癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

日光街道歩き旅〈3日目〉10小山宿~16幸手宿(35.4km)9時間00分

2019年11月06日 | 登山・旅行
 今朝も快晴の天候に恵まれたが、朝は寒かった。陽が高くなるに連れて、気持ちの良い暖かさになった。

 今日は、思いがけない出合いがあった。野木宿へ入る手前の信号で声を掛けている人がいた。こんなところで誰かな?と思って信号を渡った。
 なんと、一昨年の大千軒岳の登山口で一緒になり、最後まで同行したYaさんだった。野木町在住とのこと。
 ブログを見て、今日はここを通るはずと待っていて下さったそうだ。びっくりである。差し入れもいただいて、感謝・感激、雨あられ。

 昨日は、スタートが遅く距離も長いので、最初から高速ウォークだったが、今日はスタートが速いし距離も短めなので、最初から中速ウォークだった。
 結局、昨日とほぼ同じ時間なのに歩いた距離は6kmほども短かった。
 これまでの経験からも、途中でペースを上げるのは難しいことがわかった。
 それでも、変更した予定の幸手宿まで歩くことができた。
 
小山宿~間々田宿
〈小山宿〉
・人口1392人、家数423軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒
・田原藤太秀郷が平将門を追討するために東国に下りここに城を築いた伝承がある
・秀郷の子孫である小山氏が城を守り続け、その後は北条氏の持城となった


 6:10、昨日のゴールの駅前交差点をスタート。

 すぐに、「若松脇本陣跡」を通過。唐破風の玄関を残している。「明治天皇行在所」碑も立っている。
 まもなく合流する、朝のラッシュ気味の国道4号をひたすら歩いて、次の間々田宿を目指す。


 明治25年創業の「西堀酒造」~酒蔵は国登録有形文化財に指定されている。
 やがて、間々田宿へと入っていく。

間々田宿~野木宿
〈間々田宿〉
・人口947人、家数175軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒
・宿内は日光側を上町と呼び、中町、下町と続いていた
・芭蕉は二日目の夜にこの宿に泊まったのだが場所は定かではない


 間々田本陣跡と問屋跡の説明板がその場所に設置されていた。


 本陣跡の前から市街地の様子を写す。


 間々田宿の外れに建つ「小川家住宅」~明治末期の建築で、国登録有形文化財」に指定され、公開もされている。
 当時は「車屋」の屋号で肥料業を営んでいた。


 さらに、国道4号を進んで行くと、「乙女の一里塚」があった。
 榎の大木の根元に鳥居と石灯篭があり、石祠が祭られている。江戸から17里目。


 その先の「正八幡宮」に寄ろうとして、信号待ちをしていたら、向かい側から声掛ける方が冒頭で記したYaさんだった。
 やはり日本三百名山巡りをされている方で、あと残りが北海道のいくつかと九州の山だそうだ。
 そんな話を10分ほどして失礼した。画像の下はいただいた差し入れの地元のお菓子。

 なお、この神社に寄りたかったのは、源頼義・義家親子が「前九年の役」凱旋の折りに勧請して友沼村の総鎮守になったここと、
日光社参の将軍もここで休んでいるという歴史があったからだ。

 やがて、野木宿へと入っていく。
 
野木宿~古河宿
〈野木宿〉
・人口527人、家数126軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・野木神社の周りの村がやがて街道側に移住して野木宿となる
・小さな宿場だったので通行量が増大した後期には助郷村23ヶ村が割り当てられた


 「熊倉脇本陣跡」~現「熊倉家」。


 「熊倉本陣本陣跡」~こちらも現「熊倉家」。塀の前に「野木宿の説明板」が設置されている。


 両家の前から宿場の中心地を写す。


 宿場の外れにある「野木神社」~Yaさんの勧めもあり、300mほど奥だが寄ってみた。
 日露戦争開戦2年前に乃木将軍が同名のこの神社に参拝し、「指揮用サーベル」奉納しているという。
 境内には、樹齢700年の欅や芭蕉の句碑もある。


