分かち合うこと

2010年09月30日 | 言葉 -


       喜びは 分かち合うことによって、倍になる

   
                   <ゲーテ(詩人・作家・自然科学研究家)>




 「喜び」を、より一層・・・・深く、強く、感じるためには、「分かち合うこと」だ。
 そして、同時に、大切なことは、「誰と分かち合うか」ということである。
 人生の伴侶や、友人、同志たち、家族、自分が大事に思っている隣にいる人・・・。

 より「幸せ」を感じて、自分の存在を認識しつつ、
 自分自身のみならず、あらゆる価値を高めるためには・・・このような些細な営みを
 日々の中で、しくしくと繰り返すことが、重要なのかもしれない。
 笑顔を忘れないために・・・。
 笑顔が続くためには・・・・。


一期一会

2010年09月28日 | 言葉 -


 今日も 全てを ささえていますか
 今日も 全てに 感謝していますか

 自分の笑顔が 周りを 楽しくする
 自分の知識が 人の役に立つ
 自分の会話で 人が元気になる
 全ての人に 自分のパワーを与える

 嘘をつかない

 今日も 光輝いていますか
                          <読み人知らず>




この「一期一会」とは、「一生で一度しかないであろう出会い」、「一生で、一度きりで
あること、あるいは、そういう事柄のこと」を表している言葉だ。
最初に読んだ時には、詩の内容と(直接的に)あまり関連がないような印象をもつのだが、
実は奥深いところで つながっているようにも思う。
また、言葉の直裁的な表現と、稚拙さが目立つような流れは、それゆえに、返って
心にしっとりと訴えかけてくる強さを秘めている。
まさに、私が目指す「今日一生」と近い意味合いを感じないではいられない。


リセット-スイッチ

2010年09月27日 | 仕事 -

実は、ずっと「モヤモヤした気分」を抱きながら、日々の生活をこなしていた。
その理由(原因)は、たくさんある。

このむずがゆくて、すっきりとしない ・・・ ある意味では “ひきずっている状態” は、
自分が快く思っていないから、基本的に受け入れられず、リフレッシュもできないでいた。
流れに身を任せるという姿勢が、ずいぶんと長く続いていた。
だから、・・・余計に、気分は、すっきりとしなかった。
自分にとってみれば、本当に、中途半端な “不健康な状態だ” と思う。

このような「モヤモヤした気分」や、「理解不能なバイオリズムに支配された時間」は、
(自分の意図に関係なく) あとをひくことが多い。
また、「マイナス思考になりがちな状況」は、早々に自覚し、改善を要するものである。




今日、「リセットすることを(意識的に)決心した」。

きっかけは、明確にならずに だらだらと振り回されていた仕事関係の相手との折衝を、
勇気を持って振り払ったことにある。
時間は経過するのに、なかなか進展をみない現実は、私の精神性とフリータイムを奪い、
多くのストレスを与えられていた。 実際、トラブルも多かった。
立場上、どうしようもならないことに対して、いつか決断を下す時期がくるものだが、
仕事のことなので、一人で結論をだすわけにもいかず、押したり 退いたりしながら、
現状を 冷静に みつめていたところだった・・・。




そして、「来るべき時期」というか・・・ 「結論を出す決心」 というか・・・・
それが「今日」だったのだ。

勇気を持ってそうしたことにより、仕事を最初から始めるというリスクを背負う替わりに、
私自身の気持ちも “リセットすることができた” ように思う。
完全ではないが、多少は“最初の頃に戻れたのだろうか”と思えるぐらいの“気分”だ。

責任感を持って、仕事に望むことによって、「肩のこり」と「重圧」が、同時に、
私に押し迫ってきて、心の奥底で 問いかける声が 聞こえてくる。
  「何をしているのか」
  「何がしたいのか」
  「何を期待しているのか」
  「何が不安なのだ・・・」

