変えられないもの

2010年01月28日 | 自分 -

どんなに一生懸命努力しても、変えられないものがある。

過ぎ去ってしまった「過去」と、自分以外の「他人」である。

過去に縛られ、惑わされ、努力する気力もなくしてしまっては・・・
自分の人生をフイにする可能性が高い。
他人も同様で、その意志や意図をコントロールすることは難しいし、
思考そのものに振り回されるのも、時間の無駄である。
どちらも、うまく協調しながら、自分の生活の中に共生していくことが、
(私にとっては)何よりも無理のない選択だろう。




変えられないものだからこそ、決して日常では囚われることなく、
もっともっと「今」を大切にするべきだ。

そう、「今」は、確実に変えられる。
自分が変えようという強い意志さえあれば、変えることはできる。


「今の現実」や「今の自分自身」を変えることは容易ではなくても、
努力する価値は充分にある!!


もしも、「今」と「今の自分」が、少しでも変わったとしたら・・・・
「未来」と「未来の自分」は、確実に変わるだろう。
たとえ人に認識してもらえなくても、確実に変わる。

その“変わった自分を味わうこと”ができたら、次に努力することは、
もっと容易に取り組むことができるようになるだろう。
これは、明らかなる「自己成長」の“結果の一つ”である。



突然の離婚宣告

2010年01月27日 | 社会 -

仕事先の代表の話である。
60歳を目の前にして、突然、奥様から「離婚」を言い渡された人がいる。
その人としては、仕事に没頭して、家庭のことを奥様に任せすぎたようで、
一人娘のお嬢様も一緒になって、奥様方について同居するという。
本人は一人でこれから暮らすことになり、奥様とお嬢様との関係は最悪だと言う。

彼にしてみれば「仕事をやめたら、こうしよう」と描いていた「老後の人生設計図」が、
すべて崩壊した。それも、ある日、突然に・・・・。
「寝耳に水の状態だった」と話していた。 相当の衝撃だったらしい。
現状としては、すでに財産を処理して、分配作業に入っている。


実際、よく聞く話ではあるが、こうも身近に起こるとは思ってもいなかった。
その人は会社経営者という立場のため、どうにか「定年などはない」が、同時に、
「退職金もない」ということになる。
だから、余計に、営業に走りまわる日々・・・。



私にとっては、その境遇が(正直)痛々しく感じることがあり、
その人が“多めに見積もった請求書”にも、今は、つい判子を押してしまう傾向がある。
これを人に話すと、笑いながら「家庭をないがしろにしたからョ」と言われるのだが、
私自身は「(実家時代の)老いた父の一人暮らしの寂しさ」と5年近くつきあったので、
なんとも複雑な想いが消えない。
その人の将来と、重ね合わせているのかもしれない・・・。

私と同居する前の父は、毎日、毎日、四国から電話をしてきていた。
一日に、何度も電話した記憶がある。たわいのない話を聴いたり、話したり・・・・。
会議中だろうが、仕事中だろうが、父はおかまいなしである。
電話に出ないと、またすぐに電話を鳴らす。 何度でも・・・。
携帯のバイブ音も気配で分ってしまうので、大事な会議中は携帯をカバンの奥に忍ばせた。
日々がその繰り返しだった。

毎日のことなのに、実家から電話が鳴るとヒヤッとするのは・・・
突然の病気ではないかという連鎖的心配からで、(緊急事態連絡も何度もあったから)
そのヒヤリ感は、最後まで慣れなかった・・・・。



“毎日電話をできる関係の人がたくさんいる人”は、幸せな人だと思うし、
“頻繁に会って遊べる人がたくさんいる人”は、本当に恵まれているとも思う。
高齢者の孤独は、なかなか理解しがたい。
身体と心が、だんだんと折り合いがつかなくなるので、不安が募っていくからだろう。
そして、やはり他人にはつきあいづらいものかもしれない。
家族が、愛情をもって、毎日でも寄り添ってあげないと、孤独感は募るばかりかも・・・
そう思うけれど、現実はなかなか上手くいくものではない。



話題は戻るが・・・・
突然、離婚を切り出された人は、とにかくお酒に逃げる人で・・・
想いおこせば、昨年の春などは、よくお酒を飲んでは夜中まで話し込んでいた。
今となれば、なんとなく納得できることもある。
当時は、「ちょうどもめていた頃だった」と、後になって分った・・・。

60歳という年齢だし、まだ何とか最初からやり直しもできるだろうけれども・・・
仕事もプライベートも「余暇」や「社会貢献」や「趣味」に興じる年齢だからこそ、
これからの人生を楽しく過ごしてほしいと願うばかりである。
今はまだ、会うたびに顔は曇っているし、話もくどく、人の意見も受け容れる余裕が
ないほどである。また、変わった点としては、弁解や説明が長くなったということ。
また、どうしても覇気がないので、仕事相手の私としては“やり辛い”。
ちゃんと割り切ったとしても、レギュラーメンバーでなければ、他の人を指名していた
かもしれないと思うほど、(今は率直に言うと)空気感が芳しくない。

だからこそ、皆が助け合って、気を遣い合って、仕事を円滑にしていく必要がある。
そのために、日々、少しずつ、私も苦労しているのである。


しかし、ほとほと感じる。
一歩、外に出れば・・・・・こうして、何気ない日常活動も、
人々は微妙に影響し合いながら、生きていくものなのだ・・・と。
誰かの心の傷をうめることも、癒すことも、気遣うことさえも、
実は“将来の自分に返ってくることなのかもしれない”・・・と。




大都会の夜景

2010年01月25日 | 社会 -

過日、知り合いから見せられたDVD。

大都会――東京――新宿の夜景を、空撮で撮影した映像が・・・・
ただ、ひたすら、ずっと、ゆっくりと、流れるだけのものだった。


新宿御苑の場所周辺だけが、まっくら闇で・・・
真っ暗すぎて、一際、目立つぐらいである。

その先には、明るい「新宿の高層ビル群」が建ち並ぶ。
都庁や、有名ホテル、有名高層ビルが、煌びやかに輝いて、はてしなく続いていく。

道や高速道路は、オレンジ色のライトをつけた車が、縦横無尽に走っているのが判る。




         私が子どもだった頃、「神戸:六甲の夜景が美しい」といって、
         よろこんでいたのは中学一年生の時だっただろうか。



    
   
