癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

八王子城跡探索ハイク

2019年11月17日 | 登山・旅行

 標高460mの山頂にある本丸跡。狭い場所なので天守閣等の大きな建物はなかったとされている。

 八王子城は、北条氏の3代目・北条氏康の三男である北条氏照が築いた関東屈指の山城。
 1584年~1587年ごろに築かれたと伝えられており、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの一環で落城したとされる。
 この戦いで秀吉の天下統一がなされ、戦国時代に終止符が打たれたと言われている。

 今回この城跡を訪れようと思ったのは、今のGPSの修理に端を発している。
 故障したGPSを修理してくださった日野市在住のHoさんは、北見出身で道内の大学を卒業されている方である。

 彼は、本業の傍ら「八王子城測量家」として同城跡を巡って、自ら歩いて作り上げた地図と、砦や陣地など遺構や見どころスポットなどの情報などをまとめた「巨大山城 八王子城精密ルートマップ 2016年版」を作製・販売している。
 また。八王子城のルート整備などをボランティアで行う「八王子城1000人プロジェクト」の発起人でもある。 
 
 彼の情報からすると。今日自分が巡った所は、観光のために発掘・整備されたごく一部な過ぎないらしい。
 それにしても、関東屈指の山城に相応しく、ちょっとした登山モードだった。

 昨夜は12時間も爆睡して、9時に宿を出た。高尾駅から土日だけの直通バスが出ているというので、電車で移動し、バスに乗り換えた。


 まずは、ガイダンス施設で、パンフをもらい、ビデオで予習をした。


 八王子城跡の立体模型図。下の御主殿を中心とした遺構と山の上の本丸を中心とした遺構に分かれている。


 駐車場から本丸のある山頂を見上げる。

 最初に、下の遺構を見て歩いた。

 「曳橋」~発掘整備された御主殿跡へ入るための通路として、城山川に架けた橋。当時は簡単な木橋を架け、その橋を壊すことで敵の侵入を防いだと考えられている。


 御主殿への「虎口と冠木門」(復元)。


 発掘・整備された「御主殿跡」~氏照の館等があったとされている。現在、礎石などの位置が分かるように復元的整備を行っている。


 「御主殿の滝」~落城時に御主殿にいた武将や婦女子がこの滝の上流で自刃して次々と身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられている。

 そこから、次に本丸のある山へ向かった。険しい山道が続く。








 「小宮曲輪(くるわ)」の下から広がる東京の景観。右端は八王子で、中央部は新宿らしい。


 本丸の下にある「八王子神社跡」~氏照が八王子城を建てるに当たって、城の守護神として八王子権現が祀られている。


 本丸の隣のピークにある「小宮曲輪」~曲輪は、敵の侵入を防ぐための要塞で、ここの他に「金子曲輪」「松木曲輪」もあった。

八王子いちょう祭り


 一週間前に通ったときは、まだ緑色だった甲州街道のいちょう並木は見事に黄葉していた。



 ちょうど「いちょう祭り」が開催されていた。
 ただし、ここのいちょうは実がなるので、それが落ちて踏まれて臭いのが玉に傷。
 函館は、実のならない雄?の木を並木に植えているのでそういうことはない。

  
 公開されていた祭囃子の獅子舞。

 14時半には3連泊となる八王子温泉やすらぎの湯へチェックインして、このブログを打ち終え、温泉三昧でのんびりと過ごしている。

登山者と観光客の多さに驚いた「陣馬山~高尾山縦走」

2019年11月16日 | 登山・旅行

 陣馬山から眺めた富士山

 「日本で最も登山者の多い山」として有名な高尾山だが、まだ登ってはいなかった。
 こちらが登ったことがなくて、妻が登っている唯一の山でもある。
 機会が会ったら是非とも登らねばと思っていたがようやくチャンスが訪れた。
 ただ高尾山だけに登るというのも芸がないので、どうせなら陣馬山との間を縦走しようと思った。
 いろいろ調べてみると、一番高い陣馬山(855m)~景信山(727m)~小仏峠(548m)~小仏城山(670m)~高尾山(599m)と縦走した方かがだんだん低くなるので楽だという。

 八王子の宿から藤野駅まで行き、そこから歩き始めて、陣馬山へは一ノ尾根コースを登り、縦走後の高尾山からは薬王院をびわ滝を見て、2号路を下って京王高尾口駅へ下りた。

 天候には恵まれたが、土曜でもあり、日本中の登山者が全員ここに来ているのではないかと思われるほど、予想以上の凄い登山者の数に驚いた。
 さらに高尾山は、登山者の他にケーブルカーで上ってくる観光客も加わり、まさにごった返し状態だった。山に登ったというよりは、山に人を見に行ったという印象が強い。トレイルランナーも非常に多かった。
 しかし、どこに、そんな魅力があるのか分からないままだった。

 藤野駅7:00~9:10陣馬山9:30~11:20景信山11:30~11:55小仏峠~12:15小仏城山~13:05高尾山13:15~14:25京王高尾山口駅。所要時間 7時間25分。


 藤野駅をスタート。登山口まで歩いて25分だった。登山口までのバスもあるが、8時過ぎだった。


 昨日までの街道歩きのような雰囲気の車道を登って行く。
 登山口の写真を撮り忘れたが、3つのコースがあったが、縦走なので一ノ尾根コースを進んだ。


 鋪装が切れた所が一ノ尾根コース入口だった。


 初めのうちは杉林の中を登る。広くて快適な道だ。



 このような根張りの道もある


 2時間ちょっとで陣馬山に到着。このときの時間が早いこともあって登山者は30人ほどであった。




 陣馬山の頂上標識。


山頂付近には営業している茶屋が2軒あった。これは富士見茶屋。富士山が見えている。


 この富士見茶屋の山菜うどん(700円)が評判だったので食べてみた。まさに絶品だった。汁も全部飲み干してしまった。

次の景信山までの縦走路も広くて快適な杉林の中の道を行く。ただ、展望が無いのが玉に傷。


 たまにこのような道もある。また途中のピークの巻き道まで付いているので助かる。
 こちらの進行方向から、1分を切らすことなく次々と登山者がやって来るのにも驚きながら歩を進めた。


 ところが11時半前に景信山に着いて驚いた。
 茶屋が3軒あり、その茶屋ごとの広い休憩所が3ヶ所あり、この写真はその一部である。
 この3倍以上の登山者が昼食を摂っていた。今までに見たことのない人数である。


 そこからもかろうじて、右に雲が絡み始めた富士山が見えていた。


 東京の西側の市街地の景観も広がっていた。


 紅葉はどこも鮮やかさに欠けるが、ここのが一番きれいだった。

 次に、数日前の小仏峠越えで通過した峠へ下っていく。


 小仏峠には、数日前にも目にした可愛い狸の置物が置かれている。

 峠を越えて登っていくと、昔の城があった小仏城山である。


 ここで休んでいる登山者の数も半端ではない。


 城山から最後のピーク高尾山を眺める。
 高尾山へ向かっても、下る人、上ってくる人が切れることがない感じ。



 高尾山の手前コルなのにこの光景。


 登山道の両側で休む登山者。呆れながら朝へ向かう。

 山頂手前でこの有り様。こんな頂上の様子見たことがない。


 人を掻き分けて前へ進む。記念写真を撮る人たちが一瞬空いた瞬間を狙って頂上標識をカメラに収めることができた。

 さて、ごった返して、どこからどこへ下山していいものか分からない。


 案内図を見ても、たくさんのコースがあり、選択に迷う。

 薬王院だけは見たいので、そちらへ向かった。下る人、登る人、通勤ラッシュより凄い感じ。ただ呆れて流れに身を任せるしかない。


 薬王院の前は少し空いていた。この先にケーブルカーの上の駅があるので、そこを過ぎたら急に少なくなった。


 びわ滝も見たいので2号路をくだった。下り始めに「危険箇所あり」の標識があったせいか空いていた。
 上の方は、急な上にギザギザの露岩の道で、なかなかワイルドなコースだった。
  

 びわ滝を見て、下山を続ける。


 京王高尾山口駅手前の土産店も凄い。

 陣馬山までは良かったが、それ以降はとにかく、人、人、人に呆れた山だった。
 自然を楽しみに行く山ではない。観光客はともかく、登山者は何が良くてこんなに登っているのだろう?理解に苦しむ。

 高尾山口駅から次の高尾駅でJRに乗り換えて、昨夜と同じ駅前の八王子温泉やすらぎの湯に落ち着いた。週末価格はなく、深夜料金を加えても3960円なのがうれしい。

甲州街道歩き旅〈7日目〉〈富士見町〉~44金沢宿~下諏訪宿(23.6km)5時間15分

2019年11月15日 | 登山・旅行
 いよいよ今日はラストウォークである。甲州街道はもちろんだが、五街道全踏破の記念すべき日でもある。
 なんと、朝出るときには0℃だった。さすが1000m近くにある高原の町だ。
 しかし、記念すべき日を祝福するかのような快晴の天候に恵まれ、雪化粧した北アルプスの山もくっきりと見えた。
 
 がっちり着こんで6:54の電車に乗り、1駅先のすずらんの里駅まで移動。

(富士見町)~金沢宿

 昨日気にしながら歩いた富士見町の名前の由来と標高が気になって調べてみた。なお、蔦木宿もこの富士見町だった。
 名前は、場所的に意外な気がしたが、予想した通り、遠くに富士山を望めることによる。
 また、町役場の標高が977mにある高原の町だった。県立富士見高校の標高は967mで、日本一の最高標高にある高校とのこと。

7:10、昨日のゴール地点の駅入口をスタート。最後なのでゆっくり歩こうと思ったが、寒くてそれどころではない。


まもなく、国道20号から左側の旧道へ進む。


 珍しく両塚が残っている「御射山神戸の一里塚」~西塚のケヤキは往時のもので樹齢400年とのこと。
 随分と多くの一里塚を見てきたが、これほど見事な塚木は記憶にない。日本橋から48里目。

 20分もしないうちに、茅野市へ入っていく。


 「金沢宿の案内図」が掲示されていた。

金沢宿~上諏訪宿
44 金沢宿
・元は青柳宿と称して、北西の権現原平に設置された。しかし度重なる宮川の氾濫や大火で焼失するなどの災難に見舞われ、現在の地に移り、金沢宿と改称した。
・宿場は伊那道を通じて高遠、飯田方面と通じ、塩や雑穀の通る中馬道であり、飯田、高遠藩の参勤道でもあり、物資流通上重要なところであった。
・上町、中町、下町に分けられ、それぞれ枡形が設けられた。本陣1 旅籠17


 国道20号の金沢交差点に宿場の面影を残す建物が集中していた。


 交差点の角地に「本陣跡」の説明があった。


 「近江屋跡」


 「馬宿跡」~明治中期の横棟造り。馬方と馬が主に宿泊できた。前に穴の空いた「馬繋ぎ石」がある。


 再び国道から別れて旧道を進む。国道は狭い上に朝の通勤の車の往来が激しいので、ホッとする。

 
 青空をバックに映えるカラマツ林の黄葉が美しい。


 「寒天の里」の大きな看板~海藻のテングサを煮た汁を固めたものかぎ心太。それをさらに凍結乾燥させたものが寒天。
 この地は冬になると夜間は零度以下に下がり、日中は晴朗なため、寒天作りに適していた。


 宮川地区で国道20号に出る。この辺りも宿場ではないが、街道の中心地だったようだ。
 交差点の角に名主を勤めた「五味氏宅」が建つ。明治13年の明治天皇の京都・伊勢巡行の際、当家で休息している。その記念碑が立っている。


 その向かいの「信州味噌醸造元伊藤商店」。味噌蔵に貧乏神神社が祀られているという。


 その斜め向かいには「宮川寒天蔵跡」~豪壮な木造土蔵造り3階建て。寒天の保管庫だった。


 そこを抜けると、茅野市から諏訪市に入り、再び狭い住宅街の中に続く旧道となる。
 車がすれ違うのに、非常に苦労している。歩道もないので怖い。


 「神戸の一里塚跡」~碑と甲州街道の説明がある。江戸から51里目。


 干し柿作り~皮はきれいに剥かれていた。雨どいの留め具にも1個ずつ干しているのが面白い。


 市街地の向こうに北アルプスの山々が見える。真ん中は穂高連峰。その右端に微かに槍ヶ岳も見える。

上諏訪宿~下諏訪宿
45 上諏訪宿
・甲州街道として最後の宿場。諏訪大社の門前町であり、別名高島ともいい、江戸時代は高島藩城下町としても発展した。
・宿は上町・中町・本町により形成され、街道沿いには酒蔵が建ち並び、それらの多くが今も現役で活動している。
・甲州街道は次の下諏訪宿が終点となる。諏訪大社は、全国に1万有余の末社を数え、諏訪湖南側の上社本宮、上社前宮、諏訪湖北側の下社秋宮、下社春宮の4つからなる変わった形をとっている。
・本陣1 旅籠14


 やがて、国道20号に出ると繁華街となり、上諏訪宿の中心部へと入っていく。
 一番手前に建つ「かねさ呉服店」~蔵造りの商家。暖簾には「曲尺にサ」と染め抜かれている。


