神々がやどる国

2010年10月30日 | 自分 -


今日は、新宿で映画を観て、買い物をするつもりだったが、(台風の到来が理由で)
急遽予定を変更して、増えた書籍の整理をすることにした。

その中に、旅行に行きたいと思って、なんとなく買った旅行情報誌「インド」があり、
また手を止め、読み込んでしまった。 
この本を買ったのは、今年の頭だったが、やはり魅力のある国だ。

しかし、熟考して、今はとにかく、手放すことにした。
(すべての書籍は、図書館に寄贈予定である)



インドは、とても興味のある国で、ずっと前から行きたかった場所だ。
過去の歴史を紐解くと、神秘的な興味がつきない国――。
未来に対しても、これからも経済成長を遂げ続け、希望と可能性にあふれた国――。

赤茶けた大地、喧騒と混沌とした雰囲気の中で、「時間」という概念をとらえてみると、
おそらく“現代人としての感覚”に包まれた「この生活」から、大きく逸脱した経験と、
信じがたい“富裕と貧困の現場(格差)”に 出逢うことは歴然としている。
だからこそ、行ってみたいのだ。

情報誌に掲載されている遺跡の写真だけでも、悠久の時を感じさせてくれる存在感がある。

厳しい自然と、深い文化や、神秘的な信仰が、日常に取り込まれているインドの人々には、
私が想像していない「価値観」が存在しているのだろうと、勝手に想像している。
あの場所で暮らす人々と、時間をかけて、冒険しながら、触れ合い続けることによって、
自分の内なる“奥深いところ”に、どのような変化が起きるのか・・・・・それとも・・・
何も変わらないのか・・・・・・これに興味があるのだ。


              


私が、ずっと思い描いて、憬れていたことは・・・・・
パックツアーではない「自由旅行」でなければ得られないような気がしていて、
そうでなければ、ゆったりと自分自身とも向き合うことができない印象がしていた。
新しい感覚とも出会えそうにないかもしれない・・・・・そんな“思い込み”もあった。
それは、“希望”でもあり、“直感のような確証のない感覚”だった。

昔は、外国に何度も長期の自由旅行(気まぐれな一人旅)に、出かけていた。
正直、その時のように、数ヶ月以上は滞在するつもりでいたのも事実だ。
近所のインド料理店のインドの人々と会話しながら、実際に様々な情報を集めていた。
しかし、若い頃なら まだしも、今となって「インド中を一人旅する」には、
ある程度の「基礎体力」と「精神力」が必要になってくるだろう。
※パックツアーで一週間出かけたという友人も、後半はお腹をこわしたと言う。
ストレスまみれの私の身体の中に、免疫力がどのぐらいあるのか・・・疑問なところだ。


今は・・・仕事の都合や、体力の減退を考えると、やはり心配事が付きまとう。
生活のこともあるし、急に現実的なことに、戻されていく自分に寂しさを覚えてしまうが、
仕方がない。 
容易に あきらめてしまわず、心の中で願っていれば、いつかは叶うような気がする。


だから、今は・・・
(今年の頭に買ったのだが) あえて、この本を手放そうと決心した。


     
    


瞑想の国:インドで、長期旅行――それも気まぐれな旅(その日の気分で過ごす)を、
いつかは実行してみたい。

しかし、今は、「時間」と「心の余裕」と「覚悟」がない。 
基礎体力にも自信がない。
やはり・・・もうしばらく先のことになりそうだ。


「生きる」という実感

2010年10月29日 | 自分 -


  人は、心から愛されて初めて、人を愛することができる人になる。
  そういう経験があってこその「愛」だと思う。


人は、他人から認められて初めて、心の中に余裕がもてるようになる。
ゆったりとした「ゆとり」のようなものは、簡単に手にすることは厳しい世の中だ。



              



私は、この揺れ動く「心の荒波」とともに、一生涯生きていかなければならない。
おそらく、誰もがそうだろう。

親子や夫婦、親友であったとしても、たとえどんなに親しい間柄であったとしても、
相手を知り尽くすことは不可能だ。
また、同じ言葉でも、其々に、個々の受け取るニュアンスは違うものだし、
他人と自分は、常に同じ感覚を抱いているとは限らない。
だから、確認が必要になってくるのかもしれない。
そして、その先には、相手の考えや感覚を理解して、受け容れる「ゆとり」のような
あたたかい気持ちが必要になってくる。
自分の知らない横顔や、ひた隠しにしていた世界に触れることもまた、あるだろう。
そういうときの自分こそが、相手にとっての自分そのものなのだ。