今は、摩天楼に近い高層ビル群を見ると、自然と・・・エネルギー問題や環境問題が
頭をもたげてきて、すっきりとした気分にはならない。
それを考えないとしても、決して「美しい」とは思えない。

まるで、人間(人類)が、狭い場所に、集中して、たかって生きているようなイメージだ。
“地球に取り付いたムシ”のような印象にさえ感じてしまう。
いつか、すべてのモノを食い尽くしていくのだろうか・・・・そんな危惧を覚えるほど、
新宿の夜景は、“非常なほどの空間のないビル群で覆い尽くされていた”。


「都会」という景色は、人間が創出した最高峰の「美の結晶」なのだろうか・・・。
はたまた、自然を壊しつくして、都合の良い環境をつくりあげた現実なのだろうか・・・。

実際、この星のいたるところで、異変が起こっている。
冷静に考えても、凄いことである。



大都会:「東京」は、夜中でも眠らない。


どちらにしても、私にとっては・・・
「美しい」とか、「神秘的」だとか・・・そういう子どもの頃に抱いた印象とは違って、
かなり威圧的な景色に見えてしまったのは、事実である。
 (本来の目的であるリラックス効果などとは、ほど遠い感覚だった)


この数十年の間に、私の中に起こった印象と感覚の違いは、明白であった。
まさに文明という高度な成長を遂げた「大都会」―。
人間は、すざまじい勢いと速度で、地球の表面を作り変えてきた。
その環境の変遷と連動するように、“素晴しい快適性”ではなく・・・
何故か“ある違和感”を感じたのは、私だけだろうか。


この星が健康でなければ・・・・
私たちの“健康的な生活”は、決して望めない!




コクリ・コクラレ

2010年01月23日 | ナンセンス -

昔からの知人と夕食を一緒に食べていたら、突如、「過去形」でコクラレました。

15年ぐらい前のことでしょうか。
私の個人的な話題になり、まるで人生相談のような、雑談のような状況になった時があり、
その頃のことを指して、言われた言葉です。


  「あの時は、ちゃんと相談に応えてあげられなかっただろ?」
  「そういえば・・・まぁ、う~ん」
  「そうだろ!うん。
   あの頃は、目が、くもっていたからなぁ。
   目が、くもっていただろ?
   あの頃、本当に好きだったからなぁ。」


一瞬、反応に戸惑い、固まる私でした(笑)。
彼の気持ちは、うすうす長きにわたって(5~6年ぐらいかな)感じていましたが、
でも、今や、過去形ですから・・・・。
今、私としては、どうでもよいことになります(笑)。


これでも、若い時分は、意外と“もてていた私”でしたぁ~~。
しかし、当時は、相手の気持ちをひしひしと感じつつも、
自分の中では 「仕事相手との恋愛は、ご法度!」と、固く決めていました。
     (当時、友人からは、異論を唱える意見も多々ありましたが・・・)
あえて微妙な空気を避けたり、密かに諦めたりしていたことが多く、
しっかりとその点をも、気遣いなく(今回のコクラレ人に)指摘されてしまいました。
しみじみ他人事のように、“その人が感じていた自分”を伝えられてしまいました。

今となれば、当時のお互いを見透かし、見透かされ、知らんぷりで懐かしく語れるのは、
奇妙だとも思いますが、それだからこそ、特別の関係が成立しているのでしょう。
気を遣わず、言いたいことが言えるのは、なかなか良いものです。
そういう関係の人が、私には何人かいます。
男性にとっては不本意かもしれませんが、今は、あえて良い関係だと思っています。



別の男性の話ですが、一事は二人のことが“大きな噂”になってしまい・・・・
彼が「こんなことなら、やっとくんだったな(笑)」と冗談のようにちゃかして、
お互い弁解するのも変だし・・・「仕方ないなぁ」と、和みあったこともありました。
今となっては、懐かしい笑い話です。



20代の私が、現在の若者のように婚活に勤しんでいたら、私は戸籍に一つぐらいの
バッテンが、(今頃は)ついていたかもしれないですネ。

微妙な空気を漂わせていた関係の人は、今回のコクラレ人だけではありませんでした。
しかし、当時の私には、深くお互いを理解しあい、一生の契りを結ぶ「結婚」や、
深く愛するがゆえに堕ちていってもいいと思えるぐらい惹かれる「不倫」のような・・・
「人を愛する余裕」が全くありませんでした。
正直、一人で仕事をするのが何よりも楽でしたし・・・
彼氏一人をもつのにさえ窮するぐらい、テイッパイでしたから・・・(笑)。


たった一度の経験

2010年01月21日 | 自分 -

現実の「一瞬」の感覚を切り取り、それを “自分の中に深く留め置く” ことは、
たとえ現実的な具象が変化しようとも、「自分の中では変わらない」ものとして
一生・・・位置づけられる思い出となります。


たとえは、あまり適切ではない例でしょうけれども・・・
どんなに大切な人とのお別れの葬儀でも、私は棺に横たわっている “その人” との
最期の別れ(対面)を希望しない人です。  (家族&親族は別です)
二人で過ごした素敵な思い出を、その人が元気だった頃の輝いていた状態のままで、
色あせることなく、記憶の中に残したいからです。
思い切りあふれる涙を流し、棺には近寄らず、私の中の “その人” を思い尽くします。
そして、自分の中で、自分なりのお別れをしてくるのです。



話題は、若干変わりますが、
気にいった映画があると、連日、通う私ですが・・・
「This Is It.」に関しては、特別な感情があって、足が向かいません。
昨年10月29日(公開日翌日)に観た感覚が忘れられず、
その経験を(私の中で) 「永遠のものとして残す」 ためにも、
もう二度と映画館では(あえて)観たくないと思うようになりました。
これは、今までの私にしては、全く稀有なことです。
あれは、単なる映画ではなく、MJとのお別れ会のような気がして・・・
そして、あれは映画ではなく、海外で観た“貴重な舞台”のような感覚がして・・・
もう映画館には行くのをやめることにしました。
DVDはすぐに発売になりますし・・・ただ、実際はそういう価値基準ではなくて、
私が何よりも大切にしたいのは、あのときの会場の雰囲気だから―。
10月29日が素敵な鑑賞会だったので、「それだけで充分です」。
行こうか、どうしようか・・・迷っている内に、そういう想いが固まってきました。