 この宿場には5軒もの酒の醸造元がひしめき合っている。
 上は「銘酒真澄」~寛文2年(1662年)の創業。高島藩の御用酒屋だった。
 下は、「銘酒麗人」~寛政元年(1789年)明治27年の創業。


 上掲の2軒の間に、「銘酒横笛」(左)と「名酒本金」(左)が向かい合っている。
 「横滝」は伊東酒造。霧ヶ峰の伏流水を利用。「本金」の創業は宝暦6年(1756年)。蔵元酒ぬのや本金酒造。
 

さらに「銘酒舞姫」~明治27年(1894年)創業の舞姫酒造。

 まさに、宿場というよりは醸造元場とでもいうような佇まいに、うっかりして、舞姫酒造の隣にあった「小平本陣跡」の写真を撮るのを忘れてしまった。

 やがて、再び旧道歩きとなる。途中に「下桑原の一里塚跡碑」(日本橋から52里目)もあった。


 やがて、諏訪湖が見えてくる。手前は棚田。ゴールの下諏訪宿はもうすぐだ。

下諏訪宿
・甲州街道の終点で中山道の合流点の宿場である。
・中山道唯一の温泉場として知られ、和田峠を越えてきた旅人にはくつろぎとなる宿場であった。
・諏訪大社秋宮の門前町としても栄えた。また甲州街道の終点でもあったので、甲州街道からも人々が大勢集って賑わい、宿場の規模も大きかった。
・本陣1 脇本陣2 旅籠40
・この宿場は、中山道歩きのときにゲストハウスに泊まって、銭湯温泉に入っている。


 「茶屋橋本跡」~鯉料理が名物で、桁には鯉の彫刻が施されている。
 高島藩主もここまで出向き賞味したという。
 建物に接した門は高島城の三の丸門を移設したもの。


 やがて、「諏訪大社下社秋宮」に到着。ここは中山道歩きのときにじっくりと見ているので、写真を撮っただけで通過。


 ゴール手前の「新鶴本店」~明治6年創業。下諏訪名物「塩羊羮」の老舗。
 ここで、塩羊羮と饅頭を買って、合流点の標識の場所を教えてもらった。


 12:20、「甲州道中中山道合流の地碑」の横で、通りがかりのご夫妻にシャッターを押してもらった。
 まさに、五街道全踏破の記念すべき瞬間である。


 そこから下諏訪駅まで歩く。八王子までの電車まで1時間あるので、駅前の養老の滝で、3日ぶりの生ビールで独り乾杯をし、ランチのミックスフライ定食(700円)を食べた。

 茅野駅で特急あずさ20号に乗り換えて八王子まで移動。数日前に泊まった駅前の八王子温泉やすらぎの湯に到着。
 のんびり温泉に浸かったのはいうまでない。

 陣馬山~高尾山の縦走は、明日の方が比較的天気が良いので、明日決行することにした。これまでの30km以上歩いて来たよりはずっと楽なはず。




甲州街道歩き旅〈6日目〉40韮崎宿~43蔦木宿~〈富士見町〉(39.2km)9時間50分

2019年11月14日 | 登山・旅行
 朝準備しているときに雨が降っていたので、カッパを着て出たら止んでいた。
 どこまでツイテいるのか…と思いながらそのまま歩いた。1時間ほどしたら暑くなって脱いだ。
 しかし、雨には当たらなかったが、午後から急に冷えこんで、向かい風が冷たかった。

 今日は、国道20号に絡みながらも、旧道や街道沿いの昔からの集落の中の歩きが多く、街道歩きを満喫することができた。
 特に、台ヶ原宿は旧家が多く残り、それが軒を連ね、宿場の面影を濃く残していた。
 また、蔦木宿から金沢宿手前の富士見町へは登り一方だった。 最高地点が960mもあるのに、大きな集落が形成されていたのにも驚いた。

 最後にポカをしてしまった。予約しておいた宿へは街道からかなり離れているが、その分岐が分からないまま進んでしまった。
 気づいたときには、次のすずらんの里駅まで歩いた方が近いので、予定より2km以上明日の分も歩いた。
 すずらんの里駅から富士見駅まで電車で戻った。

韮崎宿~台ヶ原宿
40 韮崎宿
・甲府街道と富士川水系の水運の物資の集散地として発展した。
・地名の由来は、韮の葉のように続く七里岩の台地の先端にあるとか、台地上に野生の韮が多かったからとか、ニラミの略で七里岩の出崎と船山と睨み合っているが如きからとかの説がある。
・本陣1、旅籠17軒。 脇本陣はなかった。

6:00、街道沿いの宿をスタート。雨は止んでいた。

 宿の向かいが「韮崎宿本陣跡」だったが、標柱のみ。(昨日撮影)


 紅葉したハナミズキの並木が美しい韮崎市街地のメインストリートを行く。 
 宿場を抜けると国道20号に合流する。


 まもなく国道から右の旧道へと入っていく。


 「茅葺きの武家門」~当家は武田家に仕えた名家。

 再び国道を暫く歩き、釜無川を渡り、また旧道を進む。


 旧道に入ると車も少なく、昔ながらの街道の雰囲気にホッとする。


 早くもこのような可愛いクリスマス飾りに思わずほんわかする。


 「明治天皇御休止所碑」のある内藤家。碑は庭内にある。
 明治13年(1880年)に三重伊勢巡行をしているが、それに関する休憩場所や野立場所などの記念碑が随所に残る。(割愛しているが)

 小武川を渡ると、韮崎市から北杜市へと入っていく。橋の部分だけ国道を歩くが、また旧道歩きが続く。

 やがて、国道を暫く歩くと、また旧道へと入っていく。


 ここも落ち着いた昔ながらの街道を彷彿とさせる。

 尾白川を渡ると、台ヶ原宿が近くなる。

台ヶ原宿~教来石宿
41 台ケ原
・「此の地高く平らにして台盤の如し、・・・・」というところから名付けられたといわれる。
・甲州道中のなかでも最もよく宿場の面影を残す。
・この宿は「日本の道百選」に選ばれている。
・本陣1 旅籠14 ここも脇本陣はなかった。


 「甲州街道古道入口はらぢみち碑」~ここから少しの間自然道が続く。


 その古道にある「横山道標」~道標を兼ねた馬頭観音が祀られている。台ヶ原宿現存の唯一の道標とのこと。
 安政5年(1776年)のものには「右かうふみち 左はらぢ通り」と刻まれている。


 そのすぐ先の横山の上にある「無銘の大石塔」(左)と「それを引くために使われたシュロ縄」(右)
 この大石塔は、高さ6m、正面幅1.8m、横幅1.6mの巨石である。石には一字も刻まれていない。
 この石はもと、尾白川の上流狐ん沢にあった大石だが、明治十四年日蓮上人の六百遠忌(おんき)をトし、国家安穏、五穀豊作を祈念して、日野の見法寺、白須の連照寺を中心に、明治四年から信徒たちによって、木ぞりを引くように、丸太の軌道を太いシュロの綱で、両寺の方丈釆配を振りながら、何年かの歳月を経て、ようやく横山まで引っぱり上げ、身延山七十代日祥上人の書になる「大題目」を彫刻する段になったが、資金難におち入り、これ以上の進展をみずに、そのままで風雪にさらされているとのこと。

 その後ろに祀られているシュロ縄には携わった人々の髪の毛も編み込まれているという。

 
 「台ヶ原宿」の石碑。この道は「日本の道百選」にも選ばれている。なるほど、昔ながらの宿場の面影を濃く残していた。


「岡村酒店」


 「小松屋本陣跡」


 「七賢人蔵元」~山梨銘醸(北原家)は寛延2年(1746年)創業。幕末には高遠藩の御用商人も勤めた。
 明治天皇巡行の際は行在所にもなった。


「金養軒」~明治25年創業の元祖「信玄餅」の老舗。建物は急旅籠であった。
 元祖信玄餅を食べたかったが、残念ながら定休日だった。


 「旧名主宅」~豪壮な屋敷を残している。


 宿場の中心部を抜けても、このような家並みが続いている。


 台ヶ原宿を抜けても旧道が続く。次の教来石宿を目指す。
 途中の国道にレストランが見えたので、そこで昼食を摂った。


 田舎風かつ定食。このレストランは南アルプスの三百名山巡りのときに入った記憶がある。
 店内の様子もはっきりと覚えているし、「山梨へ入ったらほうとうを」という看板に引かれて、そのときはほうとうを食べた。

教来石宿~蔦木宿
42 教来石宿
・「キョウライシ」と呼び、名の由来はヤマトタケルが東征の折り、座った大きな石を、村人が「経て来石(へてこいし)」と呼び、村名にしたが、経を教と書き誤り、今の名になったといわれる。
・またこの宿は宿場は旅人のためではなく、国境の警備が目的であった。口留番所「山口の関所」が置かれ、信濃と甲州の国境警備の役割を果たした。
・本陣1 脇本陣1 旅籠7 


 旧道から国道に出たところが、宿場の中心部らしいが、「河西本陣跡」には「明治天皇御休止址碑」が立つだけで、宿場の面影はまったくなし。

 再び旧道を進むと、明治天皇が田植えをご覧になった場所や、美味しいと誉め称えた御膳水跡の記念碑が立っている。


 「山口の関所跡」~向かい合って、武田信玄が設けた甲州24関の「鳳来山口関碑」と徳川幕府が設けた「口留番所跡碑」が向かい合って立っている。

 その先の釜無川が甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の国境となる。


 国道には新国界橋が架かっているが、旧道の国界橋を渡るために藪で覆われた旧道を進んだ。


 渡り切った先には害獣除けの電流ネットが張られていた。電流線に触らないように開けて通過した。自分にとっては、ここが関所だった。

 国道を横切って旧道を進む。

 一昨日ナンテンとアップしたら、Ka女史からピラカンサとの指摘を受けて訂正した。
 これは、間違いなくナンテンだろう?

 少し高い所から下って行くと、蔦木宿の集落が見えてくる。

蔦木宿~富士見町
43 蔦木宿
・信州に入って初めての宿。慶長16(1611)に計画的に作られた為、宿の両側に枡形道が残されていたりして宿場としての形態が整えられている。
・国道に面しているが、連子格子造りの民家が散見される。また、街道沿いの家々には当時の屋号を記した木札が下げられているなど、旧宿場町の風情が感じることができる。
・尚数度の大火に見舞われ、ほとんどの家屋が焼失している。
・本陣1 脇本陣1 旅籠15 


 「蔦木宿案内標識」


 「本陣大阪屋源右衛門跡」~元治元年(1864年)の大火後に建てられた本陣門を残している。


 古い家並みが続く。1軒ごとに昔の屋号が掲げられている。


 「蔦木宿の当時の家並み案内図」

 蔦木宿を抜けると、ずっと旧道歩きが続くが、どんどん上り坂になっていく。


 瀬沢集落の「吉見屋」。この坂を上りきったら標高840mだったが、このあともまだまだ上りが続く。


 標高は950mにもなっているのに、平地のような集落が続くいているのに驚きながら歩を進める。
 奥の山は、南アルプス北端の三百名山・入笠山(1955m)。1000m近いところから眺めているので、それほど高い山には見えない。


 (上)GPSの最高地点964m。右の数字は今日のそこまでの距離。
 (下)そこに地点から眺める旧道の集落。


 その先にある「旅館桔梗屋跡」~明治から大正にかけて伊藤左千夫、竹久夢二、再統一茂吉、田山花袋等多くの歌人文人が訪れ、サロン的な役割を果たしたという。

 この辺りで、宿への道をスマホで確認すれば良かったのだが、下校中の2年生軍団に掴まり、いろいろお喋りしながら歩いた。
 ふと気付いてスマホで調べたら、すでに2kmほども過ぎていた。戻るのも億劫なので、先のすずらん駅入口まで歩いて、15:50、そこをゴールとした。


 すずらんの里駅まで来て、初めて雪化粧した山頂部を見せた甲斐駒ヶ岳。

 しかし、一駅前の富士見駅まで戻る電車は1時間後だった。ブログの下準備をして過ごした。
 富士見駅から宿までは1kmほどあり、結局、素泊まり専門の分水旅館(3500円)に着いたのは、17:30になっていた。
 線路を挟んだ国道にはコンビニもあるが、かなり遠回りをしなくてはならないとのこと。


 親切なおばあちゃんが「カップ麺ならあるよ」という。明日の朝の分も合わせて2個お願いしたら、「250円でいいよ」とのことで、野菜ジュースを付けてくれた。「明日途中で美味しいもの食べればいいさ」と言ってくれた。ビールは置いてなかった。

 案内された部屋は、12畳間の大きな部屋で流し台や洋式トイレも付いている。
 函館でも雪が降ったそうだが、こちらも午後から急に寒くなって、宿に着いたときには冷え切っていた。
 ありがたい大浴場は小さな温泉並みの大きさだった。
 風呂から上がって、こたつに入ってカップラーメンを食べた。
 腹を決めて、ゆっくりとブログアップしたら、22時近くになった。

 明日はいよいよラストウォークである。距離も短いのでゆっくり出て?ゆっくり歩くつもりだ。


甲州街道歩き旅〈5日目〉36勝沼宿~40韮崎宿(35.1km)9時間00分

2019年11月13日 | 登山・旅行

 (昨日勝沼宿の手前で撮った南アルプスの山並み。見えるピークは全て踏破済み)
 
