薬の「使用期限」

2010年07月31日 | 社会 -

多忙になってくると、「親知らず」が炎症を起こして、痛み出す。
今春、数十年のサイクルに終止符をうつために、抜歯予約をしていたのだけれど、
ギリギリのところで、仕事のため調整つかず、予約を流してしまった。
(今年中に、抜歯したいものだが、あれ以来、歯医者に行っていない―)

このところの多忙&過剰労働が影響したのか・・・2日ほど前から・・・・
また「親知らず」が、じくじくと痛み出したので、いつものように薬をもらいに行って、
痛み止めと炎症止めの錠剤を飲んでいる。
以前にもらっていた薬があったので、念のため聞いたのだけれど、驚くべき返事が、
返ってきたのである。


今日、父の主治医(開業医)のところで、おそろしいことを聞いた。
薬の使用期限についてである。
「2年前に処方していただいた同じ薬があるので、飲んでもいいですよね?
 でも、薬って、フツーは2~3年の内にじゃないとダメですよね?
 成分が変わったりして、よくないから捨てたほうがよいんですよね?」
「今は、わからないよ。
 一年以内は心配ないんだけれどもね・・・」
「それって?
 どういうことですか?」
「スーパーの鮮魚と同じだよ。いつ入荷したのかが明確になっていないから、
 処方箋を医者でもらって、薬を買った日と、その薬が製造された日は別だからね」
「ということは、お医者さんでもらった薬には、使用期限が書かれていない・・・・」
「そういうことだよ」


処方箋を頂いて、薬局を選ぶときは、回転率の早そうな繁盛している場所を選ぶのが、
よさそうである。 スーパーと同じである。先生から、そうアドバイスを受けた。
スーパーだって、八百屋さんだって、売り切るのに必死なのは判るが・・・・
最近は、賞味期限や消費期限の表示を誤る“悪質で違法な行為”も見受けられる。
知人が(私が小さい頃に)スーパーのパートをやっていたので、聞いたところによると、
そういう日付の変更は、日常茶飯事だったようだ。
何の悪意もなく、当然のように、なされていた・・・と言っていた。

薬も同様で、買ったとき以前に、いつ入荷したのかが実証されない現状では・・・・
薬は特に「一年以内に飲んでしまったほうが良い」ということのようだ。



自分の身体は、かわいいものである。
大切にしたいものだ。 
異常に成分変化した自然以外の科学的なものは、自分の身体から排除したいものだ。

飲み薬、塗り薬はもちろんだが、香水や化粧品なども、3年が目安と聞く・・・。
昔のパッケージは、どんどん(思い切って)「棄ててしまおう」と思う。

それから、服や、資料の紙切れ、雑誌など・・・・
あまりにも、多くの荷物が増えすぎてしまった。
長年にいたる怠慢か、それとも思い出の断片か・・・。
そろそろ「整理する時期が来たのかもしれない」と、思い知らされる。
気持ちが身軽になって、身辺も軽量な状態にしたいものだ。

これからは、高い化粧品から、使っていこう。
使わずに、1年がたってしまった口紅を見ながら、そう感じた。


Youtube 動画の時間

2010年07月30日 | 出来事 -

本日のニュースで、「You tube」の動画時間が、10分から15分に変わるという
ものを読んだ。  どうしても「おやっ!」と、立ち止まる。

今でも、ネットユーザーにとっては、自分の動画作品を世界中の人に観てもらえる・・・
ある意味では「自分が中核となれる」チャンスを与えられていることになる。

10分でも、充分伝えられることは多いが・・・・
15分になれば、また編集のやり方次第では、ショートフィルムにも近いイメージで、
構想&制作が可能になってくる。

クリエイターの観点からは、多少枠が広がって、面白くなってきたような気がする。
知識のないユーザーの立場になってみると、著作権侵害がすすむようにも感じるし・・・
要は、ユーザーの使い方如何によって、どのような結果も成果も得られるような気がする。


これまでにもあったことだが、何気ない家族フィルムや、ペット動画が、海を越えて、
多くの人々に観て頂けるのは、昔の環境で考えると “驚きの感覚”である。
また、不可思議な技をアップしたことで、CM出演が決定したり、TV番組に出演したり、
Youtube なりの効果は、皆が認めるところとなっている。

カウント数や、コメントが気になるところでもあるが・・・・
(やはり注目されているかどうか、世評の流れや好みが反映されるので、興味は尽きない)

一方で・・・無神経な動画や、違法的な動画アップが、止らないのも事実としてある。
インターネットの世界は、基本的には、フリーユースが常であるのに、
ユーザーの自覚の無さで、著作権侵害だけは侵してほしくないものである。

しかし・・・・
最近は、宣伝のためなのか、著作権が微妙なのか・・・わからない動画も増えてきた。
昔のように、観れば・・・「やばい!」と思う動画でも、著作権所有元が広告費収入や
宣伝を理由に許可している場合もあるからだ。


