私にとっての「思い出の時代」が終わったような気がしている。
三沢光晴 ⇒ 広島のリングで心肺停止!
その後、死亡が確認(6/13)されたという。
すごくショックだ。 46歳だった。
2300人の観客が見守る中、「ミサワコール」が沸き起こる中・・・
彼は静かにリング上で逝った・・・・。
「業界を牽引してきたスーパースター・レスラーの壮絶死!」
しかし、正直に言うと、こんなにショックをうけるとは思ってもいなかった。
この事実に、私自身が一番びっくりしている。
そりゃ、そうかもしれない。
私の幼少期から青春時代には、いつも「プロレス」があった。
そして、三沢光晴は、(私にとって)「特別な存在だった」のも事実だ。
田舎の実家に、隣家よりも早く、テレビジョンというものがあったのは、
決して裕福なわけではなくて、「プロレス」を観るためだったようにも思える。
毎週末の夜は、両親が大声を出しながら、テレビの前で、応援していた。
その側でプロレスを観ながら、まさに「脳細胞にすり込まれたプロレス」が
私にはあったのだ。
自分の意志に関係なく、よちよち歩きの頃から、プロレスを観せられていた。
「子どもは、親の背中を見て育つ!」とは、よく言ったものである。
両親の趣味(喜び)が、いつしか私にも自然と移っていた。
田舎の体育館に興行に来た時には、母は許す限り、子供の私も連れていき、
今も忘れられない“楽しい思い出”がたくさん残っている。
「キャー」と叫びながら、必死に応援する母の姿が、非常に面白くて、
(子供心に)かわいくみえて、仕方がなかった。
母の日常の素顔とは違う“言葉にならないもの”が、(今も)思い出される。
私は、特に「ジャイアント馬場」が社長を務めていた「全日本プロレス」が
昔から大好きで、東京に着てからも、後楽園や武道館には良く通った。
生の臨場感は、たまらなくて、テレビで観戦するのとは熱気が完全に違った。
人徳あるジャイアント馬場さんも、子どもの頃から大好きなレスラーだった。
ボランティアに積極的に取り組みながらも、決して宣伝には使わなかったし、
義理・人情に厚い馬場さんの人柄に、私は魅せられていたように思う。
あの頃の「全日本」は、ジャンポ鶴田もそうだが、他の団体を圧倒するだけの
威力ある(激しい)レスリングをリング上で、くりひろげていたと思う。
思い出すと、本当に、感慨深い。
「意識をなくし、身体だけが動いていた」という試合後のコメントは頻繁で、
多くのレスラーが怪我をしていたが、それをおくびにも出さず、闘っていた。
三沢たち全日本のレスラー有志は、本当に真摯に頑張っていたと思う。
テレビ中継があっても、なくても、手を抜くことがなかったために、常に
「満身創痍」で闘うことになってしまったのだろう。
鶴田越えを目指す三沢の果敢な挑戦は、私を“とりこ”にしたものである。
当時の三沢光晴を録画したVHSテープは、ダンボール一箱にもおよび、
我が家の二階の片隅に眠っている。
今は、それを取り出す気力もないぐらい、悲しみにくれている私がいる。
若手が輝いていたあの頃・・・
選手大量離脱を払拭し、盛り上げるために、「全日本」の選手達が一丸となり、
必死に頑張っていた頃が懐かしい。
常に満身創痍でありながら、三沢はいつもリングでは「ヒーロー」だった。
そして、とても美しいレスラーだった。
スマートな返し技などをみせられた折には、三沢自身が“持って生まれた”と
思われるような「レスリング・センス」を感じさせられた。
あえて、距離をおいた「三沢光晴」という存在は、私にとっては、かなり
特別な存在だったし、何にも変えがたいレスラーだったと、本当に感じる。
彼の一言は、「しんみり、深く、しみわたる言葉が多い」。
哲学者のような、人間学のような、達観した言葉も多い。
その一方で、現実を的確に指摘して、自分流の考えをもっていた。
これらは、彼が突き詰めた「レスラー道」の経験から準ずるものだとは思うが、
相当の覚悟と、相当の深みを感じる。そして、優しさも・・・・。
だから、魅力的だったのだろう。
人もそれを感じ、誰からも慕われる存在になったのだろう。
やっぱり、「あの人は、すごい人だったのだ」と、あらためて思う。
馬場さんには子どもがなかったので、三沢さんを養子にしたがっていたくらい、
三沢光晴にはあらゆる才能と魅力が兼ね備わっていたと思う。
彼は、「全日本プロレス」の中では、一番好きなレスラーだった。
華があり、技術があり、(若き三沢光晴は)誰よりも立ち姿が素敵だった。
クールな中に、秘めたる“男気”があり、それがリングにも見え隠れした。
スイッチが入るのが、私にもわかり、そうすると会場には声援が沸き起こる!
