ロンドン五輪への切符

2012年02月26日 | 雑感 -

久しぶりに、何もしないのに、ぐったりと疲れた一日だった。
「東京マラソン」に熱が入り、応援にも集中したからだと思う。

ロンドンオリンピックへの切符がみえてくる・・・ということと、
応援している藤原正和さんが参加することになっていたからだ。
最終的な結果は、別の「藤原」(新)さん が 二位という順位で
日本人としてトップとなった。
二年前の東京マラソンも、このダブル藤原さんが競い合って、
この時は正和さんが優勝だったと思う。

今年は、参加者(招待選手)の顔ぶれも豪華で、自分の中では
興味深いメンバーだったので、数日前からドキドキ。

そして、どっぷりと、疲れた・・・。



昨今の注目としては、市民ランナーの星:川内優輝選手。
実業団所属ではない公務員の川内さんの頑張りに焦点があたり、
ロンドンへの切符を手にするのかどうか・・・ということが
注目されていたが・・・
藤原新選手は、陸上競技実業団を飛び出して、スポンサーからも
契約解除が告げられた厳しい環境の中で練習をしていた人ゆえに、
「この時流にあった選手ではないか」と、心から思う。
仕事がなく、スポンサーがつかなくても、きちんと頑張っていると、
こういうご褒美があるのだ と・・・。

「練習の量と質」と「精神力の強さ」は、「もたらされる結果」と、
少なからず関係しているのだと思わされる・・・そんな気がした。

藤原さんがトップで入って、彼がロンドンへの切符を手にするのは、
今の日本にとって、「希望をあたえてもらえる」ことだと・・・。

もちろん、私が応援している藤原正和さんの世界標準にあわせて、
皇帝にくらいついていった姿勢は、本当に素晴らしいと思う。
昨今の隣を見て “ごぜりあい” を しているランナ―の姿勢とは
比べ物にならない果敢さがある。

ダブル藤原選手には、今の日本と日本の選手が失いかけている
“チャレンジする強い意志” が 感じられて、すごく触発された。


次は、びわ湖毎日マラソンだ。
これで、すべてが決定することになるのだ。
びわ湖もまた、素晴らしい選手がチャレンジする予定だ。
私の応援している今井正人選手も参加予定。
頑張ってほしい。



適切な「忠告」を得て

2012年02月25日 | 言葉 -



    忠告は雪に似て、静かに降れば降るほど 心に長くかかり、

    心に食い込んでいくことも深くなる。


                   <by カール・ヒルティ (哲学者)>




 自分が悩んでいるときや、岐路に迷い込んだときなど、
 一つの “誰かの意志” に 引っ張られることなく・・・
 必ず「自分で納得して結論を導き出すことが大切だ」と思う。

 忠告は、あらゆる方向を向いている人々から 数多く得て、
 それを判別しながら、さらなる探求をしていくと・・・
 自分の中に “削ぎ落とされたもの” が 見えてくることがある。
 それは、いつも、自分にとってのキーワードのような存在となり、
 ある意味では “最大の味方” に なることがあるのだ。

 自分が・・・揺らいでいるときこそ、そういう 「忠告」 は、
 謙虚に受けとめたいものだ。
 真っ白な状態で受け入れたいものである。

 
 しかし、何よりも重要なことは、
 「自分で判断するということ」であるし・・・
 その前に、“判断することができる力”と“経験”と
 すべての現状・現実を“見極める能力”を、
 自分自身の中に蓄えておくようにすることだ。




「アイデア」 の 「共有」

2012年02月24日 | 仕事 -


知的所有権のことについて、いろいろと議論が交わされた時期が
あったけれども、それについての細かい法令は完璧ではない。
科学的発明など以外は、さらにグレーゾーンに入ってくる。


また、(笑い話のように) いつも感じることだけれど・・・
自分が、提案というか、アドバイスというか、そういう意味合いで、
説明を交えて(とても前向きな)話をした後に、
数週間後か、数ヵ月後に会って、話してみると・・・
その相手が自分の言葉として、かつて私が話したアイデアを強調して
話すことがある。
さも「自分の中から発せられたアイデアである」というスタンスで
主張している相手を目の前にしては、それ以上言いたくなくなる(笑)。
たとえば概念とか、具体的なエピソードとかの抱き合わせだが、
おそらく他人に話している内に、自分のアイデアになってしまい、
発信源の私にさえも、そのような話し方をしてしまっているのだろう。

そういうことを感じる人は、いつも一緒の人なので・・・・
私は「まただぁ」と感じるだけだが、一般的には “線引きが難しい”
ことだということは 分かっている。
職性の関係から、「依存」というよりも、「パラサイド的立場」で
常に 何に対しても対峙している人なので、私自身は納得している。
だから、その人は・・・状況に変じて、ころころと意見を簡単に変えるし、
辛辣なことを言えば、多くのことを我慢して、多くのことを手にしている。
自分も、何年かの交流の経緯(現実)を経て、それなりの感情的な対応を
していくことができるようになったし・・・
やはり、「気分をお互いに害してまで指摘するほどのことでもない」 と
思っていたのは事実である。