ネット世界の通例や、慣例、法令などは、まだまだ明確ではない。
だからこそ、これからのツールであるのだとも思う。
まだまだ変化しそうな予感をはらんでいる・・・。


蚊一匹の「命」

2010年07月30日 | ナンセンス -

この2~3日、我が部屋に「特大サイズの蚊」が入り込んでいる。

そして、夜になると、私の自由な空間に、存在を誇示してくる。

昔なら、ぺシャン!と、両手でたたいたり、薬品スプレーを吹きかけていたのに・・・
その「命」を奪いたくなくて・・・・わずかな時間でも、生を全うしてほしくて・・・
そのままにしていた。

そうしたら、私の身体のいたるところに、針をさしてきた。

「ぶぅ~ん、びぅ~ん」

その「蚊」は・・・私の周りを、何度も飛び回りながら、自己主張しながら・・・





結局、(かゆくても) 人前では かけない場所にも、針を刺されてしまった。

かゆくて、かゆくて・・・・たまらない。

でも、かけない。

手で触ると、ぷっくりと膨らんできた。

あぁ~切ない。


渡辺謙さんの存在感

2010年07月29日 | 人物 -

久しぶりに、映画を観た。
「This is It」が鮮烈で、その後の鑑賞作品は覚えていない。
「沈まぬ太陽」も同時期だったが、おそらく数ヶ月ぶりに映画館に行ったのは確実だ。
昔は、毎週のように頻繁に出かけていたのに、その時間が持てず・・・・
気力もおいてきぼりで・・・・実際は、かなりご無沙汰していた。

今回、久しぶりに観た映画は、「渡辺謙さん」の出演している「インセプション」だ。
彼の出演している作品は、(100%とは言えないが)ほとんど観ていると思う。
映画「タンポポ」の時代から、大河ドラマに至るまで、昔から欠かしたことがない。
今回の「インセプション」は前評判が思わせぶりで、期待をそそるような宣伝だったし、
映画のストーリーそのものにも期待したというのが、映画館に足を向けた理由だった。
正直、世界中が注目しているノーラン監督の作品は、ちょっとばかり興味深い。

共演者の名前を見ると、主演の「ディカプリオ」の他に、「エレン・ペイジ」。
あやぁ~ロンドンのミュージカル舞台のスターじゃん。
ウェストエンドに通って、エレンペイジの舞台を、何度も観た経験があるので、
ちょっと心がときめいた。懐かしい~~と。
「楽しみ~」と思っていたら、実は・・・23歳のカナダ出身の新進女優だった。
同姓同名だ。(まぁ、どうでもいいかぁ)



本論に戻そう。「インセプション」を観た後に、感じたことは・・・・
渡辺謙さんは、「素晴しい ハリウッドスターになったなぁ~」という印象が一番だった。
非常に、個性的、かつ、印象的で、映画の雰囲気を壊すことなく「役」に徹していた。

映画「インセプション」の内容は、とても込み入った内容で、ネタばらしはよくないので、
其々にご判断いただくとして・・・・・
映画の中心地(ハリウッド)から、こうして、作品への出演オファーが続くこと事態、
渡辺謙さんの演技力や、俳優としての資質、人間力(チームワークが大切だから)を、
まさにハリウッドは認めたということに他ならない。

たとえ、プレミアの時に(PR用に)誉められたとしても、数年の間にわたって、
現実に(海を越えた業界から)出演依頼が続くことが、何よりも素晴しいことだ。
それもマイナーではなく、メジャー映画ばかりで、第一線のスタッフとのタッグである。
これは、日本の規格を飛び出していって、世界をまたにかけて活躍している顕著な例だ。
俳優としては、本当に珍しいケースで、年を経ても尚、出演作品が続いていくというのは、
彼の総合的な「人間としての存在感」が素晴しいからだと思う。
感受性が豊かで、芯が通っていて、そして、優しい気配りができる人・・・・。
また、作品の「役」ごとに、変化するキャラクター表現 (読解力と演技力)・・・・。

大変な現場(撮影の日々)であればあるほど、人としての係わり合いが大切になる。
そして、同時に、その “人間力” は演技にも反映される。
演技をみれば、あるいは発言を聴けば、その “人となり” が、理解できるものである。

だから、「渡辺謙さんは、凄いのだ」 と・・・リアルに、思うのだ。



それから、私事ながら・・・・・
「映画鑑賞は、やっぱり面白いものだ」と、再び痛感!
まずは、何も考えなければ、気分転換ができる。
(字幕を見なければ)英語のヒアリングレッスンにもなるので、
時々は映画館に通うことにしよう――なんてことも、なんとなく感じた。


炎天下のお墓参り

2010年07月28日 | 自分 -

来月4日には、我が師のような人の七回忌を迎える。
かねてから、いつか(密かに)お墓参りをさせて頂こうと考えていた。

今日、たまたま菩提寺のある「麻布十番」に、仕事で行く機会があったので、
大きなお花を買って、早速、お寺を訪ねた。

私にとっては、そこへは、初めてのお墓参りである。

古くからあるお寺さんのようで、お墓の年数を見ても、歴史が感じられた。
このお寺は、鍋島家の菩提寺。
昭和11年の2・26事件の関係者22名の墓も、ここにあるそうである。