誰もが皆、その瞬間を“待っていた”ようにも感じられる。
表情が変わったり、声が出たり、技の切れが一段と冴えわたったりした。
私は、ひところは、三沢光晴のテレホンカードを収集するぐらい大好きで、
今も(その頃のテレカは)手元に何枚も残っている。
<一番お気に入りの三沢光晴テレホンカード>
彼は楽しいトークもできるし、人徳も馬場さんの後を引き継いだようにあって
(馬場さんと個性は違えども)非常に魅力ある人だった。
人望があり、面白くて、あったかくて、真摯で、リーダー的な存在だった。
彼が、「ノア」をたちあげたことに対して全く異論はないが・・・私は・・・
三沢光晴は、本来「全日本プロレス」の社長であるべき人だったと思う。
それが、ごく普通の流れであり、馬場さんの願いであり、遺志でもあった。
その「全日本」の社長の椅子をあえて離れ、「ノア」を創立した理由と理念に、
(私個人としては)三沢さんに心から尊敬の念を抱いている。なぜならば・・・
彼自身の内面性をあらわした“勇気ある、そして意味ある行動”だったからだ。
誰よりも、総合的な「プロレス」の躍進を願い、レスラーの待遇面などにも
最大限配慮しながら、力を尽くしてきた“愛情あるれる人だった”と思う。
だからこそ、彼は、新団体を立ち上げる必要性があったのだ。
誰もができる、簡単な「行動」ではない。
また、業界から「ノア」は常に注目され、いつもトップを走り続けてきた。
しかし、やはり、この現実が、今となっては、すごく「切ない」・・・。
とてもたくさんのことが、彼一人の肩に乗っかって、“いい人”だからこそ、
背負い込まなければならなかった責任や問題も多かっただろうと思う。
三沢ファンとしては、複雑な想いで、いっぱいになってしまう・・・。
彼が・・・(もしものことだが)・・・問題も抵抗勢力もなく、従来どおり、
歴史ある「全日本プロレス」を率いていれば、どうなっていたのだろう・・・
「全日本」の看板を有効的に使って、どんな改革をしていったのだろう・・・
・・・・・なんて、馬鹿な想像をしてしまう。
なぜならば、やはり「全日本」には、それ相当の“孤高なイメージ”がある。
その歴史は、馬場さんから始まり、三沢たち有志が積み上げてきたものだ。
それは、何にも変えがたい偉業の一端を担っていたと思う。
レスリングスタイルしかり、団体の歴史しかり・・・・・「全日本」には、
全日本独自のカラーが、私の中に確固としたものがある。
その全日本のイメージの中心には、いつも「三沢光晴」―この人がいる。
それは、今でも変わらない。
しかし、全日本と内部紛争があった時も、決して悪口を言わなかったのが、
「人間:三沢光晴だった!」という。
ジャイアント馬場さんの教えを守り、その一方で、毅然とした誠実さを感じる。
だからこそ、「全日本プロレスの社長でいてほしかった」と思ってしまうのだ。
勿論どうしようもないけれど、とても切ない感情が、私の中には残っている。
三沢さん自身は、「プロレスは人生そのもの、自分のためにやっていた」と
おそらく言うだろうけれど・・・そういう人だと思うけれど・・・・・
数十年間の長い年月を「全日本」のためにささげ、身体がボロボロになるまで
激しく闘い続けたのに、彼が手にしたエースとしての待遇や評価はどのような
ものなのかと感じてしまう。(勿論、三沢さんだけではないけれど・・・)
悪くたとえれば、まさに「豪農の家で、安価に働く小作人」のようなものである。
世の中には、無常なことも多いし、既得権益に固執するのが通常の社会構図だ。
「報酬」をもらっても、それが「相当なる対価」であったのかが論点となり、
最近は(科学発明:特許などで)多くの裁判が行われているのが「現代」だ。
当然ながら、時代の流れによって、世の中の評価基準もかわる。
昔当然だったことが、今は当然ではなかったりもするし、通用しなかったりする。
三沢さんら有志たちの「全日本」に対する功労は、言葉では表現できない。
永年「満身創痍」で闘い続け、その果てに、劇的な最期を迎えざるをえなかった
三沢さんの死を無駄にしてほしくない。
プロレス業界も、どうにか新しい共同体として、現場の人間を大切にしながら、
稼動していけるように変わってほしいものである。
彼が具体的に描いていた「未来図」のように・・・。
昔から多くの団体が生まれ、いつの間にか消えていく、はたまた分裂していく。
それがプロレス業界人の「エゴ」や「自意識」に彩られた現実だったが・・・
決して三沢さんは、そのような価値基準で動いていた人ではなかったと思う。
昔から、この業界には、いつもドロドロとした人間模様がうずまいていたが、
三沢さんだけは自己を中心に判断する人ではなく、そういう意味合いにおいては
全く稀有なレスラーだった。
だから、皆が彼を慕い続けるのだろう。
私自身は、「人の人格は、その人の風貌や言動に表されている」と思っている。
何の確証もなく、彼に魅せられたのにも、ある理由があったと、今は感じている。
<業界の皆様:生意気な感想で恐縮です>
夜中には、You Tube で、90年代の「三冠戦」(三沢光晴戦が中心)を、
ただ、ぼ~っと観ながら、 悲しみにくれている。
三沢のテーマ曲「スパルタンX」が流れると、身体の血が逆流しそうだ・・・。
「ジャイアント馬場」・・・・「ジャンボ鶴田」・・・・「三沢光晴」・・・。
相手を輝かせて、観客を楽しませ、会場を沸かせる「王道プロレス」が、
(私にとっては)子どもの頃からの「プロレス」だったように思う。
この三人をなくした今、私自身の「ある時代」が完全に終焉を迎えたと感じる。
自分の“熱く燃えた若き時代”に、謹んで別れを告げたい。
これまでの感謝の気持ちをこめて、三沢さんのご冥福を心からお祈りします。