応援しているテニスプレイヤー

2012年05月17日 | 人物 -

あと10日もしたら、 「全仏オープン」 が はじまる。

最近は、ロンドンオリンピック出場も決定した錦織圭選手や、
クルム伊達公子選手など、テニス鑑賞も、毎年、熱を帯びてきた。
鑑賞している内に、徐々にホットになるのが・・・ テニスである。


私は、イギリスのウインブルドンに行ったことがあるというだけで、
いつしか「テニス」が特別のスポーツになった。
数十年前から 「ウインブルドン テニス」 を、 毎年必ず観ていて、
少しずつ「テニス」というスポーツに興味がわいたのだと思う。
そして、いつしかグランドスラムに 意識と興味がいき、数年が過ぎた。
昔は、ハリウッド女優と付き合ったり、有名人と結婚したり・・・・
テニス選手も、かなり派手だったように思う。
そんな人気選手が、出ては消えて、今はかなり足が地についたような
プレイヤーが多いと思う。


いつも、私の視線の先にいるのは、「ロジャー・フェデラ―」。
気がついたら、「世界最高のプレイヤー」 と呼ばれるぐらいの実績を
積み上げて、(年を経るごとに) 雲の上の人になってしまった。

彼が世界を背負うようになったのは、2003年にアンドレ・アガシを、
2004年にマラト・サフィンを破って以降で、世界ランク一位となり、
確実に彼の転機となったと言える・・・。わずか21歳や22歳の頃だ。
しかし、その前から、有名プレイヤーを何度か破ったりしていた。
いくつかの印象的なゲームをのりこえてきて、大きく成長した彼は、
これまで数限りない記録を塗り替えてきた人だ。

荒れ狂っていた頃の・・・あまりに若い頃の彼は、全く記憶には無い。
写真で見ると、長髪の気が荒い頃の彼よりも、比べようがないくらい、
今の彼の方が素敵だ。
精神的な安定をはかり、努力して、手に入れてから、見かけも追随した。
そして、何よりもテニスの安定度は、素晴らしい。
コートでの精神的コントロールが、誰よりも上手いのかもしれない。


冷静に、最初の頃を思い返せば・・・
「スイス」は、私の大好きな国だったので、フェデラ―は特別な存在に
感じられたのかもしれない。 
勿論、外見から受け取れる雰囲気が 一番だけれど、まったくの素人が、
魅せられる要因なんて、最初は 非常に 短絡的なきっかけである。
ようするに、コートに立った時の雰囲気だ。テニスに対峙する彼の姿。

何事にも揺るがない精神性と、安定した技術力は、フェデラ―の真骨頂である。



テニスをしている人で、“ フェデラ―を知らない人はいないだろう ” と
思えるぐらい有名なプレイヤーだ。
 

 

Roger Federer


フェデラ―の年齢は、30歳。
激闘を重ねてきたナダルは、まだ25歳・・・。
セルビア出身のドラマチック・プレイヤー、ショコビッチは24歳・・・。


実は「そろそろ30歳だなぁ~」と思った途端に、怪我がきっかけで、
結果が出なくなってしまった。
昨年は、一昨年以上に、成績がふるわず、決勝戦にもいけなくなった。
負ける時も、いつもスマートなフェデラ―。 
悔しがるような雰囲気など見せない。
その精神的なコントロールができているように見える部分が、ときとして
面白さがないようにも感じるし、反して、品格があるようにも感じる。


もう完全に下降線なのかと思った途端、「闘争心」を見せつけてくれた。
今回も スペインで優勝を手にしたことで、世界ランクも 2位に 返り咲いた。
マスターズの大会で、20勝目!
これはナダルと並んでの男子ツアー 史上最多勝(マスターズ優勝)となった。
まだまだ しばらくは 現役の真ん中にいてくれそうだ。


私にとってのロジャー・フェデラ―は、イチローと一緒で、一年、一年、
これからの行程を見届けることが、何よりも楽しみな選手である。
アスリートとしてよりも、“ 人間として注目しているからこそだ ” と思う。
勝負も、結果に対する反応も、そして、これから迎えるであろう引退も・・・。
フェデラ―やイチローの「人生」は、本当に興味深く捉えている。


2009年には、かわいい双子のパパになったフェデラ―。
彼のモチベーションは 切れていないと解く。



ロジャー・フェデラ―は、ボランティアにも、社会貢献にも、活動を絶やさない。
私が惹かれる人は、必ず、そういうところにも意識がいくのが共通している。
フェデラ―のスマートな意識は、コートの上にも、しっかりと出ている・・・。

生き方も、考え方も、プレースタイルも、みんな、“微妙に連動している” という
ことなのだと思う。 
彼自身は、自分の「人間としての成長」を、具体的な理由にあげている。

そして、何よりも私が魅せられる要因は・・・
彼は、勝つことを目的としながらも、自分の精神性をコントロールすることに
成功した数少ないプレイヤーだからだ。
若い頃から、社会貢献活動にも真摯に取り組んでいるプレイヤーで、誰よりも
尊敬に値する、それでいて非常に気さくで人間的な人! ・・・それが、フェデラ―。




 ● 昨秋のスイス大会  (フェデラー:優勝/錦織:準優勝)
   この時、フェデラ―の横に日本の選手が立っていることが
   不思議でならないくらい、稀有な感覚だった。
   日本にも、やっとテニスプレイヤーのスターが出てきた!

    ※錦織圭選手が、一期に世界ランクをあげた試合


※現在、錦織圭選手は故障中で、「全仏オープン」の参加は不参加?!


特別な存在の思想家

2012年03月16日 | 人物 -

誰にとっても、特別な立場にいる人が、必ずいるもので・・・・
3月16日に往生なさった思想家の吉本隆明さんはその一人だ。

数十年前から先輩に配されて、吉本さんの本を読むことが・・・
一つのステイタスのように感じられていたような風潮があった。
たとえ理解できなくても、最後まで読むことが一つの挑戦であり、
その内容について論じている先輩方の酒の席での会話を、私は
ただ聞いているだけで、時間が過ぎていっていた時期があった。
あの頃の先輩達の間では、喧嘩の言葉にさえ「吉本隆明」さんが
登場するということが しばしばあった。
「吉本隆明も語れないで、勝手なことを言うんじゃないよ!」

仕事で知り合った方にお聞きしたのは、大学時代の見栄のはり方で、
「講義本と一緒に(読みもしないのに)吉本隆明さんの本を、小脇に
かかえてキャンパスを歩く」というものだった・・・。
それだけ、(当時の)日本の学生たちに影響を与えていた人だったのだ。

吉本さんの著書は、知識がなければ理解できず、その稚拙な自分に
気がついた状態で読み進めるのは・・・非常に辛い作業になる。
そのために、まるで「○×検査薬」のような存在だったようにも思う。

膨大な著書の中には完全に理解できないモノもたくさんあったが、
それでも「吉本隆明」という名前があれば、いつも必ず手にとって
目次はチェックしたものだ。
晩年まで創作活動は、本当に活発だった。



私の大好きな演劇界では、最初に理解できない芝居だと思ったのが、
彗星のごとく現れた野田秀樹さんの芝居(劇団主宰時代)だった。
東大出身の新進気鋭の野田さんの脚本は、全く理解できず、ただ、
難しい言葉がキャッチボールのように羅列されているので・・・
観劇後に「わからなかった」と言うのが恥かしいというような風潮が
あった時代が存在したように思う。
それ以降、どんどんとわかりやすく、演出だけでも注目できる超才能人に
変貌したけれど、初見の印象は、本当に「わからない本(芝居)」だった。
観劇後、「わかんないね、何がいいたいのか。雰囲気だけがぁー!?」
と、大声で言っている私を、どれだけ多くの人が顔を見ていったか(笑)。
会場内では感想を言えない、言うと恥かしい・・・という・・・確実に、
“野田秀樹の芝居がわからないーなんて 言えない雰囲気 が 漂っていた”。