穏やかで、丁寧な日々を、和やかに過ごすためには、
「もっともっと努力が必要なのかもしれない」と、自分を客観的に判断して、そう思う。

自然と笑顔があふれて、自然と相手を受け止められるような包容力がほしい。

今の私は、「目にみえないモノ」に・・・・
とてつもないモノに操作されているのかもしれないと・・・感じる時がある。
それは、心地の良い境地ではない。

それに、大きな「不安」を感じていることも、冷静に自覚している。


ただ、昔と違うことは、胸の高鳴りのようなドキドキ感が取り戻せそうな予感がすること!
「生きている実感」というのは、「心の豊かさ」と一緒だが・・・・
「胸の鼓動を感じていられること」も、とても大切なことのような印象がしている。


仕事における気苦労

2010年10月28日 | 仕事 -

純然たる「仕事」の場合、親密な関係の人と手を組むと・・・・
いろいろと気苦労がある――という“現実”を、最近、よく感じる。

人のために、または知人のためを(密かに)思いやって行動することは美しい行為だ―と
感じてはいるが、度を過ぎると・・・自分に思わぬ「負荷」をかけていることがある。
また、最悪の状況は、「ビジネスライクな判断ができなくなる」ということだ。


一般的に、相手を「気遣うこと」や「思いやること」とは、全く別な次元の感情や感覚が
派生したときに、人は冷静な決断ができなくなってしまうのだと思う。

適度な良好な関係は、自分なりに「仕事のフィールド」の範囲内で構築できるものだが、
古くからの人間関係を壊すことができない――という気持ちが先行した場合・・・・
あらゆる「判断基準」がぶれてしまう。

結果よければ全てよし!
しかし、全てを完璧なまでに“よりよき状態”に保つことは、かなり難しいと感じる。

決断するのも、判断するのも、線をひくのも、「自分自身」だから、
やはり「冷静にわが身を見据える力(経験)」は、大切な要素だと感じている。


常に自分中心な人間は、周りの協調体制を壊すし、人から好かれる関係にも成りえない。
だけれども、そういう人に、振り回されること自体、あってはならないことである。



現実には、「思い通りにいくものではない」ということを認識しつつも・・・
あえて、言いたい。
「自分の仕事環境は、自分で守っていくものだ」――と。

これは、自分自身を勇気付けるためにも、今の私には必要な言葉だと思う。

アイルトン・セナ

2010年10月26日 | 人物 -


あの “高潔な魂” は、一体 ・・・・・ どこから来ていたのだろう。


~「アイルトン・セナ」~
彼は、「孤高のドライバー」であり、人々から注目される「F1」の世界に籍をおきつつ、
他の誰よりも「限界まで追い詰めていく勇気(意志力)」に、いつも人々は熱狂した。
セナは、自分の意見や考えはもちろんのこと、感情やキャリア、「生」と「死」までも、
観衆と共有していた。 
そう、彼は「公然としたレースの場」で、常に厳しい「現実」と向き合っていたのだ。


プロフェッショナルとして、常に“極めていった生き様”は、とてもドラマチックだった。

「アイルトン・セナ」は、伝説の人である。




ずっと観たかったドキュメンタリー映画―「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」。
なぜ、今まで露出されなかったのかと疑問にも思ったが、家族の反対があったらしく、
納得のいく経緯もある。
事実が、きちんと事実として伝えられるかどうか・・・・、セナ・ファミリーにとっては、
大切なポイントになってくるからだ。
なぜなら、セナは、故国「ブラジル」の「英雄」であり、「希望の星」だった。
当時のブラジルは、社会問題や貧困問題が深刻化しており、今では考えられないぐらい
貧しさが漂う国だった。 
貧富の差も凄く、人々はセナを応援することで、自分自身を鼓舞していたのかもしれない。

ブラジルの国旗を常に振り続け、世界中から母国にメッセージを送り続けていたセナは、
やはりブラジルの「ヒーロー」だったのだ。
  「頑張れ~!ブラジル!」 
  「希望を捨てるな!ブラジルの人々よ!」
おそらく、その“偉業”と、彼の残した鮮烈なイメージは、今も変わらないことだろう。

セナ自身にも、突然の“物乞い”が多々続いたようだが・・・・セナはもっと深く考え、
貧困問題を解決するために、常に心を砕いて、子供たちのために活動をしていたようだ。



映画は、個人的なホームビデオや放送された映像などを中心にして編集されており、
CGだの3Dだのと~騒ぎ立てるこのご時勢に、画質の悪い映像で終始つなぎ通していた。
それでも、全く違和感はなく、かえって時代の雰囲気を味わうことができたように思う。
セナの全盛時代は、深夜に放送されるレースのテレビ中継しか知らなかったけれども、
今回の映画ではオフやレース前の「素顔のセナの表情」が、たくさん観られた。
家族優先で、セナ財団中心の目線での制作だったが、非常に貴重な映像もあったと思う。


―「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」。
当時の映像と、当時の現実を、ただ単に 駆け足で追いかけていくような記録映画だが、
私自身は、それはまさに “セナの人生そのもの” であるように感じた。

アイルトン・セナ本人が、結局は 「生き急いだ印象を持ってしまう人も多い」 だろう。


しかし、このドキュメンタリー映画を観て・・・
アイルトン、セナは・・・・本当の「プロフェッショナルなレーサー」だったのだと、
改めて、深く、感じ入った。
決して「逃げない姿勢」や、「レースに全てを捧げた人生」は、尋常ではないし・・・
業界を牽引していた「繊細な技術力」は、完璧主義的な性質を物語っているし、
それを表している逸話は、いくつも存在しているらしい。
常に高みを目指しながら、勝負にもこだわり、甘えることなく自分とも闘い続けていた。
ある意味で、「天才」だと言われるだけのことはある!