ただ、一般的には・・・
私のように、立場が確立していない者にとっては、大きな権力や
後ろ盾をカサにきて「アイデアを奪い取る」ような行為を見た時には、
かなりの抵抗感があって、強いストレス状態に陥るものである。
何故なら、世の中のルールを、きっちりと確認してきたからだ。
正義というまでの正当性は感じていないが、私独自の線引きがあり、
そのラインは くっきりとしている。


しかし、上記のような“個人” の範疇に入ってしまうと・・・
また、その人が自分のやっていることを認識していない現状に対しては、
はからずとも「切ない感情」が先に立つ・・・。
自分のアイデアに対する“惜別の念”なのかもしれない。




世の中には、よくあることだ。
私が経験した「深い傷」もまた、同じような質感のものがある。
社員という立場の人が、会社の中で押しつけてくる横暴な行為の一つに、
上記のようなことに“似たこと”があった。
それは、完全なる企画書の提案者名のすり替えだったので・・・
知人は「それは、犯罪だよ」と、私を慰めるような発言をしてくれたが、
同じような立場であるがための “怒り” だったのだと思う。
また、提案を吸いあげる立場の人にとっても、許せない行為のようで、
「あまりにもひどすぎる。君は主張するべきだ」と意見してくれたが、
彼にとっては、発覚した時のことを想像したら責任が問われる立場のため
切実感があったのだと思う・・・。
もちろん、実際、私は、強く反発心をあらわにして、意見をぶつけたが、
会社側は「それはそうだな」という曖昧な態度で同調しつつも、
立場の回復と精神的ケア、経済的補償に関しては、何もしてくれなかった。
数千万円のバジェットなのに、企画提案書のアイデアは奪われたのだ。
提案が通った途端に、突然に、奪われたのだ・・・。
会社の態度は、政治家と一緒で、「今後は、こういうことがないように」 だ。

しかし、正社員の営利目的と報酬の追及(仕事次第で決定)は止まらず、
“露呈さえしなければ” ・・・ というケースは 跡を絶たない。
会社の社員教育という意味では、事後のケアをしっかりとしない限り、
所属メンバーにシリアス感がないので、同じことが繰り返されるのだ。
それらは、彼らの発言の端々に、あらわれているものである。

労働条件の詳細な確認は、本当に大切なことである。
仕事をするうえでの「義務」と「権利」――、これらの基本的なことは、
会社との契約条項によっては大きく違う。
自分のキズを深くしないためにも、最初の条件をしっかりと確認して、
契約を締結していないと、後で後悔することになる。

あの事件以来の私は、紙に仕上げるのは、“フェイスtoフェイス” で
話した後に、感触を得てから 企画書に仕上げる方法論に変えた。



しかし・・・
世の中には、上記のような現実は、まだまだ よくあることだ。
理由や要因は、状況によって違うし、個々の観点も違うので、
一言で表現はできないが・・・
現実的には、まだよくあることなのだと思う。



私は、煮え湯を飲まされた時から、“そのこと”を頭の隅に置きながら、
話をすすめるようになったが・・・
その反面、自分の中から失ったものがある。
「情熱」や「熱意」というもの―。
そして、「純粋な気持ち」と、「純粋な姿勢」というもの―。
年を経て、キャリアを積むことは、交渉術もたけてくるかわりに、
確実に “失っていくものがある” と 感じている。
仕事のやり方としては、どちらにも良さはあるけれど、
今の私が優先すべきは「快適な生き方はどちらなのか」ということだ。


仕事のやり方や姿勢もまた、誰にも “自分のスタイル” が あって、
それは 無理のない 融通のきいたモノのような気がする。




「 身軽になること 」

2012年02月22日 | 雑感 -

今日、帰りがけに、突発的に・・・美容院に飛び込んだ。

そして、長く伸びてしまった「髪」をすっきりとカット!
いやぁ~、予想した以上に、さっぱりとした・・・。


私の髪は、量が多ので重い。 コシのある髪だから、
肩こりになったり、洗髪時には負担がかかっていたりする。

ワンレングスのストレートヘアーだけれど、
腰までの長さは 冬には乾かすだけでも大変だった。


今日は、前髪をつくって、長さを胸までにして、
かなりの量をすいて、軽く仕上げてもらった・・・。

髪の間に、自分の手を入れると、違いがわかる。

私は、もっと短く、スタイルも がらっと変えて・・・と
思っていたが、美容師さんに止められた。




突発的な美容院での「気分転換」・・・
私自身は、おそらく「身軽になりたかった」だけだと思う。

日常的なケアにおいて手がかからず、楽なスタイルで、
それでいて女性的な雰囲気も維持しつつ・・・。
重い髪を減らしたことで、肩にかかっていた負荷が軽くなり、
身体に対する影響も変わるだろう。



