一年が過ぎた。
あっという間のような・・・ずいぶんと長かったような・・・・・
そういう一年が過ぎた。
そして、今日・・・
一周忌を迎えた。
私にとっての「父の命日」は、病院に運んだ3月21日のような気がずっとしていて、
今もその気持ちに変わりはない。
息が途切れた今日というよりも、人格と意識をなくした「あの日」が、
父にとっての最期だったように思われる。
田舎に帰省したとき、
父と過ごした高齢のおばあちゃん数人たちと、近所の八幡神社で焚き火をした。
ぐだぐだと・・・何気もない話をして、
「あそこが痛い」「そこが痛い」という会話に寄り添いながら、
のんびり“まったりとした時間”を過ごした。
「お彼岸さんのうちに逝った人は、極楽浄土が待っているらしいでぇ・・・」
「苦しまんと逝って、うらやましいわ」
「誰もが、そういうふうに逝きたいと、おもっとるはずやわ」
・・・・・「そうなんだ?」
<無宗教のくせに、こういうときだけは素直に反応するワタシ>
郷里のおばあちゃんたちの“この言葉”に、どんなに癒されたことか・・・。
前向きに暮らしている日常だったとはいえ、
人知れず、つらい想いを抱えて過ごした一年だったし、
寂しさに打ちひしがれた一年だったし、
―あの日、父を、どうして“あんな病院”に運んでしまったのだろう!―
結局は・・・そういう気持ちが、ついてまわる日々だった。
気にしないようにしても、私の奥深い場所に、潜在的に巣造っている感じだった。
そのモヤモヤしたやるせなさを、完全に打ち消すことができずにいたから―。
ものすごく愛していた母を見送った時、とてもとても辛かったのに、
あれだけ悔しくて、悲しく絶望的な気持ちがしたのに・・・
七年が過ぎた今は、父の最期のほうが脳裏にこびりついている状態である。
「時間は偉大だ」と、しみじみ感じる。
母のことは、風化したというよりも、昇華したという言葉が適切だろうか。
苦しみから逃げることなく、向き合う努力を続けたときに、
その事実は “また違った局面を迎える”のかもしれない。
一年か・・・。
もう一年かぁ・・・・。
今日も、お世話になった近所の人に、父の笑顔について話されると・・・
当時のことが思い出されて、「やばっ!」と・・・すぐに気分を切り替えた。
まだまだ、ちょっと油断すると・・・うるうると「ナミダ製造機」が稼動して、
ぽろりと目から“しょっぱいもの”がこぼれ落ちる。
大事な人と別れても、けろっとして平気な人もいるのに、
どうして私はこんなにも涙腺が弱く、情が深いのかと、ほとほと疲れることがある。
それも、私の長所だと思ってはいるものの、「もっと楽に生きたい」という欲が
ふつふつとわいてくる。
「感じられること」は、何よりもすばらしい。
しかし、感じすぎたことによって、
執着したり、とらわれたりすることは避けたいものだ。
プレッシャーになることも望ましくない。
いつものことながら、そんなことを考える。
やっぱり、心豊かに、無理なく、活き活きと暮らしていきたいから、
そのためには現状を少しずつ紐解くことも必要である。
それに、自分で決めておきながら、目標をえらく高く設定したり・・・・
期待されてもいないのに、期待以上の結果を残すために頑張ったりして・・・・
ワタシって、本当に、「愛すべきパボ(おばかちゃん)デス!」からネ。
一周忌を迎えて、
子供みたいな質問をしたくなった。
「人は、死んだら・・・・どこへ行くの?」
あっという間のような・・・ずいぶんと長かったような・・・・・
そういう一年が過ぎた。
そして、今日・・・
一周忌を迎えた。
私にとっての「父の命日」は、病院に運んだ3月21日のような気がずっとしていて、
今もその気持ちに変わりはない。
息が途切れた今日というよりも、人格と意識をなくした「あの日」が、
父にとっての最期だったように思われる。
田舎に帰省したとき、
父と過ごした高齢のおばあちゃん数人たちと、近所の八幡神社で焚き火をした。
ぐだぐだと・・・何気もない話をして、
「あそこが痛い」「そこが痛い」という会話に寄り添いながら、
のんびり“まったりとした時間”を過ごした。
「お彼岸さんのうちに逝った人は、極楽浄土が待っているらしいでぇ・・・」
「苦しまんと逝って、うらやましいわ」
「誰もが、そういうふうに逝きたいと、おもっとるはずやわ」
・・・・・「そうなんだ?」
<無宗教のくせに、こういうときだけは素直に反応するワタシ>
郷里のおばあちゃんたちの“この言葉”に、どんなに癒されたことか・・・。
前向きに暮らしている日常だったとはいえ、
人知れず、つらい想いを抱えて過ごした一年だったし、
寂しさに打ちひしがれた一年だったし、
―あの日、父を、どうして“あんな病院”に運んでしまったのだろう!―
結局は・・・そういう気持ちが、ついてまわる日々だった。
気にしないようにしても、私の奥深い場所に、潜在的に巣造っている感じだった。
そのモヤモヤしたやるせなさを、完全に打ち消すことができずにいたから―。
ものすごく愛していた母を見送った時、とてもとても辛かったのに、
あれだけ悔しくて、悲しく絶望的な気持ちがしたのに・・・