彼の言葉には、胸にささるものが幾つもあったが・・・普通の人から出るものではなく、
ある境界線を越えなければ経験できないような世界観を、言葉にしており・・・・
それは、アイルトン・セナの魅力でもあり、生き様からくる“境地”だったのだと思う。
彼の言葉を聴いていると、真っ向から「レース」や「命」に向き合っていることが判る。



しかし・・・正直な感想で言えば・・・・
肝心の“知りたい部分”に、映画では触れられていないのが、残念な部分でもあった。
彼が信頼をなくしていた事故のマシンと、コースについても、詳しく言及されず・・・
FIの世界には「常に政治色と経済的背景(お金)があった」ということは、つくづく
感じさせられた映画ではあったが、そういう複雑で、理不尽な現実にも切り込んでいない。
そんな巨大化したモンスターと戦い続けていたのが、世界王者「セナ」だったのに・・・。


カートレースに興じていたピュアだった青年が、F1の頂点に駆け上がっていくと同時に、
驚くべき“向かい風”と対峙することになる。
本田宗一郎さんも、もうこの世の人ではないけれど、いつか時間がたって・・・
セナ・ファミリー(セナ財団)の傷が癒えた頃に、是非とも「証言者」を集めて、
より丁寧で、克明な“人間的なセナ像”を(制約のない状況で)描いて欲しいものである。
違った視点で、厳しくて、より豊かな「アイルトン・セナ」と、出逢ってみたい。

おそらく、まだまだ露出していない「真実」が埋もれていることが予想される世界だ。





1994年――私は、彼の「死のクラッシュ」を、リアルタイムで、テレビ観戦していた。
深夜の出来事は、強い衝撃とともに、誰にも電話ができない時間帯だったがために、
ヘリコプターで搬送されてからも、ずっとチャンネルに釘付けだったのを覚えてる。
(F1好きの友達もいなかったし・・・・)
フジテレビの三宅アナウンサーが、泣きながら「セナが~! 頼む、生きていてくれ!」と
実況していたのを、「ただごとではない胸騒ぎ」を感じながら、私は観ていた。
あの気持ちを共有していたと言っても過言ではない。 
本当に、全く信じられないことだった。

そして、しばらく時間が経過してから・・・・ 三宅アナウンサーを真ん中にして、
解説の人や、レポーターの人とともに、三人の涙の「死亡報告」を・・・ 観た・・・。
(※このシーンは、短く編集されて、映画でも使われている)
それを観ながら、心が、そして、私自身が、冷たく固まっていくのを感じた。


34歳という若さで、逝ってしまった「アイルトン・セナ」の事故現場は、壮絶だった。
映画では、さらっと映像を流してくれたので、耐えられたが・・・・
当時は、刻々と処置が施されるセナの姿を見守るのは、非常に耐え難い時間だったものだ。
映画を観ながら、そのときの衝動が思い出されて、ずっと涙が止まらなかった・・・。


セナは、 (今でいうならば) とても「イケメン」で、魅力にあふれた男性。
ハンサムで、スマートな対応をしていたので、女性にもファンが多かった。それに・・・
日本(HONDA&CX 他)と縁が深かったので、他国よりファンが多かったと思う。
実際、オフシーズンのセナは、日本のバラエティ番組などにも、気さくに出演していた。

今夜も、映画館に飾られたポスターの前では、シャメしている男性があふれていた。


高橋大輔さんの滑り出し!

2010年10月24日 | マイブーム -

昨日と今日と、フィギアスケートに明け暮れた。
いや、「高橋大輔選手に明け暮れた」・・・と、はっきりと言うべきだろう。

グランプリシリーズの初戦となる「NHK杯」での優勝!
なによりも、すばらしい順調な滑り出しだった。


彼の表現力は、どんどんと高みにあがっていく・・・。
自信に裏打ちされた存在感が、強く伝わってくる。

滑らかに、優雅で、優しく、そして、激しく、けだるく、切なく、
セクシーで、たまらない「世界観」が、彼の氷上にだけ存在する!
彼にしか“かもしだせない雰囲気”が、確実に“ある”のだ。


高橋選手は、一つ一つの技や表現が丁寧で、より豊かな雰囲気がするのと、
氷の上に立ったときの時間があっという間に過ぎていく。
実際、本人の身体は硬いのに・・・柔軟な印象がするすべりは、群を抜いている。
おそらく、表現力が素晴らしいと評される所以だ。 
卓越した存在感は、他の追随を許さない。