 寝心地が良かったのか、トイレに一度も起きずに8時間爆睡することができた。
 6:00、街道沿いの宿をスタート。
 今日は、南アルプスの山々を眺めながら歩けると期待したが、生憎曇りがちの天候で、それは叶わなかったのが残念。

勝沼宿~栗原宿
36勝沼宿
・戦国時代は武田信玄の父信虎の弟、勝沼次郎五郎信友が勝沼に館を構えており、甲斐の戦略上、重要な拠点であったと伝えられている。
・昔からぶどうの名産地で知られたところで、現在でも一帯はブドウ園が至る所に見られる。
・宿場としては、当時はかなり横長だったようで、広重もここで昼食をとっているようだ。
・本陣1 脇本陣2 旅籠23


 宿のすぐ先の角地が「勝沼宿脇本陣跡」だった。標柱があり、土蔵が残っている。


 そのすぐ先が「勝沼宿本陣跡」~「槍掛けの松」が残っている。
 大名や公家などが宿泊すると、その目印に槍を立て掛けた老松。屋号は「池田屋」。


 「勝沼氏家臣屋敷跡」~1500年代の茅葺き屋根の家屋が復元されている。勝沼氏館跡は更地になっていた。


 「仲松屋」~荻原家は質屋で財をなした豪商。江戸時代後期の母家を中心とした東屋敷と明治後期の西屋敷2軒分の商家建築を残している。


 珍しい3階造りの蔵~明治20年ころの大火のあと、自分の山林の木材で建てたという。地下1階もあるという。


 「旧田中銀行社屋」~国登録有形文化財。勝沼郵便電信局舎として建てられ、後に山梨田中銀行の社屋として利用された洋風建築。

 わずか、800mほどの宿場の中心部で、これだけのものがあり、その先にも、「ぶどう御殿」?と思われるような豪華な屋敷が非常に多い。

 「○○園」という名のぶどう園がずっと続く。やがて、栗原宿へと入っていく。
 
栗原宿~石和宿
37栗原宿
・江戸時代、宿場には毎月4と9の日に市が立ち、勝沼宿と共にこの一帯の農産物や織物などの集積地として栄えたといわれているが、現在では宿の跡らしきものは何も残されていない。
・本陣1 脇本陣1 旅籠20


栗原宿は、宿場の面影を残すものは、この標柱だけだった。ガイドブックにも本陣跡や脇本陣跡の場所も触れられていない。
 勝沼宿のような豪商な屋敷もほとんど見当たらない。


 唯一目についたのは、この新しい屋敷である。大戸屋グループの三森久実生誕の地の看板が上がっていた。

石和宿~甲府柳町宿 
38石和(いさわ)宿
・石和の地名は多くの川が流れる荒地で、藺(い)が一面生えていたので藺の沢からとか。
・陽成天皇の時代、見事な栗が献上され石禾(いさわ)の字を賜ったなどの由来がある。
・また武田武田信玄の父信虎が躑躅ケ崎(つつじがさき)に城を築くまでは、ここ石和が武田氏の本拠地であり甲斐国の政治の中心地でもあった。
・本陣1 脇本陣2 旅籠18

 笛吹市へ入っていくが、1kmほど旧道が続く。


 明治40年の大水害後に植樹された松並木。この道幅に旧道の面影を感じる。


 地名の由来となった「笛吹権三郎像」~昔笛の上手な権三郎は母親と二人で暮らしていたが、ある晩氾濫した濁流に二人とも流されてしまった。権三郎はく助かったが、母親は権三郎の名前を叫びながら濁流に呑まれて行方不明になった。権三郎は毎晩母親の好きな曲を笛で吹きながら川下まで探し回ったが、ある日足を踏み外して川に落ちて死んでしまった。その日から夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえるようになり、村人はいつしかこの川を笛吹川と呼ぶようになった。

 像の傍らには丸石道祖神が祀られている。このあと、多くの丸石道祖神を目にした。


 やがて、カエデの紅葉の並木がきれいな市街地へと入っていく。


「後藤本陣跡」~明治13年の大火で焼失し、土蔵を残すのみ。


 「石和宿の足湯」と現小林公園の「由学館跡」~石和代官の山本大善が作った漢学を中心とした学舎。


 多くの家の庭で目にする名前の分からない可愛い花。


 「山崎刑場跡」~ここには首斬り場2ヶ所、首洗い井戸4ヶ所、骨捨て井戸が1ヶ所あったいう。


 箱根駅伝でお馴染みの「山梨学院大学」
 

 「石川家住宅」~塗籠土蔵造りの旧屋号河内屋跡。糸繭の問屋だった。


 城東通りに入っていくと、宿場は近い。
 
甲府柳町宿~韮崎宿
39甲府栁町宿
・甲府の市街は武田信玄の父信虎が石和から移って甲府駅の北部、躑躅ヶ崎に居館を構えたことから始まる。
・武田滅亡後、家康は現在の「舞鶴城公園」の地に城を計画し、繁栄は南部に移った。
・江戸時代にはここを下府中といい、武田時代の駅北部を上府中、あるいは古府中と呼んだ。宿の正式名称は「甲府柳町宿」という。
・宿場の中程にある柳町に問屋場などがの機能が集約されていたことに由来する。
・本陣1、脇本陣1、旅籠21軒。

 甲府市は南アルプスの山に来たときに、少なくとも4回は寄っている。武田信玄の甲府城址も見ている。


 甲府市市街地中心部の交差点の陸橋から宿場の中心地だった通りを写す。
 宿場の面影を出たものはまったく見当たらない。ガイドブックにも本陣跡も脇本陣跡も触れられていない。


 市街地を抜けて、山梨県へ来たら必ず食べる大好きな「小作のほうとう」。帰りまでにもう1回は食べたい。

 多く目についた6種類の「道祖神」をまとめてみた。

 
 左上は丸石、中上は祠と丸石、右上は道祖大神。
 左下は男女双体、中下数個の丸石、右下は祠。


 「下今井の街並み」~なまこ壁の土蔵が随所に残っている。


 下志田の「旧庄屋宅」~ここに写っている建物全てが1軒の屋敷。びっくりするほど豪壮な建物を残している。


 塩川に架かる塩川橋を渡ると、韮崎市となる。後ろの山は?


 やがて、宿場の中心地へと入っていく。


 「井筒屋醤油店」


 15:00ちょうど、今日のゴール、韮崎宿の中心地にある清水屋旅館(素泊まり6250円)到着。
 弘化2年(1845年)創業の旅人御宿である。しかし、建物は昔のものではなくがっかり。素泊まり6000円代だが、昨日に比べたらだいぶ落ちる。
 着いて直ぐに洗濯をしたが、乾燥機がなく部屋干し。ブログも終わりこれから、近くのスーパーで夕食の買い出し。


甲州街道歩き旅〈4日目〉26大月宿~36勝沼宿(31.7km)8時15間分

2019年11月12日 | 登山・旅行
 今日も快晴に恵まれた。昨日同様、宿場間の距離が短く10宿を通過した。笹子峠越えが今日のハイライトだった。
 
 宿にリュックを預け、初狩駅発6:11の電車に乗り、6:20、大月駅前をスタート。

大月宿~花咲宿
26大月宿
・現在は大月市人口3万程度の特急が停車する市であるが、本陣、脇本陣の外、旅籠も二軒だけという寂しい宿場で、寛文の頃(1661~)駒橋と分かれた宿であった。
・本陣1 脇本陣2 旅籠2


 同じようなデザインの建物が並ぶ大月市街地
 特に宿場の面影を残すものは見当たらない。「溝口本陣跡」も明治天皇の碑が立っているだけ。


 大月宿の外れに立つ「富士山道追分道標」~富士講の行者が往来し富士街道と呼ばれた。
 文久2年(1862年)建立の道標には「右甲州道中、左ふじミチ」と刻まれている。

花咲宿~初狩宿
27.28花咲宿
・下花咲宿と上花咲宿の二宿で構成される。宿間は五町五十八間、600m程しかない。
・下花咲宿 本陣1 脇本陣2 旅籠22  上花咲宿 本陣1 脇本陣2 旅籠13 


下花咲宿の「星野本陣跡」~現在の建物は天保6年(1385年)の火災で焼失した後に再建されたもの(国の重要文化財)


 あちこちの庭に実る鮮やかなピラカンサ。

28初狩宿~白野宿 
29・30初狩宿
・下初狩宿と中初狩宿の二宿で構成される。問屋業務は月の半分ずつ負担していた。下初狩宿 本陣2 脇本陣2 旅籠12。 中初狩 本陣1 脇本陣1 旅籠25


 下初狩宿の「奥脇本陣跡」~門構えを残している。


 「山本周五郎生誕の地」碑~上掲の奥脇本陣の裏の長屋で生まれている。

 このあと、初狩駅前の大和屋旅館に寄ってリュックを回収。


 「宮川橋の一目富士」~南西の山間に富士の頂きがわずかに眺められる。旅人に評判であったという。
 これは、今も変わらない感動的な眺めだ。


 中初狩宿の「小林本陣跡」


 中初狩宿の非常に珍しい「赤レンガの蔵」

白野宿~阿弥陀海道宿
31 白野宿
・白野宿は、次の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿の3宿で継ぎ立てを分担するという小さな宿場であった
・本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4


 標識等はないが、ガイドブックなよると、この両側に「今泉本陣跡」と「天野脇本陣跡」があったらしい。

阿弥陀海道宿~黒野田宿
32阿弥陀海道
・日本橋から数えて32番目の宿場。「此地一名を葦が窪といへり。駅の南に阿弥陀堂あり」ということから名前がついた。
・現在は道の字がなく、大月市阿弥陀海で(あみだかいどう)と呼ぶ。前の白野と先の黒野田と3宿で合宿となっていた。
・宿場の継立ては1日から15日が黒野田宿、16日から22日が阿弥陀海道宿、23日から30日は白野宿がそれぞれ行った。
・本陣1、脇本陣1、旅籠4


 「毒蛇になった娘伝説」の3点セット。
 上「小俣家」~この家の先祖である地頭小俣左衛門の娘が毒蛇になったが、親鸞上人に済度された。地頭はこの徳を慕って剃髪し、「唯念」と称して善福寺の二世となった。
 左下「親鸞上人念仏供養塚」~毒蛇となった娘を成仏させた。
 右下「葺ヶ池跡」~毒蛇となった娘が棲みついた池。


 笹子名物「笹子餅」~5個で500円。笹子峠越えのエネルギー補給に全て平らげた。
 結局このあとゴールしても食べ物屋はなかったので、これが昼食代わりとなった。

黒野田宿~駒飼宿
33黒野田宿
・阿弥陀海道からわずか1km程であるが、背後に笹子峠を控えていたこともあって、当時は多くの旅人で賑わったのではないかと思われる。
・また黒垈(くろぬた)とも書いた。本陣1、脇本陣1、旅籠14

 黒野田宿から駒飼宿までは約10kmあるが、そのほとんどは笹子峠こえである。

 笹子峠に向かって標高が上がっていく。昨日の犬目宿より高い標高620m付近にある宿場である。


 「天野本陣跡」~本陣門を残している。


 これから越える笹子峠は多分左のコルでないかと思いながら歩を進める。

登山モードの「笹子峠(1090m)」越え
 黒野田宿を抜けた、旧道の自然道への入口は、すでに730mになっていた。


 昔のままの面影を残すまさに旧街道の山道。


 「矢立の杉」~樹齢1000年を超すと言われている杉。
 戦国時代、笹子峠を通って合戦に行く武士が必勝を祈願して、この杉に矢を射ったことがこの名の由来。



 さらに笹子峠を目指して登っていく。細い急な尾根道もあった。


 一部県道に出た先にあった「笹子隧道」~笹子峠の下を通る県道のトンネル。昭和13年竣工したが、昭和33年に国道20号の親笹子トンネルができて、役目を終えた。

 このトンネルの右横から、急なジグを切った旧道を登る。


 1090mの「笹子峠」に到着。両側の山の登山道にもなっていた。


 頂上から少し下ったところにある「天神祠」~享保14年(1729年)建立の石灯籠がある。


 峠から駒飼宿を目指して下っていく。落ち葉で道が分からないところもあった。
 840mで自然道から舗装道路に出たが、そこから駒飼宿までが意外と長かった。


 途中から、大菩薩嶺が見えた。懐かしい。


 下っていくとようやく駒飼宿の集落が見えた。

駒飼宿~鶴瀬宿
34 駒飼宿
・馬の放牧が多いことから宿の名がついた。次宿の鶴瀬宿との相宿で、人馬の継ぎ立てを21日から末日まで行った。
・黒野田と同じく笹子峠を控えて、旅人で賑わっただろうと思われる。
・1868年(慶応四年) 駒飼宿は新鮮組の近藤勇が甲陽鎮 部隊を組織して甲府城に立てこもる板垣退助と決戦する為、軍議を開いた場所となった。
・本陣1 脇本陣1 旅籠6


