西国街道とは、京都市南区の東寺口から大山崎・高槻などの淀川右岸を通り、大阪市内を迂回して下関へ至る江戸時代の重要な道路であった。
ふと思いついて、YBR号でたどってみた。
起点は東寺の少し西に位置する羅城門の前。 かつての平安京のメインストリートである朱雀大路の南端であるが、いまはその痕跡は何もない。
九条御前交差点を南西へ分岐する地点が、実際の西国街道の始まりかと思う。
左手方向が街道だが、残念ながら車両通行止め。 西大路通をクロス、葛野大路(R171)もさらにクロスして南西へ。
久世橋西詰をさらに南西へ。 桂川の堤防沿いではなく、右手の脇道が街道。 F(府道)207号線。
またR171をクロス。 道なりに進むと、JRのアンダーパスにぶつかる。
北側の跨線橋に迂回、F206・JR向日町駅前。 阪急京都線・東向日駅前通過。
踏切を越えた直後に左へ。
先日訪れた桓武天皇皇后陵(高畠陵)の石碑があった。
物集女(もづめ)街道・F67の合流地点。 江戸時代の住居が復元されてる。
半数以上がシャッター街と化した商店街。 アストロ通りの名前が付いてるが、通りに向日神社があり、隣接して向日市天文館があるのが名前の由来。
文字通り五差路の交差点だが、F67は右斜めへ。 西国街道は南行一方通行を直進。
阪急のガード下でF67をクロス。 一文橋を渡った直後に右手の側道へ。
すぐにF67に戻り、 またクロス。 石畳の道がしばらく続く。
新神足村の石碑を見つけた。
明治22年 馬場村、開田村、神足村、勝竜寺村、友岡村、調子村が町村制施行により新神足村が発足。
昭和24年 乙訓村・新神足村・海印寺村が合併して長岡町が発足。
昭和47年 長岡町が市制施行して長岡京市となり、郡より離脱、現在に至る。 (以上、wikipediaより引用)
JR長岡京駅前通過。 つい最近?の平成7年(1995年)までは神足駅だった。
昭和50年頃の神足駅前の画像。 隔世の感がある。
街道沿いに、神足駅時代の駅名標が保存されている。
F67のクロス地点。 右 山さき(山崎) 左 よど(淀)と読める。
左 やなぎ谷 右 よど ○○やなぎ谷(柳谷)。
調子八角交差点。 京都縦貫道長岡京IC・阪急西山天王山駅の開業などで付近の道路が付け替えられ、状況は激変した。 通るたびに迷ってしまう。
JR山崎駅前。 サントリー山崎蒸留所が見える。 道幅は1.5車線ほどで、四輪車は離合困難。
テツの仲間では有名なサントリーカーブを列車が通過して行く。 この先、F67・西国街道は大阪府島本町へ入る。
追記:
桜井駅跡。 駅といっても律令制時代からの宿駅・駅家のこと。 「駅家」は「えきか」、
また「うまや」と読み、馬による交通・通信の施設であり、本来の「駅」はこちら。 なので駅という字は馬へんである。
今は鉄道の駅を指すが、「道の駅」のほうが本来の意味に近いと思う。
「楠公父子訣別之所」として知られ、『太平記』第十六の「正成兵庫に下向の事」(湊川の戦い)において建武3年(1336年)、
足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の楠木正行を河内国に帰らせたと伝えられている。 (wikipediaより引用)
楠公父子 桜井の別れの像。
以前は広い林の中だったが、隣に2008年JR島本駅が新駅開業して整備され、おっさんとしては雰囲気が台無しである。
西国街道を引き返す途中に、天皇陵があるので寄ってみる。 長岡京市金ヶ原にある土御門天皇陵。
「つちみかどてんのう かねがはらのみささぎ」 鎌倉時代の第83代天皇。 父は第82代・後鳥羽天皇。
参道を少し歩く。
帰り際に給油。 燃費47.92km/L 冬場に近場をうろうろしてたので、50km/Lを切っちゃった。
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