まずは、「身軽」になって、「自分を解放してあげる」・・・
そのことの第一歩でもある。

何でもないようなことだが・・・
今の私には、とても大切なことだと思う。




地震国ー「日本」

2012年02月21日 | 社会 -

もともと「世界中の地震の一割が、日本に集中していた」のに、
それがもっとシリアスな状態になってきた。


昨年の「東日本大震災」以降に、大津波の浸水域に指定された
新しい地域もある。
海沿いの都市には、津波にみまわれた時のハザードマップが
拡大していて、人々の不安は募ってきているうえに、
勢いを増してくる “日常の地震の数”・・・。



子供の頃、私が育った四国では・・・
地震と雪は ほとんどないと思われていたように思う。

故郷を離れてから、多くの地震に頻繁にあうことになった。
私自身も、その頻度の差にびっくりはしたけれど、
四国から呼び寄せた父は、さらに地震の多さに驚き、
大きな揺れの際には、屋外に出て、一人で玄関先の階段に
ずっと座って、おさまるのを待っていた。
揺れが落ち着いてからも、動かず・・・長時間にわたって、
階段に一人で座っていたようだ。
そんなことが、よくあった。
それを心配した近所の隣人が、よくケアをしてくれたが、
私のいない時に限って、大型地震がきて・・・・
晩年の父には心細い想いをさせたことが記憶に残っている。

田舎を離れてすぐの頃は、父もまだ元気で、一人で
お留守番もしてくれていた。
二人の同居生活は、あの頃が一番楽しかったかも・・・。
それでも、地震のことは、あの頃からよく言っていた。




最近の日本は、当時と比べられないくらい、恐ろしく、
危機感を感じる状況だ。

今日も、また新しい情報が飛び交って、首都直下型地震も
震度7ぐらいは想定できるという「想定外の情報」だ。

しかし、そのニュースが納得できるぐらい・・・
         とにかく、・・・日々、よく揺れる。



まず、この建物は大丈夫だろうが、ライフラインが心配だ。
そして、食器棚ー―。
昨年の引っ越し後に ちゃんとした補強をしていないし、
食器の飾り場所が あまりにも不安材料満載だ・・・。
ガラス類が、棚の上部に置かれているが、これは問題だろう。
思い出のアンティーク・べネティアングラス・・・。
ため息がでる。


いよいよ諸準備をしなければならない時期になってきたか!

言葉ではなく、本当に心構えと一緒に、持ち出し荷物や、
脱出ルートの確認などもしなければ・・・・
そんな気分になってくる。

「もしかしたら」という表現よりも、「ちゃんと」というか、
「いよいよだ」という言葉が似合う、かなり現実的な状況だ。


   今日も、我家のお風呂には、
   ちゃんと水がたまっている・・・。

   できることから、はじめていこう。



「通信の時代」 を痛感!

2012年02月19日 | 社会 -

夜中の3時半・・・。

ユーストリーム LIVE で、
はるか地球の果てでの映像を観ている。

 「 Remembering Whitney Houston 」


歴史的にも記憶に残るセレモニー!
ゴスペルと、素晴らしい音楽が続き、
哀悼の言葉が後を追う。
涙と笑いの織り混ざった感動的な時間だ。

昔では考えられない世界同時配信だが・・・・
すごいのは、時差を飛び越えて、世界中で同一の条件で、
観られるということだ。

テレビ中継となると、生ライブというのは難しかったし、
経済的な契約条項があったりして、世界同時条件というのは、
本当に考えられないことだった。
それに、視聴するための課金システムもなく、
画面の広告だけで成り立っている。


時代は、「 通信の時代 」 に突入したのだと・・・
本当にしみじみと痛感する。
一つのカメラでも、充分、臨場感は伝わるし、
広告と一緒に流れゆくソーシャルネットワークコメントによって、
世界が繋がっている感覚を体験できる。
その都度の感想を、視聴者がコメントしていくのだが・・・
その数たるや、実に ものすごい。


開始から1時間半で、視聴者数も、20万人から60万人へ
増えていき、これだけの人が「時間を共有しているのだ」 と
不思議な気持ちにもなる。
そのカウント数は、どんどんと増加!

