今日、父は初めての施設に出向いた。
オープンしたてのピカピカの施設である。
朝から、精神的に落ち込み、涙に暮れた父は・・・
お迎えの施設員に手を引かれ、泣きながら玄関を出て行った。
その姿を見て・・・
まるで「ドナドナ」に歌われた「売られていく子牛」のようで・・・
すごく胸が痛かった。
「行きたくないの?」と訊くと、こっくりとうなずくので、
てっきり駄目かと思ったら・・・自発的に靴を履こうとしたりして・・・
父の反応と言動、そして行動には一貫性がない。
それでも、「お風呂に入ってきなさいよ」と声をかけると、泣きながらうなずく。
ずっと、ずっと、涙がぽたりと落ちていたので・・・
ものすごく辛かった。
無理やり「行かそうとしている」みたいで・・・。
父を見送った後、
私は、ひとしきり泣き崩れた。
その背景には、複雑な状況と心情が、入り組んでいたからである。
今日出向いた施設の二階には、小規模の(認知症)グループホームがあって、
施設の大家さんにあたるのが父の主治医だったので、そのような経緯から
父の主治医から「グループホーム入所」を勧められていたのである。
この数ヶ月の“寝られない状態”を、主治医は熟知しており、昨年末に
「共倒れにならないように、考えたほうがいいですよ」と言われ、
たまたま準備建設中の新施設の案内をしてくれた。
重度の内臓疾患と、足の関節痛、認知症、内臓疾患からの精神的問題など、
主治医に言われていたように、徐々に父の状態は悪くなってきていた。
医師との深夜連携もあり、“今後のことを考えると心配がない”とのことだった。
聞いた頃は、自分の中ではあまり現実的ではなかったのだが・・・
秋以降の連日連夜のケアによる寝不足で疲れがピークに達しており、
今年に入ってからは特に“私の中にも切実感が増してきていた”。
そして、先月末に内見をしたら非常に良かったので、徐々に気持ちが固まりつつある。
他の施設とは違って、個室をキープすれば、家族であれば(私も)宿泊できるし、
食事も予約すれば、一緒に二人で食べられるという、他にはないサービスが魅力的だった。
仕事に復帰して、自宅と施設を併用しながら、父を介護していく方法もある・・・。
スタッフは、片手間に仕事をしているような立場の人は全くおらず、だいたいが若く、
活気ある人たちばかりだ。何よりもフットワークが良くて、明るいので好感が持てる。
もちろん、まだ正式な申込・契約はしていないが、心はかなり傾いてきている。
そういう背景があり、どうしても泣きながら出かける父を直視できなかったのだ。
父には何も伝えておらず、本人の意志確認もこれからである。
私は、逃げていないか?
責任を逃れようとしていないか?
自分のやりたいことを優先しようとしていないか?