また再び、話題は、若干変わりますが、
「一度しかない経験」・・・「一度しか成し遂げられない舞台芸術」は、私にとって、
やはり特別の意味合いがあるようです。
私は、若い頃から「生」の臨場感を追い求め、貧しい経済状況の中から舞台鑑賞を
重ねていました。徹夜で並んで、当日券を手にしたことも頻繁にありました。
アングラや商業演劇、ミュージカルや海外公演、歌舞伎からテント芝居まで・・・
貴重なチケットから、ただ呼び込まれたぐらいのものまで、本当に様々な舞台を
観てきたと思います。 (オペラやバレエ、クラシックコンサートまで)
有名俳優の遺作となった舞台や、歴史のある芝居も、たくさん観てきました。
ジュディ・デンチやマギー・スミスが久しぶりに舞台に出ると聞けば・・・・
航空チケットを買い、ウエスト・エンド(ロンドン)に通っていた頃もありました。



これらは、すべて「たった一度しかない経験」 「たった一度しかない舞台」だから、
私自身が “魅せられていたのだ” と感じるようになりました。
「映画」は何度観ても同じ映像が目の前に出てきますが・・・「舞台」にそれを望むのは
大変厳しいでしょう。何百回と観劇しても、生身の人間の演じている舞台だからこそ、
決して同じものにはならないのです。舞台は、その時々の空気を察知して、進行します。
だから、“生き物” なのです。会場も一体になって、作り上げる総合芸術なのです。

舞台芸術の醍醐味は、そういう刹那的な背景が否めないのですが・・・
だからこそ、目の肥えた芸術家や評論家の仕事が成り立っているのでしょう。
役者にも歌手にも、全盛期というものがあり、その時でしか出会えない芸術経験が
あるように思います。

私の人生の中で、そういう “玉虫色の思い出” があるということが、何よりも美しく、
有難いことのように、今は思えています。



すべてのものには、「命」があります。
その命のほとばしる「一瞬」を、心にとどめることができたら・・・・
そんな感覚と向き合いながら、日々を過ごしています。



阪神大震災から15年

2010年01月17日 | 社会 -
もう15年もたってしまったのか・・・と、しみじみと感じる。

「阪神・淡路大震災」は、私たちが経験する初めての大震災であった・・・。

その後、連絡が取れるようになって、多くの人たちにお見舞いの電話をする中で、
知らなかった現場の状況を聞き、何度も胸に迫るものを感じたのを覚えている。
明るく苦労話を語ってくれる人もいたり、悲惨な現実をさらりと伝えてくれる人もいた。
どれもこれも、震災がもたらした、人々の暮らしがそこにあった・・・。
あれから、もう15年なのだ・・・。


ちょうどこの日、私はイギリス:ヒースロー空港発の成田便に搭乗していた。
到着間際のニュースを機内で観てから、胸がそわそわして落ち着かなかった。
「信じがたい光景が、そこにはあったから・・・」
すぐには実感が、わかなかった。
「まさか・・・そんなはずはない。あれが神戸だなんて!」
信じられなかった。
ニュースは、まるで映画の一場面のような「ガレキの山ばかり」で・・・
私は言葉を失ったまま、身も心も落ち着かず、機内で硬直していた。

我が実家は、四国:徳島にあり、震災地と大変近い場所にある。
それも、海を隔てたすぐの場所で、神戸からは非常に近い位置にあるのだ。
だから、私は・・・・実は・・・両親の安否が何より心配だった。
「どうか、無事でいてほしい!」故郷の状態がわからず、心からそう願っていた。
成田空港に着いて、公衆電話エリアに走り、すぐ実家に電話すると、父がでてくれた。
阪神大震災の起こった時間は早朝だったので、時間がかなり経過していたこともあって、
徳島への電話の回線はすでに問題なくて、実家とはすぐに繋がった。
「朝方の大きなゆれに、とてもびっくりしたこと」 「あまり大きな被害はなかったこと」
「中庭にある大きな灯篭が倒れてしまって、ぴくりとも動かないこと」を聞いた・・・。
でも「死ぬかと思うぐらい、大きなゆれだったから、こわかった」と父はしみじみ語った。
その後、母の声も聞いて、お互いの安否を確認して、「良かったね」と言い合った。

阪神大震災と聞くと、いろいろな想いが交錯し、たくさんの顔が浮かんでくる中で・・・
あの“落ちつかないソワソワ感”が(まるで)対のように、いつも思い出される。


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あんな状況から現在の状態まで、町や生活を復興させた震災地の皆様のご苦労には、
心から敬意を表します。本当にお疲れ様でした。大事な方を亡くされた多くの皆様、
どうか心安らかに、これからも“今日の日”を忘れず、お健やかにお過ごし下さい。
====================================


今年、私は、母の十三回忌の法要を迎える年となる。
母の一周忌の際に、お墓をたてたのだが・・・・そのときに、実家の中庭の灯篭も
元通りにしてもらった。
大震災の時に倒れた“あの中庭の大きな灯篭”である。

あの灯篭を見るたびに、機内でのソワソワした感情がよみがえってくるのは・・・・
今もかわらないが、もう15年なのかと感慨深い。


毎年「震災にあわれた方にとっては、厳しく、大変な15年だったことだろう」・・・と
ただただ複雑な想いにみまわれる。
天災は、突然に厳しい現実を引き起こし、人間の業を裸にして、試練を与えてくる。
私たちは、助け合い、慈しみ合い、声をかけ合い、少しでも心の傷を癒しあいながら、
生きていきたいものである。 
同じ地球に「生」を受けた者として・・・・。


身体からのサイン

2010年01月16日 | 自分 -

最近 (昨年後半からは特に)・・・ 本当に、つ・か・れ・た・・・・。


いろいろな要因があると思うのだが、口の横に「できもの」ができてしまって、
一ヶ月近く治らない状況が続いていた。

疲れ、ストレス、肩こり、ビタミン不足、胃痛などが、主要な理由のようだ。
調べてみると、これは「口角炎」というらしく、「治ったかなぁ」と気を許したら・・・
あっという間に大きくなっていたりする。

