家族の介護に関して

2010年06月30日 | 雑感 -

元「介護生活オンリー」を経験した者として、
同時に、大切な家族が病気になった時のことを思い返してみると・・・・
“日々の辛さ” と “複雑な気持ちの整理” は、本当に厳しいものだと感じる。

韓国の俳優(韓流スター)で、「冬のソナタ」に出演し、歌手としても日本で活動中の
パク・ヨンハ氏の死亡(自殺)が、今朝(30日5時に母親によって発見)伝えられた。
母国以外にも、次のコンサートを待ちわびていたファンが、日本にはたくさんいる。
ファンの人達にとっての衝撃は、いかばかりのものかと思う。
結局、9月まで予定されていた日本ツアーは、全て中止となった。
彼の死の原因は、はっきりとは特定されておらず、胃がんの末期により苦しんでいた
父親を気遣っていたという情報だけだった。
日々の生活では、睡眠剤を飲んでいたらしい。
その後、「日常が辛い」「生活が負担だ(一人でマネージメントをしていたらしい)」
などという精神的な吐露を聞いた友人もいて、最近信頼していた人との決別があったと
いう事実もわかってきた。「信頼できる人がいない」と、もらしていたらしい。
(仕事上で信頼していたマネージャーに、莫大な金銭的な裏切り行為があったと言う!)

警察の見解としては、遺書もないし、彼が辛い気持ちを抱えたまま・・・・飲酒をして、
夜中に突発的に起こした自らの決断だったようである。あまりにも哀しすぎる。
夜中の4時に、知人に電話をして「辛い」と話したのが、最後の彼の言葉だったようだ。
父親の病気以外にも、芸能活動と新事業から、大きなストレスを受けていたらしい。
有名であるがゆえに、隠さなければならなかったことがたくさんあったのだろうし、
愛する家族(父親)の負債なども、常に背負ってきた軌跡が・・・・・彼の精神面を
徐々に揺さぶっていたのかもしれない。

彼の父親は、音楽プロデューサーで、芸能界では有名な人らしい。
父親を尊敬し、敬愛していた彼は、病気になって、とても苦しんでいたと聞く。


人は、自分の気持ちが相手に傾き、強く思うがために「辛さ」は余計に増していく。
もし、愛情を感じていない人であれば、または関係が深くなければ、そんなに深刻に
思いつめることもないだろう。
その人に対する“複雑な思い入れ”があるからこそ、人は、苦しみを抱えてしまうのだ。



理由は、人によって様々だが・・・・
人生は苦しみや悲しみが多いときがあり、それを乗り越えられるかどうかが、その人の
生きてきた軌跡の足跡そのものになるように感じる。
それを、どのように体現し、昇華し、学習していくのか・・・・とても、厳しく、難しい
私たちの「生」の課題でもある。




最近は、家族を世話している人の「介護うつ」も、増えてきた。
介護人としては、日々の肉体的な作業があり、身体は常に動いている状態なので、
自分の労働時間としては「過剰な状態」になっている。疲労は蓄積しているままだ。
それだけで、「介護うつ」になる確率は多いのである。
そのうえに、精神的な辛い気持ちや、やるせない感情が、絶え間なく襲ってくる。
心と身体が休めない・・・・・ということは、何よりも厳しい環境である。



また、一般論としてではあるが・・・・
なんとなく具合が悪いと思えば・・・・すぐに医者は「抗うつ剤」を処方するが、
その薬が自分にあわなければ、(かえって)心身をひどい状態に追い込んでしまう。
安易に医者の言うことを信じてしまうのは、または、言うとおりにしてしまうのは、
あるリスクが伴うのではないかと、最近は特に感じる。

「薬」は「薬」であって、やはり副作用が伴うし、100%「良くなる」わけではない。
自分に適応した薬でないと、本当に、あぶない結果になってしまうことも多い。



追い詰められた時は、友人に心を開いて、「今」の状態(気持ち)を話してみることと、
気分転換をしたり、外出したり、楽しいことを考えるように努力したり・・・・
薬以外にも、「行動する」ことが幾つかあるのではないかと思う。
そして、何よりも大切なのは、「気持ちを楽にしていくように努力すること」。
無理をしないで、「心身を休め、気持ちをゆったりとすること」が、重要である。
「ぼ~っと何もしないこと」が、効果をもたらす人もいるし・・・・
家族や友人の言葉で救われる人もいるだろう。
よにかく、自分流のリラックス方法を模索していくのは、いいことだと思う。



