温刺激

2006年03月15日 | 介護日記 -
「ぬくぬくタオル」が大好きな父。

毎朝、寝起きの父は、
身体が固くなってしまって、すぐには動かない。
頭の回転も、極めてゆっくり・・・というか停止気味である。
そういうときこそ、「ぬくぬくタオル」のお出ましである。
タオルにお湯を通して、ただ顔にかぶせるだけの・・・美容院・理容院で使う“アレ”だ。
しかし、あなどるなかれ!
しっかりと目が覚める。
何度となく繰り返すと、意識も戻ってくるのだ。

母の介護中も、(大学病院の外科病棟だったが・・・)
毎日お湯をバケツに入れて、タオルで顔から身体まで、何度も“ふいていた”。
バスタオルで身体をくるんで温めたりしたが、
母はとても喜んでくれた。

最近は、父の「ぬくぬくタオル」を用意するときに、一緒に“自分のものも用意する”。
寝不足で、だるぅ~い身体と頭が、生き返ってくるような錯覚を持つ。
やはり、「ぬくぬくタオル」は、驚異のパワーである。

サウナ大好きの私が、ここしばらくは・・・全くサウナのない生活である。
父と一緒に健康ランド or スーパー銭湯に出向いていた頃が懐かしい。
いとしのサウナ感覚をも、リフレインさせる「ぬくぬく感覚」である。

それに、
  泣き出した父を止める時―。
  いらいらした自分の気持ちを、ニュートラルに戻す時―。
  食後や排泄後の疲れで、ぐったりした父をリラックスさせる時―。
  父の重い身体が持ち上がらず、私が腰と腕に負担を感じた時―。
  乱れた息を戻す時―。
最近は、いろいろなときに使っている。
助かっている。
何でもないようなことだけれど、効果があるのだ。
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善と悪

2006年03月13日 | 言葉 -


「善」は、すべての要素がそろわないと生じない。

「悪」は、一つの要素でも欠けると生じてしまう。



Bonun ex solo perfectione omnium, malum ex unaquaque defectione.

Good results only out of the perfection of all; evil, out of every single defect.


    ※昔からある西洋哲学の原理だそうな。(ラテン語+英語)

天使から?

2006年03月12日 | 出来事 -
「天使のメッセージ」を、占い感覚でひいてみた。
数日前にも、“まさに!”というメッセージを受け取った。
その適合性に、ちょっと戸惑いながら、今日もまた“ひいてみた”。
いつも常に感じていること、そして、気がついていることが、本日のメッセージだった。
やはり・・・。
なんとなく、納得・・・・(笑)。



■天使のメッセージ

 あなたの人生は、永遠の<今>の連続なのです。
 今すぐ<今>を感じて、<今>を生きることです。


■天使のメッセージ②

 どんな感情もあなたの生命のほとばしりです。
 押し殺したりごまかさないで味わいましょう。
 
 ただ感じて素直に表現しましょう。
 上手にできなくてもかまいません。
 
 どんな自分とも仲良くすることから始めれば、
 どんな人達とも自然体で仲良くできるのです。


■天使のメッセージ③

 【手放す】
 あなたは今
 何かを握りしめていませんか?
 私たちは意識する、しないに関わらず
 何かにこだわっていたり
 執着していることがあります。
 何となくイキイキできないとき 
 くやしくて怒りがおさまらないとき
 恥ずかしくていたたまれなくなったとき
 不安で弱気になったとき
 ゆったりとした姿勢をとって
 心の手のひらを広げて
 しばらく見つめてください。

 今、自分がにぎりしめているものが 
 悩みをつくる源になっているはずです。
 過去の失敗や、誰かへの怒りや、後悔の念。
 譲れない価値観や、思い込みや、未来への心配。
 時には、好きな人や、家族や、安定や、
 財産や、プライドや、若さ。
 固く握りしめている何かがあるとき、
 人は自然にふるまえないので苦しくなります。
 のびのびと自由に生きられなくなります。
 とらわれを手放してカラッポになりましょう。
 無限に新しいものを受け取れる人になるために
 ちょっと勇気を出してください。