 野木神社から国道に戻ってまもなく、栃木県から茨城県に入る。昔の下野国から下総国へとなる。
 まもなくして、国道4号と別れ、県道265号の歩きとなり、古河宿へと入っていく。

古河宿~中田宿
〈古河(こが)宿〉
・人口3865人、家数1105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒
・足利成氏が鎌倉より移り来て小川の地名を古河に改めた(1455年)
・古河城は無く、城跡には歴史博物館や文学館がある

 
 宿場の北口に立つ宿場名を入れた灯篭。南口にも同じものがたっていた。
 ここは、宿場だったことを観光の目玉にしているようで、いろいろな取り組みがなされていた。

 県道から別れる「よこまち柳通り」は昔ながらの商店街だった。そこを抜けて、再び国道に出る。


 国道の両側にも宿場名を入れた灯篭が立ち、史跡の説明を記していた。


 右から「史蹟古河城下本陣跡址」碑、「史蹟古河城下高札場址」碑、文久元年(1861年)建立の道標「左日光道、右江戸道」と刻まれている。

 古河宿を抜けて、あとは、見るものもなく、ひたすら中田宿を目指す。

中田宿~栗林宿
〈中田宿〉
・人口403人、家数69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒
・人馬の継立て業務を半月交代で栗橋宿と行っていた合宿である
・利根川の河原にあった宿場であり、利根川改修工事で元の宿場は跡形もなくなった

 この宿場は、特に宿場の面影を残すものは見当たらなかった。


 利根川の堤防手前の曲がり角に「房川渡しと中田関所跡」の説明があっただけ。


 堤防の上から、抜けてきた中田宿の通りを写す。


 堤防から、利根川に架かる利根川橋を眺める。渡るのも長かった。
 当時は「舟渡し」だったが、将軍の時は51艘の舟を連ねた舟橋が架橋されたという。
 橋を渡ると武蔵国(埼玉県)栗橋宿となる。

栗橋宿~幸手宿
〈栗橋宿〉
・人口1741人、家数404軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・利根川の船渡し(房川渡し)の町として賑わった宿場であった
・関東の北側に対する警備の要所として関所がもうけられていた


 左側の家が「池田本陣跡」


 その先には「栗橋宿」のフラッグが飾られていた。


 栗橋宿をぬけると、国道4号の横に旧道が5kmほども続いていた。


 その途中にあった「小右衛門の一里塚」~西塚のみ残存。塚の上に弁財天堂が祭られている。

 長い旧道歩きが終わり、県道56号を進むと、今日のゴールの幸手宿へと入っていく。

幸手宿
〈幸手(さって)宿〉
・人口3937人、家数962軒、本陣1軒、旅籠27軒
・日光街道と御成道との合流地点なので賑わった宿であった
・雷電の神体を田の中の社に祭っていたことから田宮という地名だったが、元禄のころ幸手に改名した


 幸手宿の入口に設置されている「幸手の一里塚」の説明碑~江戸から12里目。

 
 「本陣知久屋跡」の現「うなぎ義語家」(左)から幸手宿の通りを眺める。


 現「ポケットパーク」が「問屋跡」である。


 ポケットパークに設置されている問屋跡の説明(上)と幸手宿の昔の絵と説明。


 15:05、今日のゴール、幸手駅前通り。
 ここから東武鉄道の電車に乗り、春日部の藤屋旅館(4700円)へ。
 道路を挟んで2軒もある、新しくてきれいな旅館だった。

 今日は宿場の数が多かったので、写真も書くことも多くて大変だった。
 早めにゴールしたはずなのに、ブログアップに4時間ほども掛かってしまった。
 ガイドブックがあるお陰で見落としも少ないが、あまりにも見所が多く、取り上げることも多くなり、どうしても長くなってしまう。
 もっとはしょるか精選して、遊びの部分や旅の楽しみなども書きたいのたが…。


 今日の昼食と夕食
 朝は昨夜遅くにたくさん食べたので、食べないでスタート。
 途中でおやつとして、Yaさんからの差し入れのお菓子を食べた。
 昼食は大盛りのうどんと唐揚げのセット。
 夕食は差し入れのお菓子を食べて、ブログアップ後は外出する気もなくなり、行動・非常食とビール。