別役実さんの脚本は、完全に不条理劇なので、わからないのが当然で、
そういう “わからなさ” とは 質が違うために・・・
私は、初期の野田さんの脚本・演出作品には、いつも自問自答していた。
まぁ、単純に、どれだけの固有名詞と概念が理解できているかという
試験のようなもので、笑い処は笑えるのだけれど・・・当時の芝居にある
テーマ性やメッセージが乏しかったのが、私にはあわない理由でもあった。
芝居は、思想や論調と違って、心と感性で受け取るものだから・・・
そのステージの上が、全てなのだ。
琴線に触れたり、心が躍ったり、自然と涙があふれたり、感動したり・・・
そういうものこそ、私が、芝居に 本質的に求めているものだったから。




ある時代・・・吉本隆明さんの本は、非常に崇高なステイタスの一つで、
手にしているだけで「おお~」という雰囲気が学生の間で広まっていて、
何か「特別の存在」だったように思う。
実際に、そういう時代があった。
仲間内では、「よしもと りゅうめい」さんと呼んでいて、それもまた、
特別な人だったことを表わす呼び名でもある。
お嬢様が文壇にデビューした頃もまた、りゅうめいさんの娘さんと
いう生い立ちから特別の目線を投げていたように思う。

そういう存在だった。

昨年か一昨年だろうか・・・吉本隆明さんのインタビュー映像を、
何の構成も施さずに制作したテレビ番組を観たが・・・・
それはそれで、「吉本隆明さんの存在が前面に出ていた」と感じた。
うそのない論調と一緒で、暮らしぶりなども想像できるような映像で、
(体調の芳しくない中にもかかわらず) しっかりと主張していた。
私自身は、貴重な映像ドキュメンタリーだと感じたし、
「伝えたいことがある」 と吉本さんも話していらっしゃったし、
あのご高齢な方が「まだやりたいことがたくさんある」と語り・・・
私は居住まいを正して、画面に拝していたことを記憶している。



こうして、時代はめぐっていくのだと感じる。
吉本ばななさんのコメントを読んでいると泣けてきた・・・。

日本の思想界と、文壇に、大きな影響を与え続けた人だった。
しかし、私にとっては、「難しくて、わからない本を書く人」だったし、
常に共感できる論調でもなかったが・・・
それも時代の牽引者ゆえのことであり、私の中の意見を引き出してもらえる
貴重な存在でもあった。
カリスマ的な衝撃発言に反して、品のある穏やかな口調が思い出される。

今、著書をあらためて読んでみたら、少しは理解できるだろうか・・・・。

合掌。


JORGE DONN の「ボレロ」

2012年03月07日 | 人物 -

「ボレロ」を聴くたびに、どうしても頭をよぎるのが、
「20世紀バレエ団」 の ダンサー「ジョルジュ・ドン」 だ。


一世を風靡した「モーリス・ベジャール」の黄金期には、彼の存在が
無くてはならないものとして定着していた。
斬新で前衛的なベジャールの振付と、舞台総合芸術の表現者として、
バレエダンサー「ジョルジュ・ドン」 は欠かせなかったのだ・・・。


私が、ドンの「ボレロ」 を 最初に観たのはテレビだったはずだが、
あまりにも衝撃的だった。
そのインパクトは、知人宅で鑑賞したLDのマリア・カラスに匹敵する。

記憶の中に残る “強烈な印象” が、今も断片的にリフレインする。

思い込みを打ち破られたかのような存在感があり、あの独自性、表情、
強靭な身体の線、・・・そして、体毛(胸毛)さえもが、まるで
衣装のように思えるほど・・・・個性的で、且つ、衝撃的だった。


「ボレロ」の舞台は、他のダンサーでは鑑賞したが、結局は欲求不満で、
心の中で「ジョルジュ・ドン」の存在がぬぐえないままだった・・・。
あまりにも、最初に観た時のインパクトが強すぎたのだと思う。



彼が出演したルルージュ監督の映画 「愛と哀しみのボレロ」 も、印象的で、
世界が彼を注目するきっかけになったとも言える・・・。


今でもDVDで彼の舞台を観ることはできるが、やはり 「生鑑賞」 ではないと
感じられないものがあり・・・、 映像とは全く違う臨場感があるために、
私はどうしてもリアルな舞台鑑賞にこだわってしまう。
映像の構成では、どうしても視点が限定されてしまうので、自分の感性を
躍らせることができず、不完全な感覚におちいることがあるからだ。
肌で感じる劇場の空気と、自分の意思でフォーカスしていく鑑賞形態では、
明らかに違いがある。

   


生舞台鑑賞をこよなく愛した若かりし頃・・・
テント芝居、前衛劇、コメディ、ストレートプレイ、ミュージカル、
はっきりと言うと「節操無く、ほとんどのジャンルを観た時代」を
経たことで、とりあえずの経験と知識がついて、自分の中にも
ある程度の “好みに近いもの” が 明確になった。

一年に一度、ロンドンに通っていた時代もあり、「よくもまぁ、
あんなに固執していたなぁ」 と(今となっては) 感慨深い。
A・ロイド・ウェバーの新作があけると聞けば、格安航空券を取り、
仕事をやりくりしては渡航していた・・・。

そのほか、アフリカン太鼓音楽劇やガムランなどの来日舞台や
コンサート・オペラ・バレエなども鑑賞していた。
来日舞台はチケット代が高価で、財布は悲鳴をあげていたが、
あの頃の私は「好奇心の塊」で、その都度、熟考して鑑賞した。



これまでに生で観られなかったことを残念に思ったのは少ないが・・・
それでも筆頭にあげられるのは、「ジョルジュ・ドン」だと思う。
テレビの映像では何度も観ていたけれど、願わくば・・・
「彼の絶頂期に生舞台で観たかった」と、今でも心から思う。

少しばかり生きた時代があわなかったし・・・、どちらにしても
彼は若くして逝きすぎた。
ジョルジュ・ドンが侵された「エイズ」という病は、まだあの頃は
情報が無かっただけに “不治の病気” として認知されており・・・
最期の迎え方もまた、(私にとっては)ショッキングだった。

何から何まで情報足らずで、魅惑的なままに逝ってしまったから、
今でも 「ボレロ」 を聴くと、どうしても思い出してしまう。
私にとっては「 ボレロ = ジョルジュ・ドン 」 になっているようで、
まるで「パブロフの犬」 みたいだ。


彼は、こんなことを言っていた。
「精神と肉体は、常に表裏一体だから、切り離すことはできない。
 だから、精神を豊かにすると、肉体の表現も自ずから豊かになる」
プロフェッショナルだからこその言葉だと思う。




栄華 混迷 の果てに

2012年02月12日 | 人物 -

今日、ホイットニー・ヒューストンの訃報が入った。

くしくもグラミー賞のパーティ直前の出来事だったので、
世界中が驚きの連続だったと思う。


あれだけの歌唱力と存在感をもった人なのに・・・
この10年は、様々な依存症に悩まされ、大変だったようだ。

48歳という若さで、“無念の死ではなかったのか” と
感じられるけれど・・・薬物やアルコールをはじめ、いくつかの
「依存症」から抜けられず、厳しい現実をかかえていたようで、
本人の気持ちとしては「どうにもならない日々」だったのかも・・・。


アメリカの栄華はきらびやかで、手にする報酬もケタが違う。
まさに「アメリカンドリーム」だ。
だからこそ、一度は「ものすごいパワー」や「驚くべき財力」で、
最高峰を極めた人物は、自己コントロールに失敗することもある。
様々な問題をかかえたり、目先の快楽に没落していく様や、
辛さ・悲しみ・落胆に耐えきれず、自分の存在さえも軽んじて、
将来の展望さえもなくしてしまうケースがあるようだ。