一番良い時期に怪我で休んだことが「吉」とでるか、「小吉」とでるか・・・
これからの彼の人生を、ず~っと後で振り返ったときに、今年の「今」は、おそらく
非常に重要な時期なのだろうと、おぼろげに感じてしまう。

やはり、来年の世界選手権まで、目が離せそうにない。


行動を起こす「きっかけ」

2010年10月24日 | 自分 -

高橋大輔さんのシーズンがスタートした!
フィギアスケート:NHK杯が、名古屋で、昨日から始まった。
それで、高橋大輔さんのSP首位に気分を良くして、近くの園芸店で植物を購入!!
昨日は、いくつか華やかな鉢をアレンジして、堆肥も入れて、植え替えた。
玄関先の雑草がすっきりと取り払われて、明るい花々の鉢が家を囲んでいる。
陶器の大き目の鉢には、真ん中に「細長い緑のゴールドクレスト」をそびえたたせて、
周りに「真っ赤なミニバラ」を三つ植えて、かなり彩のある豪華な感じに仕上がった。
そうしたら、私も「大ちゃんのように 少しだけ頑張ってみるか」と思い出して・・・
我が家の1階の隅からスミまでのホコリを払い落として、洗剤を使って汚れを落とし、
今日の「男子フリー」に備えて、居住まいを正して、テレビ観戦をすることにした。


わが部屋は、これまで茶色をメインとして、テキスタイルも統一していた。
それを、このたびは明るい色味を増やして、カーテンもテーブルクロスもバスマットも
すべてのテキスタイルを落ち着いた(癒し系の)色に変えた。

もともと若い頃に、直感で衝動買いをしてオーダーしたラブチェアーも(実は)黒と赤で、
非常にデザイン性にすぐれているものだが、形と色は衝撃的!
さすが「若さ」ゆえにオーダーしたデザインだと、今更ながら思う・・・。
その雰囲気に圧するかのごとく、今は、威圧感を覚えるため、白いカバーをかけている。

家具は、昔から使っているイギリスのアンティック家具(オーク材を使った家具)なので、
どうしても個性的(ツイスト風)で思い出深いので、家具をとても大事にしてきた。
現在のような円の状態ではなかったので、当時はとても高価な商品だった。
180年前のイギリスの農家で使われていた椅子を、塗り替え、張り替え、現在の価格の
およそ二倍以上ぐらいでは購入しているだろう。
テーブルも、椅子も、ワードローブも、折りたたみテーブルも、みんなそうだ。
徐々に、買い足して、そろえて来た念願の家具なのだ。
時々は、磨いて、ワックスも自分でかけて、風合いが出てきた“愛着のあるもの”ばかり!

そのために、家具と比べると浮いていしまう小物があって、なんとなく気は遣ってきたが、
今回は(それさえも考えず)これまで買い溜めた多くのグッズを破棄するために、一期に
ばっさりと整理してしまった。
現在は、ごみ袋の中に分別して納まっている。
潜在的に「身軽になりたい」という気持ちもあってのことだったのだと思う。
それに、必要ではないものは、やはり何年経っても(悲しいかな?!)使わないのだ。



昨日は・・・まるで、年末の大掃除の様相だった・・・。
最近、「やりたいなぁ~」とずっと思いながら、やれなかったことに手がつけられて、
とても嬉しかった。  これまで、(なんとなくの理由で)ずっと忙しかったし、
時間があっても気分がのらないと、その一歩が踏み出せなくて・・・。
(年を重ねてくると、無理もきかず、どうしても身体を休ませたくなってしまう)
しかし、その一歩を踏み出す「きっかけ」なんて、「何でも良いのだなぁ~」と
今回は思ったりもした。 
             <※今回の「きっかけ」は、高橋大輔さんの演技!>

たいそうな理由などはなく、大掃除をやらなかったのは、全て自分が原因だったのだ。
言い訳で、ただ“逃げていただけの過去”は、歴然と「現実」を見据えさせてくれる。



ところで・・・部屋の整理をしてみて、
必要ではない書類やグッズを整理したら、とても閑散としているような印象がしたが、
実は「心地の良い開放感がある」ことに気がついた・・・。



「気分を変える」ための「模様替え」というのは、ある意味で大胆な勇気が必要だ。
しかし、まるで、同じ家で、引越しをしたかのような“違う感覚”を感じられるのが、
何よりも新鮮であり、楽しいことである。
まるで、密かに「自分も新しいスタートを切れるかのような錯覚を感じられる」みたいで、
わくわくもする。 汚れた“何か”が、自分から抜け落ちたような雰囲気がするからだ。