「魔がさしてしまう夜中」は、とにかく明るく気分を持っていくようにして、
許される時間であれば、誰かと話したり、会ったりするのも良いかもしれない。

現代社会の抱える側面であるが、「自分が何者なのか」ということさえ判断できなくなる
状態は、ある意味では健康的ではなく、尋常な状態ではない。
周囲の支えと、援助が必要であり、また、愛情あふれる言葉の数々が、そういう「魔」の
妄想を撃退してくれるのかもしれない。
社会ネットワークとしても、多くの活動がされてきはじめたが・・・・もっと、もっと、
このような現状を、認識する必要がありそうだ。



W杯 日本vsパラグアイ

2010年06月30日 | 出来事 -

昨夜の日本サッカーチームの善戦は、多くの元気をもらい、寝不足を引き起こした。
夜の11:00ぐらいから開始した試合は、「0-0」のため、最終的には延長戦となり、
劇的なPK戦にまでもつれ込んでしまった。

視聴率も、57.3%だそうだ。  凄い!

多くの人も観戦したと思うし、私も・・・・・やはり、最後まで観てしまった。
深夜なのに、隣の一人暮らしの高齢者のおばさん宅まで、こうこうと電気がついていた。
「観ていたなぁ」

日本中が、湧きに湧いて・・・・興奮させてくれた。 刺激の刺激!

監督の「おかちゃん」がおっしゃったように、
「まだまだ8強には、ほど遠いということじゃないですか」というよりも、
私としては「よく頑張ってくれました!」と、心から感じた。
代表メンバーは、みんな本当に一生懸命だったし、必死だったと感じた。
美しい姿だった。
何よりも、感動的なチームの団結力を見せてもらった。
試合に出られた人も、そうでなかった人も・・・・全員の想いが結実した結果だ。
まさに、久々の清清しい団体競技の盛り上がりだったと思う。
ありがとう・・・・日本代表!!


会社のメンバーも、夕方以降からこそこそと帰り支度をはじめ、代表も早くから不在。
おそらく仕事なんだろうけれど、かなり遅くまで会社にいた私は・・・・
いつもよりも閑散とした雰囲気を感じた昨日の社内だった。
みんな、やっぱり、話題は「W杯」だったから・・・・。



お疲れ様、日本の代表メンバーの皆さん。
元気に、自信を持って、胸をはって、帰国してください。
そして、日本相撲協会の自覚のない人々に、刺激を与えてほしいものデス。



箱根の登山電車

2010年06月27日 | 出来事 -

「紫陽花」が目的で、箱根一泊温泉旅行に行ってきました。

しかし、すごい混雑振りです。

「紫陽花」といえば、なんとなく、鎌倉のお寺か、「箱根の登山電車」というイメージが、
情報誌や駅の観光ポスターで、私の中に植えつけられていましたが・・・・
実際は、まだ湯本あたりにしか大振りの紫陽花は(ちょこっとしか)咲いておらず・・・
登るにつけ・・・・紫陽花色は影をひそめていきます。 
“お花だけで言うなら、しょぼいです”

これから、ご計画の方は、時期と、実際の現実を、よくよくリサーチの上、お出かけを!
時期としては、七月末までご案内しているようです。


とにかく、現在は、凄い混雑振りで、全国からのツアーで高齢者の方々や、旅行者で、
大変な騒ぎです。
登山電車に乗るために、長時間のくねくねロードを歩き、時間をつぶしていたら・・・・
元旦の真夜中に「明治神宮」に「初詣に出かけた時のこと」を思い出しました。
それと、ディズニーランドの人気アトラクション待ちとか・・・ネ。
進むことも、帰ることもできない、隣の人と身体が密着した「混沌とした混雑状態」は、
まさに「呪縛」という言葉が似合う「自由のない時間」でした。

でも、少し成長した私は、「でも、これから楽しいことをするために待つんだもんね~」と
前向きに友人に発言して、サウナのような列車内を、耐え抜いたのでしたぁ。



しかし、たどり着いたお宿では・・・・(やはり、箱根の湯は、最高なので)・・・
本当のサウナも経験して、ゆっくりとお風呂三昧したら、本当にぐっすり寝られました。

でも、「今度は、土曜日とかは、避けたいなぁ」・・・・これは、正直な感想でした。



スポーツマンシップ!

