昨日のブログは、早朝には画像のアップロードもできて、5時過ぎに完成させることができた。
昨夜に栃木県佐野市在住の岳友Ka女史から電話があり、「どこかでお昼をご一緒したい」とのこと。
これまでの歩き旅でも、何度もわざわざ駆け付けて差し入れ等をいただいている。
できればゴール後にしたかったので、白沢宿でこちらから電話を入れて、時間と場所を決めることにした。
結局、13時に東武宇都宮駅で待ち合わせることになった。
宿の朝食は6時に用意していただいたので、6:20にスタートすることができた。
今日は曇りがちの天気で、暑くもなく歩きやすかった。距離も短いので高速ウォーキングに徹した。
ちょうど6時間で、宇都宮宿の日光街道との分岐まで歩くことができ、一応の奥州道中の区切りとすることができた。
喜連川宿~氏家宿
宿を出て、街道に戻る途中で目にした「寒竹囲いの家並み」があったた。
6代藩主喜連川茂氏は傷みやすい板塀から周辺に自生する寒竹の垣根を奨励した名残である。
昨日のゴールとなった荒川に架かる連城橋を渡って、次の氏家宿を目指した。
橋を渡って堤防の上の道を少し上流に進む。
堤防から南に延びる狭い街道の面影を残す家並みの道を進む。
その先は、車道から別れて、山の中へと入っていく。そこには、「奥州街道(古道)」の標識が立っていた。
600mほどだが、簡易舗装のされている古道歩きを楽しんだ。
「弥五郎坂」を下る。江戸からはずっと平地で、ここが最初の上り坂だったようだ。
「勝田の一里塚」~「坂本宅」の敷地内に南塚が現存。江戸より32里目。
このあとは、しばらく特に見るべきものもない田園地帯の国道293号を進む。
氏家宿~白沢宿
〈氏家宿〉
・人口879人、家数235軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒
・宇都宮氏没落により家臣の平石氏、桶川氏などが氏家に住みつき後に宿を形成した
・江戸と奥州の物資の集散地として、また水戸から海魚も届き宿として繁昌した
宿場へ入っていくと、一番先に目につく「瀧澤家住宅」~紡績業で材を成した旧家。明治天皇の休憩所にもなった。
宿場の中心地。両側に脇本陣が向かい合って建っていたという。
左の現村上自転車商会は「村上脇本陣跡」、その向かいの現鳥山信用金庫は「石井脇本陣跡」
現平石歯科は「平石本陣跡」~当時の氏家村の名主を兼ねた。
宿場を抜けた大谷街道との追分道標(左から2本目)には、「右江戸海道 左水戸かさま下だて 下づま」と刻まれている。
左端の馬頭観世音は天保9年(1839年)建立。ここには氏家宿の南木戸があり、番屋があった。
やがて、鬼怒川に架かる阿久津大橋を渡る。橋の500mほど下流に渡し場があった。
この度の台風19号の大雨で川幅いっぱいに流れた痕跡が生々しい。
橋を渡り、堤防の道を進みられる、川の方へ下りていく砂利道を進むと、河畔に「鬼怒川の渡し跡」の標識あり。
再び堤防の道を進み、右へ続く道を進む。
「白沢の一里塚」~元々は渡船場の近くにあったが、度々の洪水で流されたので、ここに移設し保存されている。
この先で左折すると、白沢宿へと入っていく。
白沢宿~宇都宮宿
〈白沢宿〉
・人口369人、家数71軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒
・会津の上杉を討つ徳川勢先陣の鬼怒川渡河に協力した功績から宿駅が許された
白沢宿へ入っていくと、両側に用水路が流れ、所々に小さな水車が回っているきれいな町並みである。
左の現白沢駐在所は「番所跡」で、右奥の白い門柱の立つ家は「宇賀地本陣跡」
本陣跡のお宅には秋田藩、盛岡藩、大田原藩の関札等を残しているという。
「住吉屋跡」~蔵一棟は明治28年の建築。
非常に珍しい江戸時代の「公衆便所跡」。地中の構造は当時のもの。田畑の肥料にした。
このあとは、ほぼまっすぐな白沢街道と呼ばれる国道125号をひたすら歩く。
途中の道ばたで初めて目にしたカラスウリ
宇都宮市街地に近づくに連れて、近代的な建物が増え、交通量も多くなる。
近代的な建物の並びの中にひときわ目立つ「岩淵家屋敷門」。豪農であったらしい。
JR宇都宮駅前角のビルの谷間に場違いな感じで?残る「旧篠原家住宅」。
篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営んだ。
嘉永4年(1851年)築の石蔵や明治28年(1895年)築の店舗は国指定重要文化財。
やがて、大きな通りから狭いオリオン通りというアーケード街の中を通る。道幅に街道の面影を感じる。
宇都宮宿
・人口6457人、家数1219軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
・下野国第一の都会と言われていた宿場があり、不動城と言われた宇都宮城かあった
・二荒山神社が下野国「一の宮」と言われていたことから訛って宇都宮となった説などがある
やがて、メインストリートに出る。この辺りが宇都宮宿の中心地だったようだ。
宿場の面影は微塵もないが、歩道に江戸時代の地名や町並みの標識があり、当時の絵が描かれている。
「本陣跡」の標識。向かいの道が日光街道となる。
この辺りに建坪192坪強で、門構えの玄関付きであったという。
問屋を兼ねた貫目改所が置かれたらしい。
今でも庭木の大イチョウを残しているらしいが、あとで知ったので気付かなかった。
12:20、ここを奥州道中の仮のゴールとし、Ka女史との待ち合わせ場所の東武宇都宮駅西口へ行く。
運転手兼務で息子さんも一緒だった。息子さんとも会うのはこれが3回目である。
車で移動して、有名な豆腐専門料亭「月山」へ案内していただいた。
今まで食べたことのない豪華な「湯葉と豆腐のコース料理」をご馳走になった。恐縮至極。
その後、是非との勧めで、ブラタモリで取り上げられていた大谷石(おおやいし)の採掘場とそこに立つ巨体な平和観音像へ案内していただいた。
今日の歩き旅の道中にも白い石の蔵や建物が多く目についたが、すべてこの大谷石だったことが判明。
このあとは、今日のカプセルホテル・パークプラザ宇都宮まで送っていただいた。お土産もたくさんいただいた。
今日の宿は明日も連泊するが、2泊で5,810円だった。
明日は、電車で日光へ移動して、日光街道を宇都宮まで歩く予定だが、どうも無理な感じた。
途中から宇都宮まで移動できる交通手段をこれから探さなくてはならない。
昨夜に栃木県佐野市在住の岳友Ka女史から電話があり、「どこかでお昼をご一緒したい」とのこと。
これまでの歩き旅でも、何度もわざわざ駆け付けて差し入れ等をいただいている。
できればゴール後にしたかったので、白沢宿でこちらから電話を入れて、時間と場所を決めることにした。
結局、13時に東武宇都宮駅で待ち合わせることになった。
宿の朝食は6時に用意していただいたので、6:20にスタートすることができた。
今日は曇りがちの天気で、暑くもなく歩きやすかった。距離も短いので高速ウォーキングに徹した。
ちょうど6時間で、宇都宮宿の日光街道との分岐まで歩くことができ、一応の奥州道中の区切りとすることができた。
喜連川宿~氏家宿
宿を出て、街道に戻る途中で目にした「寒竹囲いの家並み」があったた。
6代藩主喜連川茂氏は傷みやすい板塀から周辺に自生する寒竹の垣根を奨励した名残である。
昨日のゴールとなった荒川に架かる連城橋を渡って、次の氏家宿を目指した。
橋を渡って堤防の上の道を少し上流に進む。
堤防から南に延びる狭い街道の面影を残す家並みの道を進む。
その先は、車道から別れて、山の中へと入っていく。そこには、「奥州街道(古道)」の標識が立っていた。
600mほどだが、簡易舗装のされている古道歩きを楽しんだ。
「弥五郎坂」を下る。江戸からはずっと平地で、ここが最初の上り坂だったようだ。
「勝田の一里塚」~「坂本宅」の敷地内に南塚が現存。江戸より32里目。
このあとは、しばらく特に見るべきものもない田園地帯の国道293号を進む。
氏家宿~白沢宿
〈氏家宿〉
・人口879人、家数235軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒
・宇都宮氏没落により家臣の平石氏、桶川氏などが氏家に住みつき後に宿を形成した
・江戸と奥州の物資の集散地として、また水戸から海魚も届き宿として繁昌した
宿場へ入っていくと、一番先に目につく「瀧澤家住宅」~紡績業で材を成した旧家。明治天皇の休憩所にもなった。