歯を磨く時、食事の時、口を大きく開ける時、ぱっかりと傷があき、痛みを伴うことが
あるので、あまり油断はできない。
いつも数日で治るのに、今回は本当に問題続きだったので、この身体が「サイン」を
私に送っているように感じた。

今日は、外出を避けて、後処理のメールを送ったりしていたが、肩こりがひどく・・・
今、寝違えたように首の後ろが痛い。 まるで筋肉痛のようだ。


ストレスはかなりだったし、元々「胃」が弱いので、相当厳しかったのかもしれない。
実は、凄い「ストレス」だった・・・と思う。 
一時は「腹をくくる」ぐらいの厳しい現実だったのだから・・・・。


昨日は、(仕事のトラブルが)とりあえず落ちついたので、夜は外食をしたのだが・・・
これもまた負担だったようで、胃痛が酷く、「胃酸を押さえる薬」を飲んだぐらいだ。
最後のデザートも、久しぶりに飲んだ珈琲も、実は影響しているのかもしれない。
バターとか、珈琲のカフェインや苦さのきつ~い感じが、ストレートに堪えてしまった。
(最近は、珈琲は全く飲まず、身体に良い焙煎茶を中心としたお茶党になっていた!)
私自身で、数ヶ月前から、日常の食事内容(食べるものの種類)を変えたので、実際、
昨夜の油ものや肉類等は、かなり負荷がかかったみたいだ。
(デザートのケーキも、結局は油ものであるバターやクリームがたくさん使われている)
いつもは全く気にならないのに、やっぱり私の体調が万全ではなかったのだと思う。


身体は正直で、意図的に気持ちを繋げていても、「もぅ無理~」「休みなさいよ」と、
サインを送ってくれているようだ。 有難いことである。
 (気が緩んだので、余計に素直に反応がでたようにも感じる)
やはり、今回の余波から受けた代償は、意外と大きかったかもしれない。


「口角炎」には、ビタミンBが良いそうなので、早めに買いに行こう・・・っと!!
でも、まずは・・・日曜日は「終日:お休み」だなぁ。


高給取りの判断能力

2010年01月15日 | 仕事 -
今日もヘビーな会議をした。 
数社の大手企業が一同に介しての会議である。


誤解のないようにしてほしいが・・・・・私の経験上の統計として・・・・・
高給取りの慢心した人ほど、相手を思いやる仕事をすることができない人が多い。
おそらく、これは “人間としてどうなのか” という観点での推論ではなく、
「いい人でも、仕事相手に対して鈍感で無神経だったりする」ことがある。
要するに、気を遣わなければならない会社担当者や顧客に、気が遣えないのである。

 (私は、高給取りビジネスマンが全てそうだとは、言っていないデス!
  才能豊かで、交渉力もあり、知恵も持ち得た、信頼できる人が多いデスから!)


ただ、偏差値主義教育やマークシートの受験を繰り返した世代に多いことだが・・・・
何かを自分で勘違いしている人がいる。
ただ、脳細胞の中に学問と呼ばれるものを記憶させる動作を繰り返すだけで、
“勉強ができるかどうか”という評価をされてきた人たちには、目の前の人の
「気持ち」や「心」を察して、それを尊重して、かつ、自分の意思を上手に伝え、
交渉することが苦手な人が多い印象を受ける時がある。
一方的にメールで「事」を済ましたりして・・・
それが自分の慢心の感じられる「表現方法」だったり、
無神経極まりない「言葉遣い」だったり、
決定権もないのに断定的に何かを決め付けたり、
自分勝手な解釈による「利己的な指示&命令」をしたりする。
そこに、仕事相手や、気を遣うべき相手への「配慮」は、浮かび上がってこない。
今日の会議も、そういうことが発端による「大トラブル」の後処理会議だった・・・。
自分の判断を乗っけることによって、全く別の事実になってしまうことの重要性に
気がつかず、プロジェクト全体を揺るがせる「大事」になってしまったのだ。

(いつもは慢心発言の多い当事者も、今日は彼の上司が満面の笑みで語るのみで、
 当事者である本人自身は一言も発しなかった)



今回の当事者のような人は・・・・
相手が何を求めているのかが、全く想定できないような現実を繰り返している。
権力のない私は、それを傍から眺めて、「ひどいなぁ」と感じ入るばかりだ。




そして、何より一番不幸なのは・・・・
「そういう人ほど、自分の現実をわかっていない!」ということである。

今回の当事者もしかり・・・
全く「自分や、自分の仕事のやり方を、客観的に認識していない」と思う。
そして、「自分の何が悪かったのか・・・の上っ面しか理解していない」のだろう。
謝罪を繰り返してでも、彼は似たようなことを、また繰り返すかもしれない。




自分の目の前の人を、もっと観察して、その人の立場になってみることは、
非常に大切なことである。

「心を育てる教育」を受けず、左脳だけしか使わない基準による評価により、
大企業と呼ばれる会社になど入社してしまうと・・・・
個々のキャパシティを超えた「何か」を求めてしまうのだろうか。
あるいは、自分を等身大以上の才能の持ち主だと、思い込んでしまうのだろうか。
とにかく、慢心している。
今回の当事者は、確実に、“利己的な気持ちが、強く感じられる人である”。
自由に経費を使ったり、操作したりすることができるのも、錯覚する要因だろう。
恵まれた立場や待遇が、そういう状況を引き起こしているようにも感じる。
そして、高給取りという待遇だからこそ、「自分の位置を過剰に守ろうとする力」が
誰よりも強く働き、それが(結局)“問題を引き起こす原因”にもなっているようだ。


彼にもきっとそれなりの苦悩と苦労はあるのだろうが・・・仕事上の現状としては、
楽に自分の立場を守りつつ、安易な思考で動く力量しかないようだ。
上司もまた、そういう人だったりすると、“会社の社風なのか”と思ったりして、
今日の私は(心の奥底で)密かに笑ってしまった。
この期に及んで、まだ自分達の立場を守ることしか考えていない。
 「まるで、だんご三兄弟じゃん!」
 (その上の上司も、みてみたいなぁ~~)
真面目な会議で、そんなことを考えながらいる私こそ、不真面目 極まりない!
そう感じながら、「仕事相手は、選ばなきゃね!」と感じる今日この頃である。