炎天下の中、まだ見ぬお墓を探して、まるで迷路のように墓地を歩き回った。
「見つけさせてください。呼んで下さいよ」と念じながら、歩いたが・・・
汗が飛び出してくるほどの迷路のような構図になっていて、私が落胆したとき、
す~っと(不思議と)見つかった。
ご家族は、数日前の週末に七回忌法要を終えられたようで、新しい卒塔婆が
たくさんあって、戒名もその人の下の名前がそのまま使われていたので、
すぐにわかった。

大好きな煙草が供えられていて、燃えかすのフィルターだけが残っていた。
炎天下なので、花をさしていた水も干上がっていて、まるで「ぬるま湯」状態だ。


私は、仏式花ではなくて、生前のようなイメージで、煌びやかな洋花を持って行った。
それも桃色(ピンク)の大きな花で、喜んでくれるかどうかわからなかったが、
ほんの数日でも、華やかな環境で過ごしてほしかったから・・・・。
お墓をなでたりして、ひとしきり独りで過ごしたが、何のメッセージも届いてこない。
自分の中にも、少し目頭が熱くなるぐらいで、楽しい思い出だけが駆けめぐるだけだった。



お墓参りの後処理を追えて、暑い中、とぼとぼと帰路についていたところ・・・
寺の鐘の下に座っていた、見知らぬ若者に、突然、会釈をされた。
「来てくれてありがとう」と言われたような気持ちが、なんとなくして・・・・
勝手に・・・そんな気がして・・・・ちょっと涙があふれてきた。
もう少し墓前でいたかったのと、ゆっくりと落ち着いて語れなかったのが心残りで、
そういう気持ちもあってか、複雑な感情が湧いてきたのだろう。

もう七回忌か・・・・。
私の母が十三回忌になるはずだ。


時の過ぎ行くのは、本当に早い。
大切にしないと、あっという間に、人生なんて終わってしまいそうな気がした。
今度は、迷うことも無いので、ゆっくりと時間をつくってお参りに行こうと思う。


匿名性の脅威

2010年07月27日 | 社会 -

今日、2008年の世の中を震撼させた「秋葉原の無差別殺人」の裁判があり、
27歳の犯人は(自分で)殺人の理由を語ったそうだ。
たった2分で、ナイフにより襲いかかった、17人死亡 & 10人の重軽傷という大事件!

2年前の事件当時は・・・また、忙しくしていた頃で、仕事場が秋葉原にもあり、
度肝を抜かれた事件だった。
スタッフと連絡を取り合い、状況確認に走ったのを覚えている。

「誰でもよかった。殺したかった」という棄て台詞が衝撃的で、犯人はどのような思考を
していて、どのような要因があって、行動にいたったのか、当時は理解ができなかった。


しかし、無差別殺人は、この10年にわたって、急に増えている無常な事件だ。
それも世界的に広がっている傾向がある。
日本では、10年間で約75件ぐらい発生しており、今年になっても5件はあるらしい。
あの秋葉原の事件の3ヶ月前にも、似たような事件があり、その犯人もまた、同様に
事件後には「誰でもよかった。殺してやりたかった」と発言している。



今回の裁判で、犯人が語った理由としては、反省していると発言した後に、理由として
「自分のものの考え方」「掲示板への依存性」「掲示板のいやがらせ」をあげたと言う。
一番の原因は、自分の考え方で、母親との関係から「言いたいことが言えない人格」に
なってしまったことをあげた。
それには、「生い立ちも影響を受けている」ということで、子供のときに、
母親から受けた「虐待 (のような育て方?)」を 訴えたようだ。

そういう「育てられ方」を受けた経験によって、大人になってからも、
「何かがあると、行動で示してアピールする癖がついた」ということらしい。
おそらく周囲との摩擦や軋轢(あつれき)、衝突などがあったことは想像できる。

そうして、秋葉原事件の犯人は、仕事をやめて、インターネット世界に依存していく。
彼にとっては、「唯一、自己表現できる世界がネット世界だった」のである。



突発的な事件の引き金は、ネット世界での「いやがらせ」だったようだ。

インターネット書き込みサイトに頻繁に見受けられる現象・・・・
俗に言う「なりすまし」や「攻撃」、「いじめ」「嫌がらせ」だと言う。

これは、まさに「ネット世界」と言っても、一部の匿名性のインターネットサイトの
書き込みによる “人間関係” と “感情のやり取り” のことだと思われる。

このようなネットサイトの「匿名性」というのは、恐ろしい暴走を引き起こす。
誰がやっているかわからないので、知らないふりもできる。
名前も顔も住所も不明のため、どんなひどいことをしたとしても、自分が攻撃されない。
第三者になりすまして他人を攻撃すれば、ただサイトは荒れるばかりである。
嫌な言葉や、いじめのような言葉を書き連ねても、罰されることもない。
攻撃された感情は、ドロドロになるし、注意すればするほど 逆なでされるのだ。
安易で、責任のない発言が公になり、ネットでの諍いは どんどんと エスカレートする。
人格を否定されたと感じる人がいたり、存在そのものを疎外されたと感じる人もいる。
匿名であるからこそ、このような積み重なった “やり取り” が、絶えることはない。
もちろん、現在も、どこかのサイトでは、こういうことが起こっていることだろう。