七年が過ぎた今は、父の最期のほうが脳裏にこびりついている状態である。
「時間は偉大だ」と、しみじみ感じる。
母のことは、風化したというよりも、昇華したという言葉が適切だろうか。
苦しみから逃げることなく、向き合う努力を続けたときに、
その事実は “また違った局面を迎える”のかもしれない。
一年か・・・。
もう一年かぁ・・・・。
今日も、お世話になった近所の人に、父の笑顔について話されると・・・
当時のことが思い出されて、「やばっ!」と・・・すぐに気分を切り替えた。
まだまだ、ちょっと油断すると・・・うるうると「ナミダ製造機」が稼動して、
ぽろりと目から“しょっぱいもの”がこぼれ落ちる。
大事な人と別れても、けろっとして平気な人もいるのに、
どうして私はこんなにも涙腺が弱く、情が深いのかと、ほとほと疲れることがある。
それも、私の長所だと思ってはいるものの、「もっと楽に生きたい」という欲が
ふつふつとわいてくる。
「感じられること」は、何よりもすばらしい。
しかし、感じすぎたことによって、
執着したり、とらわれたりすることは避けたいものだ。
プレッシャーになることも望ましくない。
いつものことながら、そんなことを考える。
やっぱり、心豊かに、無理なく、活き活きと暮らしていきたいから、
そのためには現状を少しずつ紐解くことも必要である。
それに、自分で決めておきながら、目標をえらく高く設定したり・・・・
期待されてもいないのに、期待以上の結果を残すために頑張ったりして・・・・
ワタシって、本当に、「愛すべきパボ(おばかちゃん)デス!」からネ。
一周忌を迎えて、
子供みたいな質問をしたくなった。
「人は、死んだら・・・・どこへ行くの?」
もう一年ですか…早いですね。
偉大なる時間が幸さんの悲しい気持ちを取り去ってくれた時に、「楽に生きる」事ができるんじゃないでしょうか…。
期待されてもいないのに期待以上の事をする、素晴らしい事じゃないですか!
その言葉は中村文昭さんという方も言ってました。
期待以上の事をされたとき、相手は感動を覚えるそうです。自分もそんなふうになりたいもんですね。
最後に「人は死んだら何処へ行く?」ですが、昨年末自分の祖母が亡くなった時に住職さんが「正直な話、行った人にしか分かりません!どんな所か聞きたいのですが、戻ってきた人もいないのでわからないんです。でも、戻ってくる人が居ないということはきっと良いところなんでしょう。」と言ってました。
ある意味模範回答ですよね。
新潟は桜が満開です!
自分の頭の中も満開です。
父が死んだ時に、身内を亡くした先輩から「変な感じ(喪失感とか、そういうことわいいたかったと思う)が消えるまで最低三年はかかるよ」と言われました。
もともと無口だし自分のしたいことばかりしているような人だったから、居なくなってすごく寂しいなんていう感情はなかったけど、それでも、「なんかヘン感じ」はずっとありました。
ただ、仕事と家と往復して、それだけで十分みたいな日々。
自分から旅行に行きたいな…って思い出した時、気づいたらやはり三年くらいたっていました。
何事も時間が解決するっていうのを身をもって実感した時です。
誰にでもくる別れだけど、身近な人を失うということは、やはりその時から、それまでとは違う生活が始まるということ。接待に以前の自分には戻れない。
人はただ悲しいとか寂しいというだけでは狂うこともできず、向き合っていかなくちゃならないんですよね。
ホントに人は死んだらどこに行くんでしょうね。
魂を信じない、死んだら終わりと思う自分と、江原さんの影響か、やはり魂はどこかに存在して転生するんだろうと思う自分。両方います。
ご無沙汰しています。
お変わりなくお元気そうで、安心しました。
「桜・・・満開なんだぁ」と思いながら読みました。
私は京都で“綺麗な桜景色”を観たのですが・・・今年は“変な年”だったので、雪と桜を同時に見てしまいました。
ところで、ご返事が遅れて、ごめんなさい。
(ちょっと遠出していました。そして、最近は、ものすごく“のんびり生きている”ので、ただ単に遅れちゃいましたぁ。ゴメンネ)
私のブログに最初にコメントしてくれたのが、しゅうさんでしたね。それを思うと、随分と前のことのように感じます。私の日々の[掃き溜め]にお付き合いくださりながら、「祖母が…」というコメントを書いてくださったのを鮮明に覚えています。
昨年末、しゅうさんも、
身近な方を見送ったのですね。
「ご愁傷様でした」
「心からご冥福をお祈りします」
ほんの少しご無沙汰している間に、皆いろいろと変わってしまうものなのですね。
ご住職のお言葉・・・・・とても、とても、的を得て、心が和やかになるお言葉です。
おっしゃるとおり、模範回答ですね。
「ヒットしました!」
私も、しゅうさんが教えてくださったご住職の言葉の内容を思うようにしようかな~と思いました。
いつか自分が“そこ”へ行って、確かめればいいんだよね(笑)。
期待を裏切らないような「“素敵なところ”だと良いのに~」と思いました・・・。
それから、しゅうさん。
私の性質をほめてくださって、ありがとうございました。すごくうれしかったわん!