とにかく・・・・・
何と言っても、問題の現況は、上記のような人が引き起こしていることが多い。
そうして、そういう人こそ、「30代前半~30代後半ぐらいの年齢で、会社から
期待されている(と自分で勝手に思っている)働き盛りの人」である。
また、大企業に所属しており、軽い役職を持ち、それでも他社よりもかなりの・・・
(うらやましいかな)「高給取りビジネスマン」なのである。
しかし、私からすると、社会人として「甘い」としか思えない事件を引き起こされ、
余波が舞い込んでくるために・・・もし周りに人がいなくて、私が子供だったら・・・
「あんたぁ~、バッカじゃないの~!」と言いたくなってしまうのだった(笑)。
(今日も、何度も、心の中で、叫んでいたぞ!!)

結局、今日の後処理会議も、まるで “何事もなかったかのように出発点に戻る” ように、
各企業担当者が其々に “一人の不遜な男性の過失を穴埋めするために試行錯誤した”。
そうして、「また一緒に頑張りましょうね」と、全員で確認する会議となった。
大きな会議室では、誰も出された珈琲に手をつけず、常に笑いは耐えなかったが・・・
私の心の中は(ず~っと)サメザメと凍っていた。 きっと、他のメンバーも・・・
似たような気持ちでいたからこそ、終始、冷え冷えとした空気だったのだろう。
それでも「うまくやっていく」のが社会人だ。 
私も、素晴しい仮面をつけていたョ。



このご時世、仕事をなくしたら大変だ。
特に、大企業の高給取りは、ヒヤヒヤものだっただろう。
高給に慣れてしまったら、おそらく減給も嫌なことだと思う。
しかし、だったら・・・余計に・・・・
仕事を円滑に、今回のようなトラブルのないように誠実に努力するべきだろう。
単純なことだ。 上司はそれを見守り、示唆するべきだし、会社はトータル的に
社員教育にいそしむべきである。 
私は、本当に、「おバカ」な「慢心高給取り」とは、付き合いたくないものである。

今日は・・・本当に、疲れる会議だったし、ストレス過多の会議だったと思う。
トラブルの当事者は、みそぎをして、ちゃんと反省してほしいものである。


(もちろん、高給取りでも、慢心でなく、きちんと心を尊重できる人は別デスョ!)


試行錯誤の果てに

2010年01月13日 | 自分 -

誰だって、人に屈する自分は、腹ただしいものである。
それ以上に、切なく、この身を切られるのは・・・
自分に近しい人に利用されること――。
信頼していた人に裏切られること――。
それも、いつも、何度も、
“ 質を変えて ” ・・・・・

おそらく(その人に)自覚はなくても、「保身」というキーワードがあるために、
イザとなれば、この身は “切り捨てられる” ことがある。
そのたびに、わが身を「学習しないサル」と判断するか、「仕様のない現実」と
判断するかが、自分自身の精神設計のポイントとなる。



若い頃は、「ポイ!」と切り捨てられても・・・それでも良かった。
パワーがあったし、希望もあったし、何をやっても経験になった。
“生きる力” もみなぎり、次から次へと “気力” が先行した。
もしかしたら、「負の力」を “切り返すだけの力” を持っていたかもしれない。
その人に一生頼らなくても、生きていけるという「根拠なき自信」もあった。
実際、そうして、自分の選択だけで、生きてこられたのが不思議なぐらいである。


だが、今は・・・もう違う。
体力は、確実に落ちた。
気力を奮い立たせるのに、時間を要するようにもなった。
昔のように、全ての基準が「純粋なモノ」だけではなくなった。
将来を見据えることを意識しながらも、この身を活かせる場が一番であり、
おそらく、大人としての「したたかさ」も、若干は身につけただろう。
そして、「経験」を手にした代わりに、一般的な興味をすり減らしたとも感じる。
どうしても、先(結果)が読めてしまうからだ・・・。
成長を求め、がむしゃらに働いていた若い頃とは、価値観が変わってしまった。
ガードが固くなったとは思えないが、全てが違う質感になったのは事実だと思う。



そんなことを感じながら、ぼんやり夜を過ごした翌日に・・・・・
私は、こう思う。
         「私は、学習しないサルじゃない!」
         「気力もあるはずだ」
         「まだ可能性もある」
         「無力であるはずがない」



同じ人間の脳細胞の中に、相反する意識が顕在化してくる。
人間というものは、本当にまだまだ理解不能な領域を持っている生命体だと
自分を通してそう思う。

結局は、否定的に物事をとらえはじめたら、危険信号だと思ったほうが良い。
冷静に、自分と対峙する余裕だけは、どんな時も持っていたいものである。

「自分の人生(道)を創造していく」のは、自分しかいない。



波乱の初雪日

2010年01月12日 | 社会 -

東京で初雪が降った今日、JALの再建について波紋を投げかける日となった。
莫大な借金の背景には、複雑かつ傲慢で、必要不可欠な状況があった・・・。


私は、着陸の時に、JALは「ガタン!」として、ANAは「ストン!」といくので、
いつも昔から全日空ーANAを選択していた。
昔は、これでも毎週3回は地方に出向いていた時期が、何年もあったので、
航空便に搭乗する回数は、非常に多かった。

また、JALには、どことなく「わが社はJALなり~」という雰囲気が漂っていた。
当時、徳島便は JAL、 ANA、 JAS、と三社が乗り入れていたが・・・機内の
サービスは其々に違っていた。
小さく厳しい会社ほど、丁寧で優しい対応を、機内でもされたのを覚えている。


しかし、今は、故郷:徳島便は、日本航空-JALのみになってしまった。
それから日本航空を使うしかなくなったが、たった「30秒~1分」遅れただけで、
搭乗手続きも終わっているのに、入り口で搭乗拒否されたことがあってから、
「時代の移り変わり」というか、「デジタル主導の対応の厳しさ」に呆れ果て
JAL好感度はどんどん減っていって(高額料金の割りに対応が悪く、臨機応変な
サービスもできないので)、新幹線と高速バスを使うようになっていった。