そして、単純なことだが・・・・
部屋をきれいにすると・・・・「心」まで綺麗になったように感じる。

「エイヤッ!」という掛け声と、ある一定の時間が必要だが・・・・
“やるにはやるだけの価値があることだった!”と、今はしみじみと感じている。



高橋大輔さんの今日のフリーがよければ、また奮起(2階?)できるのだけれど・・・・
頑張ってほしいものだ。
彼の演技を観ると、確実に高揚して、私の中に覇気ある「生気」が、みなぎってくる。

今日のフリープログラムも応援しながら、彼の演技を、心から楽しみたい。
結果よりも、彼の満足した笑顔が何よりもうれしい。


「親知らず」の猛威

2010年10月21日 | 出来事 -

体力が弱っているのだろうか・・・と、思っているのだが・・・・
疲れたときに炎症が起こる「親知らず」。

すでに、4~5日間は、朝晩と炎症剤と鎮静剤を服用しているのに、
まったく違和感がとれず、食事時は「おいしい」と感じることができない。

奥歯のじくじくとした痛みは、ものをかむたびに「じくじく」するからだ。

これまでは、だいたい5日ぐらいで、おさまっていた炎症なので、
もうそろそろと甘く考えていたが、なかなか「親知らず」の猛威は止めをしらない。
もらってきた薬も、そこをつきそうな勢いで、
全く自分の身体なのに、大事にしてあげたいと思っているのに、
いつも(誰でもそうだと思うが)体調不良は、突然にやってくる。
しかし、それには、必ず原因があるというもので、
その原因を改善しないと、また同じような時間を過ごさなければならない。

日帰り出張

2010年10月19日 | 出来事 -

若い頃には、何も感じていなかった「日帰り出張」。
早朝の6時には家を出て、一緒に行くメンバーをお迎え合流して、羽田に向かう。
あの頃は、家を空ける度に洗濯物を残さず、部屋もきれいにして出かけていた。
飛行機に乗ることに、ある程度の恐怖心があったからだと思う。
「生きて帰ること」が、当然のことなのに、とても有難く感じたものである。

当時は・・・週に、(多いときには)5日間も「日帰り出張」をしたぐらいだ。
全国:都道府県をまたにかけて、飛び回っていた頃が、本当に懐かしい。



今日は、久しぶりの「日帰り出張」。
なぜかお決まりの“早起き”を、ゆる~いプレッシャーの中、成し遂げる!!

日帰り出張の始まりは、朝早くから始まる。
寝坊や、遅刻は、もってのほかである。



時間は、皆に平等に与えられたものなのに・・・・
今日のような日には、そんなイメージがないぐらい、あわただしい朝を過ごす。


今日も、無事に、帰宅できますように・・・・。心の底で、手を合わせる。
最近の私は、出かけるたびに部屋をきれいにするような繊細さに欠けている(笑)から、
余計に感じる「無事なる帰還」!
チリの救出事件から、潜在的なものが影響されているのか・・・。(よくわからない)

とにかく、大いなる収穫があって、健康に帰ってこれますように!!


「人生」という道

2010年10月18日 | 言葉 -


道はよいこともあり、悪いこともあり、
上りもあれば下りもあります。
安らかなことは、滅多にありません。
風はいつも後から吹くわけではない。
道で会うのが、すべて友人であるわけでもない。

今までにも名だたる困難に出会ったし、今後どんな目にあうのか、
分ったものではない。

けれども、要するに、
“善人は悩まねばならない”と昔から言われていることは、
本当だと悟りました。


              < by ジョン・バニヤン (聖職者・英文学者) >




人は、茨のような人生を歩むことを決心したときから、ある覚悟が必要になります。
自分の足で一歩一歩進むうちに、自然と感じたり、見えてくることもあります。
それが、素直に受け容れられたとき、自分の「人生」にも、少しばかりの光が、
さしてくるのかもしれません。
この身が抱える「己自身」を見極め、それを受容する「寛容さ」が備わってくるとき、
より美しく、新しい景色と、出会う可能性が高まってくるのかもしれません。

縛られている「不安」に囚われず、「現実と向き合うことの大切さ」と、そこから
得られた一つの教訓は、偽りのない“わが姿”を映し出していることも多いようです。
だから、そういう“ありのままの現実”と、「素直な気持ちで対峙する勇気」は、
常にもっていたい―と思っていますが・・・・
いつも、自分とピュアな気持ちで対峙できるわけでもないのが、現実でもあり・・・
そのジレンマは、限りなく、切ない真実でもあります。


人類がおよぼした影響

2010年10月17日 | 環境 -

宇宙が誕生して、139億年。 

そして、地球が誕生して、46億年。

そのうちで、人類が登場してからは、わずか10万年。




しかし、ここに脅威の現実がある。

現在の「一年」は・・・地球の惑星からみれば「10万年」に値するそうである。

惑星科学者の松井孝典氏 曰く、
地球が自然な状態であれば10万年で発生したエントロピーを、
たった一年で生み出しているそうだ。
つまり、人類が登場してからと同様の年月のエントロピーを、今は・・・
たった“一年で増大させているのだ” と・・・。

