映画『子どもたちをよろしく』。
文部科学省で官僚として現実と向き合ってきた、寺脇研、前川喜平のお二人が、いま在野の企画・統括プロデューサーとして、映画制作に関わった。
彼らの、覚悟というか、決意と呼ぶべきものが、ここにある。
私は、川瀬陽太演じる駄目な父親を、とても見ていられなかった。あれは、私なのかもしれないからだ。
自分でわかっていても愚かなことをしてしまう人物を、説得力を持って描くのは、難しい。
そして子どもたちは、親の都合、大人の事情など、とっくに見抜いている。
『青春の殺人者』以来のネガなリアリズムの暴走は、生々しさを湛えた若き出演者たちによって支えられている。
この映画の公式HPで、以上のように書いたが、これは必ずしも上映の活性化に貢献しないコメントでもあるかもしれないので、申し訳ない。
その「リアリズム」を描くことは、ほぼ不可能に近いからだ。一人一人、違う。そこには、「普遍」は存在しない。
だが、わかる人にはわかるのだ、と思っている。
この映画に、いわゆる「学園もの」的なシーンは、いっさい登場しない。
子どもたちはいきなり、「社会の一員」として、描かれている。
じつはそれが「現実」である。
もちろんそれだけともいえない。
とぐろを巻く「現実」の有様である。
多くの「戦時民主教育」の中で育った大人たちは、現実が変化してしまっていることを、認めたくないのかもしれない。
だが、学校は、きちんと「社会」として晒されている場所なのである。
実は、ずっと、昔から。
http://kodomoyoroshiku.com
文部科学省で官僚として現実と向き合ってきた、寺脇研、前川喜平のお二人が、いま在野の企画・統括プロデューサーとして、映画制作に関わった。
彼らの、覚悟というか、決意と呼ぶべきものが、ここにある。
私は、川瀬陽太演じる駄目な父親を、とても見ていられなかった。あれは、私なのかもしれないからだ。
自分でわかっていても愚かなことをしてしまう人物を、説得力を持って描くのは、難しい。
そして子どもたちは、親の都合、大人の事情など、とっくに見抜いている。
『青春の殺人者』以来のネガなリアリズムの暴走は、生々しさを湛えた若き出演者たちによって支えられている。
この映画の公式HPで、以上のように書いたが、これは必ずしも上映の活性化に貢献しないコメントでもあるかもしれないので、申し訳ない。
その「リアリズム」を描くことは、ほぼ不可能に近いからだ。一人一人、違う。そこには、「普遍」は存在しない。
だが、わかる人にはわかるのだ、と思っている。
この映画に、いわゆる「学園もの」的なシーンは、いっさい登場しない。
子どもたちはいきなり、「社会の一員」として、描かれている。
じつはそれが「現実」である。
もちろんそれだけともいえない。
とぐろを巻く「現実」の有様である。
多くの「戦時民主教育」の中で育った大人たちは、現実が変化してしまっていることを、認めたくないのかもしれない。
だが、学校は、きちんと「社会」として晒されている場所なのである。
実は、ずっと、昔から。
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