そうなのだ、私は “不安” を感じている。
座りの悪い立場と、恵まれない待遇に、不満を感じているからこそのことだと 感じる!
また、仕事の結果と、それに見合うだけの対価(報酬)を受け取れないがために・・・
不平等な関係性を 感じているのだろう。
そんな気持ちが、私の快い「前向きな自律性」と「闊達な行動力」を奪っているのだと、
あらためて気がついたのと同時に、おぼろげな私自身の問題点が浮き彫りになったようだ。
フリーランスは、いつも、厳しい孤立した背景を背負わざるをえない。
(そう感じるのは、社会情勢が芳しくない昨今のことではあるのだが・・・)

「会社や上司に責任転嫁してはいけない」と思っている自分は、その矛先を失い、結局は、
潜在的な心持ちとして、 “自分で引き受けなければならない” と感じているのだろう。
だから、たまっていく「沼の泥のような気分」に、日々陥っていっていたようだ。




しかし、「改善できること」と「提言しても変わらないもの」があることが判った今、
私のでき得ることは限られている。

今後、私が生きていく上で、また、仕事をしていく上で、納得して受容するケースと、
こだわりを最後まで捨てないで突き進んでいくケースがあるように思う。
そのあたりを、少しずつ、冷静に、見極めていきたいと感じている自分がいる。




私は、自分が抱えている気分を「完全にリセットすることは不可能だ」と思っている。
それは、「人間だから・・・」。
コンピューターではなく、感情を重要視している人間だから・・・。

しかし、コンピューターのように、スイッチを意図的に入れることによって、少しは
改善され、リセットされる部分があるのも事実だ。
リスクを受け入れ、より前向きに進むためにも、粘り続けて、こだわり続けたものを
(一時的にでも)忘れ去ることは、時には必要なのかもしれない。
「新しい出発」は、また自分に 「新しい発見感」をもたらしてくれるかもしれない。
大切なことは、常にトライする前向きさを失わず、固定観念にも縛られず、自分を信じ、
我が信念に従いながら生きていくこと・・・・。
自分なりの尺度で努力をして、それを継続していけば、いつか報われる日も来るだろう。
今、素直に、そう思える。


雨ニモ負ケズ!

2010年09月21日 | 言葉 -

今日は、「宮沢賢治」の命日。

20代の頃に、宮沢賢治博物館の他、実際に彼が生活していた家に行きました。
「裏の畑におります・・」という書置きが、そのまま(当時のように)かけてありました。
彼の多くの作品には、壮大なスケール観があり、世界共通のファンタジーとしても通じる
幅広いものがあると思います。
また、作品のテーマは、簡潔でありながらも、奥深いメッセージがふくまれています。
あの風土が育てた才能なのだなぁ・・・と、強く感じたことを思い出します。


近年こそ、「宮沢賢治」の生き様や価値観、そして、彼が残してくれた作品から感じとれる
「ヒューマニズム」や「平和主義的観点」が注目されるべきだと思います。
自然と共生する世界観や、エコロジー思想にも関連する繋がり感は、彼が突き詰めていった
ひとつの“すばらしい桃源郷”をイメージさせてくれます。




      雨ニモマケズ
      風ニモマケズ
      雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
      丈夫ナカラダヲモチ
      慾ハナク
      決シテ瞋ラズ
      イツモシヅカニワラッテヰル
      一日ニ玄米四合ト
      味噌ト少シノ野菜ヲタベ
      アラユルコトヲ
      ジブンヲカンジョウニ入レズニ
      ヨクミキキシワカリ
      ソシテワスレズ
      野原ノ松ノ林ノ
      小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
      東ニ病気ノコドモアレバ
      行ッテ看病シテヤリ
      西ニツカレタ母アレバ
      行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
      南ニ死ニサウナ人アレバ
      行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
      北ニケンクヮヤソショウガアレバ
      ツマラナイカラヤメロトイヒ
      ヒドリノトキハナミダヲナガシ
      サムサノナツハオロオロアルキ
      ミンナニデクノボートヨバレ
      ホメラレモセズ
      クニモサレズ
      サウイフモノニ
      ワタシハナリタイ