 「渡辺本陣跡」~空地になっていたが、標柱が立っていた。


 このような古民家もあった。


 2階の形が珍しい古民家。
 旧道を下っていき、国道20号に出たら鶴瀬宿だった。

鶴瀬宿~勝沼宿
35 鶴瀬宿
・関所跡を出て130m程度と短い宿場であった。駒飼宿と合宿で継立業務は一日から二十日まで行い、月末までは駒飼宿が行った。 
・本陣1 脇本陣2 旅籠4


 「鶴瀬関野跡」~甲州12関のひとつ。


 「鶴瀬宿」の石碑と標柱


 鶴瀬宿を抜けると、葡萄棚が目につくようになる。勝沼が近くなった。


 「近藤勇像」~柏尾古戦場跡で、官軍と近藤率いる甲陽鎮撫隊の激戦地で、勝敗は1時間外余りで決した。
 近藤は八王子まで逃げたが捕らえられて打ち首にあった。土方歳三は五稜郭まで生き延びたが、そこで戦死。


 別名ぶどう寺の「大善寺」~養老2年(718年)、行基がこの地で修行し、満願の日に手にぶどうを持った薬師如来が現れ、これと同じ像を造り安置した。
 それ以来、ぶどうは法薬として、多く栽培されるようになり、現在のこの勝沼がぶどうの特産地となった。


 14:40、街道沿いにある今日のゴール「ワイン民宿鈴木園」に到着。
 民宿というよりは高級なペンションのような感じで、2ツ星ホテルとのこと。素泊まり6600円。
 ツインの部屋しかないので、2人で泊まれば5500円。夕食の提供はしてなく朝食のみ。ワインは販売をしているようだ。
 大きなwineの貯蔵庫もあるようだ。


 明治中期の古民家をリノベーションしたそうで、全てがシックながらも高級な感じだった。部屋のバスとトイレも別々なので快適だった。
 高いけど、それだけの価値のある宿である。不満はない。たまには良いだろう。

 ただし、近くに食べ物屋もコンビニもないのが難点。これから1km以上歩いてコンビニへ行くつもり。


甲州街道歩き旅〈3日目〉15与瀬宿~26大月宿(34.3km)8時間40分

2019年11月11日 | 登山・旅行
 昨日調子の良いことを書いて、宿を出たら雨だった。駅まで折り畳み傘で行って、電車の中でカッパを着た。
 ところが、相模湖駅へ下りたら、雨が止んでいた。晴れ男の面目躍如。
 しかし、最後の40分は小雨に見舞われた。傘だけで間に合ったが、その後どしゃ降りになったので、非常にラッキーだった。

 今日は、宿場間の距離が短く、10宿も抜けた。ところが、平野部はまったくなく、地形の関係か、くねくねとしたアップダウンの多い坂道ばかりだった。
 おまけに犬目宿は標高520mもの高地にある。昨日の小仏峠よりずっと高い。
 そこまでアップダウンを繰り返しながら登っていくので、今回の歩きで最もキツかった。平坦な道もなければ、まっすぐの道もない。
 しかし、そのせいか国道歩きが少なく、旧道歩きが非常多かった。地元の案内標識は、それを「甲州古道」や「旧甲州街道」と表している。

与瀬宿~関野宿
15与瀬宿
・JR相模湖駅付近が与瀬宿であった。相模湖駅も元々与瀬駅として開業している。
・鮎が評判の宿であったらしい。小原と合宿で江戸方向へのみ継ぐ。
・古い家はほとんど残っておらず、髙尾山、相模湖などの行楽の基地に変貌している。
・本陣1、旅籠6 小原宿より19町、約2km

 5:35の電車で相模湖駅まで移動。カッパを脱いで、6:00に与瀬宿の駅前通りをスタート。


 5分ほどで「坂本本陣跡」~敷地と築山を残していて、その築山に「明治天皇與瀬小休所址」の石碑が立っている。


 まもなく、国道20号と別れ、狭くて急なアップダウンを繰り返す道となる。


 吉野宿へ下りていく道を間違えたところから眺めた相模湖。昭和22年の相模ダムによる人造湖。

吉野宿~関野宿
16吉野宿
・国道20号線沿いの宿になっていて、交通量がかなりある。
・明治29年に12月に大火があり本陣も含めほとんど焼失してしまった。いくらか古い家も残るが大火後の建物になる。
・長谷川伸の「関の弥太っぺ」の舞台になった。
・与瀬より 34町28間(約3.7km)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒


 通りすぎてから撮った右の「旅館ふじや跡」(現藤野町郷土資料館)と左の「吉野本陣跡」~(明治天皇聖蹟碑が立つ)往時は五層楼閣の偉容を誇ったらしい。


 このような旧道歩きもあった。分岐に「甲州古道○○」といった標柱が多い。○○はそこの地名。
 細い旧道を抜けると関野宿へと入っていく。

関野宿~上野原宿
17関野宿
・関野宿は往時、この近辺は奥三保とも桂里とも呼ばれ、諏訪番所を通り甲斐の国に通じる最後の宿ということもあり、重要視されていた。
・道幅は2間余り、民家が相対して軒を並べ、本陣、脇本陣を備えた宿場であった。明治21年とその後の2度の火災で焼失してしまった。
・吉野より26町(約2.8km)本陣1、脇本陣1、旅籠3


 「関野本陣跡」の説明板。代々中村家が勤めた。


 関野宿の中心部の家並み


 境沢に架かる「境沢橋」~相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)の境界。

上野原宿~鶴川宿
18上野原宿
・甲斐の国最初の宿。八王子から分かれた裏街道・陣馬街道との分岐点で、文化年間(1804~18)には250軒もの商家が軒をを並べ、織物、野菜、干魚、酒などを商っていたという。
・本陣1脇本陣2 旅籠20   関野より34町 3.7km


 「諏訪関跡」~武田氏が設置した「甲斐二十四関」のひとつ。徳川の夜になると、「境川口留番所」と呼ばれた。


 唯一目についた土蔵造りの旧商家。本陣や脇本陣もあったが、その標識等はなかった。


 鶴川宿への旧道。

鶴川宿~野田尻宿
19鶴川宿
・鶴川宿は、正徳三年(1713)一村一宿にてつくられた。
・甲州街道唯一の「徒歩(かち)渡し」の鶴川の渡しがあり、川留めのために設けられた宿場。
・明治、大正の二度の大火で、殆どの建物が焼失したという。
・本陣1脇本陣2旅籠8  上野原から18町 約2km


 「鶴川宿碑」


 左は「問屋跡」の加藤家。向かい側に柏屋脇本陣があった。その先の本陣跡は分からなかった。


 「大椚の一里塚跡」碑~日本橋より19里目。

野田尻宿~犬目宿
20野田尻宿
・駅路峯の上に亘れり・・・というように中央高速の北側高台に存在する。
・宿は明治19年の大火でほとんど焼失し昔の面影は残っていない。
・本陣1 脇本陣1 旅籠9  鶴川より一里三町三十間(4.3km)


 旧家が多く目につく野田尻宿の中心部。


 「宮田本陣跡」は更地になっていて、「明治天皇御小休止所址」の碑が立っている。
 ずいぶんと登ってきた感じだが、この宿場で標高350mほど。


 ここから犬目宿に向かってどんどん登っていく。


 このような旧道が続く。やがて、犬目宿へと入って行く。

犬目宿~下鳥沢宿・上鳥沢宿
21犬目宿
・「犬目駅-此の地は狗目嶺とて一郡の内にて極めて高き所なり、房総の海まで見え・・・・」というように海抜500mを越える所に位置する。
・昭和45年に大火があり、宿の6割を焼失して、ほとんどの家が建て替わってしまったそうだ。
・野田尻より31町(約3.4km)本陣2 旅籠15


 「尾張家殿様定宿跡」~代々米山伊左衛門を名乗り、尾張家藩主の定宿を勤めた。


 「笹屋本陣跡」~上条家が勤めた。ここにも明治天皇の碑が立っている。


 「岡部本陣跡」~現在の建物は明治13年(1880年)の建築。この宿場は標高520mもある。
 この宿場を抜けて下るかと思ったが、さらに登っていき、最高550mにもなった。


 「恋塚の一里塚」~久しぶりに南塚だけだが、現存する一里塚。日本橋から21里目。この辺りも標高550m。この辺りからどんどん下っていく。ここにも


 下鳥沢宿へ下りていく途中に、一部だけだが石畳の道もあった。


 農家の前に、このような楽しい木工の案山子?が展示されていた。

下鳥沢宿・上鳥沢宿~猿橋宿
22.23鳥沢宿
・上鳥沢宿 と下鳥沢宿 の二宿に分かれる。
・いずれも国道20号に面していて、宿場制定時から道幅を広く仕切ってあり、そのため国道が突き抜けても、宿場の建物群がそのまま残った珍しい宿であったといわれる。
・下鳥沢宿と上鳥沢宿は隣接した合宿で、5町(約550m)程しか離れておらず、継立、問屋業などは半月ずつ交替で行われていた。
・下鳥沢宿は、本陣1、脇本陣2 、旅籠11。上鳥沢宿は、本陣1 脇本陣2軒、旅籠13。

 標高350mまで一気に下り、鳥沢宿へと入っていく。


 「旅籠叶屋跡」~明治20年の建築。「甲府商人定宿世話方」でもあった。


 「問屋場跡」の建物。


 「井上本陣跡」~どこも建物はないが、明治天皇の碑が立っている。

猿橋宿~駒橋宿
24猿橋宿
・江戸時代、岩国の錦帯橋、木曽のかけ橋と共に三大奇橋「猿橋」の見物人で賑った。
・宿場本陣1 脇本陣2 旅籠10 猿橋-殿上-駒橋発電所-駒橋宿 2.3km 


 この「猿橋」は、昨年も富士登山の帰りに見ている。
 現在の猿橋は、嘉永4年(1851年)の図面をもとに、昭和59年に復元されたもの。

 宿場の面影を残すものは何も見当たらない。本陣も脇本陣もあったのだが…。
 このあと雨が降ってきた。小雨なので折り畳み傘だけで間に合った。

駒橋宿~大月宿
25駒橋宿
・本陣も脇本陣も無く、旅籠数軒だけの小さな宿場であった。
・現在は国道から外れたおかげで、古い家並を残し、旧観を留めた静かな佇まいを見せている。
・旧道はJRや畑などで分断されており、歩くことができない。旅籠4


 「駒橋宿」碑。


 「旅籠橿屋跡」~門柱に屋号橿屋を掲げている。

 14:40、大月駅前交差点を今日のゴールとする。
 大月駅近くに安い宿がなかったので、1駅先の初狩駅前の宿を予約しておいた。
 大月駅でブログの下準備して、15:43の電車で初狩駅へ。


 まさに駅前にあった大和屋旅館(夕食のみ5700円)。快適な旅館だった。


 特に郷土色もなく、一般的な夕食。


甲州街道歩き旅〈2日目〉9府中宿~15与瀬宿(37.8km)9時間05分

2019年11月10日 | 登山・旅行
 今日も見事なほどの快晴に恵まれた。連日の好天に驚いている。最後まで雨に降られそうにもない感じだ。
 昨夜ぐっすり眠れたせいか、難所の小仏峠越えも快調に歩くことができた。

 昨日は、現在の東京都中央区~新宿区~杉並区~調布市~府中市と通過し、今日は、府中市~国立市~日野市~八王子市~神奈川県相模原市まで歩いた。
 お陰で都内の区や市の位置関係が良く分かった。これも歩き旅ならではのことである。


 昨日のてくてく人からの差し入れ。数日分の行動食としてごちそうになった。その他の差し入れは朝食にいただいた。感謝、感謝である。

府中宿~日野宿
9府中宿
・府中はかつての武蔵国府、武蔵総社(大国魂神社)があった武蔵の国の中心。
・鎌倉街道が通り、甲州街道が整備されると宿場として栄えた。
・現在の宮町が昔の「新宿」、宮西町が「番場宿」で「本町」と合わせて3町、3宿で府中宿が成り立っていた。この3宿が一ヶ月を三分し交代で問屋場を勤めた。
・本陣は本町に1軒、脇本陣は新宿、番場に1軒ずつ、その他旅籠屋、木賃宿、飯盛旅籠がそろっていた。本陣1 脇本陣2 旅籠29

6:00、昨日ゴールの大国魂神社の前をスタート。

 昨日見落とした「和田屋脇本陣跡」にある「明治天皇御在所」の解説
を読む。


 少し進むと、交差点に向かい合って、高札場(左)と問屋場跡(右足)が建っている。
 高札場は当時のものが現存している。めずらしい。


 さらに進むと、内藤家冠木門がある。これは矢島本陣の表門を移築したもの。肝心の矢島本陣の場所は不明。

 府中宿を抜けて、しばらく進み、国立市の端で旧道に入る。

 その先には「日野の渡し場跡」がある。ここから下流に向かって斜めに渡しが行われたようだ。


 土手を少し進み、多摩川に架かる「立日橋」を渡る。国立市と日野市を結ぶことが分かる名前だ。


 橋の上から、山頂部を雪化粧した富士山が見えた。こらからどんどん近くなるはず。
 反対の日野側の渡船橋跡は見つけられなかった。
 渡し賃は人と馬とは別々に徴収され、武士と僧侶と宿の人々は無賃だったそうだ。