「責める」というよりも、自分の気持ちを確認するために問いかけていた質問だったが、
自分で自分に問いかけるたびに苦しくて、“複雑な心情”に耐えられなくなっていた。
だから、考えないようにしていた・・・というのが、正直なところでもあった。
このことを考え始めると、いつも、どんなときにも、
「なんだか、わからない複雑な気持ち」が・・・幾つも“ごちゃごちゃ”になって、
もっと「わけがわからない感情」に満たされてしまうのである。
今週の木曜日も、朝から「う~」としか声に出さず、身体も動かさなかった父が、
ヘルパーさんが来て、顔を見た瞬間に「もう、いうこときかんでなぁ」と声に出した。
そして、短時間の内に、父は自ら起き上がり、食卓まで歩いてくれた。
肉親である私には、“甘え”のようなものがあるのだろうか。
私の声がけでは、自発性も乏しくなるのだということを、まざまざと目の前にした。
「刺激」を与えられるのは、身近な肉親だけでは厳しいときもあるのだ。
知り合いもおらず、ただ部屋で寝ているだけでは「うつ」にもなりやすい。
身体の具合が悪くなればなるほど、気持ちは下降していくわけで、一般的に考えても、
一人で思い悩むのは、あまり良い結果にならないはずである。
しかし、一人でいると“思いつめてしまう”ものだし、それを避けるのは難しい・・・。
いつも、独りぼっちの父には、「私」しかいないのだから。
たとえアプローチを変えたとしても、私の声かけは、いつも「私」でしかない・・・。
私と、父のために、
双方のために良いことだと・・・思う気持ちはある。
しかし、入所したとしても、父が快適に暮らせる確証はない。
家族的な関係ができあがるかどうか・・・それに関しても、よくわからない。
また、同時に、経済的な不安(毎月の支払い額)や、自分自身の想いがサクレツして、
「本当にわけがわからない」感覚である。
もちろん、入所したとしたって、慣れなくて(なじめなくて)
在宅に戻ってくることも充分考えられることである。
しかし、現時点では、まず「慣れてもらう」ということを念頭に置いて、
私が父に“より優しく向き合える方法”と、私の“身体状況”と、心の限界を加味して、
「入所もある」という選択肢を“大きくかかげはじめた”・・・という感じだろうか。
「何が良いのか」なんて、現時点ではわからないが、
私がくだした決断(選択)は、「いつも私にとってはベストの選択だから」・・・
それを信じて、これからも考えていこうと思っている。
一番の問題は、私にとっては“ベストな選択”が、
「父にとってはどうだろうか」ということだけである。
今日の「ディサービス初日」の感想さえも、ちゃんと伝えてもらえないぐらいなのだから、
「グループホームの入所に関して、どうしたいか」・・・なんて、大きな判断に際して
父の意志反応を得られるのだろうか――。
確実性がないからこそ、一つ一つを、実際「実行していく」しかないようだ。
行動すれば、必ず「その反応が得られるはずである」。
それがたとえ遠回りになったとしても、問題がクリアになることには違いない。
・・・・なんて、“もんもん”と慮る夜。
オープンしたてのピカピカの施設である。
朝から、精神的に落ち込み、涙に暮れた父は・・・
お迎えの施設員に手を引かれ、泣きながら玄関を出て行った。
その姿を見て・・・
まるで「ドナドナ」に歌われた「売られていく子牛」のようで・・・
すごく胸が痛かった。
「行きたくないの?」と訊くと、こっくりとうなずくので、
てっきり駄目かと思ったら・・・自発的に靴を履こうとしたりして・・・
父の反応と言動、そして行動には一貫性がない。
それでも、「お風呂に入ってきなさいよ」と声をかけると、泣きながらうなずく。
ずっと、ずっと、涙がぽたりと落ちていたので・・・
ものすごく辛かった。
無理やり「行かそうとしている」みたいで・・・。
父を見送った後、
私は、ひとしきり泣き崩れた。
その背景には、複雑な状況と心情が、入り組んでいたからである。
今日出向いた施設の二階には、小規模の(認知症)グループホームがあって、
施設の大家さんにあたるのが父の主治医だったので、そのような経緯から
父の主治医から「グループホーム入所」を勧められていたのである。
この数ヶ月の“寝られない状態”を、主治医は熟知しており、昨年末に
「共倒れにならないように、考えたほうがいいですよ」と言われ、
たまたま準備建設中の新施設の案内をしてくれた。
重度の内臓疾患と、足の関節痛、認知症、内臓疾患からの精神的問題など、
主治医に言われていたように、徐々に父の状態は悪くなってきていた。
医師との深夜連携もあり、“今後のことを考えると心配がない”とのことだった。
聞いた頃は、自分の中ではあまり現実的ではなかったのだが・・・
秋以降の連日連夜のケアによる寝不足で疲れがピークに達しており、
今年に入ってからは特に“私の中にも切実感が増してきていた”。
そして、先月末に内見をしたら非常に良かったので、徐々に気持ちが固まりつつある。
他の施設とは違って、個室をキープすれば、家族であれば(私も)宿泊できるし、
食事も予約すれば、一緒に二人で食べられるという、他にはないサービスが魅力的だった。
仕事に復帰して、自宅と施設を併用しながら、父を介護していく方法もある・・・。
スタッフは、片手間に仕事をしているような立場の人は全くおらず、だいたいが若く、
活気ある人たちばかりだ。何よりもフットワークが良くて、明るいので好感が持てる。
もちろん、まだ正式な申込・契約はしていないが、心はかなり傾いてきている。
そういう背景があり、どうしても泣きながら出かける父を直視できなかったのだ。
父には何も伝えておらず、本人の意志確認もこれからである。
私は、逃げていないか?
