今日は、日本橋に到着することができ、三厩からスタートした奥州街道と日光街道のゴールを迎えた。
特に奥州街道は、3回に分けて30日を要しただけに感慨深いものがある。通しで歩いてきた松前藩の参勤交代は人数が多いので、もっと多くの日数を要したことだろう。
今日は朝から11℃もあり、昼は今までで一番暑い好天に恵まれた。
リュックをホテルに預けて、銀座線の上野で乗り換えて東武線の草加松原まで移動。
東京へ入ってからは、複雑な交差点で道を間違えたり、うろうろしたり、多い信号に引っ掛かったりと、予想以上に時間が掛かった。
草加宿~千住宿
〈草加宿〉
・人口3619人、家数723軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒
・芭蕉の「奥の細道」では草加宿に宿泊したとあるが本当は越ヶ谷宿だった
・草加煎餅は明治8年の資料には記載されていないので江戸時代には無かったようだ
7:05、昨日のゴール地点の百代橋からスタート。日本の道百選に選ばれている草加松原は、当時の街道に似せて復元されている。
草加松原の端に立つ「松尾芭蕉像」
「草加煎餅発祥の地碑」~草加松原で茶屋を営むおせんさんが「売れ残った団子は潰して天日に干し、焼くといい」と教えられたのが由来とされている。
その道を挟んで立つ「草加宿」の灯篭と。河合曽良像。
このあと、先に目指すものがなかなか見つからない。犬の散歩をしている人に聞いたら、道を1本間違えていた。
正しい道に戻って見つけた「清水本陣跡」と「大川本陣跡」の碑。
宝暦4年(1754年)清水家が大川家より本陣を譲り受けた。
「藤城家」~明治初期建築の町屋造りで国登録有形文化財。
草加宿の出口に立つ「今様草加宿碑」から通って来た道を振り返る。
草加宿を抜けて、県道49号を進む。写真を撮り忘れたが、毛長川の水神橋で埼玉県から東京都足立区へ入る。
電柱の「旧日光街道」の表示がずっと続いていた。狭い街並みに旧街道の面影を感じる。
やがて、荒川の堤防の上に出る。橋は国道4号に架かる千住新橋。ここから荒川区になる。
千住新橋の上からスカイツリータワーが見えた。
千住宿~日本橋
〈千住宿〉
・人口9956人、家数2370軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒
・芭蕉の「奥の細道」の旅は千住大橋の船着場から始まった
国道4号から分かれて堤防の上を少し進み、旧街道へ入る。昔ながらの雰囲気を残す「宿場通り商店街」。
伝馬屋敷の面影を残している「横山家住宅」~地漉き紙問屋であった。
その向かいに建つ「千住絵馬屋吉田家」~絵馬を初め地口行灯や凧等を描いてきた際物問屋。
「千住宿本陣跡」の説明板
「千住の一里塚碑」~日本橋より2里目。
街道沿いに当時の商家の名前や屋号が設置されている。
隅田川に架かる千住大橋の手前にある「奥の細道矢立始めの地碑」
芭蕉は深川から舟で千住に着き、「奥の細道」へ旅立った。その際に矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目は涙」を詠んだ。
隅田川に架かる千住大橋。文録3年(1594年)隅田川に最初に架けられた橋。
この橋を渡った先の交差点で、間違って別の道へ進んだ。途中でお巡りさんに聞いて戻ったが、2kmほど無駄足を踏んだ。
「小塚原刑場跡」~処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂っていたという。
「首切り地蔵」は寛保元年(1741年)刑死者供養のために造立されたもの。
このあとも、浅草雷門への道も間違って、遠回りをしてしまった。
お馴染みの「浅草寺雷門」~すごい人出だった。外国人も多く目についた。
神田川に浮かぶ屋形船。ここまで来ると日本橋は近い。ラストスパートを掛けたくても、人が多くて無理。
13:30、日本橋到着。これで、奥州街道と日光街道のゴールとなる。
日本橋袂に設置されている「日本国道路元標」~「日本の道路はすべて日本橋に通じる」と言われている。
これまでの中山道と東海道は、ここからスタートとしたが、ゴールするのは、今回が最初で最後であろう。
ゴールしてすぐに日本橋袂の手打ちそば屋「天松」で、おろしそばを食べた。これがまた美味しかった。
連泊となる東京駅前ベイホテルへ。チェックインは4時からなので、休憩室でブログを打つ。
このあと、洗濯をして、明日以降の甲州街道歩きの下準備をする予定。
この8日間の歩数計。これは宿から宿までの歩数。