     ※「天使のメッセージ」(中森じゅあん著)
       本日ひいたのは、「天使のメッセージ」①~③までの三冊より―。
       軽く目を閉じて、心を鎮めて、直感的にひらめいた数字をひいてみる。
       大切なことは、メッセージをハートで直感で受けとめること。
       静かにゆっくりと感じて味わうこと。
       頭で考えたり、理屈で判断したりしないようにすることだ・・・そうな。
           
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ディサービス初日

2006年03月10日 | 介護日記 -
今日、父は初めての施設に出向いた。
オープンしたてのピカピカの施設である。

朝から、精神的に落ち込み、涙に暮れた父は・・・
お迎えの施設員に手を引かれ、泣きながら玄関を出て行った。
その姿を見て・・・
まるで「ドナドナ」に歌われた「売られていく子牛」のようで・・・
すごく胸が痛かった。

「行きたくないの?」と訊くと、こっくりとうなずくので、
てっきり駄目かと思ったら・・・自発的に靴を履こうとしたりして・・・
父の反応と言動、そして行動には一貫性がない。
それでも、「お風呂に入ってきなさいよ」と声をかけると、泣きながらうなずく。

ずっと、ずっと、涙がぽたりと落ちていたので・・・
ものすごく辛かった。
無理やり「行かそうとしている」みたいで・・・。


父を見送った後、
私は、ひとしきり泣き崩れた。
その背景には、複雑な状況と心情が、入り組んでいたからである。
今日出向いた施設の二階には、小規模の(認知症)グループホームがあって、
施設の大家さんにあたるのが父の主治医だったので、そのような経緯から
父の主治医から「グループホーム入所」を勧められていたのである。
この数ヶ月の“寝られない状態”を、主治医は熟知しており、昨年末に
「共倒れにならないように、考えたほうがいいですよ」と言われ、
たまたま準備建設中の新施設の案内をしてくれた。
重度の内臓疾患と、足の関節痛、認知症、内臓疾患からの精神的問題など、
主治医に言われていたように、徐々に父の状態は悪くなってきていた。

医師との深夜連携もあり、“今後のことを考えると心配がない”とのことだった。
聞いた頃は、自分の中ではあまり現実的ではなかったのだが・・・
秋以降の連日連夜のケアによる寝不足で疲れがピークに達しており、
今年に入ってからは特に“私の中にも切実感が増してきていた”。
そして、先月末に内見をしたら非常に良かったので、徐々に気持ちが固まりつつある。
他の施設とは違って、個室をキープすれば、家族であれば(私も)宿泊できるし、
食事も予約すれば、一緒に二人で食べられるという、他にはないサービスが魅力的だった。
仕事に復帰して、自宅と施設を併用しながら、父を介護していく方法もある・・・。
スタッフは、片手間に仕事をしているような立場の人は全くおらず、だいたいが若く、
活気ある人たちばかりだ。何よりもフットワークが良くて、明るいので好感が持てる。
もちろん、まだ正式な申込・契約はしていないが、心はかなり傾いてきている。

そういう背景があり、どうしても泣きながら出かける父を直視できなかったのだ。
父には何も伝えておらず、本人の意志確認もこれからである。
  私は、逃げていないか?
  責任を逃れようとしていないか?
  自分のやりたいことを優先しようとしていないか?
「責める」というよりも、自分の気持ちを確認するために問いかけていた質問だったが、
自分で自分に問いかけるたびに苦しくて、“複雑な心情”に耐えられなくなっていた。
だから、考えないようにしていた・・・というのが、正直なところでもあった。
このことを考え始めると、いつも、どんなときにも、
「なんだか、わからない複雑な気持ち」が・・・幾つも“ごちゃごちゃ”になって、
もっと「わけがわからない感情」に満たされてしまうのである。

今週の木曜日も、朝から「う~」としか声に出さず、身体も動かさなかった父が、
ヘルパーさんが来て、顔を見た瞬間に「もう、いうこときかんでなぁ」と声に出した。
そして、短時間の内に、父は自ら起き上がり、食卓まで歩いてくれた。
肉親である私には、“甘え”のようなものがあるのだろうか。
私の声がけでは、自発性も乏しくなるのだということを、まざまざと目の前にした。
「刺激」を与えられるのは、身近な肉親だけでは厳しいときもあるのだ。