航空業界の厳しい現状は、理解できるが・・・もっと早くから他社と手を組んで、
上手な経営体系が取れなかったものかと、ガラガラの機内を見て思っていた。
海外便などは三分の一ずつに、A社、B社、C社なんてこともあったから、自然と
どうして二時間ごとにガラガラ便を飛ばすのかが理解できなかったのだ。
いつも、「しがらみ」とか、「プライド」とか、「規制」とか・・・
メンドーなことが多いのが、ニッポン社会なんですよね、きっと。
なぜここまでなるのに、具体的な手を打てなかったのかが興味ある点である。
ニュースでは、現状と過去の対策しか報道されず、そこまでは想像できない。


今は・・・ただ・・・
私の友人・知人が、日本航空「株」で、大きな損害を被っていないことを願う。


Will You Be There

2010年01月11日 | 人物 -

Michael Jackson /  Will You Be There




昨今は、マイケル・ジャクソンの話題が多くなったように感じる。
死して尚、より評価が高まっているようだ。


好きな曲はたくさんあるけれど、あえてこの映像をここに置く・・・。
これは、彼が80年代成功を収めた後、1991年に発表された曲である。
あまりにも、胸に突き刺さる歌詞に、マイケルの裸の心の内を観る想いだ。
人というよりも、敬虔な信仰人だったマイケルが「大いなる神」に向けて
自分をさらけだしているような内容で、どうしても複雑な感情が湧いてくる。
        (これは、私個人の解釈であることをご了承下さい)
社会問題を背負った多くの人々だけでなく、マイケル自身にも振りかかった
当時のストレートな感情や重圧や苦悩が、そのまま描かれていると感じる。
(作詞&作曲/マイケル・ジャクソン)


  「僕を抱きしめてくれますか?」
  「どんな時でも、そこにいてくれますか?」
  「母親のように、僕を愛してくれますか?」
  そういうような歌詞を何度も繰り返した後で・・・次のような歌詞が続く。

  「人々は、僕に言うんだ。誠実であるべきだと・・・」
  「困難な時ほど自分の足で歩いて、最後まで闘うべきだと・・・」
  「でも僕は、ただの人間なんだ!」

  「皆、僕を操ろうとしている」
  「まるで役割を与えられているかのようになってしまっているけれど・・・
   どのようにしたらいいのか、もう自分ではわからない」
  「僕を見守ってください!」
  「僕を導いてください!」

  上記の舞台演出では、あらゆる人種の人々や、様々な集団をわたりながら、
  「僕を抱きしめて、そこまで連れて行ってください!」
  「僕を解放してください!」
  と懇願するように叫んでいる。



途中に挿入されているマイケルの吐露は、一つの舞台を思い出させる。
「ジーザス・クライスト・スーパースター」
   (1971年ブロードウェイ初演/アンドリュー・ロイド・ウェバー作曲)
キリストを「一人の人間」として描いたこの舞台は、初演の発表当時は、
デモがでるぐらい、世界中の宗教界に大きな波紋を呼んだ。
何よりも、全体がロックミュージカルになっていたので、余計に問題だった。
「神を冒涜している」というのが、反対勢力の言い分だった。
しかし、私は、この作品が大好きである。
宗教問題などは全く度外視して、一人の人間(ジーザス)が背負わされた苦悩と
大業の狭間で大きく揺れ動くストーリー展開が、大好きなのだ。素晴しい!
ロイド・ウェバーの作曲した楽曲も、この作品に関しては全てが大好きである。
(若き無名の天才作曲家の誕生を知らしめた作品となった)


その舞台中で、ジーザズが自ら大きな十字架を背負い、ゴルゴダの丘を登り、
処刑されるのだが・・・
その処刑前に、(ジーザズが)最後に神に向けて、苦悩を歌うシーンがある。

  「神よ、何故、私なのだ?!」
  「神よ、何故、私を選ばれたのだ!」
  「身も心も疲れ果てた私に、何を期待しているのだ!」

そして、最終的に、ジーザズは、ある覚悟を決めて、「やり遂げて見せよう」
「神よ、見とどけてくれ」と、ゴルゴダの処刑を甘んじて受けることになる。



私の中で・・・・不思議なことではあるが・・・
マイケルの「Will You Be There 」は、上記の作品と重なってしまうのだ。

宗教家でも信仰人でもない私には、想像がつかない“はかりしれない深いもの”が
あるとは思うが、人間が辛い時に感じることなどは、共有できないものではない。
どんどん膨らみ期待をつのらせる民衆と、その現象にあらゆる意見を巻き込む
立場の異なる周囲の人々・・・・。
極限まで追い込まれた時のプレッシャーと必死に闘い、もがく人間像・・・。
しかし、自分の運命をのろいながらも、自発的に“ある選択”(決意)をする。

そんな苦悩は、誰でも少しは理解できるはずである。
だから、「共感」は、どんなものからも生まれいづる。


私は、無宗教なので、本当に無知である。
パフォーマンスの観点から判断していることを、何卒ご理解いただきたい。




この曲を歌うとき、最後の台詞のシーンで、マイケルはいつも涙声だ。
苦しみや迷いと常に隣り合わせの状況で、それでも「そこにいてくれますか」と
声をかけた上で、「僕はあなたのもとを決して離れません」ということを伝え、
自分のどんな困難な時期にも、いつも「あなたが、僕の心の中にいてくれる」と
結んでいる。
最後の台詞は、まさに彼の「心の叫び」で、当時の「偽らざる心模様だ」と思う。

   In Our Darkest Hour
   In My Deepest Despair
   Will You Still Care?
   Will You Be There?
   In My Trials
   And My Tripulations
   Through Our Doubts
   And Frustrations
   In My Violence
   In My Turbulence
   Through My Fear
   And My Confessions
   In My Anguish And My Pain
   Through My Joy And My Sorrow
   In The Promise Of Another Tomorrow
   I'll Never Let You Part
   For You're Always In My Heart.