2010年06月25日 | 社会 -

この数週間、スポーツばかりを観ている。
メディアも、社会も、「勝った」「負けた」「どうなる?」「いけるか!」の繰り返しだ。
しかし、その背景には、非常にクリーンで、一生懸命に闘った者たちが勝利を手にできる
・・・・という 「美しい(感動的な)結果」が待っている。
まさに、「スポーツマンシップ」である。それこそ、スポーツの醍醐味である。
私たちは、そういう経緯と頑張りと結果の流れから、たくさんのことを感じ、学ぶのだ。


「スポーツマンシップ」の素晴しさは・・・・
その人が日常生活で遭遇する様々な諸問題や障害にも、効果的に対処できるために必要な
「心の力を育てる」ことが、自然と出来ることである。
スポーツを一生懸命にやれば(学習能力のある人であれば)誰もが出来うることだ。
自分を見つめる力、分析力、瞬時の判断力、チームを信じる気持ち、チームの中での立場、
自分の位置と働きを感じとる力、そして、何よりも、前向きに前進する強靭な精神力!
たとえ、厳しい現実に遭遇しても、あらゆる状況において、常識的に判断して、前向きに
立ち直っていく・・・・そういう「人間力」。
気がつけば、素晴しいコミュニケーション力や、トータルバランス力が備わっている。



ところで、
ワールドカップは、数年前に比べれば、かなり一般化して、まるでオリンピックのような
勢いをつけてきた。
W杯の知名度もあがり、他国の試合の放送もされ、感動を呼び起こす。
精一杯走りぬく選手たちに、チームの団結力と、個々の力量がバランスよくかみあって、
日本は一次リーグを突破した。 良かった! 凄いョ! 
きっと「勇気」をもらえたファンも多いことだろう。

夜中のウインブルドンテニスや、メジャーゴルフの若手の活躍から・・・日々の野球まで、
スポーツの素晴しい経過と結果から、刺激を受けたり、感情をかき乱されたりしている。
特に、ワールドカップサッカーの世界の予想を覆した一次リーグは、かなり面白い。




それに比べて、日本の「大相撲」のスキャンダルは、非常に哀しく、切ない現実だ。
ひところ、日本の国技と言われ、歴史のあるスポーツであるがために、日本人としては、
本当に複雑な心境だ。
かねてから言われていた暴力団との関係や、「品格」のない横綱の暴力行為だけではなく、
今回は「野球賭博」である。
すべてが、暴力団の資金源になっているかのような繋がりになっている。
公共放送局の莫大な放送料もまた、大相撲協会に入って、結局はぐるぐるとまわって、
暴力団に流れるような仕組みになっているのではないだろうか。
昔からの大相撲八百長問題もそうだし、朝青龍の暴力事件も、いじめの死亡事件もまた、
大相撲協会の関係者は、きちんとした説明責任を果たさず、こうした現実が続いている。

国民の審判を、そろそろ・・・下すべき時機が来ていると思う。

しばらく、放送を辞めて、大相撲協会の大改革をしていただくようにしないと・・・
全国の(地方の高齢者などの)大相撲ファンに申し訳が立たないと思わないのだろうか。
「スポーツマンシップ」に反した行為と、大相撲協会の態度と姿勢は、それを、まさに
物語っているのではないかと、思うのだが・・・・。

時代は、変わった・・・・。 
相撲協会の理事も、力士も、関係者も、全員がそれを受け容れるべきだ。
こんな「灰色の大相撲」なんて、国民が気持ちよく、応援できるわけないじゃないか!
そう感じとれないのだとしたら、相当、現場の人たちは、品格のない行為に麻痺している
状態が、ずっと続いたがために、何も感じられないのかもしれない。
であれば、私も、「無関心」になるしかない。
放送があっても、観ないし・・・・話題にものせない。
懸賞金を出している企業の商品は、イメージが悪いので買わない。

すべての相撲関連に対して、私は「無関心」を貫いて、その連動を促していくしかない。
どん底まで落ちていかないと、反省もないだろうし、きちんとした説明も(今まで通り)
おそらくないままだろう、大相撲協会という慢心を極めた人々たちは・・・・。


とにかく、相撲協会の「資金の流れ」を、一度、「綺麗な状態に戻してほしい」と・・・
心から切望する。
でなければ、大志を抱いて入門した若手力士に、あまりにも気の毒ではないか!
彼らこそが、「宝」なのだから・・・・。
これからの「大相撲」を背負ってくれる若手の育成こそが、何よりも優先すべきことだと
私は思っている。