著名人だからこそ、人の目も気になるだろうし・・・
第二の人生を構築するとしても、乗り越えるべきモノは、
多々あるのは、容易に想像できる。
パパラッチが横行しているお国柄でもあるし、
自由にならないこともあったと思う。



けれども、自分ではきちんとしているつもりでも・・・
自己評価としての「大丈夫」というのは、あてにならない。
依存症は、一種の精神疾患であり、放置することは致命的である。
現在も、多くの有名人が依存症や精神疾患でリハビリ施設に
入っているのが、アメリカの現実・・・。


どんな人生であろうと、その人の偉業と才能は消えることはない。
しかし、「どのように生きたか」と同じぐらいに注目されることは、
その人が「どのような終焉を迎えたのか」ということだ。
人生史としては、トータルで「その人」自身が感じられるもので、
その一つ一つの流れが貴重な要素となる。

同じ人間として、その部分について、複雑な感情は絶えない。
病気であっても、精神的な問題を抱えた状態は、あらゆる複雑な
状況が からんでいるために、経済的な問題以上に 切ない。
彼女は、精神的な安定からは程遠い状況だったような報道が続き、
波乱に満ちた彼女の人生が、とても衝撃的に思えてくる。

最近は、精神的な不安障害に苦しめられ、安定剤を服用する日々で、
奇行なども指摘されていたようだ。


皆で盛り上がった主演映画ー「ボディガード」が懐かしい。
彼女の絶頂期であり、誰よりも輝いていた頃だ。








しかし、本当に 不謹慎だけれど・・・・
シンガーの「(満足できる)声」が でなくなっていく年代は、
生態学的に 50代すぎからだと(一般的には)言われている。
彼女のすばらしい歌唱力とスター性を (これ以上ゴシップにまみれず)
記憶の中にとどめておくことができるのは、彼女の人生の時間が
止まってしまったからであり、それは まぎれもない事実である。
そういう無茶な納得の仕方もまた、一つの方法論かもしれない・・・。
そう思えるほど、絶頂期の彼女の歌声は素晴らしかった。

この数年のステージでは、思うような声がでてなかったり、
声質が変わったりしていて、映像を観るのも切ない感情がついてくる。

健康的な精神状態を維持でき、ボイストレーニングも欠かさないような
そんなシンガーであったら、まだまだ人を魅了できたはずだ。
だからこそ、この死を惜しむ声が止まらないのだろう。




同性婚のジョニー・ウィアー

2012年01月14日 | 人物 -

今年のお正月開けに飛び込んできたジョニー・ウィアーの結婚報道!
お相手は、非常に目を見張るイケメンで、ロシア人男性(弁護士)。

フィギアスケート界においては、彼が「同性婚の先駆者」となった。
ジョニーは、すでに 「I am gey!」 と カミングアウトしていたので、
さして驚きはしなかったが・・・
その後、動画サイトでカミングアウト前後に出演したトークショーを
いくつか観ていたら、彼の “突き抜けた幸福感” が 伝わってきた。
その輝きは、うらやましさを覚えるほどだった。
自分のスタイルを貫きながら、毅然と、主張している言葉には、
昔のような暗い同性愛者のイメージは皆無である。
確固たる価値観を語り、彼独自の世界(意見)を伝えようとしている。
適宜、我流とジョークをきかせては、達観した反応が目を引く。
ファッションセンスがぬきんでている彼のこだわりは、ある意味で、
随所に感じとれて、彼のトーク番組を観ていると 解放感さえ覚える。
とても自分に正直な・・・ある意味でピュアな人だと思った。
真面目な番組には、それに応じたコメントができる聡明さもある。
とても人間的で、繊細で、彼独自の価値観と世界を持っており・・・
一言でいえば、非常に “魅力的な人” だ。


もともと中性的で、ゲイっぽい雰囲気をかもし出していたし、
カミングアウトしても、「やっぱり~ぃ」としか思わなかったが・・・
正直に言うと、結婚するまでの行動力があるとは思っていなかった。
そういう意味では、競技大会でのフィギュアスケーターとしての
彼しか知らなかったので、当然のことではあるかもしれない。

同性婚のニュースを受けて、私は より詳しく情報がほしくなった。
彼に対する興味がわいたのだろう。 
行動力の源と、彼自身の思考が、もっと知りたくなったのだ。
だから、過去に出演したトーク番組をネットで探し、観つづけ・・・
その結果、一人のスケーターの印象は、がらりと変わった。



素敵な身体のフォルム。
芸術的で繊細な表現力。
美しいスケーティングで魅了して、世界中に多くのファンを持ち、
日本にも何度か来日している全米チャンピョン・ジョニー・ウィアー。
その彼が、今、人生を謳歌している。



もともと「結婚」というものは、一般的に、他人である男女間について
法律上認められていた婚姻関係の成立ではあるが、
もっと本質的なことを考えれば、愛する者同士が「家族関係をつくる」
という観点においては、同性愛者の婚姻は何ら不可思議なものではない。
ジョニーたちは、将来、養子をもらって、二人で子育てをする考えで、
違和感なく受け入れたい人生設計も持っている。
愛し合う者同士が到達するであろう “自然な流れだ” と 思う。


元来、同性愛者は太古の昔から存在していたにもかかわらず、
社会的には差別的待遇を受けて、本来の自分を隠して生きていた時代が
長く続き、やっと30年ぐらい前から、具体的にはこの10年ぐらいで、
大きな変化が起きてきたと言えるだろう。
日本では、まだ同性愛者の婚姻が認められていないように、現在も
世界のいたるところで、「同性婚」についての議論が かわされている。
実際には、まだ(偏見に満ちた)マイノリティーの見方が主流だろうし、
現実的なことを言えば、生きていくうえで壁に遭遇することも多いと思う。


しかし、芸術的な志向が強く、それを生業としている人には、
そういうゲイ的な背景がある人が多いのは事実だ。
音楽家、俳優、デザイナー、クリエイタ―やアーティスト全般、
産みの苦しみを味わっているような職業の人こそ、感受性が強く、
特別な感性によって、表現する力を蓄えられるものであるために、
私個人は何ら不思議な想いを抱くこともない。
もちろん、差別なんて、とんでもないことだと感じている。




ジョニーは、本当に幸福そうだ。
自分の人生を楽しんでいて、それが氷の上の姿にも影響を与えている。

昨年(後半)のジョニー・ウィアーのアイスショーの動画を観ると、
エンターテイメントとして、素晴らしいと感じる。
競技生活を休んでいるので、身体の線は少しばかり変わったけれど、
衣装、メイク、表情、目線の流し、手足の動きの細部にいたるまでが、
独特な「彼の世界」を作り出している。
いつものプログラムを、衣装ごとに振付を多少変えて、披露しているが、
やはり目を引くエンターティナ―だと思う。
彼が敬愛する 「Lady Gaga 」 のナンバーは、本当にどれを観ても、
引き込まれる感覚になる。
「Lady Gaga 」の歌詞は、衝撃的で、同性愛者に指示されているが、
まさにジョニーが共感し、創作力をかきたてられる世界観なのだろう。
しかし、それにしても・・・、個性的な彼のセンス!
競技プロとは違って、とても前衛的で、私はどの作品も好きである。






競技大会は、どんどん四回転ジャンプ時代に入ってくるだろうから、
ジョニーのような選手は、ショ―向きなのかもしれないとも思う。
制約のない “彼がつくり上げる世界” を、もっと堪能したいという
そんな欲求にかられるというのは、彼自身がアスリートというよりも、
表現者の域に入っているように感じるからだろうか。
人には、時が経たら、その人にあった環境や居場所が存在するものだ。
彼は、今、充実した時間を過ごしながら、さらなる生き方を探求するため、
楽しい時間を過ごしているように感じる。
誰にもある幸せのピークを迎えているのかも・・・。
彼のイメージは、まさに「美の探究者」だという印象がする。




   ※2014年3月20日
    離婚を発表した。
    わずか二年の結婚生活だった。
    愛し合うことは この上ないことだし、婚姻は重要なけじめだが、
    それを継続できなかったことは残念なことである。



スティーブ・ジョブズ

2011年10月07日 | 人物 -

10月5日(米時間)早くに・・・
アップル前最高経営責任者(CEO)のスティーブ・ジョブズ氏が逝った。


独創的で、頑固者で、個性的で、こだわりを貫き通した天才!