知り合いもおらず、ただ部屋で寝ているだけでは「うつ」にもなりやすい。
身体の具合が悪くなればなるほど、気持ちは下降していくわけで、一般的に考えても、
一人で思い悩むのは、あまり良い結果にならないはずである。
しかし、一人でいると“思いつめてしまう”ものだし、それを避けるのは難しい・・・。
いつも、独りぼっちの父には、「私」しかいないのだから。
たとえアプローチを変えたとしても、私の声かけは、いつも「私」でしかない・・・。

私と、父のために、
双方のために良いことだと・・・思う気持ちはある。
しかし、入所したとしても、父が快適に暮らせる確証はない。
家族的な関係ができあがるかどうか・・・それに関しても、よくわからない。
また、同時に、経済的な不安(毎月の支払い額)や、自分自身の想いがサクレツして、
「本当にわけがわからない」感覚である。

もちろん、入所したとしたって、慣れなくて(なじめなくて)
在宅に戻ってくることも充分考えられることである。
しかし、現時点では、まず「慣れてもらう」ということを念頭に置いて、
私が父に“より優しく向き合える方法”と、私の“身体状況”と、心の限界を加味して、
「入所もある」という選択肢を“大きくかかげはじめた”・・・という感じだろうか。


「何が良いのか」なんて、現時点ではわからないが、
私がくだした決断(選択)は、「いつも私にとってはベストの選択だから」・・・
それを信じて、これからも考えていこうと思っている。
一番の問題は、私にとっては“ベストな選択”が、
「父にとってはどうだろうか」ということだけである。

今日の「ディサービス初日」の感想さえも、ちゃんと伝えてもらえないぐらいなのだから、
「グループホームの入所に関して、どうしたいか」・・・なんて、大きな判断に際して
父の意志反応を得られるのだろうか――。

確実性がないからこそ、一つ一つを、実際「実行していく」しかないようだ。
行動すれば、必ず「その反応が得られるはずである」。
それがたとえ遠回りになったとしても、問題がクリアになることには違いない。

   ・・・・なんて、“もんもん”と慮る夜。
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カゴの鳥

2006年03月09日 | 雑感 -
「カゴの鳥」みたい。

ずっと閉じ込められている。

このままだと、自分の意識はどうなってしまうのだろう。


     緊張の連鎖で、落ち着いて食事ができない。
     ゆったりと時間を使って、食卓に座ることもない。
     日頃のメニューは「みじん切り」ばかり(必須条件)だから、
     自分が食べたいものを食べられない・・・ことが多い。
     そして、“ゆとり”がない。
     自分の意識は、すべて自分以外のものに持っていかれて、
     “今、この瞬間”の感覚が、自分のものではない・・・。     
     そんな日々が多い。
     だから、稀にあることだけれど、
     たとえ「美味しいもの」を目の前にして、それを食しても、
     「美味しくないョ」・・・そう感じてしまうこともある。

     “メシは私の生きがいなのになぁ”



自分自身の内側にある“嫌な心模様”を思い知る。
理想とかけ離れた現実が、目の前にまざまざと現出して、
目を背けたい衝動にかられる。
だから、返って・・・優しくなれる・・・という側面もある。