介護施設への見舞い

2010年06月23日 | 自分 -

私と同じ境遇で、「ひとりっ子」の女友達がいて、母親の介護をしている。
看護婦さんだった彼女の母親は、38歳で彼女を産んだというバイタリティあふれる人。

数年前までは、一緒に、よくご飯を食べたりもしていたが・・・・・
私の介護人生活のヘビーな始まりと共に、幕を閉じてしまった。

その彼女のお母さんが、この年末年始に「介護施設」に入居した。
今日は、友人と共に、その施設に、お母さんの面会に出向いた。
その施設は、3年前に建設された新しい施設で、建物も今風にゆったりと空間をとり、
スタッフも若い人が多いようだが・・・・・印象として、暖かいものを感じなかった。

脳細胞と内臓の丈夫な、彼女のお母さんからすれば、今は「話し相手がいない」らしい。
認知症の人や、耳の遠い人が多く、気の合う“話し相手”がいないようである。
だから、個室にこもってばかりで、かえって「うつ的症状」を併発しているようだった。

そういえば、皆で集う場所では、無表情のおばあちゃんが数人座っていただけだった。
スタッフはと言えば、奥の台所に3人ほど固まって、立ち話(?)状態のようだった。


彼女のお母さんは二時間半以上もお話しても、びくともしない強靭さを持っている。
まだまだ長生きしそうな勢いだった。
他の入居者よりも、お元気そうだ。
ただ、足がたたず、一人で生活が出来るようなレベルではないのが、残念なところだ。



彼女は、仕事を持っていて、だから動けなくなった時点で、すぐに「施設入居」の選択を
したようだが・・・、実際、後からついてくる経済的な締め付けには不安を感じていた。
私よりも(はるかに)財産を持っているし、私よりも第一線の仕事で活躍しているので、
何の心配もないと思ったが、本人自身は「自分の最期まで気にするようになった」ようだ。
それが、介護をしている人の(たどり着く)精神的現実かもしれない。
「死」というものと、将来の選択が、よりリアルに押し寄せてくるからなのだろう。

誰もが通る道――。
誰もが悩む事――。

自分の親のことだから放っておけないし、「ひとりっ子」の性(境遇:責任)も手伝って、
抱え込みがちになってしまう。

彼女が、別れ際に聞いてきた質問は、より具体的だった。
「誰が頼りになるの? どうしたらいいんだろう。
 いざという時、親戚って助けてくれるものなの?」
親戚を当てにしないで――とは伝えたが、其々の人間関係があるので一概には言えない。
だが、彼女の境遇も・・・・・・これまでの情報によれば、なかなか厳しい環境になって
しまっていることは、なんとなく想像ができていたので、あえてそう伝えた。
(お母さんも、母屋の親戚の家とはお付き合いをしていない―と言っていた)

しかし、もっとシリアスな状況になった時、全てを選択して、判断するのは・・・・
誰でもない、彼女しかいないのだ。
今はまだ、流れにまかせて様子を見る時期ではないかとも感じたし、今から早々に、
あらゆることを考えつくす必要もないようには思うが、それもまたケースバイケース!
結局、私は、部外者である。 ヘルプすることしかできない。


私は、とにかく、彼女の「不安を取り除いてあげること」「気分を楽にしてあげること」に
終始つとめたようなものである。
そして、何よりも、今日は、おしゃべり好きなお母さんの話し相手になること!


お母さんに歩行訓練をすすめ、明るい展望をイメージさせてあげたら・・・・最後は、
「玄関までおくるから」と、歩行器を使って見送ってくれた。
「歩けるのよ、それを見せたかったのよ」と、別れ際まで、明るいお母さんだった。
握手して、抱きしめて、別れたが・・・・なんとなく複雑な想いが駆け巡る一日だった。



紫陽花の登山電車

2010年06月20日 | 出来事 -

今月の末頃から、箱根の登山電車は大騒ぎだろう。
名物の紫陽花が、綺麗な花を開くからだ。
夜は、ライトアップされ、最高の雰囲気の中・・・登山電車は走ると・・・いう。

今日、突然に、今週末の箱根の温泉宿を予約した。
ライトアップは厳しくとも、すごく並んでいようとも、登山電車に乗ってみたくなった。
両側に紫陽花が開いている間を、トコトコと走る箱根登山鉄道!
マジに、乗ってみたくなったんだ。


私の友人は、知っているだろうが・・・・私は、花が好きだし、特に紫陽花が大好きだ。
今日も、我が家の台所のテーブルの上には、紫陽花が飾ってある。
また、この時期、美しい大振りの紫陽花を見つけると、私は写真に撮影することがある。
最近は、いろいろな色があって、その色合いがとても美しい花と出会うときがあるからだ。
以前も、道端から知らない人の家の花を撮影していたら、ご主人が「綺麗でしょう?」と、
わざわざ家から出てきて、自慢げに話しかけてきた。
「すみません。勝手に撮影して・・・・でも、とても綺麗で(笑)。美しいですね」
「どうぞ、どうぞ!好きなだけ撮って!」


