小松政夫さんとキム・ギドク監督の訃報が同時に飛び込んでくるなんて。
最近周りに亡くなられる方が多いのだが、とても複雑である。
小松政夫さんは「シラケ鳥」世代である私にとっては、もう私たちじたいの現実の時間が一巡りしてしまったのだと感じさせられる。
友人が小松政夫さんの最後の舞台に関わっていて、とても羨ましく思っていたところだった。
キム・ギドク監督は、アメリカに何週間がいたとき、2003年だったか、『春夏秋冬そして春』をニューヨークのアート系の映画館で観て、同世代の監督がこういうものを撮るのか、と、驚いた。壮大さと偏屈さが混じる個性の強さは歴然としていて、監督自身が出演してラスト辺りそうとうナルシスティックに画面に収まっていて、ちょっと怖さも感じたものだ。
彼のハラスメント問題が取り沙汰されていて、コロナによる死というが、客死に至る事情は知らないが、本人が相当に追い詰められていたのだろうという気がしている。
昨日は新国立劇場で『ピーター&ザ・スターキャッチャー』初日を観る。
トニー賞受賞作というが、これはなかなか上演が困難な作品のはずで、商業的な場では興業として難しかっただろう。それが実現できたのだから、新国立劇場の存在意義はある。
「意外性」が大切な作品だから内容はあまり触れない方がいいだろうし、いろいろ言いたいことも多いのだが、一歩間違えれば極めて差別的になる内容であり、また、私たちには西洋の人達ほどにはこの世界観のバックグラウンドがわからないはずだから、なかなか見せ方が難しいのは当然である。わざとチープに作っているはずのセットなども、感想は別れるところだろう。私はもっと高所を使うべきだと思う。他にもいろいろ言いたくなるということは、刺激的であるとも言えるのだろう。後半になってモリーとピーター・パンが魅力的に見え始めてからは、物語的に押し切れる感じになる。若いスタッフ・キャストにとっては、得がたい経験であろうし、上演そのものが教育的効果も有しているということになるのだろう。お客も若い人達が溢れていて、こんな状況の中で、活気があることはよいことだと思いたい。
久しぶりに新国立劇場まで自転車で行く。ぜんぜん遠くないではないか。昔は自転車で稽古に通っていたのだ。
コロナ禍下、満員電車を避ける気持ちにはなるが、電車内が感染の危険度がいかほどかはわからないので、それは心理的なものであると考えるしかない。
帰路、何年ぶりかで永福町のT軒でラーメンを食べる。
こちらが若くなくなっているからだろうか、さすがに量が多すぎると思う。
それにしても、こんな夜中、唸ってしまうほどに、やらなければならないことだらけである。