     表裏一体。
     どちらも私。
     愛すべき私自身の本当の姿。


でも、時々思う。
「この心をどこかに寄りかからせ、しばし時間を忘れて過ごしてみたい」
そんな“まったりした空間”が、この心と身体を癒してくれるような気がする。


       ホント・・・

       金魚鉢のメダカみたい。

       セマイセカイニ、トジコメラレテイルカラ・・・。
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「春」

2006年03月08日 | 出来事 -

「春」を知らせる「ホーホケキョ!」

今朝は、今年初めての鳴き声で、目が覚めた・・・。

「いいなぁ」

「気持ちが癒されるなぁ」

ウグイスさんの姿を求めて、ぼぉ~っと窓の外に目をやると、
声のする方向には何も見えず、ただ大木のこずえだけが“どっしりと”・・・。

「ホーホケキョ」を聞きながら、とっても気分が良い。
昨夜、いつもよりも寝られたから―かもしれない。

「春」って、やっぱり良いなぁ。
イメージは、「芽吹き」&「ホープ」&「ほかほか・ぬくぬく・暖か」なんだよね。


     ★一足早く、「桜」をアップ。
      昨年撮影したものなれど、気持ちが良いのでキープしていたもの。

ウニ思考

2006年03月07日 | 介護日記 -
昨夜は、ほとんど寝られず・・・
その疲れが残って、頭の中が「うに」状態である。
とろりん~として、黄色く変色して、ぼぉ~~~っとしている。
こめかみの辺りがずっと重くて、身体がだるい。
それでも、パソコンに向かえば“お仕事”ができてしまうので、困ったものだ。
深煎りの珈琲と、甘めのお菓子(チョコレート)があれば、“できてしまう”。
つい集中して、お代わり珈琲を求めて階下に降りたら、父がトイレに座っていた。
「あぁ~、一人で座れたんだ」
「さすが、昨日の足の注射がきいているな」
そう思った私は、安心して、そのまま階上へ・・・。

    ――「でも、安心しちゃいけないんだよ、どんなときにも!」――

しばらく集中して仕事に向かったあと、
音がしないので、階下に降りていったら、
父がトイレ前で倒れていた。
動けなくなってしまったようだ。
 (当然、トイレにも壮絶な後が・・・)

頭は打っていなかったが、私はその光景がショックで・・・
胸が締め付けられてしまった。
かなり長い間、倒れていたようなんだけれど、声を出さなかったんだよね。
だから、私も気がつかなかった。
昨夜は“ヘルプ声の嵐”で、私もほとんど寝ていなかったから・・・気を遣ったのか、
それとも自分自身に余力が残っていなかったのか・・・。

     ――「助けを呼べば、いいじゃないかぁ!」――

        せつないよね。

        助けを呼ぶ認知能力もなくなったのだろうか。


いつものように、どっぶりと落ち込み、何度も涙を流す父を、真顔で見ていられなかった。
私も、疲れているから、つい泣き虫になりそうになる。
勇気付けながら、私も落ち込んでいく感覚を味わって、つい「感情制御ボタン」を押した。


一昨日のことだ。
整形外科に出かける直前に、また衣服を汚してしまい、着替えを取りに走りながら、
膝小僧をイスの角にぶつけてしまった。
それは、飛びあがってしまうくらいのスゴイ痛みだった。
「ぎゃー」と声が出たけれど・・・
もだえ苦しむ私に気がつかず、ただ無表情で、私を待つ「父」を横目に・・・
私は「しゃんとしなきゃ!私がキチンとしないと誰が世話するんだよ~」と(  )。
なんだか、無常な父の姿が、とても切なくて仕方がなかった。

あんなに嫌いだった「父」のことが、今こうして特別な存在に見えてしまっていることが、
不思議でもあり、当然のことでもあり・・・。
人間の「ココロ」は、傍若無人だ。

「人を受容するということ」は、かなりの時間と、かなりの経緯が必要なのだと感じる。
そして、何よりも「かなりの自己受容が必要なんだ」と、しみじみと思う。

今、感じていることをキャッチしようとしても、“無理~”!
「うに」だから。
ぐちゃぐちゃだから。
とろとろで、黄色いから・・・。

「無理だぁ」…と白旗!

今日は、頭も感情も、すべて「お休み」。




何から何まで

2006年03月05日 | 介護日記 -
「あいすまんなぁ、何から何までお世話になって・・・」
最近、父は、この言葉を何度も繰り返すようになった。

本当に、その言葉通り、“何から何まで”介助しなければならなくなった。
衣服の着脱はもちろん、歩行も手をつないで助け、トイレに入るときも随分と時間を
かけて手伝わなければならなくなった。
今は“やりたいようにやらせてあげている”から、今日トイレマットは4回洗濯した(笑)。

さっきも、自分の尿意のために階下に降りてきたら、寝ていたはずの父が起き上がって
目線はトイレの方向に向いていた。
すでに立ち上がっていたので、私はそれから25分間は「我慢の子」になるしかなく、
まさに“健康を害するちょっと手前”である。

父の脳細胞は、人が人としてフツーにしている(指令を出している)ことが、
認知・判断できなくなりつつある。
足を交差したまま、立ち上がろうとしたり・・・
手をかけているのを忘れて、ボウダチになったり・・・
私が言っていることも瞬間的には理解できないようで・・・
・・・だから、何でもかんでも“時間がかかる”。