お互いの存在価値を尊重し、自己責任でやることは、社会人として当然のことだ。
しかし、それが・・・正当な仕組みとして、成り立っていないネットサイトもある。
そして、そういうサイトに依存していく人が多いのも事実だろう。

当然のことながら、基本的に「他人に責任を押し付けるのは、良くない」ことである。
しかし、人がインターネットのバーチャルな世界に埋没した時、見失うものがあると思う。
感覚も、判断能力も、麻痺しているとしか思えない状況・・・。
尋常ではない感情や反応、行為に走る人もいるのではないだろうか。
おそらく、コミュニケーションではなく、一方的なやりとりだからこそ、そして、
顔が見えない透明人間を相手にしているからこそ、感情は拡大されていくのだろう。
まるで、モンスターを相手にしているような疎外感と絶望感がありそうだ。


児童虐待、いじめ、無差別殺人、薬物依存症・・・・
この現代社会には、止められない、しかし、どうしても止めたい たくさんの事件がある。
その一つ、一つを、ひも解きながら、考えていきたい。
そして、何よりも、今こそ・・・・止める方法を皆で考えられれば何よりだ。
現実的な対策方法が、必ずあるはずなのだ。
人事にはできない時代に、なってきてしまった。
まずは、それを、みんなが自覚するところから、始めなくては・・・・・。


親や、学校、生活している環境(コミュニティ)が、あらゆる意味で、相対的に
根本的に変わっていかないと、このような事件はなくならないように思う。

一方的なツールとしてのインターネットであれば、使わない方が人間的である。
人は、「人と、接することによって、学びを重ねて、大人になっていく」のだ。
ゲームや、ネットサイトだけで生きていては、現実から逃避しているだけにしかならない。
そういう状況に陥りそうになったときこそ、周囲の人間の快い援助が必要なのだと・・・
心から思う。


「落雷」で電車止る!

2010年07月26日 | 環境 -

ドーっと、疲れた一日。

ため息が出る。

絶え間なく、「どどっ!」と仕事をした。
急に、ザザーっと、雨が降ってきたので、傘のない私は、すぐ会社を飛び出した。
千代田線に乗り込もうとしたら、「落雷で、信号が不備になり、ダイヤが乱れ、
電車は止っていて、復旧には1~2時間はかかるかも・・・」とのこと。

「まいったなぁ~」

新宿に行って、とりあえず映画でも観るか・・・と、新宿駅に降り立つ。
念のため、小田急線を確認したら、「動いていますよ~~」
「こりゃ、しめた! ラッキー!」と思い、電車に飛び乗ってからが、長いし、暑い。

コミコミで、混みまくって、とても息苦しかった。
私よりずっと長い間、足止めされていた人々が、ため息をつきながら、車内で耐えていた。
隣の小学生の男の子が(つぶされないか)心配で、頻繁に下を見ながら、チェック!

やっとの思いで、帰宅したら、また仕事メールが、四通届いていた。


私に、今・・・自由は無いのだ。

冷蔵庫の「スイカ」しか、私のモチベーションをあげるものが無い。

明日も雨なのか?と不安がよぎる。・・・・しかし、落雷とは、たまげたものだ!
ここは、どこなのかと、異常気象もここまで来ると心配になってくる。
ゲリラ豪雨、たつ巻、異常なる猛暑、そして、落雷・・・・。
8月上旬も、このような猛暑が続くということらしい。

自然現象を操作することはできないだけに、
ある意味では自分で守ることしかできない。

だんだん、脳みそが、どろどろになってきそうだ。
もう少しだから、頑張って、乗り越えようぞえ!!



「スイカ」 到着!

2010年07月25日 | 食事 -

明日に向けて、書類を午前中から作成中・・・・飽きた頃に、宅急便のおじさん来訪!
「重いから気をつけてくださいね」と言われた。

宅急便と言うのは、早いなぁ。
たった一日だ。

スイカ・・・四国より、バカデカイのが「2個」到着。
色も違うから、種類が違うのだろうか。

箱から出す時、落とすのではないかと心配したぐらいの大きさだった。
本当に、重い。 たった1個が、すごく重い!

即座にカット。冷蔵庫にしまう。
我慢ならずに、冷凍庫にしまう。
そして、我がポンポンへ・・・。

昼食は、スイカと言わんばかりの量を、バカ食い!