責任を逃れようとしていないか?
自分のやりたいことを優先しようとしていないか?
「責める」というよりも、自分の気持ちを確認するために問いかけていた質問だったが、
自分で自分に問いかけるたびに苦しくて、“複雑な心情”に耐えられなくなっていた。
だから、考えないようにしていた・・・というのが、正直なところでもあった。
このことを考え始めると、いつも、どんなときにも、
「なんだか、わからない複雑な気持ち」が・・・幾つも“ごちゃごちゃ”になって、
もっと「わけがわからない感情」に満たされてしまうのである。
今週の木曜日も、朝から「う~」としか声に出さず、身体も動かさなかった父が、
ヘルパーさんが来て、顔を見た瞬間に「もう、いうこときかんでなぁ」と声に出した。
そして、短時間の内に、父は自ら起き上がり、食卓まで歩いてくれた。
肉親である私には、“甘え”のようなものがあるのだろうか。
私の声がけでは、自発性も乏しくなるのだということを、まざまざと目の前にした。
「刺激」を与えられるのは、身近な肉親だけでは厳しいときもあるのだ。
知り合いもおらず、ただ部屋で寝ているだけでは「うつ」にもなりやすい。
身体の具合が悪くなればなるほど、気持ちは下降していくわけで、一般的に考えても、
一人で思い悩むのは、あまり良い結果にならないはずである。
しかし、一人でいると“思いつめてしまう”ものだし、それを避けるのは難しい・・・。
いつも、独りぼっちの父には、「私」しかいないのだから。
たとえアプローチを変えたとしても、私の声かけは、いつも「私」でしかない・・・。
私と、父のために、
双方のために良いことだと・・・思う気持ちはある。
しかし、入所したとしても、父が快適に暮らせる確証はない。
家族的な関係ができあがるかどうか・・・それに関しても、よくわからない。
また、同時に、経済的な不安(毎月の支払い額)や、自分自身の想いがサクレツして、
「本当にわけがわからない」感覚である。
もちろん、入所したとしたって、慣れなくて(なじめなくて)
在宅に戻ってくることも充分考えられることである。
しかし、現時点では、まず「慣れてもらう」ということを念頭に置いて、
私が父に“より優しく向き合える方法”と、私の“身体状況”と、心の限界を加味して、
「入所もある」という選択肢を“大きくかかげはじめた”・・・という感じだろうか。
「何が良いのか」なんて、現時点ではわからないが、
私がくだした決断(選択)は、「いつも私にとってはベストの選択だから」・・・
それを信じて、これからも考えていこうと思っている。
一番の問題は、私にとっては“ベストな選択”が、
「父にとってはどうだろうか」ということだけである。
今日の「ディサービス初日」の感想さえも、ちゃんと伝えてもらえないぐらいなのだから、
「グループホームの入所に関して、どうしたいか」・・・なんて、大きな判断に際して
父の意志反応を得られるのだろうか――。
確実性がないからこそ、一つ一つを、実際「実行していく」しかないようだ。
行動すれば、必ず「その反応が得られるはずである」。
それがたとえ遠回りになったとしても、問題がクリアになることには違いない。
・・・・なんて、“もんもん”と慮る夜。