      南無無辺行菩薩
      南無上行菩薩
      南無多宝如来
      南無妙法蓮華経
      南無釈迦牟尼仏
      南無浄行菩薩
      南無安立行菩薩


                         <by 宮沢賢治>


終の棲家

2010年09月20日 | 自分 -


人は、年毎に、老いていく・・・。
誰も「老い」は避けられないし、この私も決して避けられず、何度も誕生日がやってくる。

「そろそろ」と言うと、「早いよ~」とよく言われるが・・・・
私には「終の棲家」をどこにするのか・・・・・ということを、最近よく考える。




郷里の四国には、大きな一軒家の実家がある。
そして、母屋に隣接して、大きな納屋もある。
納屋の二階の片隅には、中学時代からの私の部屋が二つ(四畳半の洋間と和室)ある。
幼い頃から、私は母屋の家屋には住まず、一人暮らしのような環境で暮らしていた。
その方が、精神的に楽だったのだと思う。
想いおこせば、変な中学生である。

それぐらいの大きな納屋を想像していただければ、自ずと庭の広さも想像できるだろう。
しかし、この実家の二階建ての一戸建て家屋は、かなり古い。
築50年ぐらいだろうか。
それ以上だろうか。
あのまま住むことも可能だが、私が高齢者の域に入ると・・・いかがなものだろう・・・。



たとえ「終の棲家」を決めても、自分の最期を「そこで迎えられるとは限らない」。
介護してくれる家族もいないし、経済的な余裕が(それほど)あるわけでもない。

しかし、元気な内に帰郷して、「私流の田舎のネットワークを早く構築しておく」・・・
という選択肢がないわけではない。
要するに、ヨボヨボになって(齢を老いてしまってから)帰郷しても、何の活動もできず、
友人・知人の数も限られていて、有意義な日常を構築することは難しいと思えるのだ。
私は、地元のために、社会貢献活動もしたいと思っているので、余計にそう感じる。
心も身体も、多少は元気なうちでないと、そんなことはできるものではないからだ。
しかし、知人達に、それを話すと・・・・「まだ、はやいよ」と、皆に言われる。
「そうだよね」と感じながら、「早い内だから、活動ができるんじゃないか!」とも思う。




大都会、東京でやり残したことなどは、何一つない。
若い頃は、自分の成長と経験を一番に考えていたので、全く違う価値観だったが・・・
最近の私は、「生計をたてるために仕事している」だけだ。

冷静に言うと、両親を看取るためには、それなりの「お金」が必要だった。
田舎では低予算で生活できる代わりに、過酷な条件で仕事をしても高額の給料は望めない。
このような状況では、両親二人の介護をやりとげることができなかったと思う。
率直に言うと、お金を稼ぐためには、東京にいて、仕事をする必要があったのだ。

しかし、今は・・・身軽な立場になってしまった。
喜ばしいかな、哀しいかな、複雑な「一長一短」の境遇である。
だから、しみじみと、最近・・・・考える。

「生きがい」「人生」「仕事」「生き様」「人間力」「価値観」「経済的基盤」・・・
優先すべき選択肢は広すぎて、まだまだ確認作業と、根回しが必要かもしれない。





しかし、正直に言うと・・・・たとえ、大きな仕事で結果が残せたとしても、
それはそれで、私にとっては “あまり意味のないことのように感じる時もある”。
はっきりとしたことは明言できないが、仕事の質や結果よりも、もっと大切なものが、
自分の中に芽生えてきている証拠だと思う。

私の「命の使い方」に焦点をあてて考えてみると、何か “おぼろげなモヤモヤ感” が、
身体中に広がってくることがある。
まだ手に出来ていない 「私の潜在的な欲求の芽生えなのだろう」・・・と思っている。