生い立ちから始まり、彼の「人生」の流れゆく現実そのものが、
全てストーリーのような人だった。

そして、いつの時も、諦めることなく、挑戦を続けた。
それだけではなく、必ず、結果を残していった“稀なる人”でもあった。


会社は、彼のアイデアと行動力のたまものにより、(短時間で)大きな成長を遂げ、
誰もが、彼の動向と、次なる戦略に注目しては、事あるごとに話題にした・・・。
人々の生活や価値観とライフスタイルを変えるほどのアプローチをしたからこそ、
世界中の経済市場に大きな影響を与え続けたのだ。


人々は、さらなる彼のビジョンを知りたがり、興味を抱いた・・・。
彼のアイデアだけではなく、その源に好奇心をあらわにしたほどの・・・
実績と足跡を残した人だった。

56歳という若さが、その偉大さを感じさせると同様に、
皆が「早過ぎる死」を惜しんだ。



素顔の彼は、ヨガや仏教にも好奇心を示し、日本食をこよなく愛したそうだ。
実際、「変わりモノ」だったようだし、周囲の人々とも衝突が絶えなかったみたいだ。
けれど、ある実績を残した類まれなる天才は、フツーの人ではないことが多い。

ゆるぎない“確固たる柱のようなもの”が、す~っと通っているように感じるのは、
彼自身の「拘り」か、あるいは「信念」か、それとも、「生き様」からだろうか。




ジョブズ氏の伝説のスピーチには、その雰囲気が強く伝わってくる話が満載である。
聴きごたえのある、あまりにも素晴らしい三つのストーリー。
  (1)「点と点をつなげること」
  (2)「愛と喪失」
  (3)「死」

   ●スティーブ・ジョブス氏 伝説のスピーチ



スタンフォード大学での卒業式に招かれた時の演説だ。
2005年6月の映像で、覇気にあふれた元気な姿で、未来への希望を語っている。

 「貪欲であれ」 「愚か者であれ」



リズ・テイラーの軌跡

2011年03月27日 | 人物 -

ロンドン生まれのアメリカ育ち。
ハリウッドがスターに押し上げた「エリザベス・テイラー」が79歳で逝った。

往年の映画産業の全盛期に、彼女が残した足跡とインパクトは、ただならない。
プライベートでも、マリリン・モンローとともに話題はつきず・・・
自由奔放な「恋多き女優」として知られた。
18歳で、最初の結婚。ホテル王の息子だった。
その後、歌手のエディー・フィッシャー、俳優のリチャード・バートン、
上院議員らと8度の結婚、離婚を繰り返した。
話題にのぼるたびに「そんなに何度も結婚ができるものだ」と思ったものだが、
彼女自身はストレートな人だったのかもしれない。
でなければ、同じ人(R・バートン)と結婚&離婚を繰り返せるはずもない。


映画好きの私は、美しく、輝いていた頃の作品をいくつも観たが・・・
本当に「絶世の美女」だという存在感があった。
年老いてからは、常に豪快な印象がしたが、同時に、強さや優しさが、
同居している印象がした。



マイケル・ジャクソンが晩年に発言してたが、年の差なんて関係なく、
「リズ・テイラーとは思い切りデートをしたい。結婚しても良い・・・」
という衝撃的なコメント!
それだけ、魅力的であり、人を引き付けるものがあったのだろうかと、
今更ながら感じる。
MJとリズ・テイラーの間には、いくつかの共通項があった。
リズは9歳で子役として仕事をしていたし、マイケルもそうだった。
また、二人とも、厳しい父親からの体罰に近い関わりあいがあったために、
人知れず難しい子供時代を過ごしている。
二人の間には、すぐに相通じるものを感じたという・・・。


若くして亡くなる人が多い中で、エリザベス・テイラーは、病気と闘いながらも
人生を全うして、人目もはばからず、公の場所にも老いた姿を現した。
当然のことながら、その毅然とした生き方には、興味が尽きない。
おそらく、大女優だからこその自信が、そうさせたのではないかと思う。

R.I.P.

クロード・モネ

2011年02月19日 | 人物 -


数日前、昨年から東京:渋谷で開催されていたモネとジュベルニーを題材とした
展覧会が、ついに幕を閉じた。

モネとは、もちろん「クロード・モネ」。
印象派の巨匠で、数多くの作品を残している画家である。

モネが晩年を過ごした「ジュベルニ―」にある家は、管理団体が保全しながら、
彼が愛してやまなかった庭園を、専門的な技術をもって、一年中手入れしている。


私が、モネのジュベルニ―の家を訪れようと思ったのは、日本びいきだった彼が、
「浮世絵に傾倒していた」という事実があったからだ。
アトリエは広く、まさに多くの画材や作品をおさめておくには適していたが、
自宅の部屋は(比較的)こじんまりとしていて、各部屋には浮世絵が飾られていた。
それらの浮世絵は、とりあえず額には入っていたが、保管状態が悪く、しみがあったり、
色落ちがひどかったり、日当たりのよい場所に(無造作に)飾られていたりして・・・
浮世絵を愛する者にとっては、少しばかりショックな状態ではあった。しかし、
彼が日本の浮世絵に影響をうけて、手元においていたことが、日本人の私としては
うれしいことだと感じながら、ゆっくりと部屋を一つ一つ見て回ったのを覚えている。
モネは、浮世絵を各部屋に飾り、ごく日常的にそれらを眺めていたことを思うと、
非常に有難く思ったし、彼らの生活に溶け込んでいたことで日本との強い縁を感じた。

家に飾られていた浮世絵は、モネの作風から想像して「花鳥風月」かと思いきや・・・
人物画の浮世絵が多く、非常にユニークな構図のものや、有名絵師の作品もあって、
とても興味深かった。
モネや、奥様の部屋など、どの部屋にどのような浮世絵を飾っていたのか・・・という
こともまた、面白い事実だった。
私は、各部屋にどのような浮世絵が飾られていたのかを、メモを取ったのだけれど、
その量は、なんとノート4枚に及んでいた。
すごい数だというのが分かっていただけると思う。



彼の自慢の「庭」は、本当に素晴らしいもので、あの連作「睡蓮」の池や、
数多くのバランスの良い花々が、訪れる者を迎えてくれた。

私が「ジュベルニ―」に行ったのは、5月ごろだったと記憶している。
モネの家の庭は、本当に美しかった。
気持ちの良い風が庭園全体に吹き通って、睡蓮の池も風情があった。
「彼が、ここに画材を置いて、あの絵を描いていたのか」と想像すると・・・
本当に不思議な感覚に襲われたのを、はっきりと覚えている。


モネが残した作品は、パリの幾つかの美術館などでたくさん鑑賞した。
その後にジュベルニ―に出かけたので、私の想像力は、より膨らんだのだと思う。



以前、こんなことがあった。
日本の有名画家のアトリエを(特別に)見学させていただいたことがあったのだが、
そこは亡くなった時のままの状態に維持(保管)されており、絵の具がそのままで、
書きかけの未完成の絵が、椅子の傍にはおかれていた。
青い線で、輪郭が描かれていて、・・・その部屋には神聖な空気が感じ取れた。
そして、部屋に入った途端、私はすぐに鳥肌が立って、すごい感動を覚えたのだ。
素材としていた花が、花瓶の中で枯れてしまっていたが・・・
その空間(アトリエ)には、恐れ多くて、何とも言えない雰囲気が漂っていた。