「しあわせだぁ~」
「やっぱり、甘くて、美味しい」

まだ、ポンポンが、スイカだらけ。
今夜、何度かはトイレのために起きなければならないだろう。
それぐらいは、どうってことない。


夏の醍醐味は「スイカ」

2010年07月24日 | 食事 -

我が叔母の家は、豪農である。
立派な家に、びっくりするぐらいの納屋が、いくつか建っている。
そして、また、また、驚愕の大きさのトラクターが、何台も並んでいる。


その家の「スイカ」は、絶品だ。
85歳になろうとするおじいちゃんの秘策(スイカの育て方)が、素晴しいのだ。
今年も、隣・近所の農家は、長雨の余波を受けて、ほとんどが甘く実らなかったらしいが、
叔母の家のスイカは、安泰だったらしい。 今年も、見事なスイカが収穫されたと言う。
売っても、タイマイキンがゲットできるぐらいの美味しさだ。
しかし、叔母の家では、夏のスイカは「水がわり」だから、決して売らない。
お客さんが来るたびに、一個割り、お土産に持たせ・・・・そういう具合なのだ。
それに、3畳ほどの冷蔵庫があるので、どんなに たくさんのスイカも保存が可能である。


その美味しい(甘い)スイカを、私は・・・・子どもの頃から食べていたので、
正直なところ、スーパーの 水っぽいスイカに、お金を払いたくない。
しかし、食べたくて、どうしても我慢ならないときだけ、(スイカを)買ってしまう。
・・・・そして、いつも・・・その不味さに、やっぱり後悔する!
どうしても、叔母さん宅のスイカと、比べてしまうのだ。



叔母は、私のために、定期的に、お米や野菜を送ってくれるが・・・・
今年は帰省時期がずれて、スイカが食べられないので、今日「お願いコール」をした。
「お米は、もういいから、スイカを お願い~!」
叔母の元気な声を聞きながら、すでに「舌鼓を打っている私が・・・目に浮かぶ」。

あぁ~、スイカよ。 君は、何故にそんなに美味しいのか。

夏の暑い盛りにこそ、光輝くスイカよ。 
君は、私のポンポンの中におさまると、とっても幸せではないだろうか。


はやく、来い、来い~! 「待ち遠しい」とは、こういうことを言うのだろう。



高齢者の寂しさ

2010年07月23日 | 自分 -

両親と仲が良かったおばあさん(70歳すぎ)から、また電話があった。
もちろん、四国から連絡をしてくれたのだが、突然でびっくりしてしまった。
最後の電話からは、久しぶりで・・・・ご主人のお香典を送ってから、電話をいただく
ようになった人である。

以前より、体調がすぐれないのか、「不安感」を前面に押し出した気持ちが伝わり、
私は、とても複雑な気持ちになってしまった。
足を手術してから「歩けなくなった」と、淋しそうに語りはじめて・・・・・それが、
止まることを知らないぐらいに語ってくれた。
昼間は、一人家でこもりっきりになってしまい、外にも出なくなったらしい。
家族には、言えない愚痴のような、不安感のような、どうしようもない複雑な気持ちが、
あふれでていた。


夜中の22:30に鳴った、私の携帯電話。
70歳過ぎの高齢者が、愚痴などをこぼすには、あまりにも遅い時間だとも感じたが、
言葉は途切れることなく、続いていった・・・。


介護をしてきたご主人を近年亡くされ、ぽっかりと穴があいたようになったのか、
非常に「寂しい気持ち」が迫ってきて、私も かける言葉を選びながら話を聴いた。


私の子どもの頃しかお付き合いのない人だから、私にとっては現実性がないが、
両親の仲が良かった人たちなので、その話は「我が家族の財産(歴史)」でもある。
聴いたことのない昔の私のエピソードが、突然、飛び出してきたりして・・・・
私にとっては、新鮮な話題も多かった。

それに、スタンスが違えば、より客観的に「高齢者の寂しさ」にも対応ができるものだ。



しかし、母の法要を控えているからこそ、母の話をされると胸に迫るものがあった。
「おかあさんは、ほんまに ええ人じゃったわぁ」
くしくも、本日、仕事の都合で、帰省(母の法要)を九月に延ばした決断をしたので、
余計にしみじみとしてしまった。



学がなくても・・・・ 地位(肩書き)がなくても・・・・ たとえ貧乏でも・・・・
たくさんの人に愛され、そして、頼られて、気持ちよく可愛がっていただいていた母は、
すごく魅力的な人だったのだと・・・私は心から尊敬している。
ごくフツーのおばちゃんだったのにネ。
母を誇りに思うし、母の子供であることに感謝しつつ・・・・
あらためて天空に呼びかけたい。
「お母さん、苦労しながら、私を産んでくれて、本当にありがとう!」
「お母さん、これからも、私が道にそれないように ちゃんと見守っていてね」・・・と。