人の気持ちは変わるもので、自分もしかり・・・。
環境が変われば、自ずと選択する事柄も明確に変わり、それは人の人生にも作用する。

ただ、現在の私は、郷愁に包まれている・・・そういう傾向にあるというだけかも・・・。

あまりにも、「田舎に帰りたい気持ちが強いのだろう」。
早く母の十三回忌の法要を執り行いたい責任感も、少なからず影響を与えていると思う。
その責任感は、意外と大きく、私を縛っていて、日毎に切迫しているような気がする。

だから、両親のことを思い出してばかりだ。
昨夜も、昔ながらの両親の知人:Yさんから電話があった・・・「何時帰るの?」と。
おそらく、今日から、秋のお彼岸(20~26日)だからだろう。


イチローの偉業

2010年09月19日 | 人物 -

日米通算3500本安打を達成!
    (至上6人目)

現時点で、すでに、10年連続200本安打に、王手をかけた勢いがする。


小柄で、チームも負けてばっかりの中、着実に安打を続けてきたイチローに、
アメリカメディアも、その偉業を称え始めている。
日本の安打数をどう評価しているのか・・・実際は気になるところだが、確実に
日本人としては、誇れる記録である。

おそらく、大リーグでは、日本の記録を追加することはしないだろうが・・・
10年連続200安打というのは、大リーグでも金字塔だ。

「シアトル・マリナーズ」という現在の低迷するチーム(地区最下位)の中で、
個人の目標として頑張っているのではないか~というメンバーからの嫉妬心を受けて、
イチローの心は とても複雑な時期もあったと聞く(2008年)。
あの時は、海を越えて、チーム内のイザコザが派手にニュースにもなったし、
たとえ精神力の強いイチローでも、「孤立している」という文字を見て、心配したものだ。
しかし、彼は、実行する男!
努力を絶え間なく継続していく男だ。
・・・というよりも、努力を日々継続していける男だ。
(精神力の強さを感じる)

実際に、記録を達成し、それを塗り替え、また塗り替え・・・・
たとえチームが低迷しても、決して くさることなく、
自分の中で目標を掲げて、“わが道”を貫いてきた結晶が、前人未到の記録なのだ。

「自分との闘い」――そのものであろう。


私は、やきもきしながら・・・・
毎日「今日は、どうだったのだろうか?」と、チェックする日々が続く。

35歳以上の男性は、日本では「おじさん」の域に入ってくるのだと言うが・・・・
36歳のイチローは、相変わらず・・・・「元気だ!」。
というよりも、“孤高のプロフェッショナル”そのものだ!

日本社会のたくさんの“おじさんたち”に、元気をあたえてくれることだろう。
35歳なんて、働き盛りの、男盛りではないですかぁ!!

私も、元気をもらいました。  ありがとう、イチローさん!



      ※10年連続200本安打は、24日(金曜日)に
       達成したニュースを確認! 「すばらしい」の一言!
       血が騒いだ。 すごい記録だ。
       私は本当に興奮したし、何よりもイチローを尊敬する。

やる気欠乏症候群

2010年09月15日 | 仕事 -

誰にでもあることだけれど、あえて明記する。

「この仕事、やりたくなぁ~い~!」
潜在的に、心から・・・そう思う気持ちが、進行を遅らせていたのだと思う。
そういう仕事があった。 ずっと気になっていた仕事が、残っていたのだ。


その上に、なんとなく、ずっとやる気がなくて、真夏の疲労がまだ残っていて・・・・
身体のいたるところに 快適性が「全くない」。
PCに向かうのが必要な仕事柄、肩こりが絶え間なく襲ってくる。


しかし、やっと数日間の深夜作業で、数枚にわたる企画書を作成し終わったところだ。
誰かが言った言葉・・・「自分自身を誉めてあげたい」と言いたい気分ではある。
「よくぞ、仕上げてくれたものだ(ホント、人事のようだ)」。
他人からの要望は、時間が経つにつれて“私へのプレッシャー”となっていたのだが、
これで、どうにか一歩前には進めることになる。