 やがて、日野宿へ入っていく。

日野宿~八王子宿
10日野宿
・宿場町として整備されたのは1605年(慶長10)のことで、八王子宿を整備した大久保長安手によって開かれている。
・宿場町は物流の拠点であるとともに軍事的な拠点でもあり、軍勢が一気呵成に攻め込めないよう宿の出入口を直角に曲げて作られていた。その名残りが現在も見られる。
・本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物が建っている。本陣1 脇本陣1 旅籠20


 「日野宿場本陣」の大きな看板が飛び込んで来る。


 それもそのはず「下佐藤家本陣」である。
 当時のものか、復元されたものかは、ガイドブックでは触れられていない。公開しているが時間的に早かった。


 その向かい側に、「問屋場跡・高札場跡」の碑と説明があった。


 宿場の中心部を抜けると、広大な敷地の「日野自動車」の横を進む。国道沿いだけで700mほどもありそうだ。


 その西外れに「日野台の一里塚跡」の説明があった。日本橋から10里目。
 やがて、八王子宿が近づいて来る。


 竹の鼻公園内に立つ「史蹟一里塚跡」碑と説明がある。塚木の大榎は明治30年の大火で焼失したそうだ。

 新町の桝形を抜けると八王子宿である。

八王子宿(横山宿)~駒木野宿
11八王子宿(横山宿)
 八王子宿を正式には「横山宿」といい、横山宿など15宿から成り立ち、現在の新町から八木町まで2.5km位の宿であった。横山宿が一番大きかったので「横山宿」という。又街道に沿った宿ばかりではなく、街道の左右にも宿が発達していた。宿内の家の数は1548軒もあった。天正18年(1590)八王子城の落城後、北条氏家臣長田作左衛門がこの地に宿を新設した。
本陣2 脇本陣3、旅籠34

 今夜の宿は八王子駅前なので、不要な荷物を駅のコインロッカーに預けて、空に近いリュックを背負って再スタート。

 八王子駅前は建物も人も非常に賑やかだった。
 駅前からすぐ先には、横山宿の本陣や脇本陣、問屋跡があり、八王子市宿の中心だったそうだが、その痕跡も説明もない。


 そこから300mしか離れてない所に、大きな「八日市宿跡」の碑が立っている。
 この八日市宿にも新野本陣や山上脇本陣があったそうだ。
 

 八王子宿で唯一目にした旧家。


 陣馬街道との追分にある「八王子千人同心屋敷跡記念碑」。家康は武田氏の旧臣を召し抱え、甲州口の押さえとした。
 碑の当たりに頭や幹部の屋敷や邸宅があり、平同心は半士半農の生活を送った。


 八王子市街地から高尾までは、見事なイチョウ並木が続く。この辺りは千人町といい、同心が住んでいたという。


 一部旧道に入るが、そこには黒塀を回した旧家が3軒ほどあった。


 やがて、高尾駅前を通過。ガードを潜ると駒木野宿へと入っていく。

駒木野宿~小仏宿
12駒木宿
・駒木野宿は、関所に付随する簡易宿場というような位置付けだった。
・本陣1、脇本陣1、旅籠12


 駒木野宿の中心部には、「小仏関所跡」碑が立っている。
 「出女に入り鉄砲」を厳しく取り締まった関所である。
 

 その隣に大きな「甲州街道駒木野宿」の碑が立っている。

 この辺りから、小仏峠に向かって上り坂が続く。上の方からたくさんの登山者が下りてくる。
 日本で最も登山者の多いと言われる高尾山には多くの登山道があり、そこから下りてきたようだ。

 駒木野宿を抜けて、小仏宿へと入っていく。

小仏宿~小原宿
13 小仏宿
・本格的な峠越えの手前に位置するが、本陣、脇本陣はなく、旅籠が11件あったのみである。
・地名の由来は頂上に小さな石地蔵があったためとか、この地の大日堂の本尊は土中出現の小像のためとかの説がある。


 道が狭くなり、傾斜もきつくなってくる。


 「名主宅跡」があった場所。擁壁上に頭だけちょこんと出している「明治天皇御小休止場」の碑がある。
 これを見つけられないで、一度戻って探した。


 家並みもなくなると、景信山や高尾山からの縦走路の登山口がある。日曜日でもあり、そこからはみ出た車がずらっと並んでいる。


 やがて、小仏峠への未舗装の山道となるが、「台風19号で崩壊しているため通行止」になっていた。
 行けるところまで行って無理だったら戻っても良いと思って、先へ進んだ。


 確かに下の方は酷い荒れようだ。しかし、上から下りてくる登山者もいて、踏み跡も付いている。


 上の方は、特に問題もなく峠まで上がることができた。


 小仏峠(580m)にある石碑や石仏。ここは昔の武蔵国と相模国の境界で、ここから神奈川県となる。
 小仏峠は、甲州街道踏破の後に縦走する予定の陣馬山~景信山~高尾山の縦走路にもなっていて多くの登山者が下りて来ていた。


 峠の道標。


 こちらの道はまったく荒れてなく、快適な当時の街道そのものだった。こちらに下りてくる登山者もいた。

 やがて、車道に出る。道なりに下っていくと、小原宿へと入っていく。

小原宿~与瀬宿
14小原宿
・小原と与瀬は片道継立の宿で、甲州へは小原から吉野へ継ぎ、江戸方面には与瀬から小原を通り越して小仏宿へ継ぐ。
・本陣1脇本陣1、旅籠7

 神奈川県下に26軒あった本陣で唯一現存する「清水本陣跡」。江戸時代後期の建築。
 明治28年の大火でも、この手前まで焼き尽くされたが、ここの手前で
鎮火したそうだ。


 無料で公開していたが、内部も見事な造りである。



 その先には、大火の後に建て直された旅籠等が数軒並んでいた。
 さらに下っていくと、与瀬宿に入っていく。

 15:05、相模湖駅前でゴールとする。駅には多くの登山者がいた。 

 15:59の電車で八王子駅まで戻り、コインロッカーから荷物を回収。


 今日の宿となる「八王子温泉やすらぎの湯」(3910円)に到着。


甲州街道歩き旅〈1日目〉日本橋~9府中宿(32.1km)8時間30分

2019年11月09日 | 登山・旅行

 いよいよ今日から五街道最後となる甲州街道である。甲州街道の説明は10/30のべージ参照。
 
 昨夜の段階で、予め調べておいた宿も全て予約ができ、泊まりの心配はなくなった。

 連泊したホテルは、ワンランク上のカプセルが売りで快適なのだが、混んでいるせいか、他の客の動きが意外とうるさい。
 1時前に物音で目が覚めたら眠られなかったので、今日の予習をしながら、ブログの解説部分の下書きをした。

 今日は都心部から徐々に郊外へ抜けて行く景観の移り変わりを楽しむことができた。
 また、歩きゆえに、都心部の施設や建物の位置や地名を整理することもできた。

 今夜は、てくてく人さんと府中の宿…とは言っても京王府中駅前の24時間営業の温泉だが…。
 19時にそこへ来てくださるという。一緒に食事でもという希望だったが、到着後に聞いたら、この温泉は、レストランだけの利用はダメで、高い入浴料を払わなくてはならないとこと。また、こちらの途中外出もダメとのこと。
 すぐに電話して、自由に使える受付ホールの休憩コーナーで会うことにした。

日本橋~内藤新宿


 6:00、夜明け前の毎度おなじみの日本橋。これで最後になると思われる。


 甲州街道は東海道と同じく銀座方面へ向い、日本橋交差点を右折して皇居から四谷を経由し新宿通りへ向かう。


 呉服橋を右に行くと、「一石橋」がある。名前の由来は橋の南北両側に後藤氏両家の(金座)後藤庄三郎、(呉服所)後藤縫殿助の屋敷があり、後藤(五斗)のシャレ)と五斗で一石と名づけたという。
 隣に「まよひ子のしるべ石」というのが立っている。子供が迷子になったとき、似顔絵などを貼り付けて情報を集めたという石標がある。


 これを見つけるのに非常に苦労した「北町奉行所跡」 
 大丸の通用門に石碑があった。お馴染みの遠山の金さんこと遠山金四郎が天保11年(1840年)から3年間奉行を勤めた。


 東京駅八重洲口の横を抜けて、皇居外堀の和田倉橋から、外堀沿いに進む。


 皇居ランナーと「桜田門」~万延元年(1860年)3月3日の朝、門外で「安政の大獄」を行った大老井伊直弼が水戸浪士等に暗殺された「桜田門外の変」の舞台。


 桜田門の向かい側に建つ、TVの刑事ドラマで良く登場する警視庁は豊後杵築藩松平家屋敷跡とのこと。右奥に国会議事堂も見える。

 皇居の外堀を半蔵門前まで、およそ半周する感じで歩いた。堀沿いだけで35分も掛かった。
 国道20号新宿通りを進む。ビル街の中の歩きが続く。


 四谷駅前に「四谷見附跡の碑」が立っている。ここは、江戸城防御の城門があった。
 ここを過ぎると、内藤新宿へと入っていく。
 
内藤新宿~下高井戸宿
1 内藤新宿
・内藤新宿は甲州道中の日本橋から最初の宿場。当初、日本橋から高井戸まで宿場がなく、遠すぎて難儀したため途中に設置された。
・元禄12年(1699)から宿駅業務が開始され、途中享保3年(1718)にいったん停止されるが、54年後の明和9年
(1772)に再興している。
・江戸城造営のために整備された青梅街道は当地で甲州街道から分岐する。本陣1 旅籠24

 この辺りは杉並区だが、内藤新宿は新宿1丁目交差点あたりから始まり、江戸時代は入口の木戸が設置されていたという。


 左手奥には新宿御苑の大木戸門が見える。ここは、内藤家下屋敷跡だだたところ。
 内藤新宿もこの内藤家に由来しているらしい。
 面影を残すものは何もないが、この辺りが宿場の中心地だったようだ。
 本陣跡等の場所はガイドでも触れられていない。


 更に進んで新宿3丁目交差点。ここは青梅街道の追分になっている。
 そのまま真っ直ぐ進む道が青梅街道 左折するのが甲州街道。
 交差点の歩道に設置されている「追分モニュメント」をアップで撮ってみた。正面が青梅街道。


 通勤ラッシュの新宿駅前を通過。


 新宿駅前から国際通りに入る。ここもビル街だが、狭い道路に旧道の面影を感じる。


 途中から国道20号の上に首都高速4号が合流してきて、これが、上高井戸まで7kmほども続く。


 「笹塚の一里塚跡」~昔、街道の両側には直径1mほどの笹に覆われた塚があったという。
 「笹塚」という地名の由来になったといわれている。江戸より3里目。

 その先下高井戸駅入口交差点から先、下高井戸1丁目から次の下高井戸宿に入りる。

下高井戸宿・上高井戸宿~布田五宿
2下高井戸宿 3上高井戸宿
・現在の杉並区下高井戸1丁目から5丁目、甲州街道と首都高速4号線が分離して行くあたりまでの東西17町(約1850m)。
・上高井戸宿はその西、上高井戸1丁目の環八通りと交わるあたりを中心に東西6町(約650m)程の町並み。上下高井戸両村が半月交替で継立を分担した。 
・下高井戸 本陣1 旅籠3 上高井戸 本陣1 旅籠2

 下高井戸駅入口交差点から下高井戸宿へ入って行く訳だが、当然ながら宿跡らしきものは何もなく、国道の上を首都高速が乗っかっているだけ。 
 国道の北側は玉川上水跡が暗渠になって公園となっている。


 ガイドブックによると、この右辺りに、「富吉源蔵本陣跡」があったという。


 「鎌倉街道入口」交差点に、江戸から4番目の「一里塚」があったという案内板がある。
 案内によると・・・参勤交代でこの道を利用した大名は、 信州高嶋藩、高遠藩、飯田藩の3藩だけだったとか。

 ここを過ぎると、うっとうしかった高速道路は右手へとルートを変えて行き、騒音も少なくなり、見通しも良くなってきた。この辺りは世田谷区である。


 ガイドブックによると、その先きの右辺りに「武蔵屋本陣跡」があったという。


 「新一里塚跡の碑」~これは明治3年に内藤新宿を起点とし甲州街道に建てられた新しい一里塚で、正面には「内藤新宿より三里 品川県」と彫られている。 六カ所設置して、現存する物はこれのみという。  


「仙川の一里塚跡」~「旧市跡仙川の一里塚跡」碑と解説がある。日本橋より5里目。

 野川を渡ると直ぐに二叉となり、左手は県道119号となり、次の宿場の布田五宿の内の一つ「国領宿」へ入っていく。

布田五宿~府中宿
4 布田五ケ宿
・現在の調布駅を中心に東側より、4国領宿、5下布田宿、6上布田宿、7下石原、8上石原の五宿からなる宿場。
・五宿あわせて一宿の機能をもって、6日交代で宿継ぎ業務を分担していた。これら五宿には本陣、脇本陣共無く、旅籠も計9軒だけ。
・江戸からの距離も五里三十二町余と中途半端で「間の宿」のような存在だったと云われる。宿の長さは合計で30丁余(3270m)。

 