もちろん、モネのジュベルニ―のアトリエは、すっかりとかたずけられていて、
モネの息使いなどは感じられないぐらい補修が加えられていたが、
実際に「その場所で暮らしていた」という事実だけは、感じ取ることができた。

現地の説明して下さる方によると、個々の部屋の壁の色などは「そのまま」だと
いうことだったが・・・これがまた、其々ものすごい鮮やかな色使いばかりで、
なんとなくビックリするぐらいのパワフルな部屋が多かった。
家の外装も、内装も、「モネの色(感性)」そのものだったのだろう。

庭も、部屋の壁色も、・・・ 色彩にこだわったモネらしい家だった。

モネの家のウリは、やはり庭園だ。
季節が違えば、別の花が咲いているために、「雰囲気は違う」と教えられ、
今度訪れるときは「秋」に行ってみたいと、私は(当時)思ったものだ。
おだやかな気分になれるであろう秋は、落ち着いた雰囲気が感じられそうで、
今の私には(さらに)興味深いと思う。




日本にいても、マスターピースには出会えるし、観賞する機会もある。
しかし、創造者が「そこにいて、生きていた」という実感のようなものは、
日本にいるだけでは決して味わうことができない。
やはり、その場に、この足で立つことが、何よりも確実な感覚を得られる
唯一の方法だと思う。


最近は、出かけるのが億劫になってしまった私だが・・・
もう少ししたら、「時間を気にせずに、また放浪する旅」に出発したい。
いつになるかはわからないけれど・・・・
必ず、出かけてみたいと思っている。



ジュベルニ―も、少しは変化しているのだろうか。
モネの家は、たとえ二度目でも「感じる雰囲気」は、違うことだろう。
また、出かけてみたいものだ。

そこには、画家が残した絵画鑑賞から得られる芸術性だけではなく、
人物想像という“おまけ”がついた環境鑑賞がある。
私は、こういう何気ない「想像遊び」が好きな人のようだ。

魅力ある人には、必ず、それなりに面白いエピソードが存在する。
だから、想像を飛び越えて、時々(突飛に)妄想したりするのもまた、
楽しいことだったりするのだ。
タイムトラベルが本当にあったとしたら・・・そんなことを空想すると、
余計に面白い時間が過ごせることがあるが、これって、一種の「変な人?」。
それでも、昔からやめられないのは、それなりに楽しいからだ。
想像力の発達や、脳機能の熟練にも、役に立っているとは思うのだが、
はたして実際はどうなのだろう(笑)。

  芸術は、常に、想像することからはじまるものだ!


     ※写真は、ジュベルニ―のモネの家

メソッド俳優の主演映画

2011年01月30日 | 人物 -


私の大好きな韓国俳優:キム・ミョンミン(KMM)の主演映画が、
はじめて日本の劇場で公開になる。

映画のタイトルー「私の愛、私のそばに」。

日本国内で、彼の映画が劇場公開されるのは、これが初めてで、
この事実は大変喜ばしいことだ。
テレビでもなく、DVDでもなく、平面媒体の雑誌などでもなく、
ロードショーというのは、本当に特別の感慨がある。

私は、その公開日を、とても楽しみにしている。


このたび、公開される映画は、TV「ベートーベン・ウィルス」終了後に
撮影した作品で、彼は難病におかされた男性(主人公)を演じる。
その病気は、進行とともに、筋肉がかたまり、動けなくなっていって、
2~3年で死にいたるという原因不明の難病(ルーゲリック病)。
彼は、俳優として、この役を演じるにあたり、10㎏近い減量をしてから
撮影初日を迎え、どんどん病気が進むにあたって、身体もどんどんと
やせ細っていくのを目指し、結局は20㎏以上は減量したのだと思われる。
韓国では、公開とともに(ある程度は)ヒットしたが、その一方で・・・
「俳優がそこまでやるべきか」・・・というような論争が起きるほど、
極限状態まで自分自身を追い込んで、撮影を続行したキム・ミョンミンの
役者魂には感服する人も多かった。

リアルな姿を演じるために、内面から作りこんでいく「メソッド演技」。
キム・ミョンミンは、韓国のメソッド俳優と呼ばれている。
(メソッド演技は、ハリウッドなどで有名な演技方法)


減量としては、クリスチャン・ベールが、20~30㎏を減量した経験があり、
何かと話題にのぼり、当時は比べられたりすることがあったようだ。
しかし、キム・ミョンミンと違う点をあげるとするならば・・・
彼は撮影をしながら、減量をしたというハードなスケジュールをこなしたが、
クリスチャン・ベールは専門的に減量を終えてから実際の撮影に入っている。
これは、演技を生業とする俳優としては、大きな違いがあると思う。
日本にも、同じように減量して撮影に入る俳優さんはいるが、やはりみんな、
クリスチャン・ベール式のやり方である。

映画の撮影現場は、非常に厳しく、あわただしく、かつ、忙しいものだ。
真摯な創作活動の他に、気を遣うことも多く、ストレスがたまるのが現場!
微妙な心情を描く演技を日々繰り返しながら、同時に、減量もしていくのだ。
撮影だけでもハードなのに、「一体どこまで自分を追い込んでいくのか」と
信じられないぐらいの「強固な意志力」を、私は彼に感じる。
愛する人を残し、死に対峙していく心情に、ただ向かい合っていたのだろう。
彼は、撮影が終われば自室にこもり、遮光カーテンをひき、太陽の光をさけ、
「うつ病になってくれ」とさえ願いながら、「役」に没頭していったという。
食事は自炊で、豆腐、野菜、ささみがほどんどで、着実に日々痩せていった。
結局、低血糖発作などが起こったり、しばらく体調がもどらなかったりして、
彼の身体は ぼろぼろになってしまった作品である。
相当、過酷なことを、当然のようにやっていたのだろうと、予想する。



しかし、いくら俳優が自分の解釈と熱意でがんばって演技しても、
結局、「映画は監督のものである」。
どの作品にもいえることだが、編集をはじめ、どのように作り上げられるのか、
俳優には決定権がない。それが、映画だ。(舞台とは完全に違う)
結局、俳優は、役を演じるための“一人の出演者”でしかない・・・。
それでも、キム・ミョンミンは、一作品ごとに全力を尽くす。
努力を怠らない俳優だ。

彼は、全く違うイメージのキャラクターを演じられることが何よりの特徴だ。
そのために、最近の評価は、どんどんとあがっている。
キム・ミョンミンのように、台本の中の「役」を演じるだけではなく、
役における内面から噴出するものまでを計算しつくし、やり遂げる俳優は珍しい。
「どんなキャラクターを演じても、○○だね」・・・という俳優ではないのだ。



数日前に韓国で公開された新作映画は、コメディ時代劇で、おとぼけ探偵を演じ、
またもや「新しい役作り」を漂わせている。
肋骨にヒビが入りながら撮影をしていたことを隠していたらしく、最近になって、
一つのエピソードとして披露しているが・・・とにかく、このようにして、
彼の仕事に対するプロフェッショナル・ストーリー(逸話)は多い。
この作品は予告編を観ただけで、すごくボケたキャラクターとして笑えるし・・・
コメディとしての「彼の演技を観たい」と思わせる雰囲気がある「面白い役」である。
ちなみに、この作品は、たった数日で、早くも週間興行成績一位を獲得した。




キム・ミョンミンは、遅咲きの俳優だから、これだけ一生懸命になれるのか・・・。
それとも、性格的なものなのか・・・。
本当に、本人のコメントの一つ一つが深かったり、自然人みたいに純粋だったり、
素顔の彼もまた、とても魅力的な人だと、勝手に想像している。




●「私の愛、私のそばに」  



「山の神」 福岡でデビュー!