けれども、本来「やりたくなかったからだろうか」・・・・
正直に言うと、自分ではなく、たとえ誰かに誉めてもらっても「嬉しくない気分だ」。



また、会社に行かなくてはいけないと思えば、思うほど・・・・その気が失せていく。

生まれながらの性格・・・・・
私の基本的な性質である「真面目な気持ち(?)」が禍して、
まずは「行こう」という選択肢を、当然ながら(何故か)一番にしている。
「行きたくない場所」に行かなければならないと思うと、本当に「マイナス思考」で
いっぱいになるので、いつも楽しみを見つけるようにしているが・・・・
それでも、限界があるものだ。
このような「使命感」というものは、時として「無常感」をも引き起こす場合がある。


やる気が欠乏しまくっている今、とにかく・・・充電しなくてはいけない!
完全なる夏休みなど、とれなかったのだから、不自然なことではないはずだ。
単なる「甘え」であったとしても、最近の私は「そういう価値観」に傾きつつある。
それなのに、「休めない現実」が目の前にあるがために、きっと・・・・
やる気はどんどん萎えていくのかもしれない。

「いつになったら休めるのだろう」 強行突破の時期を、とにかく探ろう~~!

「人生道」

2010年09月14日 | 言葉 -



  いくつになっても わからないのが 人生。

  わからない人生を、わかったつもりで歩むほど 危険なことはない。


                       <by 松下幸之助 (実業家) >


アナログ人間の今後

2010年09月13日 | 仕事 -

  「まだ、こんな人がいたんだぁ」
  「まるで、シーラカンスみたいなスタイルだなぁ」
そういう印象をもった人と出会い、今回仕事を一緒にすることになった。

その彼は、現在、個人の携帯電話を持たず、(PCも使わないので)持っていない。
会社で共有のPCから、やっとメールが開けられるぐらいで、送信はできないらしい。
それを笑いネタにする周囲に対しても、(本人としては)頑固として受け付けず、
「今日まで来た」・・・・・という人だ。
会社設立当時からの付き合いだからこそ、許されているようなフリーの人材である。
会社の誰もが噂していたらしいし、誰もが助言をかなりしたらしいが・・・
「パソコンなんて覚える気がない」という返答を、今までは繰り返していたらしい。

この情報化社会で、一緒に仕事をすることを考えてみると、
大変手間がかかるスタイルを、今も通している人だ。

私個人としては・・・・
彼のような「アナログ主義」の考え方も、ライフスタイルも、何も悪いことじゃないし、
人にとやかく言われることでもない・・・と思っている。
皆がみんな、このテクノロジーまみれの仕組みにあわせて生きる必要なんて全くない。

本人が納得していれば、“「アナログ人間」で一生いても大いに結構だ”と感じている。
私も、そうしたいぐらい・・・アナログな生活には 憧れている。
しかし、残念なことに、仕事の現場では、そうではない流れや空気感が存在している。



私は (申し訳ないが)・・・・
誰も切り込まなかったエリアに入って、彼に、こう言った。
「あと、5年、仕事がしたかったら、そろそろ限界なのではないでしょうか。
 せめて、メールでのやりとりで情報を共有できていないと、常に貴方に対して
 説明する時間と手間と経費が必要になってくる。
 企画書一つだって、今はタイプアップして、メールで送る時代なんです。
 仕事を依頼する側としては、正直、つかいずらいと感じる人も、今後は出てきますよ。
 それは、自然と・・・あなたの仕事が減っていくということだと思います。」


