我が故郷、四国は、八十八ヶ所の巡礼が 有名である。
たくさんある寺院の中で、八十八ヶ所の中に入っていない寺は、
それなりに歴史があっても、現在は区別された “ 何か ” がある。
何もしなくても、観光客が押し寄せる八十八ヶ所の寺院は、
それ相当のお賽銭や、露出があって、基本的なところから、
差異はでてくるのだと思う。
宗教法人は、納税が免除されているために、非公開の現実が
背景に隠されているお寺も多いだろう。
実際、引き継がれた土地や、宝物などが たくさんあるはずで、
それらは 全て 納税の義務がない。
昔ながらの 繋がり と 固定観念により、社務所の建て替えや
瓦葺き替えなども 全部、檀家に寄付を募る。
そして、ご住職は教諭として働いた年金を手にして、家族も同様に
教諭が多く、なぜか遠く離れた東京に高額マンションを幾つも所有し、
賃貸に出していたりする。
これらは、批判ではなくて、ただお寺のご住職の心持ちによって
違うことなので、全ての寺院を さしているわけではない。
大阪の叔母の家のご住職は、インドまで修行に行った人で、
葬儀の際には、火葬場にまで同行し、お経を唱えてくれたらしい。
もちろん、法要の際にも、毎回、祭壇だけではなく、お墓にまで
同行して、お経を唱えてくれるそうだ。
我家の菩提寺のご住職は、ただ祭壇でお経を唱える30分だけで、
お墓にも同行してはくれない。 その上、法要後のご説法もなく、
すぐ着替えをはじめて、お茶を一口飲んで、すぐに帰ってしまう。
まさに、あっという間だ。
そこそこの雑談さえもできない空気感を漂わせていることもあった。
お偉い方かもしれないが、檀家の間では、「 自分の家に、すべてを
( お金を ) とりこむことしか考えていない 」 と、もっぱらの評判!
まさに、「 お寺次第、ご住職の意識次第だ 」 と言わざるをえない。
【 高野山真言宗 】
今年の報道で、宗教法人・高野山真言宗(総本山・金剛峯寺、和歌山県高野町)が、
資産運用の損失額が 約18億円だったことを明らかにした。
今年2月、お布施を含む資産を外国債の購入などに充てて損失が生じたことが発覚。
その後、弁護士や公認会計士らでつくる外部調査委が全容を調査したらしい。
02~13年3月の損失額を 3億5400万円としたが、集計が間違っていた。
そのため、総長が宗派の議会にあたる「宗会」の一部の議員が集まる会議で説明して、
「厳正に対処したい」と話したというニュースがあった。
庶民には理解できない寺の仕組みがあるのかもしれないし・・・
単なる強欲の極みが、現実として はびこっている寺院があるーとも思う・・・。
住職とて人間だし、寺院の人々が 全て 健全な人だとは 言い切れないだろう。
人間は “ 欲望と理性の間で せめぎ合い続ける生き者 ” だから――。
すごく昔のような、学校がなかった頃の「 寺の役割 」とは違うのに、
その威厳だけが残っているように感じられるケースがある。
市井の人々と一緒になって 共同体を形成していた頃の寺、あるいは ご住職は、
“ 地域のかなめ ” となる存在だった。
ご説法もまた、庶民 ( 檀家 ) にとっては、有り難いものだったはずである。
それは、現在も変わらない。
残された人の心を癒し、繋がりを密にできる 「 有り難い話 」 なのに・・・
それさえも拒否して、お布施だけに執着しているように感じとられる寺院は、
陰で いろいろなことをしているのでは・・・ という不遜な想いが芽生える。
申し訳ないが、そういう切ない印象に成り下がってしまった菩提寺との関係は、
新しい展開が必要なのではないだろうか・・・と、心の奥では思っている。
今は亡き先祖を弔うのも、その魂を癒していくのも、残された側の 「心」 が
重要なことだと思うからこそ、大切なことを見失わないようにしたい・・・と
心からそう思う。
世俗の基準は、お金というものがあるとしても、それが第一にくるものではない。
お寺は、お寺で・・・経営をしていかなければいけないのは理解できるが・・・
程度の問題があって、「 宗教法人である 」 ということを 忘れずにいてほしい。
利益を追求する姿勢が強いのならば、株式会社を設立すれば、誰も何も言わない。
根幹にある基本理念と、意図が・・・社会常識範囲の中で、納得できる範疇で
執り行われることを 願うのみだ。