魂が生まれた場所

2010年01月10日 | 自分 -

昨夜、放送された「二本の木」というテレビ番組を観た。
それは、癌におかされた夫婦二人が、お互いに日記をつけていた記録を、
後に自費出版したのだが、舞台「ラブレターズ」のように、二人の男女の俳優が
お互いの日記を朗読しながら、時の流れを描いていくというものだった。
とにかく、泣けた・・・。
号泣に近いほどのシーンがあり、俳優人(片岡仁左衛門さん&竹下景子さん)の
見事さもあり、たとえようもない素晴しい“夫婦愛の世界”に浸ることができた。
あんなにお互いを支えあい、愛し合い、慈しみあった夫婦は、めずらしい。
やはり、相手への感謝の気持ちを確認しあって、伝え合うことの大切さを、
とてもしみじみと感じる内容だった。 「愛」にあふれた夫婦だった。



過去の「介護人」としての経験から、当時の気持ちを思い出すことがあり、
涙を止められなかった部分も多々あったようにも感じる。


母の看病をしていたとき、もう亡くなる少し前のことだったが・・・・
長い闘病生活と、病気の進行によって、当時の母はぼぉ~っとした表情の時が
頻繁にあって、最期に近づくにつれ、私の存在も認識できない時も何度もあった。
そういう勝手な思い込みが手伝って・・・残念ながら、当時の私は・・・
事実上の「母との最後の会話」が、100&理解できなかったのである。
それは・・・

   母:「もう、そろそろ、“生まれた場所”に帰ろうかなぁ」
   私:「えっ!生まれた場所って?」  
   母:「わからんの?」
   私:「中久保のこと?あっ、家のことかなぁ?」
   母:「わからんかったら、ええわ」

 そう言って、母はくすっと優しく笑って、私をにこやかに見つめていた。
 そんなことは、本当に珍しいことだった。


当時の私は、咄嗟に、「生まれた場所」が、母が生まれた生家ではなく、
結婚してから住んだ実家だと、短絡的に解釈したのだった。

   私:「病気が治ったら、また帰れるからね」
   母:「・・・・」

 その後、母は、このことについて、口を開くことはなかった。



葬儀の日、住職からの説法で、「生まれた場所」の意味が始めて判明した。
「人は、誰にも“生まれた場所”があって、いつも“その場所でいるのです”。
 この世で亡くなったらまた再び“そこ”へ戻ります。いつも、その方の魂が
 浮かんでいるように滞在している場所のようなイメージをしてみてください。
 そして、またしばらくしたら、その場所から旅立つようになっているのです。」

母は精力的な人で、50歳を過ぎてから大学へ通ったり、四国霊場を三周も
めぐっていた人だった。それも、片足が不自由になった後からだった。
神戸の震災の時には、足をひきずりながら、炊き出しにも出かけて行った。
人々のために尽力をつくそうと、ボランティアに打ち込んだ晩年を過ごした。

それほど信仰の強い人ではなかった記憶があったが、私が家を出てからは、
同居できない淋しさを感じながらも、家を守り抜いてくれた気丈な人だった。
四国霊場を母の姉と妹の仲良し三人でめぐり始めたことで、精神的な柱として
母の中には根付いていたのだと思う。きっと、そうなんだろうと思う。
私には、そういう基礎知識も何もなく、あまりにも母のことを知らなさ過ぎた。
だから最後の会話に出てきた言葉に的確に応えることができなかったのだ。
結局は・・・ただ、単なる介護人として、母を見送ることになってしまった。


これは、「一緒にいる」ことの重要性を感じることとなったエピソードだ。
高校卒業以来、母と深く会話をしたことが、何度あっただろうと・・・・
いろいろと反省することがあり、余計に母の死はとても辛いものとなった。
せめて側にいて、生活の変遷を見ていれば、少しは理解できたかもしれない。
私は、無宗教だし、当時の介護人としての立場としては、キャパシティとして
“いっぱい・いっぱい”だったのも、不幸な現実であったとも思う。
しかし、あの時、理解できなかった私を、優しく見つめていた母の顔は・・・
今も忘れることができない。
私が見た「最後の笑顔だったから・・・」。


しかし、人は、強い生き物だから・・・時間がたって、心が癒えると・・・
その反省を有効的に反転させることができる。
私自身も、母を介護した経験の全てが、父の介護には活かせたと思う。
しかし、今も母への思慕は無くならない。
とても大好きな人だったので、笑顔が忘れられないし、今も恋しい・・・。
だから、「二本の木」のような・・・かわいく切ない“やりとり”に触れると、
つい思い出してしまうのだろう。



アシスタント・サービス

2010年01月09日 | 出来事 -

さほど車好きでもない。必要だったから、ずっと持っていただけだ。

最近は、触ることも少なくなって・・・・
持ち主の気持ちが届いたのか、昨年末「バッテリーあがり」で動かなくなった。

「悪かったね、我がさんきゅー号よ」
その状態で、年を越したのだが・・・・実は、何も困りはしなかった。
大きな買い物袋を抱えて、心臓破りの丘を登ることぐらいだろうか。



昨日、契約している自動車保険会社に初めて問い合わせの電話をしてみた。
「わかりました」と、快くご快諾いただいたが・・・「今からいく」とのこと。
「いえいえ、もう暗いですし、遅いですし・・・急いでいませんので(笑)」
「「お気遣いなくどうぞ。こちらは24時間対応でございます~~」
いやぁ、有難いですけれど・・・(当方がちょっとだけですが)面倒デス!

ということで、今日、対処していただいた!
あっという間に解決し、我が愛車はぶるぶるりん~とエンジンを動かし始めた。
有難い! かなりしっかりとしたレッカー車みたいな車で着ていただいたが、
私のトラブルは、かなり簡単な過失で、恐縮至極である。


昨夜の電話連絡の際だったが・・・
「お客さま、ガソリンは入っていますか?」
「年間10リットルのサービスがございますが、いかがしましょうか?」
え~~、そうだったんだ。
「是非お願いいたします」

毎年、掛け捨てのように、事故もなく、何のサービスを使うこともなく・・・
私って、いい顧客だったのよねん。

「なるほどなぁ~」
保険は、各社“サービス”も充実させて競争しているのだと、痛感した!