  
       ※ 「エントロピー」とは、物や熱の属性で、
          それらに対する拡散の程度を表す示量性状態量。
          物質や熱の拡散の程度を示すバロメーターとなる。




地球は、ものすごいスピードで老いている。
本来の「循環システム」をめちゃくちゃにしてしまう生物~人類が出現したことで、
五億年持つはずだった生命圏が 危機に瀕している。
現在は「人類の生存に適さない環境が、50~100年の内に到来するだろう」という
計算さえ存在するそうである。
地球もまた、着実に、その命の期限を告げられているようなものだ。


私たちには、果たして「何ができるのだろう」。
未来に対する概念と、視野を広く持ち・・・・熟考していく必要がありそうだ。


「最高の教育」

2010年10月15日 | 言葉 -


    世界で最高の教育は、名人が仕事をしているところを見ることだ。

      
                           <by マイケル・ジャクソン>



    名人の仕事には 感動があります。
    思考から派出したものが 知恵なら・・・
    愛から派出したものは 感動です・・・
    愛は、連結して広がります。

  
    
   昨日、チリの鉱山からの救出作戦(落盤事故)から、多くのものを学びました。
   気が遠くなる時間を、狭い空間の中で、そして、少ない食料をシェアし合い、
   生還した人々の死闘には、リーダーシップを如何なく発揮したある人の統率力が
   このような結果を導いたと 言えなくもないでしょう。
   悲惨な現実に直面しても尚、生きる希望を捨てず、食料配分から役割分担までを
   冷静に決めて、閉じ込められた33人の命を、69日ぶりに地上へと導きました。
   まさに「奇跡の生還」と、世界中の人々が、大騒ぎするだけのことはある大事件。
   彼らが実際に経験して、最初の不安や諍いを超えて、「団結力」を芽生えさせ、
   手にした結果が、生還というすばらしいものでした。
   一人一人の自律性と、皆の信頼からくる絆の強さが、あらゆる困難を乗り越え、
   新しい人生を与えられることになったのでしょう。
   現代では考えられないような生活を強いられた生還者の中には、強い PDSD に
   苦しめられている人もいるようで、これから迎えなければならない大切な時間を、
   (マスコミなどが)彼らの生活を脅かすことのないように、ただ祈るのみです。
   
   チリが抱える様々な問題も浮きぼりになりましたが、これは世界に共通する事実で
   あるかもしれません。
   これを機に、「世界市民」として、心して感じる必要があると思います。
   なぜならば、チリの鉱山で採掘された鉄を利用しているのは、わが国:日本も
   そうだからです。
    

「親知らず」の脅威

2010年10月13日 | 出来事 -

今年の年頭に掲げた目標の一つ。

★「今年は、親知らずを抜く!」★

これは、まだ達成できていない。



私は、身体が疲れてくると、右の奥歯(親知らず)が炎症を起こして、じくじくと
痛んでくる。 20年ぐらい前から、ずっとそうである。
そのたびに、薬で炎症を抑え、だましだまし「親知らず」を抜かずに、今まできた。
歯医者は大嫌いだ。 抜歯なんて、話にならない・・・そう思っていたからだ。



実際、数日前から、軽い「じくじく」が起こっていた。
右奥の親知らずが、桜島のように噴火して、その痛みは どんどんと強さを増している。

昔から「親知らず」というものは・・・・
親不孝をしていると、痛んでくると言われている。
「じくじく」がはじまると、つい、それを思い出してしまう。



「我慢するよりも、薬を飲みなさい! 」

天の声か!
そういう声が聞こえたので、今日は消炎剤&痛み止めを処方してもらいに行ってこよう。
久しぶりに、父の主治医にも会って、最近の「モヤモヤ感」を吐き出してこようかと
思っている。
先生は、いつも笑っているか、適切なアドバイスをくれるか・・・そのどちらかである。


貧乏性の性質

2010年10月12日 | 自分 -

今朝10時から打ち合わせをしたメンバーの一人は、いつもお世話になっている人で、
先週は長期で海外出張に出かけていた。
それなのに、この週末には、ひじの手術をしたとかで、「腕が曲がらないんですよ。
生活に不便で、ホント、困っちゃって!」と、(会うなり) さりげなく報告された。


なんだかんだと愚痴を言いながら、惰性のように仕事をしている自分が、急に
恥ずかしくなるぐらい・・・・「男性は企業戦士で、自分の家族を養うために、
いろいろな我慢をして、精一杯に頑張っているのだなぁ」と しみじみ感じた。