紫陽花で有名な鎌倉のお寺もそうだが、いつも「行こう!」と思いながら・・・・
忙しくて時期を逸してしまう。
これまでも、(一度も)行ったことがない。
テレビや、雑誌の写真で、何度も観ているだけだ。
でも、実際「見ること」と「感じること(実体験)」は、全然違うことを知っている私は、
いつも“心が悔しがっていたのだ” と思う。



箱根は、父と最後に、長期の旅に出かけた場所でもある。
だから、私にとっては、「近くて、遠かった場所」だ。

父との旅行の際にも・・・・
登山電車は、足の悪い父を連れた旅では、あえて避けて、車で移動できる場所だけを選び、
端から見るだけで通り過ぎた。
登山電車には乗ったことはあるが、もう随分と前のことだ。
いつのことかも忘れてしまったぐらいの記憶しかない。
もちろん、名物の「紫陽花」の時期ではなかったのは、確実である。


まるで、童心に還ったような「突発的な計画」は、とても楽しい。
そんな突飛な提案に便乗してくれる人が増えてきたのも、またまた嬉しいことである。

旅は、一人で行くと、やはり偲んだり、自分の想いにふけったりしてしまうし・・・・
一番の不安は「さびしい」と感じるのが嫌なのだと思う。
もし、一人で出かけて、そう感じてしまったら、とても哀しいからだ。
昔は、あれだけ「一人でいること」が好きだったのに・・・・・。




思ったことを行動してみる・・・・・・という簡単だけど、意外と難しいことを、
今日は「やり遂げた感」があって、気持ちが良い。
実際、行くことが何よりも大切だが、その「一歩」を踏み出せたことが、
私にとっては嬉しいことである。

一度きりの人生だから、そろそろ、「自分のために、生きていきたい」のだ。
やりたいことは、「やろう」と思う。
感じたことは、言葉に出して、「行動していこう」と思う。

こうして、意識を変えて、徐々に「生き方の基盤」を変えながら、
私自身をも「変えていきたい」と、心から感じている。


今年は、鎌倉のお寺にも出向いてみようかと・・・・今、なんとなく思っている。


石川遼クンの成長

2010年06月19日 | マイブーム -

彼にとっての今季メジャー第2戦となる「全米オープン」。

これまでの「経験」は、大きな芽をつけ、花を咲かせる可能性をはらんだ。
予選二日も、マキロイと、ワトソンと一緒に組んでまわるという・・・素晴しい編成。

遼クンは、予選を通過。  それも、二位Tの「―1」である。

今、録画映像を全て観終わったところだが・・・・なんという堂々とした態度だろう。
年毎に増していく「精悍さ」と「威厳のある透明感」、そして、「前進している結果」、
「技術力」「魅力的な存在感」などなど・・・・。


「スポーツ」は、なんというか、・・・「人の心を反映した運気のようなもの」を
感じさせてくれる。
その運気は、本人の心持ち次第で、いかようにも変えることができるもので・・・・
だからこそ、面白くもあり、底が深く、そのアスリートの偉大さや度量や可能性が、
見えてくるものなのかもしれない。
その人をとりまく環境や、その人の精神状態が、顕著に反映するのも「スポーツ」。
だから、見ていると飽きないし、学ぶものも多い。


遼クンは、確実に、成長を遂げている。
それも、人の二倍、三倍の早さで、自分を高みに押し上げるポテンシャルを持ち、
周囲の人々の期待を ものともせず、冷静に、歩みを進めている。
インタビューに答える彼は、数年前の彼ではない。
顔も身体も、とても精悍で、「男」を上げている。

20歳をこえていない少年の姿には見えず、もう「業界を牽引している偉大な存在」に
感じられる大きさがある。


「逸材」とか、「天才」とか、よく言われるけれど・・・・
こういう日本人が、この国から飛び出していって、世界に出て行ってくれることが、
とても嬉しいことだ。
子供たちの夢を背負い、多くの大人たちの羨望のまなざしを受けながら・・・
これからも精進してほしい。

彼は、日本人のイメージアップに繋がる「ピュアな強い意志力」の持ち主である。
その意志力がどこまで(いつまで)持ち続けていられるかで、彼の人生が決まる。
まさに、人生の紆余曲折を、これからの彼は体感していくのだろう。