個人的には、悪い人ではないが・・・・
長きにわたる自分のスタイルがあるのだろうし、それでもまだ仕事があるから、
どうにか首がつながってきたのだろう。付き合いが長いと、情もあるわけで・・・
そういう人間関係などで培ってきた歴史&経験も、ちゃんと持っている人だと思う。
だから、・・・だからこそ・・・私はあえて明確な言葉を持って対峙したのだ。
かなり真面目に助言をしたつもりだった。
そのときの反応は、「わかっているんですけれどね、どうしてもダメでねぇ・・・」。
「申し訳ないとは思っているんだけどサ~」という歯切れの悪いものだった。
実際、彼の提出書類は、すべて手書きなので、誰かがタイプアップしなければならない。
私は、それを(読みやすく、バランスを整えるために)最終的に校正する必要もある。
これらは、自分の仕事を他者に託していることであり、押し付けていることにもなるのだ。


「自分が良いと思っているわけではないのだったら、私は努力するべきだと思いますよ。
 実際は、どうなんですか。 何らかの努力みたいなものは、しているんですか?」
穏やかに、優しく、相手のプライドを傷つけないように話したら・・・話し続けていたら、
徐々に前向きになってくれた。



私から見れば、現在は、“かなり頑張っていらっしゃるのではないか”と 感じている。


周囲の人は、私に対して、このように言う。
 「誰もが、何を言っても、全然やる気がなかったのに・・・
  以前はね、言い訳ばっかりだったんです。
    一体、どんな手を使ったんですか?」
 「すごいびっくり!」
 「人が変わったみたい!」


私自身は、何も不思議がることではなく、周囲の驚きの方が意外だった。

人は、「変われる」のだ。 
変わらないと思い込んでしまっていること事態、その人の可能性をつぶしていると思う。
自律型人間になるための“きっかけ”なんて、とても簡単なことだ。
  本質をついて助言をすること。
  相手のために、骨を折ること。
  当方の意見を、一方的に おしつけないこと。
  自分で自発的行動を起こす気持ちを持ってもらうように、丁寧に話すこと。
  努力の結果が見えたら、完璧ではなくても、必ず賛美をおくること。
  そして、何よりも・・・・あせらないで、時間をかけて見守っていくこと。
  

お店の生き残り作戦

2010年09月12日 | 食事 -

暑いときこそ、何故か食べたくなるのが、「カレー」。

まぁ、私の場合は、一年中、食べているような料理だけれども・・・。
というのは、我が家の冷凍庫の中には、ほとんど365日、
味や具材の違うカレー(添加物混入なしのお手製)が、入っているからだ。
(つくりおきをして、即座に冷凍し、いつでも食べられる状態にしている)




昨年だっただろうか・・・、
近所にできた(インド人が経営する)本格的なカレー専門店には、今もよく通っているが、
最近はめっきりと感動が減った。

感動が減った理由は、(頻繁に食べて)飽きたからではなく・・・・
ちょっと違う味になってしまったからなのだ。

あまりにも初めて食べた時の記憶が鮮烈で、美味しかった(本格的だった)から、
余計に、そう感じるのだろう。



たとえば、「野菜カレー」。
日本人ごのみにあわせたのか、具材の価格の問題だろうか・・・
ジャガイモなど全く入ってなかったのに、今はゴロゴロとしたジャガイモやニンジンが
使われるようになった。 それも、大きめにカットして、いかにも日本風である。
(日本の家庭料理のカレーと言えば、ジャガイモやニンジン、タマネギだろう)
野菜の種類が変われば、スープやカレーそのもののテイストが変わってきてしまう。
   

または、「チャイ」(インド風ミルク紅茶)。
以前のチャイは、(あくまでも想像だが)自家製かと思わせるぐらいに、細かい香辛料が、
カップの淵につく ぐらい 浮いていた。
風味も最高で、味は“言うことナシ”で、とても美味しかった。
「これぞ!チャイじゃん!」というスパイスのバランス感があった。
しかし、最近では、市販のチャイを使っているかのような味で、飲んだ後に・・・
香料などを(身体に)取り入れた後のような感覚が、舌に残るようになった。
煮出しだす紅茶も、フレイバーティーになったような気がした。
もちろん、シナモン、カルダモン、クローブ、ジンジャーなど(?)の香辛料が、
巧妙なバランスで、ふんだんに香ることも・・・・全くない。
パウダー状になった香辛料が、以前のようにチャイに浮かんでいないので、
つくり方は確実に変えたのだと思う。