瞬間ごとに、コメントと一緒に、増え続けている。



しかし、通信事業が、これだけ躍進するなんて、
数十年前には予想もしなかった。
今は、多くの可能性と、利便性を感じるだけではなく、
快適なライフスタイルをもたらしてもいる。





「自分」と向き合う勇気

2012年02月13日 | 言葉 -


  「 自分の後ろ姿は 自分じゃ見えねんだなあ 」


                 < 相田みつを >




日常的にほとんど避けている「内省」のようなことは、
簡単に 自分だけで 行えるものではない。
自分自身のことは正確にわからないものであり・・・
冷静に判断するのが難しいケースが多いものである。
また、その判断尺度も、個々に違うものだからこそ、
あえて避けては通れないものだという気がする。

自己の確立と、価値観の確認・・・それは、大切なことだ。


現実を受け止める勇気と、外からの声に耳を傾ける姿勢、
そして、そこから求めている答えを導き出せる判断力が、
誰にとっても大切な要素だと思う。


根源的な問題があったとしたら、そこを避けて通ることは
よくない結果をもたらすことが多い。
真実に目をそむけていても、何も変わらない。

そして、根源的な問題を取り除かない限り・・・
人は・・・同じことを繰り返す傾向がある。






  「 幸せは いつも 自分の心が決める 」

  「 歩くから道になる 歩かなければ草が生える 」



  
                   < 相田みつを >




            


栄華 混迷 の果てに

2012年02月12日 | 人物 -

今日、ホイットニー・ヒューストンの訃報が入った。

くしくもグラミー賞のパーティ直前の出来事だったので、
世界中が驚きの連続だったと思う。


あれだけの歌唱力と存在感をもった人なのに・・・
この10年は、様々な依存症に悩まされ、大変だったようだ。

48歳という若さで、“無念の死ではなかったのか” と
感じられるけれど・・・薬物やアルコールをはじめ、いくつかの
「依存症」から抜けられず、厳しい現実をかかえていたようで、
本人の気持ちとしては「どうにもならない日々」だったのかも・・・。


アメリカの栄華はきらびやかで、手にする報酬もケタが違う。
まさに「アメリカンドリーム」だ。
だからこそ、一度は「ものすごいパワー」や「驚くべき財力」で、
最高峰を極めた人物は、自己コントロールに失敗することもある。
様々な問題をかかえたり、目先の快楽に没落していく様や、
辛さ・悲しみ・落胆に耐えきれず、自分の存在さえも軽んじて、
将来の展望さえもなくしてしまうケースがあるようだ。

著名人だからこそ、人の目も気になるだろうし・・・
第二の人生を構築するとしても、乗り越えるべきモノは、
多々あるのは、容易に想像できる。
パパラッチが横行しているお国柄でもあるし、
自由にならないこともあったと思う。



けれども、自分ではきちんとしているつもりでも・・・
自己評価としての「大丈夫」というのは、あてにならない。
依存症は、一種の精神疾患であり、放置することは致命的である。
現在も、多くの有名人が依存症や精神疾患でリハビリ施設に
入っているのが、アメリカの現実・・・。


どんな人生であろうと、その人の偉業と才能は消えることはない。
しかし、「どのように生きたか」と同じぐらいに注目されることは、
その人が「どのような終焉を迎えたのか」ということだ。
人生史としては、トータルで「その人」自身が感じられるもので、
その一つ一つの流れが貴重な要素となる。

同じ人間として、その部分について、複雑な感情は絶えない。
病気であっても、精神的な問題を抱えた状態は、あらゆる複雑な
状況が からんでいるために、経済的な問題以上に 切ない。
彼女は、精神的な安定からは程遠い状況だったような報道が続き、
波乱に満ちた彼女の人生が、とても衝撃的に思えてくる。

最近は、精神的な不安障害に苦しめられ、安定剤を服用する日々で、
奇行なども指摘されていたようだ。


皆で盛り上がった主演映画ー「ボディガード」が懐かしい。
彼女の絶頂期であり、誰よりも輝いていた頃だ。








しかし、本当に 不謹慎だけれど・・・・
シンガーの「(満足できる)声」が でなくなっていく年代は、
生態学的に 50代すぎからだと(一般的には)言われている。
彼女のすばらしい歌唱力とスター性を (これ以上ゴシップにまみれず)
記憶の中にとどめておくことができるのは、彼女の人生の時間が
止まってしまったからであり、それは まぎれもない事実である。
そういう無茶な納得の仕方もまた、一つの方法論かもしれない・・・。
そう思えるほど、絶頂期の彼女の歌声は素晴らしかった。

この数年のステージでは、思うような声がでてなかったり、
声質が変わったりしていて、映像を観るのも切ない感情がついてくる。

健康的な精神状態を維持でき、ボイストレーニングも欠かさないような
そんなシンガーであったら、まだまだ人を魅了できたはずだ。
だからこそ、この死を惜しむ声が止まらないのだろう。