まずは、全米オープンの明日からの遼クンを見守りたい。
インタビューで「明日からも、アグレッシブに挑んでいきたい」と答えた遼クン!
はるか年下ながら、素晴しい人である。 
遼クンのメジャー挑戦は、まだ始まったばかりだ。


高橋大輔さんの足 祈願

2010年06月18日 | マイブーム -

善光寺さんに行ってきた。

善光寺さんは、日本最古の霊場で、宗派に関係なく、日本中の全ての人々を受け容れる。

我が故郷、四国の人々は、四国八十八箇所をまわり、それが終わったら高野山へ出向き、
最後に「善光寺」さんに詣でて、人生の幕をひくのがよいという―勝手な論法(持論)を
持っている人もいる。我がおばさんが、その典型である。

その影響があってのことだと思うが、善光寺さんは、私にとって特別な霊場となっている。



このたび、マイブームの「高橋大輔さん」が、まだ膝のボルト除去手術をしていないので、
今後、彼の身に「禍ごと」がおこらないように、仁王門にお願いをしてきた。
善光寺さんの仁王門は、人々の足や腰などの回復を願い、それをかなえてくれると言う。
そのため、わらじをお供えして、自分の願い事を書いたりしている人々が多い。
私も、「おばさんの腰」と、「おじさんの足」と、「高橋大輔さんの足」のお願いをして、
帰ってきた。

今年は、全日本フィギアが長野であり、ワールドが東京(来年3月)で開催されると言う。
もし、それが間違いでなければ、年末の全日本のスケジュールが、ゆるされるのであれば、
長野で(生でリアルタイムに)応援したいものだ。
もちろん、その前には、また、善光寺の仁王門に、お願いしてこようと思う。


私の場合、いつも、こういう願いは、(これまで)かなったことがない。
いつも仕事優先で、仕事の予定で、自由がきかなくなるからだ。
しかし、もうそろそろ・・・・・そういう生活から解放されたくなった。
今年は、「流れに身を任せる自分」から、高橋さんのように「自分から取りにいく!」と
宣言したような姿勢に、変えていきたいと思うようになった。
重要なことは、自分の意志力だと、心から感じるようになった。



今は、彼の精神的支柱が、私に与えてくれたものは、意外と大きいような気がしている。

ある日、突然、私の心に突き刺さるものがあり、それがタイムリーな出来事として、
彼の存在がそこにあっただけではあるが・・・・
人生の選択をするうえで、大きな影響を与えてくれたような力強さを、彼から感じた。

   「人は、ひとりぼっちじゃない」
   「人は、目標があれば耐え抜いていける」
   「人は、自分だけのために、生きているんじゃない!」
   そんな簡単で、大切なことを・・・・。



毎年の先祖供養

2010年06月18日 | 出来事 -

四国生まれの私は、無宗教。
だけれども、先祖を供養したり、思いを忘れないようにはしている。
地元には、それぞれの家に宗派があって、その決め事に則って、法要などは行われる。

私は、両親を送って以来、法要などをはじめとした祭事は、欠かしたことがない。
今年も、母の13回忌を執り行う予定である。

それ以外に、頻繁に帰らない私を(私自身が)攻め立てる気持ちがあって、自宅で両親を
供養しつつも、菩提寺さんにお願いするよりも、自分の手でおまつりしたい気持ちがあり、
毎年、長野県長野市にある「善光寺」さんに詣でている。


善光寺さんは、日本最古の霊場であり、宗派に関係ない霊場として有名である。
四月の父の命日と、八月の母の命日の間に、毎年、善光寺詣でをする。
今年も、行ってきた。

やることは、「先祖供養」のお願いと、自分できちんと一年間のおまいりをしてくる。
そして、最後に、いつものように「おみくじ」をひいて、一年間そのおみくじは、
財布に忍ばせて、翌年、善光寺に返している。


「何も意味がない」と言えば何もない。
ただ、私の中に、徳島に頻繁に帰れない事情からくる「気持ち」が、このような慣習を
執り行わせている。
いただいた先祖供養のお札は、私とともに、我が家に連れてこられている「お位牌」の
後に(いつも)飾られている。

宗教なんて、わからない。
宗派なんて、余計にわからない。
ただ、死者を愛する気持ちは変わりなく、我が家の先祖となる人々の供養も大切だ―と
心から思っている。
ただ、それだけである。



善光寺さんでひく「おみくじ」には、事業が成功して、お金がはいるようなことが、
いつも謳われているが・・・・生活が豊かになったことはないし、お金に対して、
(私個人が)大きな執着もない。
ただ、生活に困らないのは、有難いことだと、いつも感謝している。

いつも、一番の不安を払拭させてくれる「おみくじ」を与えてくださり、有難いと思う。
子供だましのようではあるものの、こういう「おみくじ」で、心模様は変化する。
気分も気楽になるのは、確固たる事実である。


かけがえのない一人

2010年06月14日 | 自分 -

  いくら比べても、私の存在と価値は、変わりません。

  いえ、変えようがないのでしょう。

  私は私!