相変わらず深夜作業は二度三度、四度のこともあり、私はへろへろになりながら息してる。
父の「うつ状態」も変わらずで、よく泣き、よく落ち込む。

私は、父の耳元で大きな声で叫ぶ。
頭がキンキンするぐらいまで叫び通す。
なにかが・・・プチッときれそうな感じがするぐらいだ。
そして、同じ言葉を何度も何度も繰り返す。
飽きるぐらい繰り返さないと、「こくっ」とうなずいてくれない。

本当に、厳しい状態にさしかかってきた。

それでも、父にしてみれば、「世話をかけている」という事実は認識できるようで、
そのことが何よりも“ストレスをかけている”ようにも思われる。

「よし、寝たな」と思い、すぐお風呂に入ったら、
“とんでもないこと”になっていたりして・・・そういうことが日々続くために、
私の生活には「ゆったりとした時間」というものが皆無になってしまった。
“皆無になった”といえば、我が家からは「音」が消えた・・・。
完全に無音状態になってしまっている。
心地の良い音楽をかけたい気分だが、父の気配を感じるためには無音が一番!
動物的なカンが働いて、「おや?」と思ったら、やっぱり「おや!」だったりする。

緊張している自分自身は、そう嫌いではないけれど・・・
それが張りつめた状態で続くのは快適ではない。
しかし、それをコントロールすることなどできない“過酷な状況”のために、
やはり“私には自由がない”。
何から何まで、注意を払い、気を遣い、手をかけて介助しなければならないから―。

最近の楽しみ(マイブーム)は、父のおでこのテッペンのつむじを触ること。
数日前に髪を切ってから、まるで「キューピーさん」みたいなヘアスタイルになっている。
なんとも笑いを誘う“愛くるしさ”である。

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割安感

2006年03月03日 | 食事 -
ベーコンをブロックで買った。
ぺらぺらの“スーパーで売っているベーコン”に慣れていた私にとって、
「ブロック」っていうのは勇気がいることだった。
「ベーコンに、こんな大金を支払うなんて!そんなことできない」と感じてしまい、
値段の数字がぐるぐる頭をまわった・・・。
しかし、だからこそ「どんなものなのか」体験したくなってしまった。
以前、銀座のデパートで、「手づくりベーコン(生でご試食ください)」を食べてから、
心が踊って、つい買ってしまった経験が戻ってきて・・・
未知の領域に、足を踏み入れる感覚だった(ちょいと大げさですがぁ)。

それで、ついに・・・ブロックでベーコンを買う決心をしてしまったのだ。

  食した感想と言えば、

  「最高!」

たとえ同じベーコンでも、厚みが違えば「味わい」は違ってくる。
肉厚に切り分けて、卵と一緒に「じゅ~~」と焼けば、なんともまぁ・・・たまらない。

結局、スーパーのぺらぺらベーコンは「割り高だった」ことも知り、
新たな発見ばかりだった。

  ブタさん、万歳!

「ケチクサイ私にも、サヨナラしたいなぁ」と感慨を深めたベーコン体験だった。
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男性ヘルパーさん

2006年03月02日 | 介護日記 -
初体験!
男性の「ヘルパーさん」です。

身体は大きくはないけれど、気配りのきく方でした。
定年退職してからなのか、それより少し前なのか・・・
年齢は(若くみても)50代半ばだと思いました。

昨夜も、とても大変で・・・全く手伝ってくれない脱力した身体を、
「うんこら!」と押し上げ、着替えをさせました。
ベッドに寝たままで、シーツを交換したのも初めてでしたが、なんとか成功!
やはり母を介護した経験が、まるで(ヘルパー資格を持っているかのような)知識を、
自然と与えてくれていたようで・・・とてもありがたかったです。
しかし、この“心もとない体力”だけは「どうしようもない」。

今朝は、全く動かない、目も醒めない、何を言っても理解できない・・・という状態。
1時間半をかけて、お湯に通したタオルで顔と身体をあたためました。
やっと現世に戻ってきてくれた頃に、男性ヘルパーさん登場!

