仕事とはいえ一日じゅう七十年前の戦争のことを辿っていると、どうにも落ち着かなくなる。子どもの頃に感じた戦争とも違う。何しろそこに出てくる人達はみんな私よりもはるかに年齢としては若いからだ。……晩飯を食いつつ「八重の桜」をぼんやり眺めていたが、もう子役の女の子がかわいらしければ第一セットは取ったも同然というNHK大河・朝ドラの黄金パターンを踏んでいて、じっさいヒロインの子ども時代の女の子が、かわいい。脚本は短いレンジでちゃんと小さい結論を出していくという、わかりやすく行く路線で、それがどういうことを言っているかは見ればわかるというくらいわかりやすいので、脚本を学ぶ人達は勉強になるはずだ。映像に凝っているといっけん見せないのも「平清盛」の評判を踏まえての「わざと」であろうし、才能のある人達が集まって作っているのであろう。ただ今後、なんだかんだいって若い者が戦争に向かうことを肯定する戦意高揚ドラマに受け取られてしまわないようにと願う。……その後テレビでは『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』をやっていたが、この映画の特撮部分とドラマ部分が噛み合わないという残念さはさておき、辛うじて描こうとしているはずの、この国が、一度破滅しないとリセットできないという、ばかばかしい子ども国家であるということ、それがまた繰り返されようとしているということを、どこまで見る人が感じてくれているだろうか。「日本的リーダーシップ」については、半藤一利氏の言を私がまるごと諒解してるわけではないが。……私は「歴史は繰り返さない」と思う。「共産党宣言」の前文を否定するという意味ではない。文意が違うからだ。「歴史は繰り返さない」と私たち生徒にしつこく言ったのは、中学の時の社会科の先生である。これは忘れていなくて、その後今まで、ずっとずっと思い出している。もちろん私が勝手な解釈に意訳しているのだろうが。
あと、今日の出来事としては、「通販生活」の「沖縄は日本から独立したほうが幸せではないのか」という記事について。
この記事は、「だとしたら、沖縄は日本国から独立して昔の琉球に戻り、米軍基地を日本国にそっくり返してしまうほうが、よほど幸せな暮らしをつくれるのではないですか。」という、ど真ん中の一文が、まったく意味をなしていない。「だとしたら」で前後関係は何も繋がりようがない。なぜそうすれば必ず「米軍基地を日本国にそっくり返してしまう」ことができるのかの根拠がない。そもそも「独立」がなぜ「昔の琉球に戻り」と決めつけられるのか。沖縄について考えると称して、沖縄に向けて話しかけるような言い方で、ここまで幼稚な文は、そうそうお目にかかったことはない。宮城康博氏のいうように「本意がどこにあれ、ここにあるのは、オール沖縄での「県外移設」という要求への本土からの応答でしかない」、つまりこの記事は、「県外移設」について、「それはやっぱり沖縄の問題でしょ」と言い放っているに過ぎないのだ。
http://miyagi.no-blog.jp/nago/2013/01/post_e79e.html
もう一つ、情報としては知っていても、今日になって初めてきちんと見た、福島の自民党県連の広報を見て思ったこと。同じ党がその県連と齟齬があるときに、県連の方を信じて結果としてその政党を支持してしまった県民たちという現状について、考えさせられる。自民党県連は県民と「約束」してしまっているんだぞ、と思う。沖縄自民党のことはいうまでもない。しかしそれは多かれ少なかれ、じつは全国どこの県でも同様ではないのか? この「島国根性」の蔓延から、私たちはいかに逃れられるのか? どう越えていくのか? と思う。
私は沖縄の知己には何度も、沖縄はヤマトの政党と組まないで沖縄県民主体の党を本気で持ち、支持するべきではないか、と言い続けてきている。じっさいのところ、社大党のことはどう思っているのだということでもある。で、他に方法があるとすれば、どうするのだ。独立云々どころか観念的な話でさえない。できることであり、すべきことのような気がする。それがおこがましい言い方になってしまうとすれば、それは、私たちがヤマトでついに、「自分たち主体の党」を見失ってしまっているからだ。
http://jimin-fukushima.jp/_userdata/46thseisaku.pdf
あと、今日の出来事としては、「通販生活」の「沖縄は日本から独立したほうが幸せではないのか」という記事について。
この記事は、「だとしたら、沖縄は日本国から独立して昔の琉球に戻り、米軍基地を日本国にそっくり返してしまうほうが、よほど幸せな暮らしをつくれるのではないですか。」という、ど真ん中の一文が、まったく意味をなしていない。「だとしたら」で前後関係は何も繋がりようがない。なぜそうすれば必ず「米軍基地を日本国にそっくり返してしまう」ことができるのかの根拠がない。そもそも「独立」がなぜ「昔の琉球に戻り」と決めつけられるのか。沖縄について考えると称して、沖縄に向けて話しかけるような言い方で、ここまで幼稚な文は、そうそうお目にかかったことはない。宮城康博氏のいうように「本意がどこにあれ、ここにあるのは、オール沖縄での「県外移設」という要求への本土からの応答でしかない」、つまりこの記事は、「県外移設」について、「それはやっぱり沖縄の問題でしょ」と言い放っているに過ぎないのだ。
http://miyagi.no-blog.jp/nago/2013/01/post_e79e.html
もう一つ、情報としては知っていても、今日になって初めてきちんと見た、福島の自民党県連の広報を見て思ったこと。同じ党がその県連と齟齬があるときに、県連の方を信じて結果としてその政党を支持してしまった県民たちという現状について、考えさせられる。自民党県連は県民と「約束」してしまっているんだぞ、と思う。沖縄自民党のことはいうまでもない。しかしそれは多かれ少なかれ、じつは全国どこの県でも同様ではないのか? この「島国根性」の蔓延から、私たちはいかに逃れられるのか? どう越えていくのか? と思う。
私は沖縄の知己には何度も、沖縄はヤマトの政党と組まないで沖縄県民主体の党を本気で持ち、支持するべきではないか、と言い続けてきている。じっさいのところ、社大党のことはどう思っているのだということでもある。で、他に方法があるとすれば、どうするのだ。独立云々どころか観念的な話でさえない。できることであり、すべきことのような気がする。それがおこがましい言い方になってしまうとすれば、それは、私たちがヤマトでついに、「自分たち主体の党」を見失ってしまっているからだ。
http://jimin-fukushima.jp/_userdata/46thseisaku.pdf
だってそれは「沖縄県民は日本人をやめろ」というのと同義だから。