無差別殺傷事件などの悲惨な事件が、後を絶たない。
2日前に、大阪で起こった「通り魔事件」・・・。
これまでの犯人(通り魔)のプロファイルを見てみると、
20代から40代の男性が多く、家庭に問題があり、
何らかの劣等感を抱えている人が多いらしい。
かといって、
事件を起こす犯人にとって、経済的に裕福か貧乏かは関係なく、
また、男性 or 女性というのも確実ではない。
ただ、多いか少ないかの統計だけである。
通り魔事件と言えば、人があふれている「都会の真ん中」という
思い込みが強いが、都会か田舎かというのも、実は関係ないらしい。
私は、・・・犯人について、
あるいは、・・・事件を誘発するものについて思う。
どんな事件でも、小さなイザゴザでも似ているのではないか・・・と。
その人の心の中が、どんな状態で、どんな景色を見ているのか―という
とても短絡的なことではないだろうか・・・と。
人間の「人格形成」は、産まれてからすぐに 始まっていって、徐々に
その人自身をつくっていく。
モノの見方や、価値観もそうだし、昨今の “キレる・キレない” も
同じではないかと思う。
すべて、育った環境が、つくりあげていくのだ。
家族の無償の愛や、周囲の人々の想いが、徐々に子供に移っていくから、
やはり育った環境は 大きく影響を与えているのではないだろうか。
しかし、そこで「重要なこと」というのは、本人が気持ち的に
満たされているかどうか・・・ということのような気がする。
育った環境が、たとえ貧困でも、何事にも負けない逞しい周囲の考えが
その子供に「前向きな姿勢」を もたらすことがある。
「自分が社会を変えてやるんだ」という、飛び級のようなビジョンを
持ち、育っていく子供だって いないわけではない。
環境や境遇にかかわらず、本人の負けん気で、いろいろなことが
決定されていく子供だっているだろう。
周囲にいる人や、家族、友達、教師、身を置く場所の環境などから、
良い要因を与えられ続け、育っていく子供だっているはずだ。
肝心なことは、充分なる対話をした後に、生まれいづる「充足感」や
「満足感」が、あたらしい「意欲」や「やる気」を作り出す。
その子供のアイデンティティーと呼ぶには幼すぎるが、もしかしたら、
そういうモノの芽さえも カタチづくられていることだってある。
自分が、どれだけ注目されているか、目をかけてもらっているか・・・
豊かな愛情や、さりげない思いやりを 常に、そそがれているか・・・。
実際に、そういうことが子供に(確実に)伝わっているかどうか・・・
そして、何よりも、様々な感情で、本人の心の中が満たされていて、
人間の機微のような “複雑な心情” が せめぎ合っているかどうか・・・。
なんとなくでもいいから、その “満たされた状況” を、自覚することができ、
少しでも冷静に味わう(認識する)ことができたとしたら・・・?!
自分自身で、判断することができるとしたら・・・?!
そんな状況で、日々の暮らしを ずっと過ごしていければ、「夢」を語れる
健全で、魅力的な、“人格形成” ができるような気がする。
夢が語れる子供たちがあふれている社会こそ、何よりも素敵なことだ。
決して、諦めず、私がこの世から消滅する頃には、そんな社会に
なっていてほしいと思う。
諦めないで、決してあきらめないで、
「皆で健康的な社会を構築していこう!」
こっぱずかしくも、そう呼びかけたい。
そのためには、まず、何から始めたら、良いのだろう・・・・。