一人ではどうしようもできなかった身体が、ひょいと持ち上がります。
「ラクチンだぁ」
「昨夜と比べて、全然ラクだぁ~~」
すごくシアワセな気分に浸りました。

いつも、いつも、感じていることで、どうしようもないこと――。
「一人で介護する大変さ」
このことが、ものすごく現実的に迫ってきました。

  男性独自の視点・・・その人だけの視点かもしれないけれど・・・
  そういうものに触れるのも、ちょっと「可笑しい」もので、
   (台所の流しの蓋に興味シンシンで、すごく反応していました)
  男性ヘルパーさんも“なかなかいいなぁ”と思いました。
  家計のためだけなのか、心在らずでヘルパーケアをしている熟女性も多い中で、
  現実的ではない男性独特の“あたたかさ”が、とてもよかったです。
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大丈夫!

2006年03月01日 | 雑感 -
父の落ち込みは変わらない。
よく泣く。

「なかなか死ねん」と呟く。

毎度のことながら、深夜に起こされて、身体介助をしてあげると、
「もったいない」「よう世話してもろた・・・」と繰り返す。
再び泣いて、100%果実ジュースを飲み干した後は、ぐっすりと寝付いてくれる。

昨年の攻撃的な精神性から一変して、かなり弱気ーそして、気弱―(一緒かぁ!)。
田舎に帰省した年末年始の「寝たきり生活」や「日々の思うようにならない身体状態」が
おそらく父の精神状態に変化を与えてしまったのかもしれない。


「あかちゃんみたいになってしまった・・・」
最近、そういう感想を頻繁に抱くようになった。
頭や胸、肩、背中などをなで擦りながら、「大丈夫だから」と繰り返すと落ち着いてくる。
今や、「大丈夫」という言葉は、私の口癖になっていて、一日に何遍となく声に出す。
また、痛い左足にシップをはって、ゆっくりと擦るのも、意外と効果的である。
  
 昔の母親がやっていた「痛いの、痛いの、飛んでいけ~~」ってやつを想起しながら、
 日々、父の身体を擦り続けている。

今日の父は、初めて私の言葉を“反すう”するように、「だいじょうぶ」と声に出した。
その言葉を聞いて、ちょっと胸に迫るものがあり、なんとなく“ぐぐっ”ときてしまった。
父の口から、この言葉を聞いたのは「初めて」のことだったから。
なんでもないことなのに、自分の奥底から噴出する想いみたいなものが・・・。

・・・ホント、予期せぬことも多い。
そりゃ、そうだよね。
人間の心なんて、そういうものだろう。

最近は、特に・・・“放し飼い状態”の「牛」みたいにしているから・・・
私の「ココロ」が何処へ行ってしまうのか、全く検討がつかないし、
予定調和でまとめたり、無理に制御してコントロールしたりもしていない。
だから余計に、「牛」みたいに“突然の暴走”に遭遇するときもあるし、
石を投げても振り向かないド~ンとした“微動だにしない安定感”を感じるときもある。


徐々に、生活の意識は固まっている・・・。
それは、日々同じようなサイクルで続けていくことが、そういう意識の変容を生んでいる
―と思う。
身体の疲れや、精神の不安(焦燥感)は拭い取れないが・・・
少しずつ「ココロ」は落ち着いてきたような感覚がしている。
辛いけれど、変わらず哀しいけれど・・・
私の心は暴れまくるけれど・・・
日々の慣れと、押し迫ってくる労働が、そういう苦しみを忘れさせてくれるときがある。

生きるためには、前をむかなければならないし、
生き抜くためには、前に進まなければならない。
決して、自分が望んでいることではないけれど・・・
 (今は、無理して進むよりも、ゆっくり留まりたい気分が多いんだもん)
でも、「どちらをとるのか?」という自問自答には、選択しなければならないから―。
だから、「前を向いて、生きていく」ことにした。
これまでもそうだったし、これからもそうだ。
私の人生も生活も、“私のためにある”はずだから・・・
あきらめちゃいけない。
何より、自分が輝いていないと・・・「自分じゃない」から。
制約があっても、その範疇で「自分を“つらぬいていこう”」と思う。
本当に、そう思う。

きっと、「大丈夫!」。
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