「大暑」の今日

2010年07月23日 | 環境 -

暑い日々が続く。 

猛暑だ。

今日は、一年でもっとも暑いといわれる日―「大暑」である。

陽射しも、温度も、息苦しくなるようだ。
そして、熱帯地方のように、夜はスコールのような雨が、ザザーッと激しく降る。

昼間、少しの間だけだと思って・・・道を歩いていると、くらぁ~とする時がある。
「ホント、暑すぎるぞ~!」
「うだるような暑さとは、このことか!!」
実際、私は、干上がってしまいつつある。
そして、営業の外回りの人たちは、どうしているのだろうと心配になる。
全国的にも、熱中症で、病院にかなりの人数が運ばれて、死者も出ているぐらいだ。
水難事故も増えて、この異常気象の影響が、至る場所から聞こえてくる。
これから、この「気象の変化は、年を経るほどに、シリアスになっていく」ように思う。


大都会のど真中では、こういう感覚が顕著である。
アスファルトの過激な温度の後には、コンビニの冷房が肌に突き刺さるようになった。
一瞬の心地よさとともに、だるい感覚を伴うのは、まだ身体が適応していないからだろう。
昼夜の温度差が、美味しく甘い果実をつくると(明るく)想像しても、だるさは消えない。
やはり、20年後ぐらいには、「温帯」ではなく「熱帯」地域になってしまうのか。



最近、恐ろしいニュースを耳にした。
フグと同じ猛毒を持ち、かまれると死に至ることもある「ヒョウモンダコ」(たこ)が、
九州北部で相次いで見つかっているらしいのだ。
この「たこ」は、10センチぐらいの大きさで、熱帯・亜熱帯海域が本来の生息地だが、
専門家は温暖化による海水温の上昇で生息域が北上していると指摘している。
海水浴シーズン真っ盛りである。
福岡県などは「海で見つけても絶対に素手で触らないように」と注意を呼び掛けている。


こうして、本来の生態系が崩れていき、本来の自然環境の変化を余儀なくされる。
考えてみれば、人間は・・・地球に対して何をしてきたのか。
その代償を、これから次世代の人々だけが支払うことのないように、できることから
やっていこうと思うし、やっている人々に対して心から敬意を払いたい。
言うだけではなく、本当に「できることから、やっていこう」と改めて思い知らされる。
そういう決意を呼び起こす「暑さ&猛暑」だ。


つかこうへいさんの訃報

2010年07月22日 | 人物 -

最近、演劇界を牽引してきた脚本家や演出家の訃報が続いている。
つかこうへいさん、井上ひさしさん・・・。
熱狂的に観劇していた頃の「彼らの活動は、私の楽しみだった」。
特に、つかさんに関しては、かなり影響を受けたと思う。
他にも好きな脚本家&演出家はいるけれども、つかこうへいさんの演劇は、
どの作品も素晴しかったと、今、しみじみと振り返っている。
私が熱をあげて観ていた頃は・・・・・
風間杜夫さん、平田満さん、根岸季衣さん、柄本明さん、加藤健一さん、などという
瞬く間に、有名になっていった(当時)無名に近い俳優人が演じていたが・・・・
(演劇界や演劇好きファンの間では、みんな、もちろん有名だったけれど・・・・)

つかさんの芝居を、最初に観た衝撃は忘れない。
面白かったし、わかりやすかったし、楽しかったし、しょっぱい涙がどくどくと流れた。
「蒲田行進曲」は、初演から観ている。 それなりの思い入れもある。



仕事が忙しくなってからというもの、演劇界や舞台観劇から徐々に遠ざかっていったが、
少ないお金を手にして、徹夜で千秋楽を観るために非常階段で夜をあかしたことなどを
とても懐かしく思い出す。
あの当時、当日券を求めて並びながら・・・隣の人と話し込んで友達になったりしたが、
「彼らは今、どのような生活をしているのだろう」。 懐かしい。
つかさんの訃報は、まるで“あの輝くような思い出”までもが、逝ってしまうようで、
とても切ない気分がした。


つかさんの芸名は、在日韓国人という生い立ちから、「いつか公平」になってほしい―
という願いが込められていたのだという。
ひらがなにしたのは、漢字が読めなかったお母様への配慮から・・・・。



演劇は、芸術作品である。
そしてまた、オリジナル作品には、常に作者のメッセージや願いが込められていて、
当時理解できなかったことが、今・・・とても、ひしひしと感じられることがある。
人の持っている「熱意」や「激情」、そして、「優しさ」や「穏やかな気持ち」、
そして、「生きることのひたむきさ」などを、ストレートに感じる。
当時は、ありのままのキャラクターが、ありのままのメッセージを伝える芝居だった。

もし現在の感受性と脳細胞と社会的知識があれば、もっと深い演劇解釈ができたのに!
とても残念だと思う反面、「今日一生」という言葉を改めて思いながら、まだまだ、日々
精進だとも感じたりする。




つかこうへいさんのご冥福を祈りながら、彼の今年の遺書を、下記、添付します。

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。
思えば恥の多い人生でございました。
先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています。
私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
通夜、葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます。
しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
今までの過分なる御厚意、本当にありがとうございます。

 2010年 1月1日 つかこうへい


テクノ ストレス

2010年07月20日 | 仕事 -

しばらくPC(パーソナル・コンピューター)から離れて生活をしていると・・・
そして、また、そういうサイクルに慣れてしまうと・・・・
東京に帰ってからの「脳がバクハツしそうなテクノ作業」には、正直・・・・・辟易する。