この性質&性格とつきあって長いけれど、ほめてもらうと嬉しくなります。
ほめ言葉は、これから何度でも受け付けます。
しゅうさん、「ほめ上手」ですね。
アリガトウ!!
■ビゴさんへ
ご無沙汰しています。
時々ビゴさんのことを思い出しながら、時々ブログにアクセスしています。
「介護の大変さ」――忘れることはできず、まだ私にとっては(ある意味で)切実な現実でもあります。
自分は一応卒業したけれど、まだ私の心が(完全に)卒業していないような感じなんです。
不思議ですね。
今、ちょっと複雑な立場と心境です(笑)。
日頃は忘れているけれど、完全には忘れられていない日々・・・・そこに「一周忌」があって、ついぞ思い出してしまう。
もっと忘れて“楽になった”と思った頃に、「三回忌」があって・・・また再び思い出してしまう。
「法要」があれば余計に、親戚の人とも語り合うので、もっともっと思い出してしまうものなんですよね。
「七回忌」が過ぎると、ものすごい時間が経過しているから、ただそれだけでも充分癒されて、本当に楽になってくるのかもしれませんね。
皆、同じような感じなのかも・・・。
ですね?きっと。
ホント、「時間」って偉大です。
ビゴさんにとっても、いつか「今」という時が過去になるときが必ずやってくるはずですけれど・・・
その時に、貴方がすっきりとした気分であればいいなぁと思います。
私は、最後にくすぶっちゃったけれど(笑)。
このくすぶりは、何時かクリアになると信じているものの、(最低でも)あと数ヶ月ぐらいは・・・くすぶり続けるのではないかしらん(?)と思います。
私の場合・・・
(普通に考えれば)時間が経つと、どのような事柄にも意味付けがなされることになります。たとえ、目を背けたくなるような辛くて悲しい事柄にもです。
父のことも、私自身の中で何らかの「意味付け」がなされた時に、おそらく“くすぶらなくなるのだ”と予想しています。
今は、とにかく・・・自然と、無理なく、“その時”を迎えたいと思っています。
よくがんばってこられたと思います。
新しい生活に溶け込んでいる姿が想像されます。
人は死んだら、どこへいくのか・・・
まじめに考えたことがありませんでした。
本当にどこへいくのかはわからないでしょうけれど、
今度ゆっくりと考えてみます。
死んだ人とは、この世界で会ったことはないですし、
夢でもあったことがないので、
きっと帰りたくないほど居心地がいい場所なんでしょう。
みなさん、いかがお過ごしですか?
katuさん、暖かいコメントをありがとうございました。とてもうれしかったです。
まさに自分の人生に課せられた“大いなる使命”だったように思います。
それが終わった途端、気持ちと身体を“切り替える”ために、かなりの時間を要しています。
いやぁ~、それだけ大きい“お仕事だったかいなぁ”とも思いながら、日々過ごしています。
ゆらぁ~り、ゆらぁ~り、
心のおもむくまま・・・・
そして、身体の欲するまま・・・・
そう願いながら、
実際は「これまで以上に不安定な毎日ではないだろうか」~という「不安」を抱えているのも事実です。
でも、ある意味では“とっても自分に正直に生きている”みたいですョ。
だから、居心地は良いです。
(悪くないデスネ!)
死んだ人がたどり着く場所が―
それ以上に居心地が良い場所だとしたら、死ぬことも怖くないですね(笑)。
完全にそう思えると、どんなに楽な気分だろう~と思いました。
Katuさん、
楽しい休暇をお過ごしになれますように!