このような「ちょとした変化」が、あらゆるところに感じられるようになってしまった。
だから、私のイメージが崩れていく。
お店に対する信頼感や親近感、そして、私の「食べたい」という欲求が、薄れていく。

たとえ、ナンが手焼きでも、変わらず美味しくても・・・・
主役のカレーが、微妙に変わってしまっては、どうしようもない。
チキンカレーなどは、そう変わらずとも、野菜カレーをはじめとする他の品目の味が
多少なりとも微妙に変化してきている。

こういう のどかな場所では、(本格的なカレー店などの)経営は厳しいのだろうか。
夜は、バーみたいにもなるが、店の案内ではディナータイムにも格安セットができた。
明らかに、メニューを変えて、具材(材料)を変えているのは確実である。



しかし、この店は、私の欲求をかなり満たしていてくれていたので、少しばかり哀しい。
今もって、「美味しい」のは変わらないが・・・・人間と言うものは・・・というか、
私という人間は、最初の記憶が残っていて、その味を期待してしまっている。
店を守るために、どうにか競争戦線には生き残ってほしいが・・・・
個人的には(顧客として)一定レベルの「美味しい料理」を求めている私も、確実にいる。
お客としての傲慢な期待感が、他の店に対するものとは違うからだろう。
だから、心情として、残念であり、複雑である。

スーパーの市販紅茶ボックスコーナーを見るたびに、あの「チャイ」の味がよみがえる。

料理店は、いろいろな経営戦略を持って、すぐに飽きてしまう “なじみ客” を相手に、
常に「生き残り作戦」を繰り広げているのだろう。
都会の店(レストラン、料理店)の回転率が早い理由が、わかるような気がする。


台風9号の濁流

2010年09月07日 | 環境 -

猛暑の次は、スコールのような激しい雨。

今日、小田原の濁流を、ニュースで観た。
土を多く含んでおり、茶色の水が ものすごい勢いだったため 度肝を抜かれた。

まるで、河が “何か” に怒っているみたいな荒れ具合!

河の中を、「龍」のような生き物が、大変な速さで進んでいるような映像だった。




今年の7月、ある地方に出向いたところ、(到着した途端に)その日もすごい雨だった。
そのため、突然、「大雨暴風雨注意報⇒警報」が発令された。
ペンションで滞在していた私は、濁流のすごさは目にしなかったが・・・・
町の情報発信スピーカーが鳴って、以下のような言葉を聴いた。
    「ピン~ポン~パン~ポ~ン!
     ただ今、70歳前後の男性が、濁流にのまれ、行方不明になりました。
     できるかぎり、外出をひかえてください。
     ピン~ポン~パン~ポ~ン!」
普通であれば、風情のあるスピーカーに郷愁を感じたりする場合もあるかもしれないが、
その日は不幸な言葉を聞かなければならなかったので、非常に複雑な気持ちだった。



2,3日前も、知人が言っていた。
「今年は、111年ぶりの異常気象らしいね」



今日は、農業関係者にとっては、久しぶりの「めぐみの雨」だったかもしれない。
しかし、大都会の「浸水」は、かなりシリアスな被害を もたらしたようだ。



人間は、自然には 逆らえないものだ。
また同時に、操作をすることもできない。
もともと、人類が自然現象を支配したり、コントロールしたりすることは、言語道断!