 上布田にあった「小島の一里塚跡」~「市旧跡小島一里塚跡碑」とその解説板がある。日本橋から6里目。


 上布田で今日初めて目にした蔵付きの旧家。


 上石原は近藤勇生誕の地とのことで、街頭沿いに幟が並んでいて、西光寺に近藤勇の座像があった。


 上石原にあった黒板塀の旧家。


 上石原で、「江戸初期の甲州道中」との分岐がある。貞享年間(1684~88年)以前の甲州古道。
 迷わず古道へ進む。県道ではないので、道幅に街道の面影を残す。
 地元では「品川街道」と呼んでいるらしく、標識も目にした。


 その古道にあった「常久の一里塚跡」~「史蹟一里塚碑」とその解説がある。ここの塚木は松と杉だったらしい。日本橋から7里目。
 左の標柱には「しながわ道の一里塚」と書かれていた。
 
 県道229号に合流してまもなく、府中宿へと入っていく。
 14:30、府中宿の中心地手前の京王府中駅入口を今日のゴールとした。


 その交差点の「大国魂神社」ではお祭りが行われていた。


 そこから5分ほどで、24時間営業の「天然温泉縄文の湯」が今日の宿(4100円)。
 6階が受付で、温泉が11階にある。7階から12階まで温泉の施設である。
 2日間シャワーのみだったので、ゆっくり浸かる。疲れが抜けて行くような気がする。
 朝眠れなかったので、説明部分の下書きを済ませていたブログも18時前にアップすることができた。
 19:00にやって来るてくてく人さんとの再会が楽しみ。


結局、1時間半ほど温泉でおしゃべりをして過ごした。


日光街道歩き旅〈5日目〉20草加宿~21千住~日本橋(25.1km)6時間30分

2019年11月08日 | 登山・旅行
 今日は、日本橋に到着することができ、三厩からスタートした奥州街道と日光街道のゴールを迎えた。
 特に奥州街道は、3回に分けて30日を要しただけに感慨深いものがある。通しで歩いてきた松前藩の参勤交代は人数が多いので、もっと多くの日数を要したことだろう。

 今日は朝から11℃もあり、昼は今までで一番暑い好天に恵まれた。 
 リュックをホテルに預けて、銀座線の上野で乗り換えて東武線の草加松原まで移動。

 東京へ入ってからは、複雑な交差点で道を間違えたり、うろうろしたり、多い信号に引っ掛かったりと、予想以上に時間が掛かった。

草加宿~千住宿 
〈草加宿〉
・人口3619人、家数723軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒
・芭蕉の「奥の細道」では草加宿に宿泊したとあるが本当は越ヶ谷宿だった
・草加煎餅は明治8年の資料には記載されていないので江戸時代には無かったようだ


 7:05、昨日のゴール地点の百代橋からスタート。日本の道百選に選ばれている草加松原は、当時の街道に似せて復元されている。


 草加松原の端に立つ「松尾芭蕉像」


 「草加煎餅発祥の地碑」~草加松原で茶屋を営むおせんさんが「売れ残った団子は潰して天日に干し、焼くといい」と教えられたのが由来とされている。


 その道を挟んで立つ「草加宿」の灯篭と。河合曽良像。

 このあと、先に目指すものがなかなか見つからない。犬の散歩をしている人に聞いたら、道を1本間違えていた。


 正しい道に戻って見つけた「清水本陣跡」と「大川本陣跡」の碑。
 宝暦4年(1754年)清水家が大川家より本陣を譲り受けた。


 「藤城家」~明治初期建築の町屋造りで国登録有形文化財。


 草加宿の出口に立つ「今様草加宿碑」から通って来た道を振り返る。

 草加宿を抜けて、県道49号を進む。写真を撮り忘れたが、毛長川の水神橋で埼玉県から東京都足立区へ入る。


 電柱の「旧日光街道」の表示がずっと続いていた。狭い街並みに旧街道の面影を感じる。


 やがて、荒川の堤防の上に出る。橋は国道4号に架かる千住新橋。ここから荒川区になる。


 千住新橋の上からスカイツリータワーが見えた。

千住宿~日本橋
〈千住宿〉
・人口9956人、家数2370軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒
・芭蕉の「奥の細道」の旅は千住大橋の船着場から始まった


 国道4号から分かれて堤防の上を少し進み、旧街道へ入る。昔ながらの雰囲気を残す「宿場通り商店街」。


 伝馬屋敷の面影を残している「横山家住宅」~地漉き紙問屋であった。


 その向かいに建つ「千住絵馬屋吉田家」~絵馬を初め地口行灯や凧等を描いてきた際物問屋。


 「千住宿本陣跡」の説明板


 「千住の一里塚碑」~日本橋より2里目。


 街道沿いに当時の商家の名前や屋号が設置されている。



 隅田川に架かる千住大橋の手前にある「奥の細道矢立始めの地碑」
 芭蕉は深川から舟で千住に着き、「奥の細道」へ旅立った。その際に矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目は涙」を詠んだ。


 隅田川に架かる千住大橋。文録3年(1594年)隅田川に最初に架けられた橋。
 
 この橋を渡った先の交差点で、間違って別の道へ進んだ。途中でお巡りさんに聞いて戻ったが、2kmほど無駄足を踏んだ。


 「小塚原刑場跡」~処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂っていたという。
 「首切り地蔵」は寛保元年(1741年)刑死者供養のために造立されたもの。

 このあとも、浅草雷門への道も間違って、遠回りをしてしまった。


 お馴染みの「浅草寺雷門」~すごい人出だった。外国人も多く目についた。


 神田川に浮かぶ屋形船。ここまで来ると日本橋は近い。ラストスパートを掛けたくても、人が多くて無理。


 13:30、日本橋到着。これで、奥州街道と日光街道のゴールとなる。


 日本橋袂に設置されている「日本国道路元標」~「日本の道路はすべて日本橋に通じる」と言われている。

 これまでの中山道と東海道は、ここからスタートとしたが、ゴールするのは、今回が最初で最後であろう。


 ゴールしてすぐに日本橋袂の手打ちそば屋「天松」で、おろしそばを食べた。これがまた美味しかった。


 連泊となる東京駅前ベイホテルへ。チェックインは4時からなので、休憩室でブログを打つ。

 このあと、洗濯をして、明日以降の甲州街道歩きの下準備をする予定。


 この8日間の歩数計。これは宿から宿までの歩数。


 夕食はホテル向かいの中華屋さんで。メンマの和え物と五目チャーハン。


日光街道歩き旅〈4日目〉16幸手宿~20草加宿(32.1km)7時間45分

2019年11月07日 | 登山・旅行
 今日も後天に恵まれたが、朝はそれほど冷えなかった。
 宿は街道の近くなので、リュックを預かってもらった。5:41の電車に乗って、幸手駅まで移動。
 今日は少し早かったが、明日に約20kmを残して、草加宿の入口をゴールとした。

幸手宿~杉戸宿

 6:00、昨日のゴールの幸手駅前交差点をスタート。


 日の出はすでに6時を超えていた。

 国道4号をしばらく歩き、県道373号へ入ると、すぐに杉戸宿へと入っていく。

杉戸宿~粕壁宿
〈杉戸宿〉
・人口1663人、家数365軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒
・日光街道が定められてから付近の民家を集めて宿を開いたところ
・一面に水田があり良質のもち米がとれ、将軍家の膳には必ずこの地のものを用いたと言われる


 宿場へ入っていくと、宿場時代の案内板があった。


 「長瀬本陣跡」~本陣門を残している。

ここには、多くの旧家や商家が残っていた。

 左上・「渡辺勘左衛門邸」~豪壮な家屋と蔵を残している。質屋業だった。
 右上・不明
 左下・不明
 右下・「関口酒造」~創業文政5年(1822年)


 本陣跡前から市街地を写す。


 宿場の出口付近に復元されていた「高札場所」

 このあとのコンビニのイートインでで簡単な朝食を摂る。


 杉戸宿を出て、県道373号を進む。一部旧道に入るが、その入口の九品寺があり、その前の道標を兼ねた庚申塔に「右江戸」「右日光」と刻まれている。天明4年(1784年)堤根の村民が建立したもの。


 国道4号に出てしばらく進み、今度は県道313号に入る。


 「小渕の一里塚跡碑」~日本橋より9里目。
 そばに天保3年(1832年)建立の庚申塔がある。


 大落石古利根川に架かる新町橋を渡ると粕壁宿に入っていく。
 当時は長さ6間、幅3間の板橋だった。

 粕壁宿の入口近くの旅館に預けたリュックを取りに寄った。

粕壁宿~越谷宿
〈粕壁宿〉
・人口3701人、家数773軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒
・粕壁はその昔、春日部氏という武将がいたことから発したものと分かり、昭和19年に春日部に改められた
・宿場の東側に古利根川が流れており鎌倉・室町時代には船の発着場があった

 この宿場は、宿場時代の標識が充実している。

 「日光道中粕壁宿 高札場跡・浜島家土蔵」の標柱


 「永島庄兵衛商店」~慶長年間(1596~1615年)創業の米問屋。屋根に鍾馗像をのせている。


 「田村荒物店」


 「日光道中粕壁宿 本陣跡」の標柱と中心街を写す。

 粕壁宿を出ると、再び国道4号の長い歩きが続く。


 やがて、県道325号を進む。国道歩きより静かで、街並みも古さを感じる。

越谷宿~草加宿
〈越谷宿〉
・人口4603人、家数1005軒、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒
・現在は越谷と表記するが、以前は越ヶ谷と「ヶ」を入れて表記していた
・街道筋であったことを解説するものが一切ないのはもったいないと思う


 越谷宿へ入っていくが、明治7年の火事で宿並みは焼けてしまったらしく、歴史を感じる建物がない。
 この辺りが本陣や脇本陣があったところである。


 しかし、元荒川に架かる大橋を渡ると、景観は一変して、蔵を持った旧家や商家が多くなる。火事は川から延焼しなかったらしい。


 越谷宿を抜けて県道49号を進む。途中のすき家で、大盛りの牛丼ランチを食べた。


 「清蔵院」の山門の龍は左甚五郎の作と伝えられるが、夜な夜な抜け出して悪さをするので、金網で覆われたという。


 「蒲生の一里塚」~東塚を残しているが、塚の上に植えられたこれだけ大きな榎を見るのは、これまでの街道歩きで初めてである。
 愛宕社が祀られ、塚下には地蔵尊が並ぶ。塚の前に旧道痕跡がある。日本橋から5里目。


 「蒲生大橋」の横に掲げられた高浜虚子の句。このあと、右の川岸の道を進む。


 「奥の細道の壁画」~草加宿に着いた芭蕉と曽良の姿が描かれている。


 「芭蕉の句碑」~この辺りは草加松原と言われ、昔から松並木があったという。今も復元されて公園のようになっている。


 13:45今日のゴール、草加松原駅入口の百代橋。

 あと日本橋まで20kmほどで、宿場は草加宿と千住宿を残すだけである。
 草加宿の中心部は明日の楽しみに取っておくためにも、時間的にもやや早いが、ここをゴールとした。

 東武鉄道の草加松原駅から上野で銀座線に乗り換えて日本橋まで移動。
 予約しておいたカプセルホテル・東京駅前ベイホテル(4000円)にチェックイン。 
 予約はしてなかったが連泊をお願いしたら、5800円だという。じゃらんで申し込もうとしたら、5700円だった。
 今日の分の予約は事前たったから安かったのだろう。100円しか違わないので直接申込みにした。
 東京はカプセルホテルまで高い。おまけに大浴場もない。シャワーだけ。
 実は、中山道と東海道の時に利用したホテルと勘違いして申し込んでしまったらしい。
 
 早く着いたので、19時前にブログアップ完了。これから外に出て夕食タイム。昼に大盛りの牛丼を食べたのに、腹がグーグー鳴っている。

 
 食費は1日2000円と決めているが、昨夜の分と合わせて、ちょっと豪華に。久しぶりに落ち着いて夕食を食べた。


日光街道歩き旅〈3日目〉10小山宿~16幸手宿(35.4km)9時間00分

2019年11月06日 | 登山・旅行
 今朝も快晴の天候に恵まれたが、朝は寒かった。陽が高くなるに連れて、気持ちの良い暖かさになった。

 今日は、思いがけない出合いがあった。野木宿へ入る手前の信号で声を掛けている人がいた。こんなところで誰かな?と思って信号を渡った。
 なんと、一昨年の大千軒岳の登山口で一緒になり、最後まで同行したYaさんだった。野木町在住とのこと。
 ブログを見て、今日はここを通るはずと待っていて下さったそうだ。びっくりである。差し入れもいただいて、感謝・感激、雨あられ。

 昨日は、スタートが遅く距離も長いので、最初から高速ウォークだったが、今日はスタートが速いし距離も短めなので、最初から中速ウォークだった。
 結局、昨日とほぼ同じ時間なのに歩いた距離は6kmほども短かった。
 これまでの経験からも、途中でペースを上げるのは難しいことがわかった。
 それでも、変更した予定の幸手宿まで歩くことができた。
 
小山宿~間々田宿
〈小山宿〉
・人口1392人、家数423軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒
・田原藤太秀郷が平将門を追討するために東国に下りここに城を築いた伝承がある
・秀郷の子孫である小山氏が城を守り続け、その後は北条氏の持城となった