気楽な一人暮らしで、私一人が生活していければ良いだけの立場なんて、思えば・・・・
なんと“負担の少ない境遇だろう”と感じた。



だからではないが・・・・
夜の21時近くまで夕食も食べられないくらい、動き回っていたら・・・・突然・・・
電車の中で、ふら~っとする(たちくらみのような)感覚を、久しぶりに味わった。
最近の「大家さんがらみの問題勃発から終息まで」と「仕事上のストレスの積み重ね」と、
会社での「電話確認の時間が長かったせいだ」と思う。
私は、デスクワークのときは、人よりもかなり素早くて、料理をするときのように、
電話を切ったら、すぐに次の相手のダイアルを押している。 
行動が早すぎるので、連動して脳細胞も疲れてしまうのだと想像する・・・。


21時すぎに、駒込駅前のデニーズに飛び込み、とにかく何かを食べようとしたが、
食欲がないために「決められない」。
脳細胞と身体と心が、機能していないような状態だった。
野菜を中心にした雑炊など諸々をオーダーしたが、疲れを取るのは甘味に限るようだ。
結局、キオスクで買ったチョコレート二粒が、シャキッとさせてくれたような気がした。



自分なりに――「頑張り過ぎないこと」――
ずいぶん前に、そう決めたのに・・・・
いつしか頑張っている自分がいる。


とにかく、できる限り「休息」をとろう。
そして、心の底から、自分を大切にしよう。

元気を取り戻したら、また、頑張れば良いんだから・・・・。


生物多様性条約会議

2010年10月11日 | 環境 -

少し前から徐々に盛り上がり、今日にいたっては一日中「生物多様性」の連続だった。

それは、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が、今日から約3週間にわたって
愛知県名古屋市で開催されるからだ。
条約の締約国である約190カ国が参加し、前回に決定した目標についての経過報告や、
状況を検証するためで、同時に、新しい目標に関する話し合いが行われるという。


「生物の多様性」といっても、一言では表すことができないぐらい複雑に絡み合って、
3000万種以上といわれる命が、自然界の中で繋がりあっているのが現実だ。
しかし、環境の変化とともに、自然界のあらゆ生物が絶滅の危機に瀕している実態や、
日本だけでいうならば外来種に勢力をうばわれ、衰退していく昔ながらの「命」について
より理解を深め、「自然界との共生」をイメージするところからはじめるべきだろう。
「著しい都市化」や「文明の発展」がもたらした「地球環境破壊」や「自然の変化」は、
あらゆる多くの生き物たちの生息域さえも脅かしているのだ。



傲慢な人間たちは、いつも自分中心の価値観で判断をしてしまうが・・・・
「生き物たちのつながりの大切さ」について、基本的なところから語り合うことは、
大切なことである。
人間の都合だけではなく、あらゆる生き物たちの生息環境にも、少しばかりの配慮を
しながら、その「生」を尊重してゆく時代が、やっときたようだ。
そうすれば・・・・(もしかしたら)地球の構造や、自然界のサイクルとともに、
人類は「生きることの何たるか」についても、深く考えることができるかもしれない。
当然ながら、「自然との共生」のあり方は、非常に大切な課題だ。
 
それも条件が違う世界中の人々が一同に介して、同じ視点を持ち、理解しあいながら、
大いなる未来へのビジョンを確認していくことは、相互間にとっても、地球にとっても
好ましいことだと思う。

つながっている「命」は、其々が複雑に関係して、自然界のシステムを構築しており、
魅惑的に影響しあっていて・・・・それは地球全体に広がっている。


このような機会をきっかけとして・・・・
先進国と発展途上国の「歴史的背景」や「経済落差」もそうだが、本質論としては、
多種多様な「自然の恩恵」に支えられて、“私たちの生活が成り立っている”ことを、
地球上に生きている一人一人が 改めて感じることが 何より重要だと思う。

なぜならば、「豊かな地球の自然環境が、人間の健康をも育んでくれる」ということを
再認識すると共に、人類の生活は生物の多様性によって多くの恩恵を頂いているからだ。


住環境のトラブル

2010年10月10日 | 出来事 -

私は、今、賃貸契約で、一戸建ての庭付き(小さな家:3LDK)に住んでいる。

契約更新は、2度はしているので、もうこの家には5年以上暮らしている。

現在の住まいに引越して直ぐに、この家の大家さん関連で大トラブルがあったのだが、
何かあるたびに、大家さんとは問題が派生する。
今回も、この家がらみで、先週から不快なやりとりが何度もあった。
肉体的に疲れていることもあり、私の精神的キャパシティはパンク寸前だった。

管理をまかされている不動産屋さんにも出向いて、克明に説明をしたが・・・
とにかく「こと」は常に混乱を極めることになり、私は精神的に追い詰められる。
というのは、相手が(常識的な)話し合いが持てる人ではないからだ。