高地開催の「4CC」

2012年02月11日 | マイブーム -

標高の高いエリアでは酸素が薄く、スポーツ人にとっては、
特別の場所になる。

今回のフィギアスケート四大陸選手権でも、まざまざと
その現実が感じられた。

<コロラドスプリングス:標高1800m >
ここはマラソン選手が体力強化のため、よく合宿をする場所だ。
北米の選手の多くは、基礎トレーニングに訪れるらしい。



現在の世界王者であるパトリック・チャン選手(21歳)の
ほぼ完璧な演技は圧巻だったし、常日頃この場所で練習を
している彼の凄さがわかったような気がした。
この場所は 親戚の人も住んでいるらしく、彼にとっては
ホームグラウンドとも言える。
以前に(彼が)マウンテンバイクをしている映像をみたが・・・
これもまた かなり キツイ~~スポーツだ。
日常的にそういう基礎体力を培っているからこそ、伸びやかな
余裕あるスケーティングができるのかも・・・・・などと
おぼろげに感じてしまった。


日本の男子:三選手も善戦した。
注目されていた高橋大輔選手の演技も、また前回と違って、
少しずつ変化をしているようだ。
ジャンプの構成を違えても、音楽との連関と、メリハリのある
微妙なステップを織り込んだ表現は、他の選手にはない魅力だ。
細やかな構成が、彼の身体に 少しずつ馴染んできている。
スピート感には乏しかったが、音楽の世界観は感じられた。
思い起こせば、高橋選手は、昨年、ボルト抜きの手術をしたのに、
今季は四回転の成功率が どんどんとあがってきている。
SPで4T3Tを決めたり、演技前の練習では4Fも成功させた。
このまま術後の足がもっと回復し、本人にやる気さえあれば・・・
来シーズンは 一層 「期待ができる」 ように感じる。

総意として、四回転ジャンプがキーポイントになっているので、
どの選手もが意識して、取り入れる人はチャレンジをして、
その結果が得点にも しっかりと反映されていた。

まだ女子のフリーの結果は出ていないが・・・・
やはり高地という場所柄、フリーの後半は体力的に厳しそうだ。




余談で、「高地」で思い出したのだけれど・・・
随分前に、スイス「ユングフラウヨッホ駅」に降り立った時、
私の目の前で、日本人の若い女性が 倒れる現場に遭遇した。
彼女は現地の応急処置隊員に運ばれて行った。
それを見ていた私自身も、実は・・・・ふらふらで・・・
山岳鉄道が登っていくにつれて、徐々に集中できない状態になり、
たちくらみのように「ふらふら」「ぼぉ~」っとしたので、
本当に、マジで 怖かった。
その駅は世界中で一番高い駅だったが、そこからまだ上へ登ると、
氷河に触れられるので、私は欲深く展望台へのエレベーターに乗った。
しかし、今から思えば「よく行ったものだ」と思う。
何故なら、倒れた旅行客の女性のように団体行動ではなく・・・
私は「一人旅」だったからだ。
あの頃は、無敵の強さや精神力を持っていたように思う(笑)。

氷河は絶景だったが、短時間で降りてきた余裕のない私は、
早く鉄道が下山するのを待ちわびていた。
ふらふらの頭(意識)で、隣の人と話す気力もなく、ただ心の底で、
「早く出発して!下山して~!」と願い続けていた。
あの日の心情は、今も忘れない。

とても楽しい旅だったし、素敵な場所だったけれど・・・
急激に、高地にあがることの弊害は、とてもシリアスだった。
降りてきてから聞いた予防策は、「よく寝て、美味しい食事を食べて、
ちゃんと体力をつけて、いくべきだ」ということだった・・・。

だから、標高のある場所で、息切れする競技大会に参加するなんて、
大変なことなのだろうと予想する。

男子の皆さん、お疲れ様でした。
女子の皆さん、フリーを頑張ってね。




長時間にわたるPC作業

2012年02月10日 | 仕事 -

電車の中で “ケータイに触っている人が多い” ことに、
あらためて注目してしまう。
手持ちぶさたか、退屈なのか、メールしているのか・・・
他人事ながら、少しばかり気になる。
私の場合は、ゲームしないし、必要なメールをおくっても、
すぐにケータイはカバンの中にしまいこむので、
本質的に違うスタンスのように感じる。
ケータイを手にしている人は、チャットしているような
長い時間を使って、画面をずっと見つめているからだ。
だから、ゲームなのか、ケータイソフトを楽しんでいるのかと
人ごとながら・・・感じてしまうのだ。
スマホの需要拡大と通信時間を考えると、回線には限界があり、
通信障害(繋がらない)問題は これからも増えるかもしれない。



最近の私は、パソコンに向かい、作業に没頭中である。
するとやはり、いつものように、目が疲れ、肩コリがして、
頭がぼぉ~っとする。 
精神的には、集中できなくて・・・
身体中に疲労を感じてしまう・・・。

集中したりすると疲れるのは当然のことだが、このような
現象は、遊んでいる時にも起こるため、「長時間にわたって
パソコンに向かっている」ことに問題があるように思っている。
おそらく、少なからず、影響があると思うのだ。
かつて「テクノストレス」という言葉で表された時期もあった。



