーズンから、彼の本当のステップアップがはじまる。
怪我もしたし、スタメン落ちも経験したし、挫折も、栄光も、みんな・・・。
そういう僅かな経験から、どこまで深く、確固たる覚悟を持って、
真摯にサッカーと向き合えるか・・・・・。
メンタルな部分が影響するだけに、彼の真面目さが裏目にでないことを
願うのみである。

結果を出さないといけない世界の有名クラブだけに、他よりも余計に
シリアスな日々が待っているだろうけれど、
彼自身は 精神力が強いようなので、それもまた実力の一つだと思う。


彼の希望した背番号は、「8」「23」「26」「29」。
  ※7月になって発表された番号は、「26」。

とにかく、契約年数を無事に終え、素敵な27歳を迎えられるよう
祈るのみだ。 今後、大きな怪我がないことを心から願いながら、
香川真司選手の活躍に期待したい。

日本人代表として頑張ってほしい。



     ※香川選手と私の共通点
      「うどん」が大好きなこと。


「スーパー歌舞伎」の復活

2012年06月14日 | 人物 -

三代目市川猿之助さん。
彼は、ある一つの文化・芸術の「カタチ」を、歌舞伎界の決め事から離れ、
勇気を持って 果敢に挑戦し、私たちに見せてくれた。
そのカタチに、私たちは 心ゆくまで魅せられて 何度も劇場に通った。
豪華な衣装や ピーターパンかと思わせる宙乗りは、度肝をぬくもので、
猿之助歌舞伎は ファッションのようにブームをつくったと思う。

今、その「スーパー歌舞伎」が、復活した。
三代目の精神は、四代目、五代目へと引き継がれていくのだろう。
型破りな歌舞伎役者が、完璧なまでに作り上げた “一派のカラ―” は、
あの時代の象徴として君臨し、人々の記憶からは消えることがない。
結果がどうであろうと、しっかりと遣り遂げ、「カタチ」を形成し、
人々に「次の演目は何だろう」と 毎回のように期待させたのは、
素晴らしい成果だった と 思う。

時代は、三代目に味方して 彼のやることを応援した。


クロスオーバーという言葉があるが・・・
まさに 現代は演劇の世界でも、そういう雰囲気であって・・・
現代劇やテレビドラマや映画に出演する歌舞伎役者が増えた。
今回の四代目猿之助を襲名した市川亀治郎さんという役者にも、
ある灯がともり、全国区の役者に成長した。
そして、今回の四代目猿之助襲名披露公演となった。

三代目猿之助さんのDNAを引き継いだ演技派「香川照之」という俳優は、
45歳で歌舞伎の世界に飛び込む決意を固め、46歳で初舞台を踏んだ。
性格も明るく、前向きで、熱意を持ち、何よりも聡明で、演技力が凄く、
主役を簡単に くってしまうぐらいの演技派である。すでに名脇役として
日本アカデミー賞助演男優賞には、毎年のように顔を列ねるぐらいの名優だ。

そして、香川さんの長男もまた、8歳で初舞台を踏んだ。
「 澤瀉 ( おもだか ) 屋」の復活とも言えるような・・・魅力あるメンツ!
数年後、数十年後の彼らの活動に期待がかかる。

三代目猿之助さんの身体は不自由でも、まだ「やりたいもの」があれば、
彼らの身体を使って、演出という形式で、新しい舞台を創造することが
これからは可能になってくる。
やはり三代目の能力・才能というものは、歌舞伎界からしては、稀有で、
珍しい存在だと思う。




「スーパー歌舞伎」全盛期と、同じ頃だったが・・・
五代目坂東玉三郎さんの主演する西洋劇に嵌り、彼の演じる特異な女性像が
内容的にも あまりにも鮮烈だった。
私は 原作を読んだり、また再び観劇したり・・・。
そして、忘れがたいのは、素晴らしい、彼女のカーテンコール。
ドレスは、羽衣のように軽く、素敵なデザインで、彼の動きを活かした。
何度も、何度も、舞台の中央に出てきては、独特なおじぎで、華やかさと
美しさを見せつけられた玉三郎舞台のカーテンコール。 すごく恋しい。
若くて美しい玉三郎さんの洋風の豪華絢爛な舞台衣装と、優雅な所作!
観客もよく知っていて、そこそこの回数では席を立とうとはしなかった。
回数を経るごとに盛り上がっていくカーテンコールだけに、見逃し厳禁だ。
あの存在感は、歌舞伎役者の女形として、また違った世界観を創り出していた。



当時は、本当に、面白い舞台が多かった・・・。
文化に資金を提供してくれる人も多かったし、とにかく集客できたから
製作費もしっかりと執れたからだと思う。
歌舞伎役者さんもしかりで、いつも興味をそそる「素晴らしい舞台」を
見せてくれてくれていた。・・・そう思う。


久しぶりに「スーパー歌舞伎」(ヤマトタケル)が、観たくなった。
このような形で復活するとは思っていなかったので、余計に衝撃的だ。
月末までやっているそうなので、どこかで足を運びたいものだ。
しかし、このようにして座組みが成立したら、また再演も近いことが
予想され、スーパー歌舞伎ファンにとっては嬉しいことだと思う。