数年前のやりとりを簡単に説明すると・・・・
迷惑条例にかかってくるような「妄想」「言いがかり」を、毎日、電話で攻め立てられ、
最後は「うそつき~~」と絶叫して、ガチャンと一方的に切るのが大家さんのやり方!
それも、一日に何度も何度も、電話をしてきて、同じようなことを叫び倒していた。
この状況が、連続して何日も続いた。
当方が管理不動産担当に抗議をすると、その後は「いたずら電話(無言電話)」が増えた。
何もいわずに、ガチャンと切れる。 これが、頻繁に、繰り返されるのだ。
それが大家さんの仕業とは明確な証拠がないが、自宅の電話番号を知っているのは、
限られた人だけで、友人&知人は何かあれば携帯に電話をくれるので問題はないし、
とにかく5分ごとなどの頻度で10回以上も電話を鳴らすような友人はいないはずだ。

問題の大家さんとは、老齢の女性で、今言っているのは貸主契約者の母親のことである。
その母親は、男性用下着姿(ステテコ)で、奇声と一緒にホースで水を辺りにばらまき、
帰宅時には 薄手の下着姿(上下)で電車に乗る。足もとは裸足だったりもした。
手にバケツだけを手にしていたという目撃談もあった。
また、我が家の敷地内にも出入りして、勝手に手を入れたり、何か作業をしたりしていた。
私が気配を感じた時には、すでに敷地内に入っており、玄関のチャイムを鳴らす。
出て行くと、理解不能な言いがかりを、私や周囲の人に浴びせかけるのだ。
毎日が驚きの連続で、“常識的な精神状態である人とは考えられない行為”ばかりで、
その一家と付き合ったことのある人たちは皆、同じような感想と問題を抱えてきた。

実際、この大家さんが引き起こした問題は、我が家だけではなく、近所の幾つかの家にも
及んでおり、当時は「迷惑条例」に則り、警察署に訴えようと話していたぐらいだった。

私自身は、まず調停申し立てをして、貸主契約者である息子さんを呼び出して、法的に
話し合うつもりで準備をしていたら、「息子さんも問題がある人だ」と判明した。
人と会っても、挨拶できない状態で、あまり人前にも出てこないらしい。
結局は、耳の遠い父親が謝罪をして、「迷惑をかけない」と約束してもらい、どうにか
現在に至っているというわけである。



とにかく、ここに引越しをしてから、我が自宅の電話は、(怖くて)使えない。
私から電話をかけるときは、使用するが・・・・かかってきた電話は全然でないし、
まず親機に関しては音がならないようにセットしている。
しかし、かけるときは子機を使うこともあるし、常にずっと被害があるわけではないので、
何かあったときには、我慢しなければならないのが、電話の子機。
というのは、子機の呼び出し音は消せないので、バッテリーが切れるまでは、どうしても
呼び出し音が耳についてしまう。
最近も、9時前からずっと鳴っていたのが、8時からになり、最後は7時前からになった。
自宅作業日は地獄のようなイライラがつのるぐらいの頻度で、何度も何度も 電話が鳴る。




数日前のことだ。
最終的に、私は不動産屋さんに、逆鱗状態で自分の意見と現状を伝えた。

不動屋さんが言うのはいつも同じで、「いやならお引越しをされたら?」だ。
引越しをするのは良いけれど(前から考えてはいるが)・・・・大家さんの不備によって
引越し費用が当方にかかるのは適切ではないと私は考え、あえて強い口調で主張する。
「泣き寝入りをして、引越しに かかる費用を私が出すのですか?
 それとも、大家さんが きちんと全額を負担してくださるのですか?
 責任をもって、交渉をしてくださるのですか?
 問題は大家さんの行動にあり、私の住環境が脅かされ、私の仕事にも支障があると
 いうことを ご理解していただいての発言ですか?」
そう言うと、管理不動産会社の人は、黙ってしまう・・・・。




最近のトラブルは、やっと終息を迎えそうだ。
それでも、2~3週間の時間を要する問題で、諸々の経緯と結果を、近所の人々にも
説明していかなければならない。
大家さんの問題もそうだが、2年近い前に、隣に引っ越してきた一家が・・・まさに、
不安を抱えざるを得ないトラブル一家なので、余計に私の住環境は平穏ではない。
この隣家の大家さんも、我が家と同じ人で、トラブル人 Vs トラブル人の構図だ。


なぜ、私がこんなことまでやらなくてはならないのか・・・と思うこともしばしばだが、
近所の皆さんにとっても不安な問題なので、どうしても私に事実確認が来てしまう。
無視ができない付き合いがあるため、仕方なしにやっているが、そういうこと事態、
私にとっては、とても遺憾なことである。




私は、精神疾患者に対する差別意識などは持っていないが、そういう人が決定権を持ち、
社会の中で他人への迷惑行為を繰り返すことを放置しておくことには、異論がある。
被害を受けてみると、しみじみと、その理不尽さを感じるからだ。
社会生活を、ある一定の常識観念と共に、成し遂げることができないのであれば、
何らかの対策をこうじるべきではないかと思う今日この頃・・・・。

最近は、常軌を逸している事件も多いだけに、日常生活に対する危機感がぬぐえない。

正直、今の住環境は、あまり芳しくないと思っている。
熟考の余地のある問題である。