これまで、よく言われていた「電磁波の影響」について
なんとなく調べてみたら、やはり検証結果はあった。

初めての報告は、カナダで1980年ー。
テレビやパソコンなどの電気機器が、より浸透しはじめた頃だと思われる。
ブラウン管の作業に携わっていた女性の出産の際に、相次いで
障害をもった赤ちゃんを産んだということだ。

その後、いろいろと電磁波関係の報告は広がっていき、
「流産の多発」「早産」「障害児の出産」「子宮外妊娠」「異常出産」など
関連を示す報告が相次いだということだ。



私が常に感じているパソコン作業後の疲労感と、電磁波の因果関係は
ほとんど明確にわかっておらず、電磁波の規制も進んでいないし、
そもそも疲労を感じていることに対する医学的な研究も少ない。
ただ、本人の感覚「疲労を感じている」ということだけだ。
肩、首、腰に疲労を感じている人(VDT症候群・テクノストレス眼症)が
67%もいたという調査結果は報告されているようだが・・・
そこどまりの現実のようだ。

このような現実だから・・・・・風力発電などについても、
「電磁波と健康の因果関係は証明されていない」という理由をかかげ、
どんどんと創設しているみたいだが、一説には風力発電の影響もまた、
その機械の製造会社によって 大きく変わるという話も聞いた。
本当のところは、まだ明確にわからない。


しかし、「電磁波が免疫機構に影響をもたらす」ことは、以前から
動物実験等で示されていた。
その身体免疫機構への影響の一つとして、「アレルギー反応」や、
あらゆる過敏症をもたらす一つの原因になっているという。

「電磁波過敏症」は「化学物質過敏症」や「慢性疲労症候群」と並んで
今後増え続けることが予想されているらしいので、やはり、これからは
注目していきたいことでもある。



「テレビを観る時は、少し離れましょう」というコマーシャルがあったが、
ブラウン管(VDT)からは、さまざまな電磁波(超低周波・ラジオ波・
マイクロ波・紫外線など)が発生してるのは事実だ。
最近は、ディスプレーが液晶画面に変わってきているけれども・・・・
電気製品(調理器具、電子レンジ、テレビ、など)を使うことは、
少なからず電磁波を浴びているということになる。

パソコンも、ケータイも同様だ。
子供が興じるテレビゲームも同じで、実証されていなくても、
すくなからず、「多少の影響は(個々に)あるだろう」と予想する。

願わくば、成長過程の子供の身体に大きな影響だけは与えたくはないので、
そのあたりだけは気をつけてほしいと 感じてしまう。

私のような人生の折り返し地点を過ぎかかっている人にとっては、
あまり問答に値しないかもしれないが・・・・
免疫力が低下するということは、あらゆる病気になりやすいということだ。


日頃、長時間にわたってのパソコン作業後の「疲労感」を感じるたびに、
やはり「健康的ではない」と感じる自分は避けられない。
虚脱感のような感じである。

生活時間にもバランスが大切だと思うし・・・
仕事とはいえ、長時間のパソコン作業は かなり疲れるものなので、
できるだけお風呂にゆっくり入ったり、視神経を休めたり、
気分転換をするような努力をしていきたい―と思う。



京の「おばん菜」ランチ

2012年02月06日 | 食事 -


今日の「おばん菜」は、目にも美しい。
一つ一つの「おかず」は、手がかかっている感じだ。

大ぶりの煮あさりふたつに、きんぴらごぼうが添えられ、
「どうなっているの?」的な・・・創作惣菜も幾つか・・・。

興味津津なのが、脳には良い効果があるかも―(笑)。

ほうじ茶で炊いたお米は、ほのかにお茶の香り。


※「おばんざい」とは、「お番菜」と書いて、
  京都の日常の食:おかずのことを言うらしいが・・・
  今日のランチは、おしゃれで、とてもオリジナル。
  おかずの品数も多かった。