現在は、すべてがコンピューター時代で、仕事もプライベートも通信手段はメール!
かなり一方的に書き立てて、問いを投げかけ、また返事もメールで返ってくる。
間違いはないし、正確な日程やスケジュール確認には適切だと思うけれども、
感情面や微妙なニュアンスは、伝わらないのが「メール」というツールである。
コミュニケーションとしては、いつも一方通行。
だから、言いたいことだけを単語で伝え合うことが可能なために・・・・
非常に簡単でもあり、その一方で、心がどんどん乾いてもいく。


PCのCPUも、どんどんバージョンアップしていき、勝手にダウンロードしていくし、
気がついたらパソコン自体も「アップあっぷ」しているときがある。


しかし、このスピードの速い情報化社会を乗り過ごし、生き残るためには、このような
最先端のPC技術や、ソフトなどを、使いこなすことが必須になってしまった・・・・。
このような状況下、人によっては、大きなストレスを感じているのではないかと思う。

「テクノストレス症候群」としては、コンピューターに適応できない「テクノ不安症」が
あり、その反対に、コンピューターに(過剰に)適応しすぎてしまう「テクノ依存症」の
二種類があるようである。
その他にも、細かく分ければ、いくつかのテクノストレスがあるのだと予想されるが、
どちらにしても、おそらく「適応の度合い(形状)」が影響してくるのだろう。


常に、PCとケータイが一緒になった機器を操り、少なくとも1時間ごとに「つぶやく」。
ツイッターにはまり込み、常にチェックし、また・・・「つぶやく」。
つぶやいていないと、我慢がならないような印象を受けた人もいる。
彼にとっては、それが日々の生活であり、自分のペースなのだろう。
疲れないのだとしたら、それは良いことだが・・・確実に体内の電子は奪われている。
人間の身体には、電子(イオン)が必要であり、適度な放出と吸収は身体がやってくれて
いるのだけれど・・・・そのバランスが壊れた時、人は免疫力を落とすことになる。
抵抗力がなくなって、すぐ病気になる・・・・それが、結果としてついてくる現象だ。



実際、コンピューターの普及は、私たちの生活を一変させた。
この時代を生き抜くためには、PCスキルは必要不可欠なものとなってしまった。
人は、それ以外の人を「アナログ人間」と呼び、時には「絶滅危惧種もどき」のように
扱うけれども、果たして、それでよいのだろうか・・・・と、疑問に感じるケースがある。

人には、選択する自由な権利がある。
使うも利用するのも、その人の「意志」によって決まるものだ。
コンピューターが使えないことが、どれほど多くのストレスを巻き起こしてきたか!
また、昨今の現象として、英語を社内の公用語とする会社なども、そうであると思う。
そのような環境下において、英語が話せないことが、どれほどのストレスになっている
のだろうかと・・・しみじみ思う。
重要な会議をするときに、意見を言いたくても発言することができないのだ。
しかし、会社員であれば、会社の決定に従うものであるし、それで給料をもらっている
立場としては複雑至極である。
問題は、入社後に、そのような決定をされた人々の場合であろう。



とにかく、環境の変化は、はかりしれないほど、速くなった。
精密機器や電化製品、IT関連商品の開発によって、どんどんと世界の常識は変わり、
その恩恵と弊害の両方を受けているのも、私たち自身である。

人間の叡智は、どこまで進んでいくのか。
そして、人間は、どこまで追い込まれていくのか。

東京に帰って、PCの前から離れられない生活を経験すると・・・・いつも・・・・・
そんなことを感じてしまう。

私も、とりあえず、この情報化社会を生き抜くために、頑張っている最中である。
まだまだ進化を遂げるであろう環境に、どこまでついていけるのか・・・・
自分との闘いは続いていくのだ。



「義憤」というもの

2010年07月18日 | 仕事 -

長旅から帰ってきたら、後を追うように宅急便で送ってあった私物や仕事のグッズが、
ダンボールに収められて届いて、たった今、整理し終わったところだ。

今回の仕事(旅)で得たものは、天然の「蜂蜜」3個と、天然の「健康茶」一箱と、
とても素敵な人との「出会い」・・・・。
そして、その人々と過ごした宝物のような時間だった。

それに、身近な人の誕生日パーティもしてきた。楽しかったなぁ!