 6:10、昨日のゴールの駅前交差点をスタート。

 すぐに、「若松脇本陣跡」を通過。唐破風の玄関を残している。「明治天皇行在所」碑も立っている。
 まもなく合流する、朝のラッシュ気味の国道4号をひたすら歩いて、次の間々田宿を目指す。


 明治25年創業の「西堀酒造」~酒蔵は国登録有形文化財に指定されている。
 やがて、間々田宿へと入っていく。

間々田宿~野木宿
〈間々田宿〉
・人口947人、家数175軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒
・宿内は日光側を上町と呼び、中町、下町と続いていた
・芭蕉は二日目の夜にこの宿に泊まったのだが場所は定かではない


 間々田本陣跡と問屋跡の説明板がその場所に設置されていた。


 本陣跡の前から市街地の様子を写す。


 間々田宿の外れに建つ「小川家住宅」~明治末期の建築で、国登録有形文化財」に指定され、公開もされている。
 当時は「車屋」の屋号で肥料業を営んでいた。


 さらに、国道4号を進んで行くと、「乙女の一里塚」があった。
 榎の大木の根元に鳥居と石灯篭があり、石祠が祭られている。江戸から17里目。


 その先の「正八幡宮」に寄ろうとして、信号待ちをしていたら、向かい側から声掛ける方が冒頭で記したYaさんだった。
 やはり日本三百名山巡りをされている方で、あと残りが北海道のいくつかと九州の山だそうだ。
 そんな話を10分ほどして失礼した。画像の下はいただいた差し入れの地元のお菓子。

 なお、この神社に寄りたかったのは、源頼義・義家親子が「前九年の役」凱旋の折りに勧請して友沼村の総鎮守になったここと、
日光社参の将軍もここで休んでいるという歴史があったからだ。

 やがて、野木宿へと入っていく。
 
野木宿~古河宿
〈野木宿〉
・人口527人、家数126軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・野木神社の周りの村がやがて街道側に移住して野木宿となる
・小さな宿場だったので通行量が増大した後期には助郷村23ヶ村が割り当てられた


 「熊倉脇本陣跡」~現「熊倉家」。


 「熊倉本陣本陣跡」~こちらも現「熊倉家」。塀の前に「野木宿の説明板」が設置されている。


 両家の前から宿場の中心地を写す。


 宿場の外れにある「野木神社」~Yaさんの勧めもあり、300mほど奥だが寄ってみた。
 日露戦争開戦2年前に乃木将軍が同名のこの神社に参拝し、「指揮用サーベル」奉納しているという。
 境内には、樹齢700年の欅や芭蕉の句碑もある。


 野木神社から国道に戻ってまもなく、栃木県から茨城県に入る。昔の下野国から下総国へとなる。
 まもなくして、国道4号と別れ、県道265号の歩きとなり、古河宿へと入っていく。

古河宿~中田宿
〈古河(こが)宿〉
・人口3865人、家数1105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒
・足利成氏が鎌倉より移り来て小川の地名を古河に改めた(1455年)
・古河城は無く、城跡には歴史博物館や文学館がある

 
 宿場の北口に立つ宿場名を入れた灯篭。南口にも同じものがたっていた。
 ここは、宿場だったことを観光の目玉にしているようで、いろいろな取り組みがなされていた。

 県道から別れる「よこまち柳通り」は昔ながらの商店街だった。そこを抜けて、再び国道に出る。


 国道の両側にも宿場名を入れた灯篭が立ち、史跡の説明を記していた。


 右から「史蹟古河城下本陣跡址」碑、「史蹟古河城下高札場址」碑、文久元年(1861年)建立の道標「左日光道、右江戸道」と刻まれている。

 古河宿を抜けて、あとは、見るものもなく、ひたすら中田宿を目指す。

中田宿~栗林宿
〈中田宿〉
・人口403人、家数69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒
・人馬の継立て業務を半月交代で栗橋宿と行っていた合宿である
・利根川の河原にあった宿場であり、利根川改修工事で元の宿場は跡形もなくなった

 この宿場は、特に宿場の面影を残すものは見当たらなかった。


 利根川の堤防手前の曲がり角に「房川渡しと中田関所跡」の説明があっただけ。


 堤防の上から、抜けてきた中田宿の通りを写す。


 堤防から、利根川に架かる利根川橋を眺める。渡るのも長かった。
 当時は「舟渡し」だったが、将軍の時は51艘の舟を連ねた舟橋が架橋されたという。
 橋を渡ると武蔵国(埼玉県)栗橋宿となる。

栗橋宿~幸手宿
〈栗橋宿〉
・人口1741人、家数404軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・利根川の船渡し(房川渡し)の町として賑わった宿場であった
・関東の北側に対する警備の要所として関所がもうけられていた


 左側の家が「池田本陣跡」


 その先には「栗橋宿」のフラッグが飾られていた。


 栗橋宿をぬけると、国道4号の横に旧道が5kmほども続いていた。


 その途中にあった「小右衛門の一里塚」~西塚のみ残存。塚の上に弁財天堂が祭られている。

 長い旧道歩きが終わり、県道56号を進むと、今日のゴールの幸手宿へと入っていく。

幸手宿
〈幸手(さって)宿〉
・人口3937人、家数962軒、本陣1軒、旅籠27軒
・日光街道と御成道との合流地点なので賑わった宿であった
・雷電の神体を田の中の社に祭っていたことから田宮という地名だったが、元禄のころ幸手に改名した


 幸手宿の入口に設置されている「幸手の一里塚」の説明碑~江戸から12里目。

 
 「本陣知久屋跡」の現「うなぎ義語家」(左)から幸手宿の通りを眺める。


 現「ポケットパーク」が「問屋跡」である。


 ポケットパークに設置されている問屋跡の説明(上)と幸手宿の昔の絵と説明。


 15:05、今日のゴール、幸手駅前通り。
 ここから東武鉄道の電車に乗り、春日部の藤屋旅館(4700円)へ。
 道路を挟んで2軒もある、新しくてきれいな旅館だった。

 今日は宿場の数が多かったので、写真も書くことも多くて大変だった。
 早めにゴールしたはずなのに、ブログアップに4時間ほども掛かってしまった。
 ガイドブックがあるお陰で見落としも少ないが、あまりにも見所が多く、取り上げることも多くなり、どうしても長くなってしまう。
 もっとはしょるか精選して、遊びの部分や旅の楽しみなども書きたいのたが…。


 今日の昼食と夕食
 朝は昨夜遅くにたくさん食べたので、食べないでスタート。
 途中でおやつとして、Yaさんからの差し入れのお菓子を食べた。
 昼食は大盛りのうどんと唐揚げのセット。
 夕食は差し入れのお菓子を食べて、ブログアップ後は外出する気もなくなり、行動・非常食とビール。


 

日光街道歩き旅〈2日目〉4徳次郎宿~10小山宿(41.1km)9時間15分

2019年11月05日 | 登山・旅行
 朝は放射冷却で5℃まで下がったが、快晴の天候に恵まれ、後半はさすがに疲れたが、今回初めて9時間超えの40km超えを記録した。

 バスで昨日のゴール地点の富里小学校前まで戻る。6:50スタート。


 この辺りから宇都宮市街地までは、ほとんどこのような道路である。
 真ん中の低い所を車が走り、その両側の高い所に並木を植え、その外側に広い歩道があり、自転車も走れるようになっている。
 安心して歩けるが、横から道路が合流するときには下ってまた登るので疲れる。


 「高谷林の一里塚」~江戸から29里目。道路幅が広いので、拡張したときに移設したものであろう。


 歩いていて?どこかで見たことのある建物だと思ったら、一昨日Ka女史親子にご馳走になった料亭「月山」だった。


 宇都宮市街地が近くなってきたら、城下町特有の桝形の痕跡が残っていた。ここが宿場の入口だったようだ。


 奥州街道との合流地点手前に建っている蔵造りの商家。逆光が残念。

宇都宮宿~雀宮宿
(※宇都宮宿については、昨日記載してあるので省略)


 奥州街道と合流し、江戸へ向かう日光街道(奥州道中と重複)に入る。
 便宜上、このあとも日光街道としているが、自分としては、ここから江戸までは奥州街道の続きである。ちょっと日光に寄ったという意識である。



 やがて、国道194号から国道4号に入る。今回の旅で国道4号は初めてである。

 
 雀宮宿に近くなったところで、国道から離れて旧道に入る。
 わずか700mほどだったが、このような当時のままの道幅で旧道として残っているのはうれしいものだ。


 再び国道に出たら、「東京から100km」の標識があった。
 「あと100kmもあるのか?」と思うか、「あと100kmで奥州街道のゴールか?」と思うかは微妙だが、いずれにしても感慨深いものがある。


雀宮宿~石橋宿
〈雀宮宿〉
・人口268人、家数72軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒
・日光街道が開けてから街道に移り住み鎮守の雀宮神社があることから雀宮宿となる
・日光側より上、中、下の三町で構成され中町に本陣が置かれていた

 この宿場は、本陣跡と脇本陣跡の表示があり、その建物の

 「雀宮宿脇本陣跡」~門構えや式台は当時の物が残っている。表札の所に「雀宮宿仮本陣」の札が掛けられていた。


 「雀宮宿本陣跡」の碑。

 雀宮宿を抜けて、ひたすら真っ直ぐな国道歩きが続く。
 昼食を摂ろう思っていたそば屋が定休日だった。仕方なく。2日続けてラーメンとなった。
 横浜家系ラーメンを初めて食べた。なかなか美味しかった。函館にも最近オープンしたようなので、帰ったら食べに行かなくちゃ。

石橋宿~小金井宿
〈石橋宿〉
・人口414人、家数79軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒
・上町、下町、下石橋と町が続き当時は繁盛していたが今は車の往来が激しいのみ
・宿役を努めていた伊沢諸氏はその昔多功城没落時に土着し百姓となった旧家である

 
「伊沢家本陣跡」~現「伊沢家茶舗」。代々「新右衛門」を襲名し、名主を兼ねた。


「伊沢家脇本陣跡」~現「伊沢写真館」。代々「八右衛門」を名乗った。


 雀宮宿の中心地


雀宮宿を抜けて、国道4号を進むと、再び旧道に入る。
ここは「笹原旧道」という名前が付いていた。2km以上の直線道だった。


 出口に建つ「大越家の蔵」。この辺りで立派な屋敷の表札を見ると大越姓が多かった。
 国道へ抜けると、小金井宿に宿へと入っていく。

小金井宿~新田宿
〈小金井宿〉
・人口767人、家数165軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒
・宿の西にあった池から黄金がとれたの伝えから小金井村と言われ宿名となった
・宿駅となったのは遅く(1681年)、宿内は日光側を上として上中下の3構成


 宿場の中心地手前にに建つ、崩れかかった幕末の建築の2軒の商家。


 「大越本陣跡」~本陣門を残している。


 「領主陣屋跡」~現「橘屋菅井製菓」


 「小金井の一里塚」~国道からすぐの所に当時のままの姿で残っている。当時の道幅を知ることができる。

新田宿~小山宿
〈新田宿〉
・人口244人、家数59軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒
・その昔は芋柄新田と言われていたが宿駅となり新田宿となった
・宿の入口は日光山、赤城山などが見え眺望よしと言われていたが今は眺望悪し


 新田宿は宿場の面影を大切にしているようで、国道の両側に宿場の名を刻んだ石造りの灯篭を立てている。それには「日光街道」と刻んである(左)。
 また、「奥州街道」と書かれた標識もあった(右)。


 「幕府代官陣屋跡」の標識だけが設置されていた。

 「青木本陣跡」~本陣門(四脚門)を残している。


 宿場の中心地を抜けると、交差点の国道の横から斜めに旧道が続いていた。


 道幅の狭い旧道。その先は東北新幹線と東北本線の横を進む。
 やがて出たところは、国道4号ではなく、県道265号を小山宿へ向かう。


 「喜沢の一里塚」~西塚は原型を留めているが、東塚は痕跡のみ。


 やがて、小山駅前の小山宿の中心地へ入って行く。
 ホテルのそばに食堂もコンビニも無さそうなので、コンビニで弁当とサラダとビールを買う。
 16:05、ホテルの入口の交差点を今日のゴールとして、近くのビジネス・グランドシティに入った。
 ビジネスホテルで3000円も珍しい。確かに古いが、寝るのには申し分ない。助かる。


日光街道歩き旅〈1日目〉東照宮~1鉢石宿~徳次郎宿(30km)7時間25 分

2019年11月04日 | 登山・旅行
    

 いよいよ五街道の1つ日光街道歩き旅の始まりである。
 奥州街道も「北から歩く人は非常に珍しい」とあちこちで言われた。
 ここも、東照宮から江戸を目指すことになる。これもかなり珍しいはずだ。
 日光街道はそもそも東照宮詣でで歩かれることが目的の道だからである。日光街道については、10/30の記事を参照されたい。
 しかし、宇都宮から江戸までは奥州街道と重複するので、その間は参勤交代の大名も通っている。
 
 日光街道の計画は後半の方がきつくなっているので、1日増やすことにして、調整しながら歩くことにした。
 今日は15時をメドに街道のバス停で切り上げて、宇都宮駅まで戻ることにした。