いつもよりも、咀嚼(そしゃく)の数が増えて、
身体にもいい感じだ。



19時過ぎの映画を予約して、打ち合せに臨んだら、
終わりが20時半すぎだった。
やはりこういうものだと、映画のチケットを破り捨てる。

映画は、また今週中にトライするかなぁ??
他にも観たいのあるし・・・ね。



「 ネ コ 」

2012年02月05日 | ナンセンス -

二人に一人がペットと暮らしている現代・ニッポン!
人間と対話し、意見の違う人と交流するよりも、
常に受け身のペットのほうが・・・気楽と言えば気楽だ。


私も、子供の頃は、犬・ネコ・鳥を飼って、世話をしていた。
愛情をかければ かけるほど、ペットはかわいい。

マイペースなネコは、一緒に暮らすと程のよい感じだし、
忠実な犬は、気持ちの交流には打ってつけだと思う。



小学校時代に一緒にいた私の「 ネコ 」は、
ある日、突然、いなくなった。

子猫の頃から一緒だったので、とてもショックだったけれど、
なんとその子が出産の時には、我が家に戻ってきたのだ。
それも、また、突然に・・・。

そして、実家の敷地内で三つの愛しい“命”を産み出し、
元気になったら、またいなくなっちゃった・・・。
私はまた、ショックで、しばらく落胆していた。

自由にさせていたら、結局 「野良猫」 に してしまった。
今から思えば、ペットとの付き合い方を考えさせられる事件―。


東京に来てからは、出張が多くて、生き物は一度も飼えていない。
家に住み着く「 ネコ 」は特に、私のスケジュールでは無理だ。
世話をしてあげられないのならば、我慢するしかない。



  ※くしくも、今日は、
   これから開催される別府大分毎日マラソンで、
   猫ひろしさんが走るらしい。
   
   さして意味のない「ネコ」つながりブログ。




「首都直下型地震」の対策

2012年02月03日 | 社会 -

今日は「首都直下型地震」防災訓練があったようだ。

家族を心配して「家に帰ろう」とすることは、
二次的な災害をもたらすことになる可能性があり、
良し悪しのケースもあるみたいだ。
(混雑や渋滞が起こった時には)救急車や消防車の
通行を妨げることになる。
想定される首都火災の拡大を止めるためにも、道路は
緊急対策車両が通行できるようにしなければいけない。

(3・11は、すごい渋滞を引き起こした!)


とにかく、「近くの避難所に移動する」とか、
「無理に帰らない」ということも一案としてあるようで、
そのためにも“情報を得る”方法と、何らかの対策を
していくことが必要であることが分かった。

食料の備蓄や、滞在先の情報収集など・・・
どこで何があっても、冷静に対応する自分の気持ちもまた
必要なのだと感じる。
今日のように、寒さが厳しい日には、それなりの自己対策も
必須のような気がする。
ちょっとした準備が、安息をもたらすこともある。


3・11の時を振り返ってみても、いろいろな課題が
見えてきていたし、様々なことを体験した人が多かった。
経験したことをシェアしあって、対応と対策について
意見を交換し合うことも大切かもしれない。

私は、隣にいる人と、誠実に対話できる重要性も・・・
同じ国民として、まずは認識しておきたいところだ。
声をかけあうことが、非常事態にみまわれた際には、
自ずと発生してくることだと思う。

怖いからこそ、そのような稀なる自然災害時には、
気持ちをしっかりと持ちたいものだ。
そして、適切な判断と、情報収集には、気をつけて
おきたいと感じた。



人生における「仕事」の役割

2012年02月03日 | 仕事 -

仕事のやり方にも、個性というものが出ます。
昨日も、そのことを、しみじみと体感しました。
交渉のスタイル一つをとっても、細かく確認をしてく人や、
ざっくりとつかんでかじ取りをして部下にゆだねる人、
大言をはいた後に放置する人(忘れてしまう人)など・・・
本当に様々な人と出会ってきました。

才能があって、経験があっても、
独立して「経済的な苦労」をしてしまった後には、
すっかりとスタイルが変わってしまう人がいます。
ねっとりと細かく細かく話を繰り返し、
経済的な結果を強く考えるようになります。
ご自分では気づいていないと思いますが、
そういう過去の経験は、少なからず個人の性質にも
影響を与えているものです。
そして、それが仕事のスタイルに大きな変化をもたらし、
重箱の隅をつつくような「やり方」になってしまい、
時々「たまらんなぁ~」と感じてしまうのでしょう。

慎重な私が、そういう感想を抱くということは、
もっとさらに「すごい」ということです。
きっと大雑把な人と一緒にタッグを組むと、
とんでもない壁をつくってしまうかもしれません。
しかし、トラブルを避けようとして慎重になるのですから、
これは明らかに長所なのですが、それを相手に(強く)
感じさせてしまうのは短所になってしまうのかもしれません。

大企業内でも、そんなことはたくさんあって、
私は(現場の)「愚痴の聞き役」になることがあります。
気楽に感じて頂けるようで、他言しないという印象が
あるのかもしれませんが・・・・
それらの言葉の中に埋もれているモノの中には、
かなり重要なキーワードが隠れていることがあります。
私は、そういう愚痴の一つで、他者のネットワークの
関係性をはかる材料にしているのです。
人間関係というものは、踏み石のような部分があり、
きちんと踏むべき場所を間違えないようにしなければ、
時々面倒なことになります。
そういう意味では、私にとっては良い材料になっています。



起業するということは、人の人生にかかわること―。
自分が経営者として頑張れるかどうか・・・ですから、
扶養家族をかかえている家長の立場の人にとっては、
大きな選択となることでしょう。
だから、経済的な負荷がかかるのは当然と言えば当然です。