2010年12月05日 | 人物 -

私が応援しているランナー「今井正人さん」が、今日、福岡でマラソンに挑んだ。
「福岡国際マラソン」で、彼にとっては実質的なマラソンデビューとなるらしい。

顔をみると、精悍になって、よりたくましい印象がして、最初は期待がふくらんでいた。
実質的なマラソンデビュー戦だから、招待選手ではなく、一般参加という立場で走り、
結果は五位。 (現在、26歳)
予断だが、来春には、福岡の2歳年上のアナウンサーと結婚が決定しているらしい。

しかし、とにかく、業界の注目度もすごかったし、人気もかなりあるように感じた。


九州で、現在は地元ということもあり、沿道から「今井、がんばれ~」という声が聞こえ、
とても臨場感にあふれた福岡マラソンだったと思う。
ペースメーカーが、一人突っ走っていて、何か・・・面白さと違和感を感じつつ、
流れを見守っていきたい――と思っていたが、やはり30キロ地点で走るのをやめた。
(過去には、ペースメーカーが興奮し、優勝してしまったということもあったから・・・)


私は、箱根駅伝を観るのが好きである。
今井さんの衝撃の登場「5区 (2年)」から始まり、「山の神」と呼ばれる由来となった
箱根の山登り(5区のごぼう抜き)を続けていた数年間は、本当に彼が大好きだった。
最後の4年の時は(また必ず5区を走るだろうと予想して) 箱根に行こうと思ったほど
入れ込んでいたように思うが、諸々の事情で、その願いは かなわなかった・・・。




あらゆる「マラソン」と、お正月に開催される「駅伝(特に箱根駅伝)」好きの私は、
思い返してみると、これまで何人ものランナーへの熱狂的な応援を繰り返してきた。
「マラソン」は、昔から大好きな競技で、子供の頃から特別に注目してきた・・・。


最近、私が抱く希望は、箱根駅伝で魅せられたランナーがいて、その応援している人物が、
マラソンの世界で(将来)活躍するのを観ること――。

ただ、これには、まず二つの “私自身の中での難関” がある。
(1)私が、箱根駅伝を観て、心を奪われる選手がいること
(2)その選手が、順調に育って、マラソン界に進み、大いに活躍をしてくれること

これが、双方ともマッチしないと、我が “ひそかな望み” は、実現しない。
少し前も(他の選手が注目されても)私にとって一番だった藤原正和さんが常にいた。
藤原さんと、今回の今井さん以外に、私が心を寄せ、応援をしてきたランナーはいない。
 ※藤原さんのマラソン界での活躍は嬉しかったし、彼が世界陸上選手権出場を断念して、
   現地に入ってからの出場辞退の公式発表は非常に残念だった。
   彼も、今年優勝しているし・・・当然、今後の期待が つのるランナーである。
   <勿論、私も、まだ応援しているョ>
そういえば、藤原さんも(今井さんと同様に)箱根の山登りを経験したランナーだ。


たとえ専門家が「能力がある天才!」「可能性がある」と言ったとしても、私の感覚で
心が燃えるかどうかが一番なので、上記の二つの項目が重なる―というのは難しいのだ。
現在の「山の神」の称号を手にしている東洋大学の柏原君も、私の “好みではない”。
柏原君がマラソンに進んだら(その可能性が強そうだけれど)、きっと日本を背負って、
活躍してくれそうな存在になり得る選手だと思う。
しかし、私の好みではないだけで・・・(本当にすみません)・・・
それでも、きっと「一人の日本人ランナーとして応援はしていくだろう」と、確実に思う。

「好き」に理由はなくて、ただ感覚的なものなので、それだけは説明ができない・・・。




今井正人さんの走る姿は、久々にテレビ中継で観戦!
時々にしか見られないからこそ、今日は見損ねず・・・・・とても良かった。
ほかの事をしようと思いつつ、その前に、よくぞ「テレビ欄」に目を通したものだ。
「ラッキー!」

実質的な彼のマラソンデビュー戦を、好意的な気持ちで見守れて良かったと、心から思う。
まだまだこれからだと感じたし、30キロを過ぎてからの走りに、今後は期待したい。
身体の小さな今井さんだからこそ応援したいし、それを活かす走りもあるはずだろうし、
彼自身が(私をはじめとした多くのファンや)監督の期待にも応えてあげて欲しい。
身体をつくり、スタミナをつけて、是非とも「世界と戦える日本人ランナーに!」。

陸上でも短距離と違って、長距離のマラソンは高年齢の人でも 結果がだせることが多い。
彼の競技人生は、はじまったばかりだ。


アイルトン・セナ

2010年10月26日 | 人物 -


あの “高潔な魂” は、一体 ・・・・・ どこから来ていたのだろう。


~「アイルトン・セナ」~
彼は、「孤高のドライバー」であり、人々から注目される「F1」の世界に籍をおきつつ、
他の誰よりも「限界まで追い詰めていく勇気(意志力)」に、いつも人々は熱狂した。
セナは、自分の意見や考えはもちろんのこと、感情やキャリア、「生」と「死」までも、
観衆と共有していた。 
そう、彼は「公然としたレースの場」で、常に厳しい「現実」と向き合っていたのだ。


プロフェッショナルとして、常に“極めていった生き様”は、とてもドラマチックだった。

「アイルトン・セナ」は、伝説の人である。




ずっと観たかったドキュメンタリー映画―「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」。
なぜ、今まで露出されなかったのかと疑問にも思ったが、家族の反対があったらしく、
納得のいく経緯もある。
事実が、きちんと事実として伝えられるかどうか・・・・、セナ・ファミリーにとっては、
大切なポイントになってくるからだ。
なぜなら、セナは、故国「ブラジル」の「英雄」であり、「希望の星」だった。
当時のブラジルは、社会問題や貧困問題が深刻化しており、今では考えられないぐらい
貧しさが漂う国だった。 
貧富の差も凄く、人々はセナを応援することで、自分自身を鼓舞していたのかもしれない。

ブラジルの国旗を常に振り続け、世界中から母国にメッセージを送り続けていたセナは、
やはりブラジルの「ヒーロー」だったのだ。
  「頑張れ~!ブラジル!」 
  「希望を捨てるな!ブラジルの人々よ!」
おそらく、その“偉業”と、彼の残した鮮烈なイメージは、今も変わらないことだろう。

セナ自身にも、突然の“物乞い”が多々続いたようだが・・・・セナはもっと深く考え、
貧困問題を解決するために、常に心を砕いて、子供たちのために活動をしていたようだ。



映画は、個人的なホームビデオや放送された映像などを中心にして編集されており、
CGだの3Dだのと~騒ぎ立てるこのご時勢に、画質の悪い映像で終始つなぎ通していた。
それでも、全く違和感はなく、かえって時代の雰囲気を味わうことができたように思う。
セナの全盛時代は、深夜に放送されるレースのテレビ中継しか知らなかったけれども、
今回の映画ではオフやレース前の「素顔のセナの表情」が、たくさん観られた。
家族優先で、セナ財団中心の目線での制作だったが、非常に貴重な映像もあったと思う。


―「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」。
当時の映像と、当時の現実を、ただ単に 駆け足で追いかけていくような記録映画だが、
私自身は、それはまさに “セナの人生そのもの” であるように感じた。

アイルトン・セナ本人が、結局は 「生き急いだ印象を持ってしまう人も多い」 だろう。


しかし、このドキュメンタリー映画を観て・・・
アイルトン、セナは・・・・本当の「プロフェッショナルなレーサー」だったのだと、
改めて、深く、感じ入った。
決して「逃げない姿勢」や、「レースに全てを捧げた人生」は、尋常ではないし・・・
業界を牽引していた「繊細な技術力」は、完璧主義的な性質を物語っているし、
それを表している逸話は、いくつも存在しているらしい。
常に高みを目指しながら、勝負にもこだわり、甘えることなく自分とも闘い続けていた。
ある意味で、「天才」だと言われるだけのことはある!