 JR宇都宮駅発5:57の日光行きの電車に乗った。さらにバスに乗り換えてスタート地点の東照宮まで移動。
 
 今日はこれまでで一番寒い日だった。ウィンドウブレーカーを来たままでも汗を掻かなかった。
 連泊となるホテルに不要な荷物を預けて歩くことができた。

東照宮~1鉢石宿

〈日光東照宮〉
 栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。

 日光街道は、鉢石宿の日光橋が終点だが、せっかくなので、東照宮をスタート地点とした。



 7:20、東照宮は過去に2度訪れていて、中も拝観しているし、まだ営業前の時間なので、今回は写真だけ撮ってスタート。


「神橋(しんきょう)」
 奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから。
 もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用された。橋手前に「下乗石」があり、将軍もそこで駕籠から降りて、徒歩で日光山内へ入った。
 一般の通行はすぐ下流に日光橋を架けて通行することとなった。
 山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられている。

鉢石宿~今市宿
〈鉢石宿〉
・人口985人、家数227軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠19軒
※この記録は、このあとも天保14年(1843年)の日光道中宿村大概帳による
・芝田善平の宅地に鉢を伏せたような石があることから鉢石村と呼ばれていた
・戊辰戦争の時には官軍の板垣退助と幕府軍の大鳥圭介が話し合って日光を戦火から守った


 日光街道の終点となる日光橋を渡ると、左側に「板垣退助像」が立っている。
 総督府参謀の板垣退助は日光廟に立て籠った大鳥圭介等の旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守った。その功績を讃える像なのであろう。
 大鳥圭介らも旧幕府軍の象徴でもある東照宮は守りたかったので、説得に応じたそうだ。


 その隣に建つ大きな土産店は国指定の重要有形文化財である。 


 鉢石宿の地名の由来となっている「鉢を伏せたような石」


 土産店が並ぶ中を下っていくと、宿場の中心地となる。
 右の現「さんフィールド」は、「高野本陣跡」


 右の現「手打ちそば魚要」は、「入江本陣跡」


 町並みが切れると、日光街道の象徴とも言える「松並木街道」が続く。このように国道119号として車が通っているのは初めのうちだけである。


このような古道然として残っているところもある。


 しかし、国道119号が並走する感じで、このような旧道として残っているところがほとんどである。
 この画像は石畳だが、未舗装のところや舗装されているところも多い。
 途中の集落や今市宿や大沢宿で切れることはあるが、延々と15km以上も続く。
 初めのうちは感激していたが、だんだん飽きて来て、途切れるとホッとするくらいだった。

今市宿~大沢宿

〈今市宿〉
・人口1122人、家数236軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒
・日光道中、例幣使街道、会津西街道の合流地点であり玄関口として賑わってきた
・今村は宿駅となってから賑わい市が立つようになると今市と改めた。


 この現「今市宿緑ひろば」が「脇本陣跡」


 今市宿の中心地だった現市街地


 この道の駅「日光街道ニコニコ本陣」の向かい側に「高橋本陣跡」があった。
 後ろの建物は「船村徹記念館」~出身は隣の塩谷町だが、旧制の今市中学校に通ったことが縁らしい。


 今市宿を抜けると、再び杉並木街道となる。


 杉並木の中にある「七本桜の一里塚」~両塚が現存する。塚には杉を植えるのがこの街道の特色。江戸から33里目


 そのすぐ先にある「さくら杉」~杉の幹の1.5mほどから山桜が寄生している珍しい現象。


 森友の集落で杉並木は切れるが、再び続く。


 「水無の一里塚」~江戸から32里目。「特別史跡、特別記念物」に指定されている。


 杉並木を抜けると大沢宿へと入っていく。

大沢宿~徳次郎宿

〈大沢宿〉
・人口278人、家数43軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒
・1617年日光御鎮座の後、街道が開け大沢村改め大沢宿となる


 大沢宿の中心地の交差点。この先を左に入っていく。ガイドブックにも本陣跡にも脇本陣跡にも触れていない。


 再び、杉並木に入っていく。結果的にここが最後だった。


 杉並木の最後に立っている「並木寄進碑」
 徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えた武州川越藩主松平正綱が寛永2年(1625年)から約20年の歳月を掛けて杉並木を植栽し、家康33回忌に東照宮に寄進した…と記されている。
 この杉並木の壮大な歴史を初めて知ることができた。


 「石那田堰」~二宮尊徳の指導で堰が築かれ、用水が引かれた。
 右に二宮金次郎像、石祠、記念碑がある。


 「石那田の一里塚」~北塚を残している。江戸から30里目。
 やがて、徳次郎宿へと入っていく。

徳次郎宿

〈徳次郎(とくじら)宿〉
・人口653人、家数168軒、本陣2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒、旅籠72軒
・下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎の三宿を合わせて徳次郎宿といわれる
・日光・久次郎村より移住してきたことから外久次郎村、または遠久次郎村といわれていた
・新田徳次郎なる者が居住していたことから徳次郎の文字となる
・当初は上徳次郎村だけだったが、中徳次郎、下徳次郎、その他の村ができ徳次郎六郷となる


 上徳次郎に建つ、すべてが大谷石で造られている屋敷。


 中徳次郎の交差点。ガイドブックにもこの徳次郎宿の本陣跡も脇本陣跡も触れられていない。


 14:45、今日のゴールとした下徳次郎のバス停「宮里小学校前」。
 ここが徳次郎宿の南口とのことで、町並みを振り返る。

 5分もしないうちに宇都宮駅行きのバスがやって来た。
 連泊となるホテルに戻り、先ずは同じ建物の中にあるコインランドリーで洗濯をしながら、風呂に入り、ブログを打つ。

 昨夜の夕食と今日の朝食は、昨日Ka女史からの差し入れで十分間に合った。
 昼食は途中で野菜ラーメンを食べた。夕食はこれから宇都宮餃子を食べに出る。
 一番食べたかったもちもち感が売りの餃天堂駅前店は、夜の寒空に20以上が並んでいたのて、諦めて隣の典満餃子に入った。
 
 左上・揚げ餃子と生ビール、右上・焼き餃子、左下・ネギまぎれ揚げ餃子、右下・水餃子。
 一通りたべて、さらに焼き餃子一皿追加で仕上げ。十分美味しかった。考えてみたら30個も食べたことになる。
 しかし。外に出たら、餃天堂にはまだ20人以上が並んでいた。きっと美味しいんだろう、ちょっと心残り。


奥州街道(奥州道中)歩き旅〈3日目〉91喜連川宿~94宇都宮宿(28km)6時間00分

2019年11月03日 | 登山・旅行
 昨日のブログは、早朝には画像のアップロードもできて、5時過ぎに完成させることができた。

 昨夜に栃木県佐野市在住の岳友Ka女史から電話があり、「どこかでお昼をご一緒したい」とのこと。
 これまでの歩き旅でも、何度もわざわざ駆け付けて差し入れ等をいただいている。
 できればゴール後にしたかったので、白沢宿でこちらから電話を入れて、時間と場所を決めることにした。
 結局、13時に東武宇都宮駅で待ち合わせることになった。

 宿の朝食は6時に用意していただいたので、6:20にスタートすることができた。
 今日は曇りがちの天気で、暑くもなく歩きやすかった。距離も短いので高速ウォーキングに徹した。
 ちょうど6時間で、宇都宮宿の日光街道との分岐まで歩くことができ、一応の奥州道中の区切りとすることができた。

喜連川宿~氏家宿

 
 宿を出て、街道に戻る途中で目にした「寒竹囲いの家並み」があったた。
 6代藩主喜連川茂氏は傷みやすい板塀から周辺に自生する寒竹の垣根を奨励した名残である。

 昨日のゴールとなった荒川に架かる連城橋を渡って、次の氏家宿を目指した。
 橋を渡って堤防の上の道を少し上流に進む。


 堤防から南に延びる狭い街道の面影を残す家並みの道を進む。


 その先は、車道から別れて、山の中へと入っていく。そこには、「奥州街道(古道)」の標識が立っていた。
 600mほどだが、簡易舗装のされている古道歩きを楽しんだ。


 「弥五郎坂」を下る。江戸からはずっと平地で、ここが最初の上り坂だったようだ。


 「勝田の一里塚」~「坂本宅」の敷地内に南塚が現存。江戸より32里目。
 このあとは、しばらく特に見るべきものもない田園地帯の国道293号を進む。

氏家宿~白沢宿

〈氏家宿〉
・人口879人、家数235軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒
・宇都宮氏没落により家臣の平石氏、桶川氏などが氏家に住みつき後に宿を形成した
・江戸と奥州の物資の集散地として、また水戸から海魚も届き宿として繁昌した


宿場へ入っていくと、一番先に目につく「瀧澤家住宅」~紡績業で材を成した旧家。明治天皇の休憩所にもなった。


 宿場の中心地。両側に脇本陣が向かい合って建っていたという。
 左の現村上自転車商会は「村上脇本陣跡」、その向かいの現鳥山信用金庫は「石井脇本陣跡」


 現平石歯科は「平石本陣跡」~当時の氏家村の名主を兼ねた。


 宿場を抜けた大谷街道との追分道標(左から2本目)には、「右江戸海道 左水戸かさま下だて 下づま」と刻まれている。
 左端の馬頭観世音は天保9年(1839年)建立。ここには氏家宿の南木戸があり、番屋があった。


 やがて、鬼怒川に架かる阿久津大橋を渡る。橋の500mほど下流に渡し場があった。
 この度の台風19号の大雨で川幅いっぱいに流れた痕跡が生々しい。


 橋を渡り、堤防の道を進みられる、川の方へ下りていく砂利道を進むと、河畔に「鬼怒川の渡し跡」の標識あり。


 再び堤防の道を進み、右へ続く道を進む。


 「白沢の一里塚」~元々は渡船場の近くにあったが、度々の洪水で流されたので、ここに移設し保存されている。
 
 この先で左折すると、白沢宿へと入っていく。

白沢宿~宇都宮宿
 
〈白沢宿〉
・人口369人、家数71軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒
・会津の上杉を討つ徳川勢先陣の鬼怒川渡河に協力した功績から宿駅が許された


 白沢宿へ入っていくと、両側に用水路が流れ、所々に小さな水車が回っているきれいな町並みである。


 左の現白沢駐在所は「番所跡」で、右奥の白い門柱の立つ家は「宇賀地本陣跡」
 本陣跡のお宅には秋田藩、盛岡藩、大田原藩の関札等を残しているという。


 「住吉屋跡」~蔵一棟は明治28年の建築。


 非常に珍しい江戸時代の「公衆便所跡」。地中の構造は当時のもの。田畑の肥料にした。

 このあとは、ほぼまっすぐな白沢街道と呼ばれる国道125号をひたすら歩く。


 途中の道ばたで初めて目にしたカラスウリ

 宇都宮市街地に近づくに連れて、近代的な建物が増え、交通量も多くなる。


 近代的な建物の並びの中にひときわ目立つ「岩淵家屋敷門」。豪農であったらしい。


 JR宇都宮駅前角のビルの谷間に場違いな感じで?残る「旧篠原家住宅」。
 篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営んだ。
 嘉永4年(1851年)築の石蔵や明治28年(1895年)築の店舗は国指定重要文化財。


 やがて、大きな通りから狭いオリオン通りというアーケード街の中を通る。道幅に街道の面影を感じる。

宇都宮宿
・人口6457人、家数1219軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
・下野国第一の都会と言われていた宿場があり、不動城と言われた宇都宮城かあった
・二荒山神社が下野国「一の宮」と言われていたことから訛って宇都宮となった説などがある


 やがて、メインストリートに出る。この辺りが宇都宮宿の中心地だったようだ。
 宿場の面影は微塵もないが、歩道に江戸時代の地名や町並みの標識があり、当時の絵が描かれている。


 「本陣跡」の標識。向かいの道が日光街道となる。
 この辺りに建坪192坪強で、門構えの玄関付きであったという。
 問屋を兼ねた貫目改所が置かれたらしい。
 今でも庭木の大イチョウを残しているらしいが、あとで知ったので気付かなかった。

 12:20、ここを奥州道中の仮のゴールとし、Ka女史との待ち合わせ場所の東武宇都宮駅西口へ行く。
 運転手兼務で息子さんも一緒だった。息子さんとも会うのはこれが3回目である。


 車で移動して、有名な豆腐専門料亭「月山」へ案内していただいた。
 今まで食べたことのない豪華な「湯葉と豆腐のコース料理」をご馳走になった。恐縮至極。






 その後、是非との勧めで、ブラタモリで取り上げられていた大谷石(おおやいし)の採掘場とそこに立つ巨体な平和観音像へ案内していただいた。
 今日の歩き旅の道中にも白い石の蔵や建物が多く目についたが、すべてこの大谷石だったことが判明。

 このあとは、今日のカプセルホテル・パークプラザ宇都宮まで送っていただいた。お土産もたくさんいただいた。
 
 今日の宿は明日も連泊するが、2泊で5,810円だった。
 明日は、電車で日光へ移動して、日光街道を宇都宮まで歩く予定だが、どうも無理な感じた。
 途中から宇都宮まで移動できる交通手段をこれから探さなくてはならない。