起業者向きの人かどうか・・・というのもまた、
なんとなく感じとれるものですが、
そのポテンシャルというのは無限大のように思います。

「起業したら、成功するタイプだよね?」
そう声をかけた27歳の若者がいました。
「えぇ~、ぼくがですか? 全然無理ですよ~」
彼の中には、全くそういう設計がないようでした。
給料が少ないと愚痴をこぼし、さりとて努力して「上を目指し、
向上しよう」という意識は弱く、現状維持に甘んじている・・・。
彼自身がそれでよいのだから、他者がとやかく言う問題では
ありませんが、そういう人々が多い現状は感じています。
仕事のスタイルとして、上司の指示に従うことを重要視した
かつての企業型人間です。 
意図的に大きなものに巻かれようとする人です。
それでいながら、指示されたことが正論だとは思っていなくて、
自律的ではないところがミソです。
本人の感情と、その人のポテンシャルとは別ものであり、
やはり「やる気」がなければ、何事も変わることはありません。

若者に蔓延する「自分自身へのあきらめムード」を感じた時、
それは、同時に「日本という国へのあきらめムード」なのでは
ないだろうか・・・と、私は感じます。


いろいろな経験と情報が、その人の全てに影響を与えて、
人生の可能性にも「チャンレンジ精神」を失わせているのが、
今の日本という社会かもしれません。
だから、経済格差と同じように、仕事面でも、
そうではない人との落差が、どんどんとひらいてきました。



日々の暮らしを支えるための仕事がない・・・。
大企業をあえて希望退職して、第二の人生を考える・・・。
人によって、本当にたくさんのケースがあるようですが、
生活の基盤をつくるために頼りになるのは「自分自身」だけ!
だからこそ、希望はなくさないようにしなければいけないし、
時には我慢して、自分と向き合うことも必要なのでしょう。

私は、いつまで我慢ができるのか・・・そこのあたりを
熟考中です。
それは・・・まさに「人生設計」なのだと思います。

あらゆるものには、「計画」&「設計」が必要です。
私の場合は、自分の人生における価値観の優先順位を考えて、
仕事という項目が、どの位置にくるのかを・・・
今、重点的に考えているというのが正直なところでしょうか。

この危ない日本という国に信頼を抱けなくなった時、
かつて世界に注目された日本経済の指針が揺らぎはじめた時、
特に考えなければならない重要事項となりました。



生きるための「選択」

2012年02月01日 | 自分 -

最近、自分が「活かされていない」と感じている。
その理由は、あまり具体的ではない。
まだ、自分の心が 掴み切れていないからだろう。


普通なら満足できる「やりがいある仕事」を任されていても、
実感がなかったり、楽しくやれないような時がある。
そんな状況(状態)を、私はいつも・・・
自分の言葉では “やった感がない”と 言っている。
今日の私は、まさに・・・そうだった!
濃密なミーティングを重ね、新しい出会いをしても、
ときめかない私は、輝きが薄れてきている。


昔の私は、「情報」も「経験」も、まるで むさぼるように、
欲していた時期があったけれど、
今は・・・
一つ一つを選別して、区別して、判別している。


やはり人は、「生きていてこそのものだ」と思う。
生(命)があることに感謝しながら、その一方では、
欲深く「手ごたえ」のようなものを求めているものだ。


「生きる」ためには、「支え」になるものが必要で、
人によっては、それを「生きがい」と喩える場合もあるが・・・
私には、何という言葉が適切だろう。
この概念と感覚を 的確に伝えられるイメージは何だろう。


実際、自分の「価値観」が変わったことには変わりがないが、
その“変わったもの”が、さらなる変化を遂げることもある。

今は、しばらく、時間を費やしたい気分だ。



人が・・・生きるために、常にしている選択というものを、
私もまた「するべき時がきたのかもしれない」とも感じる。

後悔したくない人・・・それが自分だから、
活力のない状態で、放置してしまっては “自分が可哀想だ”。
あまりにも気の毒すぎて、生きている実感も 味わえないかも・・・。



ほんの少しだけ「生きる」ことが明確になってきた気がするのは、
さらに「生きている」ことを意識しはじめたからだ。
それも、特に大事なのは、「自分のために生きる」ことに、
強くアンテナを張りだしたことかもしれない。
それが、昔と今の自分にとって、驚異的な違いだと思う。
決して悪いことではない・・・。
時間の重要さを感じるし、自分を冷静に見つめることもはじめた。

「今しかできないこと」
「今やった方がよいと思えること」
私は、そういうことを 意識的に考えている。

そして、
日々の決めごとに流されず、
他人の言葉にも支配されず、
常に「意識している」ことからスタートして、
いつか「未来の自分を見つけ出したい」・・・・・
・・・・・そんな真摯な気持ちでいっぱいだ。

その先にあるものを、私は「心のセカンドキャリア」と呼びたい。