そんな当然のことは理解していながらも・・・・
この身体は、まだまだ今年の異常気象に 適応できていない。
おそらく、適応できないまま、秋を向かえ、冬を向かえ、今年を終えるのかもしれない。
おぼろげに浮かんだ印象は、あたらずとも遠からず・・・だろうと・・・正直、思う。

相変わらず、なんか「精気」や「生気」、そして「元気」という「“気”たち」が・・・
もう一つ私の中には乏しいようだからだ。


「自然の恩恵」

2010年09月06日 | 言葉 -


        われら、この地上にありて生きる限り、

        歓びより歓びへと導くは 自然の恩恵なり。

   

                       <by ワーズワース(英国の詩人)>





「自然の恩恵」と言っても、はてしない種類の「恩恵」がある。

多種多様な自然の「命」が、不思議な関係をつむぎだしながら、
この地球上で微妙に関係した常態を維持しつつ、息付いている。

3000万種と言われる(あるいはそれ以上の生命)が、自然の摂理の中で、
繋がりあっているのだ。
壮大なイメージであり、壮言な現実である。

動物だけではなく、木、植物、花、鳥、苔、昆虫から菌類にいたるまで・・・
それらは、人間の気がつかない場所であっても、不可思議な「つながり」を成立させて、
お互いに利用しあい、影響しあい、助け合いながら、生きているのだ。

たった一つ、確実に言えることは・・・・
「大いなる自然」「生物の多様性」に支えられて、私たちの生活は成り立っているーーー
ということである。


猛暑に溶ける日々

2010年09月05日 | 出来事 -

9月に入っても・・・・暑くて、目が覚める日々である。

35℃を越える気温が続き、各所では記録を塗り替えていっているようだ。

夜、エアコンを切って、扇風機のタイマーで、寝付いたあとは・・・・・
一応ちゃんと寝ている。

しかし、寝起きが、あまり快適ではない。

エアコンをつけた状態で、寝ることもしばしばである。 最近は、毎日のようだ。
これがいけないのだろうか。

気持ちも身体に連動して、ゆるくて、だるくて、覇気がない。
「やらなければならないと思っていること」に手をつけず、日々を過ごしているために、
罪悪感まではいかないまでも、切迫した気持ちも追いかけてきているようだ。


エアコンの乾燥対策のために、洗濯物を部屋に(意図的に)干した状態で寝たり、
水を入れたスプレーで、部屋の湿度を保つために、カーテンなどに吹き付けたりして、
なんとか「快適な空気」を維持しようとはしているけれど・・・・乾燥は避けられない。



暑いのが嫌で、運動不足になり・・・・気持ちの良い汗をかかなくなったことによって、
こってり料理の好きな私は、内臓に対する負担もかかっているように感じる。
本当は、しっかりと汗をかいて、運動することによって、肩や身体のこりをほぐすのが、
良いのかもしれないのだけれど・・・・。


暑いのが理由だけではないような気がする。

この積もり積もった「夏の疲れ」というものを、一度なくしてあげる必要がありそうだ。


経験に対処する力

2010年09月01日 | 言葉 -



     人間が賢くなるのは 経験によるものではなく、
   
     経験に対処する力に応じてである。

  
               < by バーナード・ショー (劇作家・評論家)>
   



 「経験」は、左脳の知識や情報と、右脳の想像力を根底に持ちながら、
 ある「行動」を繰り返し、現実に実践したことによって生まれいずるものである。
 「経験」をすることによって、人は多くのことを感じて、そこから多くのことを学ぶ。

 しかし、大事なのは、その先なのだろう。
 「経験」は、単に“出発点”や“きっかけ”に過ぎず、経験の積み重ねによって、
 自分の中に芽生える判断力や経験値から、人は「大いなる選択」をしていく。
 ケース・バイ・ケースの選択は、その人の全てであり、大切な分岐点にもなり得る。

 大事なことは、「適切に、瞬時に、判断ができるか」ということだと、私は思う・・・。
 どのようなことにも、一番より良い対処方法はあるものである。
 たとえ、それが、直感であろうが、何であろうが・・・判断できること―そのものが、
 “人となり”を示しているように思うので、決して安易に流してはいけないのだ。