宿場の中心地。両側に脇本陣が向かい合って建っていたという。
左の現村上自転車商会は「村上脇本陣跡」、その向かいの現鳥山信用金庫は「石井脇本陣跡」
現平石歯科は「平石本陣跡」~当時の氏家村の名主を兼ねた。
宿場を抜けた大谷街道との追分道標(左から2本目)には、「右江戸海道 左水戸かさま下だて 下づま」と刻まれている。
左端の馬頭観世音は天保9年(1839年)建立。ここには氏家宿の南木戸があり、番屋があった。
やがて、鬼怒川に架かる阿久津大橋を渡る。橋の500mほど下流に渡し場があった。
この度の台風19号の大雨で川幅いっぱいに流れた痕跡が生々しい。
橋を渡り、堤防の道を進みられる、川の方へ下りていく砂利道を進むと、河畔に「鬼怒川の渡し跡」の標識あり。
再び堤防の道を進み、右へ続く道を進む。
「白沢の一里塚」~元々は渡船場の近くにあったが、度々の洪水で流されたので、ここに移設し保存されている。
この先で左折すると、白沢宿へと入っていく。
白沢宿~宇都宮宿
〈白沢宿〉
・人口369人、家数71軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒
・会津の上杉を討つ徳川勢先陣の鬼怒川渡河に協力した功績から宿駅が許された
白沢宿へ入っていくと、両側に用水路が流れ、所々に小さな水車が回っているきれいな町並みである。
左の現白沢駐在所は「番所跡」で、右奥の白い門柱の立つ家は「宇賀地本陣跡」
本陣跡のお宅には秋田藩、盛岡藩、大田原藩の関札等を残しているという。
「住吉屋跡」~蔵一棟は明治28年の建築。
非常に珍しい江戸時代の「公衆便所跡」。地中の構造は当時のもの。田畑の肥料にした。
このあとは、ほぼまっすぐな白沢街道と呼ばれる国道125号をひたすら歩く。
途中の道ばたで初めて目にしたカラスウリ
宇都宮市街地に近づくに連れて、近代的な建物が増え、交通量も多くなる。
近代的な建物の並びの中にひときわ目立つ「岩淵家屋敷門」。豪農であったらしい。
JR宇都宮駅前角のビルの谷間に場違いな感じで?残る「旧篠原家住宅」。
篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営んだ。
嘉永4年(1851年)築の石蔵や明治28年(1895年)築の店舗は国指定重要文化財。
やがて、大きな通りから狭いオリオン通りというアーケード街の中を通る。道幅に街道の面影を感じる。
宇都宮宿
・人口6457人、家数1219軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
・下野国第一の都会と言われていた宿場があり、不動城と言われた宇都宮城かあった
・二荒山神社が下野国「一の宮」と言われていたことから訛って宇都宮となった説などがある
やがて、メインストリートに出る。この辺りが宇都宮宿の中心地だったようだ。
宿場の面影は微塵もないが、歩道に江戸時代の地名や町並みの標識があり、当時の絵が描かれている。
「本陣跡」の標識。向かいの道が日光街道となる。
この辺りに建坪192坪強で、門構えの玄関付きであったという。
問屋を兼ねた貫目改所が置かれたらしい。
今でも庭木の大イチョウを残しているらしいが、あとで知ったので気付かなかった。
12:20、ここを奥州道中の仮のゴールとし、Ka女史との待ち合わせ場所の東武宇都宮駅西口へ行く。
運転手兼務で息子さんも一緒だった。息子さんとも会うのはこれが3回目である。
車で移動して、有名な豆腐専門料亭「月山」へ案内していただいた。
今まで食べたことのない豪華な「湯葉と豆腐のコース料理」をご馳走になった。恐縮至極。
その後、是非との勧めで、ブラタモリで取り上げられていた大谷石(おおやいし)の採掘場とそこに立つ巨体な平和観音像へ案内していただいた。
今日の歩き旅の道中にも白い石の蔵や建物が多く目についたが、すべてこの大谷石だったことが判明。
このあとは、今日のカプセルホテル・パークプラザ宇都宮まで送っていただいた。お土産もたくさんいただいた。
今日の宿は明日も連泊するが、2泊で5,810円だった。
明日は、電車で日光へ移動して、日光街道を宇都宮まで歩く予定だが、どうも無理な感じた。
途中から宇都宮まで移動できる交通手段をこれから探さなくてはならない。