  そう、自分は自分だからです。




  しかし、何よりも大切なのは、その自覚と自信を・・・・・

  私自身が持たなければならないということです。


懐かしい人との邂逅

2010年06月13日 | 自分 -

とても、とても、懐かしい人に会った。

とても、とても、懐かしい空気に触れた。

懐かしい人から、メールをもらって、時間を飛び越えて、「昔」が懐かしくなった。



そういう「懐かしいこと」が、この二~三日、続いたために・・・・
私は(ちょっぴり)「おセンチさん」になっている。

より一層“自分を見つめること”ができたりもしたが、
その一方で、過去という世界に縛られている自分を感じたりもした。
 ※縛られているというよりも、憧れているというべきだろう。


ただ・・・自分が、若い頃に、同じ時間を過ごしただけなのに、
その人に対して、特別の感情がわいてくるのは何故だろう。
自分が未熟だったために、精一杯生きていたからだろうか。
何故、「今、一緒にいる人」よりも、身近に感じられ、愛しさが湧いてくるのだろう。
それだけ、その当時が、私にとってスペシャルだったということ・・・・なのだろうか。


15年以上も会っていないのに、また新しい関係が構築できるものなのかと疑問に思い、
その反面、新しい関係をつむぎだしたい強い衝動にかられる自分もいる。
不思議なものである。

自分も変わり、相手も変わっているし、時間は膨大にすぎており、その間の経緯など
全く知識(情報)としては、皆目ないのに・・・。
お互いにふけた二人が、目の前に対峙しているだけである。
それなのに・・・である。


ただ、最近、しみじみ感じることは、「素の自分」が、その人の前でさらけ出せて、
本当の気持ちが分かち合えるかどうかということが・・・・どんなことよりも、
とてもシンプルで大切なことだと思う。
誰ともそうだし、私以外の人にも同様に言えることかもしれないけれど・・・・
「濃密で、気楽な関係でいられる人」は、何よりも「大切にしたい人」だ。

でなければ、数十年もたっているのに、「会いたい」とも思わないし・・・・
街角で偶然に会ったりもしないだろう。
また、会ってもいないのに、年賀状を途切れることなく、送り合い続けてきたことが、
何よりも(お互いの)“心の奥底”を物語っている。

自分の心が欲しているのか、何か「大いなる力」に呼ばれたのか、
それとも、単なる「気まぐれ」なのか。



たとえば、偶然という機会を与えられ、街角で久しぶりに会うたびに、
当時 「その人が、自分にとってどのような存在だったのか」が、
非常に冷静に感じられることがある。
魅力を感じない人とは、新しい関係を構築したい欲求にはかられない。
実際、そういう人とは、年賀状のやりとりも、していなかった・・・。



時を経て、私の中に芽生える不可思議な「感情」。
誰も止めることも、コントロールすることもできない「感情」。

興味深いものである。


「旅」での「出会い」

2010年06月06日 | 出来事 -

旅の出発前は、その行き先と、用途によって、荷物も変わってくる。
最近は、天候不順がちょっとは落ち着いたものの・・・・まだ、オテントウさまに
予想はたたないものだと思っている。(密かにカッパも装備!)

日曜日の朝、出発する。
初めてのホテルに、今、インターネット予約をしたところだ。
今年は、仕事を離れて・・・・若い頃にやって、世界中を飛び回っていた「昔」のように、
気ままな当日決定スケジュールの「気まぐれ旅」をしてみようと思っている。
交通事故のような・・・予定調和ではない「(想定外の)出会い」に期待しながら・・・。




地方へ出向くと、素晴しい風景や人々との「出会い」と、遭遇することがある。


「里山」という言葉で定着している場所は、特にそうだ。
景観の美しさだけではない。
その場所に長く息付く人々の“たたずまい”や、気持ちの“精細さ”や“温かさ”を
感じるときがある。
我が四国:霊場八十八箇所に映しだされてくる「情」のようなものであろうか。


「里山」は、今、消えつつあるが・・・
出あったときの壮大な景色は、素晴しい感覚になる。
そこに住んでいる人々は、自然の論理や秩序も尊重して、自給自足までいかなくても、
隣近所の人々と一緒に「持続可能な暮らしぶり」を保持してきている。
尊敬に値することだ。