彼の言葉には、胸にささるものが幾つもあったが・・・普通の人から出るものではなく、
ある境界線を越えなければ経験できないような世界観を、言葉にしており・・・・
それは、アイルトン・セナの魅力でもあり、生き様からくる“境地”だったのだと思う。
彼の言葉を聴いていると、真っ向から「レース」や「命」に向き合っていることが判る。



しかし・・・正直な感想で言えば・・・・
肝心の“知りたい部分”に、映画では触れられていないのが、残念な部分でもあった。
彼が信頼をなくしていた事故のマシンと、コースについても、詳しく言及されず・・・
FIの世界には「常に政治色と経済的背景(お金)があった」ということは、つくづく
感じさせられた映画ではあったが、そういう複雑で、理不尽な現実にも切り込んでいない。
そんな巨大化したモンスターと戦い続けていたのが、世界王者「セナ」だったのに・・・。


カートレースに興じていたピュアだった青年が、F1の頂点に駆け上がっていくと同時に、
驚くべき“向かい風”と対峙することになる。
本田宗一郎さんも、もうこの世の人ではないけれど、いつか時間がたって・・・
セナ・ファミリー(セナ財団)の傷が癒えた頃に、是非とも「証言者」を集めて、
より丁寧で、克明な“人間的なセナ像”を(制約のない状況で)描いて欲しいものである。
違った視点で、厳しくて、より豊かな「アイルトン・セナ」と、出逢ってみたい。

おそらく、まだまだ露出していない「真実」が埋もれていることが予想される世界だ。





1994年――私は、彼の「死のクラッシュ」を、リアルタイムで、テレビ観戦していた。
深夜の出来事は、強い衝撃とともに、誰にも電話ができない時間帯だったがために、
ヘリコプターで搬送されてからも、ずっとチャンネルに釘付けだったのを覚えてる。
(F1好きの友達もいなかったし・・・・)
フジテレビの三宅アナウンサーが、泣きながら「セナが~! 頼む、生きていてくれ!」と
実況していたのを、「ただごとではない胸騒ぎ」を感じながら、私は観ていた。
あの気持ちを共有していたと言っても過言ではない。 
本当に、全く信じられないことだった。

そして、しばらく時間が経過してから・・・・ 三宅アナウンサーを真ん中にして、
解説の人や、レポーターの人とともに、三人の涙の「死亡報告」を・・・ 観た・・・。
(※このシーンは、短く編集されて、映画でも使われている)
それを観ながら、心が、そして、私自身が、冷たく固まっていくのを感じた。


34歳という若さで、逝ってしまった「アイルトン・セナ」の事故現場は、壮絶だった。
映画では、さらっと映像を流してくれたので、耐えられたが・・・・
当時は、刻々と処置が施されるセナの姿を見守るのは、非常に耐え難い時間だったものだ。
映画を観ながら、そのときの衝動が思い出されて、ずっと涙が止まらなかった・・・。


セナは、 (今でいうならば) とても「イケメン」で、魅力にあふれた男性。
ハンサムで、スマートな対応をしていたので、女性にもファンが多かった。それに・・・
日本(HONDA&CX 他)と縁が深かったので、他国よりファンが多かったと思う。
実際、オフシーズンのセナは、日本のバラエティ番組などにも、気さくに出演していた。

今夜も、映画館に飾られたポスターの前では、シャメしている男性があふれていた。


イチローの偉業

2010年09月19日 | 人物 -

日米通算3500本安打を達成!
    (至上6人目)

現時点で、すでに、10年連続200本安打に、王手をかけた勢いがする。


小柄で、チームも負けてばっかりの中、着実に安打を続けてきたイチローに、
アメリカメディアも、その偉業を称え始めている。
日本の安打数をどう評価しているのか・・・実際は気になるところだが、確実に
日本人としては、誇れる記録である。

おそらく、大リーグでは、日本の記録を追加することはしないだろうが・・・
10年連続200安打というのは、大リーグでも金字塔だ。

「シアトル・マリナーズ」という現在の低迷するチーム(地区最下位)の中で、
個人の目標として頑張っているのではないか~というメンバーからの嫉妬心を受けて、
イチローの心は とても複雑な時期もあったと聞く(2008年)。
あの時は、海を越えて、チーム内のイザコザが派手にニュースにもなったし、
たとえ精神力の強いイチローでも、「孤立している」という文字を見て、心配したものだ。
しかし、彼は、実行する男!
努力を絶え間なく継続していく男だ。
・・・というよりも、努力を日々継続していける男だ。
(精神力の強さを感じる)

実際に、記録を達成し、それを塗り替え、また塗り替え・・・・
たとえチームが低迷しても、決して くさることなく、
自分の中で目標を掲げて、“わが道”を貫いてきた結晶が、前人未到の記録なのだ。

「自分との闘い」――そのものであろう。


私は、やきもきしながら・・・・
毎日「今日は、どうだったのだろうか?」と、チェックする日々が続く。

35歳以上の男性は、日本では「おじさん」の域に入ってくるのだと言うが・・・・
36歳のイチローは、相変わらず・・・・「元気だ!」。
というよりも、“孤高のプロフェッショナル”そのものだ!

日本社会のたくさんの“おじさんたち”に、元気をあたえてくれることだろう。
35歳なんて、働き盛りの、男盛りではないですかぁ!!

私も、元気をもらいました。  ありがとう、イチローさん!



      ※10年連続200本安打は、24日(金曜日)に
       達成したニュースを確認! 「すばらしい」の一言!
       血が騒いだ。 すごい記録だ。
       私は本当に興奮したし、何よりもイチローを尊敬する。

Michael Jackson

2010年08月17日 | 人物 -

なんとなく思い出してしまう人・・・・・・マイケル・ジャクソン。


マイケルではないと似合わないような個性的な衣装は、彼の一貫した好みだった。
彼の衣装に、何らかの意味合いを求めても、きっと不確実な返事がかえってくるかも―。
何故なら、いつも自分で決めて、それも彼自身の感覚的なモノを重要視していたからだ。

白い靴下は、ず~っと履き続けたし、くるぶしまでの丈のズボンは(ダンスをする時の)
身体のラインを協調するための効果をねらっていたと言う。 そのための白靴下だった。

病気のため肌が白くなっていくにつれて、目立つ斑点がある右手にはいつも手袋をはめ、
ドーランで(全身に残る)まだらな色合いを消して、ステージに立っていた。
最初は黒いドーランで、そして、徐々に白いドーランを使うようになっていったという。




■1988年のグラミー賞でのステージ。
 「The Way You Make Me Feel 」& 「Man In The Mirror」




私は、寂しくなった時、上記の1988年のグラミー賞のステージを観ると・・・・
少しばかりの感傷を伴いながらも、前を向いていく「勇気」と「活力」をもらえる。
特に、このステージでは、後半部分あたりの「Man In The Mirror」からラストまでの
盛り上げ方が、たまらない。
まるで、今の自分を省みるのを促すように、彼がシャウトする言葉が胸に響いてくる。


一人ひとりが「変われるとしたら」・・・・
もしも、一人一人が、自覚を持ちながら、変わっていったとしたら・・・・
本当に「世界は変わるのかもしれない」と、マジに思えてくるのが・・・すごい!