各社が打ち出しているサービスは、確認して問い合わせするべきだ。
携帯電話もそうだし、電化製品もそうで、競争社会はあらゆる差別化に
努力しているようである。

このご時世だからこそ、顧客サービスは、利用させていただきたいものである。


親知らず

2010年01月08日 | 出来事 -
元旦に決めた今年の計画の一つ。
             「親知らず(両側2本)を抜く」――ということ!


実は、来週の末に(まず)1本抜くように、昨年末に予約したばかりだったのに、
キャンセルしなければならなくなった。
現在の仕事の状況では、しばらく無理のようである。
やはり身体が疲れていない時期で、仕事を2日~3日は休みたいと思うから、
また ゆっくりとしたら、仕切りなおすことにする。

   昨年は予定していたのに四国へゆっくりと帰省もできなかったし、
   今年もまた、年頭から 計画は若干くるい始めている。



抜歯は、フツーの歯も嫌だが、「親知らず」だから 余計に嫌だ。
昔、友達が救急車で運ばれた・・・とか、血が止まらず病院に向かった・・・
などというたくさんの逸話を聞きすぎて、怖くなってしまっている。
昔は、かなづちのようなもので、トンカン強くたたたいて 歯を割り崩し、
抜歯されたもので、そのイメージが強く 私の中に残っている。
当時、私の知人は、それで顎(あご)がおかしくなってしまったことがあった。
しかし、歯科医療も、かなり進化しただろうと思い至り、ついに今年決心した。



実際、「親知らず」の炎症は、一年に一度あるかないかだったし、
炎症をとめる薬で、常に落ちつくものだったので、シリアスな感覚もないまま、
数十年を過ごし、「下側の親知らず2本」と 長く付き合ってきた。

想いおこせば、「親不孝をすると、親知らずが痛む」という言葉があったために、
離れて暮らしていても両親を忘れないようにするためにも、あえて残したという
気持ちもないわけではなかった。
「虫の知らせ」と言われるように、親知らずが痛んだら、実家にすぐ電話したり、
「疲労回復のため少し休もう」と努力したりしていた。
親知らずが痛むということは、私に対する “ 何らかの身体のサイン ” として
解釈していたようにも感じる。

しかし、もう今は、親不孝の心配をする境遇でもなくなった。
それに、まだ身体が元気な内に(親知らずが虫歯や歯周病になってしまう前に)
必ず抜歯はしたいものである。


問題解決の秘訣

2010年01月07日 | 仕事 -

この数日、いや・・・もっと長い間にわたって “くすぶっていたこと”――
それが、一昨日の夜に、ビックバーンのように、火を吹いた!!

緊急事態発生! トラブルだ!!
私の心の中で、警報機がけたたましく、鳴り響いた!!


問題解決に向かって、ただ自分の能力の限り、一生懸命に連絡をとって交渉し、
手をつくすだけの時間が過ぎた。

しかし、最終的には・・・その深夜のことだが・・・無常な「現実」だと悟った。

私は非常に忙しくしていたので、短時間で「腹をくくること」ができた。
翌日の昼には、かなり鮮烈な姿勢を打ち出すことをしていた。
「うやむやにしてはいけない」、「これに、なしくずしに従ってはいけない」、
そういうストレートな気持ちが、私の決意を固めさせてくれた。

スピード社会である昨今、とろとろしていては、タイミングを逃してしまう。



プロジェクトのイニシアチブをとっていたりすると、何かが起きたときに、
責任と重圧が、私一人に迫ってくる。

今回もそうである。
自分の過失でもないのに、驚愕の事実と、その理不尽さに世の不条理を感じた。
だからこそ、それがあまりにも、不道徳であり、ひどかったので・・・・
容易に「覚悟をきめる」ことができたし、仕事関係者に対しては非常なまでに
強固な我が意志を(やわらかく優しく)伝えることができた。
「自分が間違っていない」という確信があったから、できたことである。

率直に言うと、私の発言内容とその姿勢には、強い決意があって、その背景には
大きなリスクを背負っていた。
でも「それでも良い」と私は思い、穏やかに「腹をくくる」ことができた。
当時の私の心の中に、迷いは微塵もなかった。
それだけ、リスクを回避するよりも、自分の信念を貫く道を選択したかったのだ。



今日になって・・・結果は、思わぬ方向へと流れていった。
すべてとは言えずとも、ほとんどが私の願った道へと、行ったのである。
大いなる現実を露呈させてしまったが、“事”の現況である個人や関係性が、
より明白になることとなった・・・。
それも、他社の大企業とうたわれる(誰もが知っている)会社の問題がである。


今日・・・私は、本当に、嬉しかった・・・。

仕事に関しては、バックボーンもなく、ただ自分の力だけで生き抜いてきた私は、
極限まで追い詰められると「こういう際どい“潔さ”」が出てくるようである。
正社員ではないし、守るものもないし、私自身の価値観は明確だからだろう。
一人の人の「腹のくくり方」が、全てのネットワーク全体の仕組みを揺り動かし、
結局は、「謝罪」と「前向きな未来への対話」を勝ち取ることができた。


清清しい気分だ! この気持ちをどのように表したらよいのだろう。


リスクを見極めることも、全体像を把握することも、意志の伝え方も・・・
今振り返ると、すべてが大事な難関の一つ一つだったように感じる。
でも、一番大きな影響を与えてくれたのは、これまでの「経験」である。
仕事だけではなく、「生き方」にも関わってくるような「価値観」が現出して、
私の中で一時期だけは、壮絶な“ひともんちゃく”はあったけれども・・・
結論は、かなり早い段階で出ていた。
というよりも、私は「そうしたかった!」
そう感じた自分の意思(決意)を、尊重しただけのことである。

しかし、それらが影響し、ちょっとした勇気によって腹をくくったことで、
私が手にしたものは・・・非常に大きいような印象がしている。
今だからこそ、こういう結果になったからこそ、言えることかも知れないが、
後悔は全くしていない。
おそらく、悪い結果になったとしても、後悔はしなかっただろう。
その現実が、今の社会の病巣として、素直に受け容れられたと感じる。


明日から、まだまだ超えなければならない山はあれども・・・とにかく・・・
自分に、「ありがとう」と言いたい数日だった。