家を離れる前に、とてもモヤモヤしたものを抱えて出かけたのだけれど、
今回知り合った人(見識者)によって、癒していただいた部分があったように思う。
有難いことである。

   (実際、仕事でなければ、出会えない人も、現実にはいるものだ)


私は、せっかちでも、怒りっぽくもないけれど・・・・
人が許せるものが、時々許せなくて、忽然と行動に移すときがある。

ただ、その許せないことや、怒りを覚えたりするものの要因としては、非常に
単純で明快なことから、複雑なケースまでがあるのは 事実である。
しかし、そのことについて、確信がもてたことが 一つだけあった。
私は、自分のプライドを守るために怒ったり、自分が馬鹿にされたから・・・とかの
理由では、決して怒っていない――ということである。
「道義」や「正義」、あらゆる「道」に “はずれたこと” に対して感ずる怒りが 主で、
それは・・・・自分のことよりも、そういう世の中の仕組みや対応について “許せない”
ということである。

自分の心の中を揺さぶるセンサーが、こういうことに特に反応しているのだ・・・という
単純なことを確認できたことは、非常に有意義だった。
もう死語になっているのだろうか。「義憤」という感情である。

私は、ポーズで、人の体裁を気にしているわけでもなく、お金などを一番の基準にも
おいていない。

これについては・・・・自分が「成熟していないのではないか」と感じる反面、
非常に純粋で人間らしい自分の感情の回路を見つけたことに、嬉しくもあり、
複雑でもあり・・・・(面倒な性格だと思うからネ)・・・・という感じだろうか。




人は、みんな、いろいろな理由によって 怒る。
沸き起こった怒りは、しばらくの間は 押さえられないときもある。
「人間だもの」 (by あいだみつを)
当然だとも思うし、自分の感情を永続的に抑え続けていくと、病気になってしまう。
だから、肯定的にとらえ、(自分の癖を)解釈したし、今は充分に納得もした。


私の感じた気持ちは、これからも・・・・
素直に、表現しつつも・・・・よりスマートなコントロール方法をも、模索していく
ことを考えながら、「自分自身を見つめていこう」と 思っている。



食事の基本的マナー

2010年07月10日 | 食事 -

明日から、しばらく自宅をあけることになる。

生ゴミは、今朝、出してしまった。 
ゴミを、自宅に、もう残したくなかったので、
荷をつくる傍ら、近所のお気に入りインド料理店に、昼食に出かけた。


土曜日のランチ ―― 「一人は、さびしいなぁ」・・・と思いながら、
お店のドアを開けたら、とってもハンサムな外国の方が一人でナンと格闘していた。
「あら、あの方も、お一人なのかしらん?」
ちらっと見てみると、ナンをフォークを片手に、ナイフでカットして、食べていた。
「おぉ~、な、なんと、 ナンをナイフで!!(洒落ではありません)」

私は、サウスポーなので (いつも素手で食べるのだが)、つい左手で食べてしまう。
インドでは礼儀知らずなのだとも思い、気がついた時点で、必ず右手を使うのだが・・・
ほとんど食べてしまった後だったりもする。



そういえば・・・「食」つながりで・・・・
イギリスのロンドンで、薄いトーストを、ナイフとフォークで「バッテン状態」に切って、
四枚の三角形にして食べていたお洒落な(風格のある)老人に出会ってから・・・・
私も、同じような食べ方を、いつもしている。
一緒に朝食を食べる時、それを初めて見た周りの人は「何?どうして?」と聞いてくる。
そして、結局、私の真似してみると・・・・
「なるほど。バターも、ジャムも付けやすいし、手も汚れないね」と、いつも喜ばれる。



数日前にも、こういうことがあった。
お馴染みの「おすし屋さん」で、食事の途中で、お箸を下げられそうになってしまった。
「お箸は残してください」と頼んだら、箸置きも何もない場所に、どかん~と置かれて、
ものすごく神経を疑ってしまった。
目の前の板前さんは、その光景を見ていて、「すみません。新しいの持ってこい」、
そう叱った後に、私に「今日入ったばかりの新人で、すみません」と、言われてしまった。
漬物と卵を追加で、サービスされたが・・・「おなかいっぱいだし、もう結構です」と、
ごくごくフツーに、帰ってきた。 しかし、あの時の私は、素朴な想いに囚われていた。
こういうこと(基本的マナー)は、幼少時に教わらなかったのかと、疑問だったのである。

食べ方には、その国の慣習というものがあり、また同時に、快適な自分の食べ方もある。
ここは日本だから、海外の料理店は、日本流に多少の改訂がされているとしても・・・
やはり、日本の伝統の懐石料理店をはじめ、寿司屋、鰻屋、天麩羅屋などの和食系列店は、
私なりに「こだわり」や「好み」、そして「癖(食べ方)」のようなものがある。
箸の使い方などは、基本的なマナーであり、気を遣うべきサービスの基本だ。
でも、そういうことも「当然のことだ」と思っている私達の世代には信じられないような
現実が、現在の社会には「てんこ盛り」なのかもしれない。



古来の伝統や慣習は、その風土(地方ごと)にあわせて、守っていただきたいものだし、
日本国という広い世界を考えても、「大相撲」の連日の報道は、哀しい現実である。
歌舞伎や能などのように、あるいは華道や茶道のように、日本の伝統道を守っていくことは
大変厳しいことであるけれども、とても意義あることだと、国民其々が「その大切さ」を
認識しつつ、尊重して、応援していきたいものだと感じる。
其々の「文化」こそ、廃れさせてはいけない“貴重な歴史の宝庫”である。