一人ひとりが「向上心を持って過ごしたら」・・・・
もしも、一人一人が、自覚を持ちながら、変わっていったとしたら・・・・
良い天命がめぐってきて、皆が暮らしやすくなるかもしれないと、心から思える。

本当に、もしも、そうなったとしたら・・・・。 
そういうことが、実現したとしたら・・・・。
気持ちの良い「ピースフルな世界」のイメージが、漠然と、身体中を駆け巡っていく。

そして、憧れと一緒に、・・・この私にも「願い」や「希望」が、生まれてくるのだ。




この時期を過ぎて、程なくすると・・・・右の腕にラインを付けはじめる。
それは、平和への願いと、世界中の子供達の幸せを願っての「サイン」だった。
彼は、その願いのサインを、亡くなるときまで強調して、人前に立っていた。




そして、マイケル・ジャクソン と ライオネル・リッチー の二人が率先して、
実現したプロジェクト!  
忘れられないのが、この曲。 ~ WE ARE THE WORLD ~    
当時の USA を象徴する すばらしいメンバーが集い、熱気あふれる仕上がりになった。
(みんな、すごく若くて、観ていると、顔がほころんでくる)
ドキュメンタリーVideo にもあるように、夜を徹して録音された世紀の名曲だ。

マイケルは、この歌詞をネバーランドにある大木に登り、枝に寝そべって書いたという。

■WE ARE THE WORLD   / USA for AFRICA  
  written by Michael Jackson and Lionel Richie



渡辺謙さんの存在感

2010年07月29日 | 人物 -

久しぶりに、映画を観た。
「This is It」が鮮烈で、その後の鑑賞作品は覚えていない。
「沈まぬ太陽」も同時期だったが、おそらく数ヶ月ぶりに映画館に行ったのは確実だ。
昔は、毎週のように頻繁に出かけていたのに、その時間が持てず・・・・
気力もおいてきぼりで・・・・実際は、かなりご無沙汰していた。

今回、久しぶりに観た映画は、「渡辺謙さん」の出演している「インセプション」だ。
彼の出演している作品は、(100%とは言えないが)ほとんど観ていると思う。
映画「タンポポ」の時代から、大河ドラマに至るまで、昔から欠かしたことがない。
今回の「インセプション」は前評判が思わせぶりで、期待をそそるような宣伝だったし、
映画のストーリーそのものにも期待したというのが、映画館に足を向けた理由だった。
正直、世界中が注目しているノーラン監督の作品は、ちょっとばかり興味深い。

共演者の名前を見ると、主演の「ディカプリオ」の他に、「エレン・ペイジ」。
あやぁ~ロンドンのミュージカル舞台のスターじゃん。
ウェストエンドに通って、エレンペイジの舞台を、何度も観た経験があるので、
ちょっと心がときめいた。懐かしい~~と。
「楽しみ~」と思っていたら、実は・・・23歳のカナダ出身の新進女優だった。
同姓同名だ。(まぁ、どうでもいいかぁ)



本論に戻そう。「インセプション」を観た後に、感じたことは・・・・
渡辺謙さんは、「素晴しい ハリウッドスターになったなぁ~」という印象が一番だった。
非常に、個性的、かつ、印象的で、映画の雰囲気を壊すことなく「役」に徹していた。

映画「インセプション」の内容は、とても込み入った内容で、ネタばらしはよくないので、
其々にご判断いただくとして・・・・・
映画の中心地(ハリウッド)から、こうして、作品への出演オファーが続くこと事態、
渡辺謙さんの演技力や、俳優としての資質、人間力(チームワークが大切だから)を、
まさにハリウッドは認めたということに他ならない。

たとえ、プレミアの時に(PR用に)誉められたとしても、数年の間にわたって、
現実に(海を越えた業界から)出演依頼が続くことが、何よりも素晴しいことだ。
それもマイナーではなく、メジャー映画ばかりで、第一線のスタッフとのタッグである。
これは、日本の規格を飛び出していって、世界をまたにかけて活躍している顕著な例だ。
俳優としては、本当に珍しいケースで、年を経ても尚、出演作品が続いていくというのは、
彼の総合的な「人間としての存在感」が素晴しいからだと思う。
感受性が豊かで、芯が通っていて、そして、優しい気配りができる人・・・・。
また、作品の「役」ごとに、変化するキャラクター表現 (読解力と演技力)・・・・。

大変な現場(撮影の日々)であればあるほど、人としての係わり合いが大切になる。
そして、同時に、その “人間力” は演技にも反映される。
演技をみれば、あるいは発言を聴けば、その “人となり” が、理解できるものである。

だから、「渡辺謙さんは、凄いのだ」 と・・・リアルに、思うのだ。



それから、私事ながら・・・・・
「映画鑑賞は、やっぱり面白いものだ」と、再び痛感!
まずは、何も考えなければ、気分転換ができる。
(字幕を見なければ)英語のヒアリングレッスンにもなるので、
時々は映画館に通うことにしよう――なんてことも、なんとなく感じた。


つかこうへいさんの訃報

2010年07月22日 | 人物 -

最近、演劇界を牽引してきた脚本家や演出家の訃報が続いている。
つかこうへいさん、井上ひさしさん・・・。
熱狂的に観劇していた頃の「彼らの活動は、私の楽しみだった」。
特に、つかさんに関しては、かなり影響を受けたと思う。
他にも好きな脚本家&演出家はいるけれども、つかこうへいさんの演劇は、
どの作品も素晴しかったと、今、しみじみと振り返っている。
私が熱をあげて観ていた頃は・・・・・
風間杜夫さん、平田満さん、根岸季衣さん、柄本明さん、加藤健一さん、などという
瞬く間に、有名になっていった(当時)無名に近い俳優人が演じていたが・・・・
(演劇界や演劇好きファンの間では、みんな、もちろん有名だったけれど・・・・)

つかさんの芝居を、最初に観た衝撃は忘れない。
面白かったし、わかりやすかったし、楽しかったし、しょっぱい涙がどくどくと流れた。
「蒲田行進曲」は、初演から観ている。 それなりの思い入れもある。



仕事が忙しくなってからというもの、演劇界や舞台観劇から徐々に遠ざかっていったが、
少ないお金を手にして、徹夜で千秋楽を観るために非常階段で夜をあかしたことなどを
とても懐かしく思い出す。
あの当時、当日券を求めて並びながら・・・隣の人と話し込んで友達になったりしたが、
「彼らは今、どのような生活をしているのだろう」。 懐かしい。
つかさんの訃報は、まるで“あの輝くような思い出”までもが、逝ってしまうようで、
とても切ない気分がした。


つかさんの芸名は、在日韓国人という生い立ちから、「いつか公平」になってほしい―
という願いが込められていたのだという。
ひらがなにしたのは、漢字が読めなかったお母様への配慮から・・・・。



演劇は、芸術作品である。
そしてまた、オリジナル作品には、常に作者のメッセージや願いが込められていて、
当時理解できなかったことが、今・・・とても、ひしひしと感じられることがある。
人の持っている「熱意」や「激情」、そして、「優しさ」や「穏やかな気持ち」、
そして、「生きることのひたむきさ」などを、ストレートに感じる。
当時は、ありのままのキャラクターが、ありのままのメッセージを伝える芝居だった。

もし現在の感受性と脳細胞と社会的知識があれば、もっと深い演劇解釈ができたのに!
とても残念だと思う反面、「今日一生」という言葉を改めて思いながら、まだまだ、日々
精進だとも感じたりする。




つかこうへいさんのご冥福を祈りながら、彼の今年の遺書を、下記、添付します。

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。
思えば恥の多い人生でございました。
先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています。
私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
通夜、葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます。
しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
今までの過分なる御厚意、本当にありがとうございます。

 2010年 1月1日 つかこうへい