八月半ば。日本では一番蒸し暑いお盆の時期にはちょっぴり背筋の寒くなる話が似合う。
しかし残念ながら、今年のドイツは夏らしい日々がチョロリといたずらに立ち寄って、いきなり私の
循環系統の機能を掻き乱しある日突然挨拶も無く立ち去った。そしてそのまま戻って来ないらしい。
一雨ごとに涼しくなる。毎日雨が降っているので、日毎涼しくなる。
さて、最近の毎朝の行事について。
まず、冷たい水を一杯飲んで四方八方に伸びをしてから、お湯を沸かす。紅茶を入れるためだ。
お湯を沸かす間、テラスにでて隅々点検する。葉の茂みのあいだ、鉢の脇や底は重要チェックポイントである。 タイマーがジリジリとお茶の出来上がりを知らせるので、まずポットにお茶を移し、カップにたっぷりのお茶を注ぐ。 一口飲んでほっとした気持ちになったところで、今度はビニール袋と盆栽用ピンセットを手にもう一度テラスに出る。 さあ、大きく息を吸っていざ出陣の勢いで、点検第一ラウンドであらかじめ確認されていたそれらを袋の中にポイポイとピンセットで挟み、投げ込んでゆくのだ。
”それら”というのは園芸家の敵の一つである”ナメクジ”の事である。 オレンジ色の大きい奴等だ。移動中で長く延びている奴、鉢の脇についてジッとしている奴、私の大切なブッシュバジリコの頂上に乗ってゆらゆら揺られている奴、私の大好きなギボウシの葉の穴を開けている食事中の奴、大きな鉢の隅で幅3cm体長5cm程にごろんと縮んでいる奴。 一体どうしてこんなにナメクジがいるのだ。
ナメクジを美味しそうに食べてくれるハリネズミの家族が1週間ほど休暇に来てくれるといいのだが、ハリネズミの旅行代理店があったら私は広告を出しにゆく。しかしそうも行かないので、私が毎日ビニール袋とピンセットを持って這い回ることになる。 袋の中は怖いもの見たさでちらりと覗くがあまり楽しい事は無い。目を皿にして赤茶色の敵を探していると、足元に落ちている枯葉や素焼きの鉢の欠けらもナメクジに見えてきて、思わず身を構えてしまうことになる。
昨日友人が電話で
「アアア。。。まったく。。今年はナメクジ多いのかしら!おととい遊びに来た人がデルフィニウムの鉢を持って来てくれたので庭に早速出しておいたのよ。そしたらね翌朝の事なんだけど、青い花がきれいに咲いていたはずの場所に無いのよ花が、何も無いの! 鉢の中に棒が植わっているだけなのよ。それで鉢を持ち上げたらね、想像してよ、太くて長くて大きい奴がね、こう組み合うようにして7匹も固まっていたの!気持ち悪いでしょ。”
私は想像なんかしたくなかったが”絵”が脳裏に描かれてしまった後はもう消せない、消せないどころか余分な装飾まで施してしまい、大変なことになって来る。かなり背筋がぞわぞわしてくる。脳裏に描かれた絵を消す特殊消しゴムを持っている人はいませんか?
兎に角彼女は、
「小さい奴なら踏んづけてしまうけれど、そんなに大きいとそれも出来なくて、近所の茂みに捨ててきたわ。」と憤慨していた。そうなのか、彼女は小さい奴なら踏みつぶしの刑にしてしまうのだな。鋏でちょん切る人と言う人もいた。ナメクジの立場になれば気の毒な話しだし怖い事だろうが、咲く花をめでる暇もなく食べられてしまう経験を何度か続ければ、ナメクジの立場なぞ気にかけなくなるというものだ。
今私の手元に、チェコの作家カレル チャペックの「園芸家の12ヶ月」という楽しい本がある。庭いじりが好きな人は読みながら思わずニヤニヤしながら、うなずき、まるで自分の事を書かれているのではないかと疑ったり、苦笑したり、園芸に興味が無くともユーモアたっぷりに描かれた”園芸家”の真摯な姿に笑ってしまう事だろう。「。。。ところで、アブラムシと言う奴は、退治している間に非常な勢いで繁殖して、薔薇の枝を、まるでぎっしり目の積んだ刺繍のように覆ってしまう。その時は ワァッ、気色悪いな、といいながら、一枝ごとに。。。。」とアブラムシ退治のくだりがあるが、ナメクジを特に取り上げていない。出てくるのは似たようなものだがカタツムリの方だ。
しかし考えてみるとこの本はもともとドイツ語で書かれていた筈だから、カタツムリはナメクジに置き換えられてもいいかもしれない。何しろこちらでは一般的にナメクジもカタツムリも「Schnecke=シュネッケ」 と一派一絡げにしてしまうのだから。
ナメクジ退治後のひと時、お茶を飲みながらこんな話を数ページ楽しむというのもいいものです。
ドイツの夏に怪談話は似合わない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日の当てにならない天気予報では夏が戻るような事を言っている。
涼しくなって久しい今となっては嬉しいのかどうかわからない。