我が父も、そうだった。
何度も「たらいまわし」された。
シリアスな急を要して、救急車を呼んでいるのに・・・
名まえ、現在の詳しい状態、保険番号、過去の病歴など、すべてを聞いてから、
「病床満室」という理由で、断わられた。
(患者をことわる専売特許の言葉か!!)
その言葉(結果)をきくために、どれだけの時間を待たなければならないのか!
父は、四つの病院から、理解不可能な経緯(交渉内容と理由)で確実に断わられ、
最終的に搬送された病院では、誤診、治療不備によって、何の処置も施されず、
その夜に意識不明に陥った。そして、そのまま帰ることはなかった・・・。
父には、毎週何度も通いながら、体調を診てくれていた主治医がいた。
私は、その主治医の「治療指示票」を持参して、こと細かく説明したが、
何の治療もしてくれなかった。
その理由は「内科医がいないからー」というものだった。
では、なぜ・・・休日の緊急病院としての体制をとっているのだろう。
たった一人の経験不足の「脳外科医」だけを配備した体制で、なぜなのだ?!
治療ができないのであれば、受け入れなければよいのだと、私は単純に思う。
患者の家族の持参した膨大な資料に目を通す時間はなかったのか。
その資料を判断する“医師としての力量”がなかったのだろうか。
では、専門分野の内科医と連絡をとる方法はなかったのか。
あのように、全く治療ができないのであれば、患者の状態を把握し、
再搬送する判断ができなかったのか。
(実際、父は、肝性脳症状態だったと思われる)
(真昼間に搬送しながら、翌朝まで放置されたために、我が父は明暗を分けた)
私は、今も、不本意すぎて、病院の無常な対応に、怒りがこみ上げてくる。
その病院は、院長、副院長、事務長、看護士、他、多くの人のモラルなき態度に、
最期まで苦しめられた。心が折れそうだった。
医師としての慢心から発せられた不遜な言葉、誠意のない治療方針、
患者を人間としてみていない病院の全スタッフ!
たった一握りの「まともな人」さえも、病院に様々な進言をしていたが、
それさえも却下されるぐらいの悪徳病院だった。
人を治療し、命を助けることが使命ではなく、まさに「お金」が優先される
病院だったという印象が強い。
父が逝った後、何度も話し合いを繰り返し、最後の手段を念頭にも置いた上での
覚悟をもった話し合いではあったが・・・全く最後まで誠意は感じられなかった。
結局、二人の医師と病院長・事務長をはじめとする病院サイドの謝罪を受けたが、
私の心は晴れることはなかった。
また、(頻繁に)同じことを繰り返しそうな病院であることは、想像に値する。
他の病院や大学の救急医療センターであれば、父は確実に助かっていた・・・。
それだけ簡単な治療であり、処置指示票の薬を体内に入れてくれさえすれば、
回復しただろうと思えるからである。
(勿論、父を搬送したのは、一度ではない。その都度、同様の処置をお願いして、
父の命をつないできた私だからこそ、こうして断言できることがあるのだ)
心不全も、肝不全も、「時間」がすべてだ。
少しでも治療が遅れてしまえば、もう手遅れになってしまうことが多い。
あの日・・・
父の搬送された病院では、頭の悪そうな、高飛車で高慢な「脳外科医」が
「一晩二万円の個室しかないので、そこでよいですね」と一方的に説明したが、
実際には、大部屋のベッドは“がら空き状態”だった。
不可解な説明と、行動に、夜通し眠れず・・・どうなってしまうのかと不安で、
怒涛のように涙を流しながら、ただただ父を想い、自分とも闘い続けた。
あの日、学会にでかけていた父の主治医は、町医者ではあるが信頼の出来る
すぐれた医師だと、私は思っている(週に一度、大学病院に勤務していた)。
休日だったために、主治医と連絡がとれたのは、遅い時間になってしまった。
父の主治医は、深夜の私からの切ない相談に、誠意をもって応えてくれたが、
あの日、私には“たよれる人”が誰もいなかった。
「あの時、どうしたらよかったのか」・・・今も胸が締め付けられる。
何も変わっていない。 今もそうだ。
「たらいまわし」のニュースが相次ぎ、人々は原因不明の理由によって
この世から去る人が相次いでいる。
昨日は、六病院から断わられ、たらいまわしされた患者の痛ましい記事を
読み、父のときのことが思い出されたのだ。
「病床満室」って何?
(満室かどうかなんて、患者の病状を聞く前に返事ができることだろう?!)
医師不足? なぜ?
なぜ医師不足になる現状が、日本には現存するのか!
医師の本分とは、何?
何を優先して、何を大切だと考えているのだろうか?
個々の医師の自覚にたよるしかないのか?
医師育成教育に、問題はないのか?
医師である前に、人としての人格教育はなされているのだろうか?
病院って、何なの?
どういう場所なの?
救急車を道端に止めて、交渉を重ねる救急隊員には申し訳ないが・・・
そのやりとりには、日本の医療現場の背景と、不本意な感情が沸き起こる、
非常に複雑な「現実」を感じる。
そのやりとりを聴いているだけで、全てがおぼろげに見えてきて、
我が愛する父親の「命の重さ」を、測られているような錯覚に陥る。
人間誰もが「平等である」はずなのに、実際はそうではない。
これが「現実」なのだ。
日本の人々が、誰もが経験しなければならないかもしれない現実なのだ。
どうしたら、一人でも多くの人が尊厳ある「死」を迎えられるのだろう。
家族は、すべてを納得して、見送ることができるのだろう。
「死」は、突然に“やってくる”。
患者も、家族も、弱い立場の人間なのだ。
誰かが守ってくれないのであれば、体制や規制を変えるべきではないのか。
あらゆる現実を見落とし、それも意図的に見過ごし、
自分の立場を守ることに執着し、国民に何の説明責任も果たさない政治が
こころもとない。
国民にとって、医療体制は、大きな生活の基盤を支える部分である。
現場の声をきいてくれる人や機関は、存在しないのか・・・。
もっと、もっと、海外の成功例を検証し、できるところからやってほしい。
この問題に関しては、何年も前から同じようなことが指摘されていながら、
全く変わる気配がない。
今、国中が悲鳴をあげているのに、それが聞こえていないのだろうか・・・。