昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

花祭り。

2016-04-08 12:06:44 | 悩み

今日は、いわゆる「花祭り」である。
2500年の昔、4月8日の今日、釈尊が「天上天下唯我独尊」と産声を上げ、ルンビニの園で生まれたとされる。
今日は、どこの寺院でも、釈尊を祀った花御堂を飾り、参詣客を迎える。
そこで、病院の帰り、淡島の森厳寺に寄ってきた。
ところで、かーたんの生体組織検査の結果が一昨日の火曜日に出た。
結果は大腸癌だった。
この事実を繰り返し繰り返し反芻したこの一両日だが、淡々とした日常が淡々と過ぎていくばかりだ。
かーたんもそんなに落ち込んでいない。
しかし、事の大小はあるものの命の危機を伴うことには違いない。
縁起でもないと言われるかもしれないが、死後の世界について、キリスト教界では統一見解がない様だ。
これまで何人かの牧師から「神の国」、「復活の後」、「天国と地獄」、そして「死後の世界」についての考えを聞いたことがあるが、答えは十人十色だった。
こういう教義上の重大問題にも統一したものがないということで、他は推して知るべしだが、「天国と地獄」についてアメリカの神学者ティム・ケラー師が興味深いことを語っていた。お手元に聖書のある方はルカによる福音書16章19節から31節をお読みいただきたい。有名な金持ちと乞食のラザロの一編である。ここをひもといてケラー師は死とは、ご破算に願いましてプラマイゼロの世界だという。すなわち、プラス10で生きてきた者は死によって10を失い、マイナス10によって生きてきた者は死によって10を得るという。だから失う者にとっては死は地獄であり、得る者にとっては死は天国であるとのことだ。首肯した。
死は全く誰にでも平等にやってくる。
我々はもっと死において開き直っていいし、死を誇っていいと思う。
堂々と大往生を遂げるのも、人を救った代わりに犠牲となった尊いとみなされる死も、見苦しく「死にたくない。苦しい」とのたうった死も、死という事実には変わりはない。
どのように立派な教説を垂れても、誰にも惨めな死は訪れる。
どんな見苦しい生を送ってきても、誰もが死によって清算される。逆にどのような立派な生を送ってきても死によってご破算になる。
死は、まったく平等だ。
だから、誰もが死を誇ってよいのだ。
花祭りの日、ケラー師の講演を聞きながら、うちらは得る者だなあ、と思いながらこんなことを考えた。

仏性の命ながらめ灌仏会   素閑