「昔の生活に戻ればよい」「自然回帰だ」などと叫んでも、そんなに簡単なことではない。

人々は、その場所の風土や、自然のサイクルと、相談しながら・・・共存しながら、
生きてきたのだから、今の生活は(解釈を変えれば)「今そのもの」だとも言える。

旅人は、少しだけ、その空気感を共有させていただくだけの「我侭な立場」だ。
本当に、期待に胸を膨らませつつ・・・・同時に・・・・・・
最近は、私自身が将来を危惧する「日本国内の各地の人々」を思うようになった。

どの場所に住んでいても、どんな暮らしをしていても、
みんなが「穏やかに暮らせる環境であればよいのに」と、「願い」のような気持ちになる。
特に、近い将来のことを考えると、その気持ちがより一層、強く感じられるようになった。



リフレッシュする柑橘系

2010年06月05日 | 環境 -

私は、麺類と同じぐらい、柑橘系が好きである。
我が故郷の特産物「すだち」、大分県を代表する「ゆず」、それに「レモン」や
フルーツでは「グレープフルーツ」「みかん」系はすべて大好きだ。

昨日のランチも、久しぶりに「ラーメン」。
しかし、ゆずがふんだんに入っている「ゆずラーメン」だった。

柑橘系の素晴しさは、その「香り」にある・・・・と思う。

人間には、好き嫌いがあって、たべものも同様に必ず好き嫌いがあるものであろう。
人の好みというものは、脳内にアーカイブがあって、子どもの頃の思い出から、
初めて食べたときの感触・感覚・味覚などが残っているので・・・・
咄嗟に、脳が判断してしまうのだろう。



私は、柑橘系は、「アロマ」としても使用している。
樹木系の精油(芳香油)も、どちらかというと、すっきりとした柑橘系を選ぶ。
もちろん、心をリラックスする効果のある「グレープフルーツ」は、かかせない香りだ。
「レモン」もそう! フレッシュで、とても清清しい香りである。
今やっていることや、行き詰まっていると感じたときなどは、リフレッシュできる臭いが
充満する部屋で過ごすと、自然と「仕切りなおし」したくなるときもある。



やはり、心地の良い環境と、幸せを感じられる人々に囲まれているのが何よりだと・・・
最近心から感じるようになった。
「自然体に生きる」ことが、厳しく、難しい社会状況にあるので、余計に・・・自分は、
「自分らしくありたい」と感じるのだろう。
しかし、このことが、どれだけ大変で、難しいことかは、私自身も理解している。
だからこそ、取り組むべきことなのではないかと・・・・少しだけ身をもって思うように
なったことは、過去の自分との決別と共に、一歩踏み出す勇気を探そうとしている時期で、
まさに自分自身の「正念場」ではないかと・・・・思えるようになってきた。


尊重するべき我が心

2010年06月01日 | 自分 -

「子供のようにきらめく好奇心」、「未知なるモノへの果てしない開拓心」、

それでいながら、「繊細な感受性をもっている」のが、「私」だそうな~!!



            



交友関係も努力しているのではなく、「いつも私が楽しみたい」と思っているからこそ、
自然と広がっていくのが「人脈」というものである。

私にとって、自分の顔を売ろうとしているわけではないのに、そのように端の人からは
みられる事がある。
仕事をしているときが、特にそうだ。
「仕事をしながら、自分自身を売り込んでいる・・・というか、自分の仕事をしているね」
そのような感想を、若い頃から、いつも言われた・・・・。
悪い気はしないが、いつも「自分の感覚と違う現実だ」という印象は持っていた。
他の人の目を通して “私自身が、どのような事実として映っていたのか”ということは、
なんとなく理解できたし、少しばかり “切ない印象” を抱いたのも覚えている。
当時の私にとっては、「そういうものかなぁ」という感想を軽く持っただけだった。


今、私に課せられた命題は、人の気持ちを慮るのと同じぐらい・・・・
自分の気持ちに正直になり、「私の気持ちを尊重してあげよう」という素直な想いである。

まずは、そういう簡単なことから、はじめてみようと思っている。
そして、いつか・・・・必ず、より具体的な「今後の自分の人生」を構築していきたい!


6月1日の気持ち

2010年06月01日 | 自分 -


        見えないからって、なくなったわけではない。

        私が感じとれていれば、それでよい。




        私には見えるから大丈夫・・・とは言えないけれど、

        私は「それでもいい」。