夕食はホテル向かいの中華屋さんで。メンマの和え物と五目チャーハン。
特に奥州街道は、3回に分けて30日を要しただけに感慨深いものがある。通しで歩いてきた松前藩の参勤交代は人数が多いので、もっと多くの日数を要したことだろう。
今日は朝から11℃もあり、昼は今までで一番暑い好天に恵まれた。
リュックをホテルに預けて、銀座線の上野で乗り換えて東武線の草加松原まで移動。
東京へ入ってからは、複雑な交差点で道を間違えたり、うろうろしたり、多い信号に引っ掛かったりと、予想以上に時間が掛かった。
草加宿~千住宿
〈草加宿〉
・人口3619人、家数723軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒
・芭蕉の「奥の細道」では草加宿に宿泊したとあるが本当は越ヶ谷宿だった
・草加煎餅は明治8年の資料には記載されていないので江戸時代には無かったようだ
7:05、昨日のゴール地点の百代橋からスタート。日本の道百選に選ばれている草加松原は、当時の街道に似せて復元されている。
草加松原の端に立つ「松尾芭蕉像」
「草加煎餅発祥の地碑」~草加松原で茶屋を営むおせんさんが「売れ残った団子は潰して天日に干し、焼くといい」と教えられたのが由来とされている。
その道を挟んで立つ「草加宿」の灯篭と。河合曽良像。
このあと、先に目指すものがなかなか見つからない。犬の散歩をしている人に聞いたら、道を1本間違えていた。
正しい道に戻って見つけた「清水本陣跡」と「大川本陣跡」の碑。
宝暦4年(1754年)清水家が大川家より本陣を譲り受けた。
「藤城家」~明治初期建築の町屋造りで国登録有形文化財。
草加宿の出口に立つ「今様草加宿碑」から通って来た道を振り返る。
草加宿を抜けて、県道49号を進む。写真を撮り忘れたが、毛長川の水神橋で埼玉県から東京都足立区へ入る。
電柱の「旧日光街道」の表示がずっと続いていた。狭い街並みに旧街道の面影を感じる。
やがて、荒川の堤防の上に出る。橋は国道4号に架かる千住新橋。ここから荒川区になる。
千住新橋の上からスカイツリータワーが見えた。
千住宿~日本橋
〈千住宿〉
・人口9956人、家数2370軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒
・芭蕉の「奥の細道」の旅は千住大橋の船着場から始まった
国道4号から分かれて堤防の上を少し進み、旧街道へ入る。昔ながらの雰囲気を残す「宿場通り商店街」。
伝馬屋敷の面影を残している「横山家住宅」~地漉き紙問屋であった。
その向かいに建つ「千住絵馬屋吉田家」~絵馬を初め地口行灯や凧等を描いてきた際物問屋。
「千住宿本陣跡」の説明板
「千住の一里塚碑」~日本橋より2里目。
街道沿いに当時の商家の名前や屋号が設置されている。
隅田川に架かる千住大橋の手前にある「奥の細道矢立始めの地碑」
芭蕉は深川から舟で千住に着き、「奥の細道」へ旅立った。その際に矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目は涙」を詠んだ。
隅田川に架かる千住大橋。文録3年(1594年)隅田川に最初に架けられた橋。
この橋を渡った先の交差点で、間違って別の道へ進んだ。途中でお巡りさんに聞いて戻ったが、2kmほど無駄足を踏んだ。
「小塚原刑場跡」~処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂っていたという。
「首切り地蔵」は寛保元年(1741年)刑死者供養のために造立されたもの。
このあとも、浅草雷門への道も間違って、遠回りをしてしまった。
お馴染みの「浅草寺雷門」~すごい人出だった。外国人も多く目についた。
神田川に浮かぶ屋形船。ここまで来ると日本橋は近い。ラストスパートを掛けたくても、人が多くて無理。
13:30、日本橋到着。これで、奥州街道と日光街道のゴールとなる。
日本橋袂に設置されている「日本国道路元標」~「日本の道路はすべて日本橋に通じる」と言われている。
これまでの中山道と東海道は、ここからスタートとしたが、ゴールするのは、今回が最初で最後であろう。
ゴールしてすぐに日本橋袂の手打ちそば屋「天松」で、おろしそばを食べた。これがまた美味しかった。
連泊となる東京駅前ベイホテルへ。チェックインは4時からなので、休憩室でブログを打つ。
このあと、洗濯をして、明日以降の甲州街道歩きの下準備をする予定。
この8日間の歩数計。これは宿から宿までの歩数。
夕食はホテル向かいの中華屋さんで。メンマの和え物と五目チャーハン。