前回の続き。
羽生善治九段と豊島将之九段のあいだで、挑戦者争いが白熱する、今期の王将リーグ。
とよぴーには申し訳ないけど(私もファンだし)、世論はやはり
「藤井聡太と羽生善治のタイトル戦」
を期待している人が多いと思うが、私のような平成初期ごろの将棋界を知っているファンからすれば、よりその気持ちは強くなってしまう。
それはおそらく、
「中原誠と羽生善治のタイトル戦」
これが結局見られなかった「やり残し」感が、思い出されるからだ。
将棋界の「王者」というのは、それぞれの時代にはいるもので、かつては木村義雄に大山康晴。
昭和中期からは中原誠で、谷川浩司がいて、羽生善治の時代に突入。
渡辺明がいて、その後は藤井聡太につながって今に至る。
名人になっていることと(藤井はまだだが、すでに「予約済」であろう)、タイトル数からしてこのあたりの面々は異論がないところだろうが、私にとっての「王者」と言えば、中原と谷川だった。
私が将棋を見始めたのが「羽生四段」デビューの年からだが、そのときの名人が、なにを隠そう中原誠だった。
名人15期をふくむ、タイトル獲得64期。棋戦優勝28回。A級在籍29期。
永世名人、永世十段、永世王位、名誉王座、永世棋聖の称号も持つ、昭和の大レジェンドだ。
その後、中原は谷川と名人を取ったり取られたりするが、やはり羽生善治(とその同世代棋士たち)が天下を取るには、
「打倒中原&谷川」
というのが、ひとつの目安であったのだ。
このうち谷川は、羽生世代と8歳くらいしか違わないので、タイトル戦などで何度も戦っているが、中原は意外なことに、そうでもなかった。
あらためて見ると、羽生、佐藤康光、森内俊之、郷田真隆、丸山忠久、藤井猛といった面々は皆、谷川とタイトル戦を戦っているのに、対中原というのは一人もいないのだ。
彼らがデビューして勝ちまくっているとき、まだ中原は名人だけでなく、棋聖とか王座なんかを持っていて、三冠王とかだった時期もあったのに、なぜか縁がない。
唯一、この世代に近いところとやっているのが、屋敷伸之九段だけ。
今では藤井聡太五冠の持つ
「史上最年少タイトルホルダー」
という称号を屋敷が得たのが、なにを隠そうこの中原-屋敷の棋聖戦からだった。
なので、当時の空気ではなんとなく、「羽生時代」の到来は、
「中原誠とタイトル戦を戦って完成」
そうなったら、物語的にはきれいだなあ、みたいなノリが出来上がっていた。
かつて、木村義雄が大山康晴に名人位を明け渡したとき、
「よき後継者を得た」
との言葉を残して引退した(木村はセルフプロデュース能力に長けた棋士だった)けど、そういった小説の1シーンみたいな場面が実現しないかと期待していたわけだ。
最初のチャンスが、1994年度前期(当時の棋聖戦は年2回開催)の第64期棋聖戦だが、ここは谷川に敗れた。
話題性から言えば、次が大きな勝負となったが、同年開始の第53期A級順位戦で7勝2敗の成績をおさめ、同星の森下卓八段とプレーオフに。
ときはまさに「羽生七冠王」フィーバーのまっただ中。
それどころか、1週間後には「勝てば七冠王達成」という谷川との王将戦第7局を控えており、名人戦という舞台といい、
「谷川を倒して【七冠王】→名人戦で中原と対決し勝利→羽生時代到来」
となる、これ以上ない最高の演出がなされていたが、このときの森下は充実著しかった。
中盤戦、先手の中原が▲56金とくり出したところ。
角が逃げるようでは、▲55歩や▲45金、また▲74飛や▲64角などを組み合わせて、先手から百裂拳が次々入りそうなところ。
なら、ここはいっちょ引かずに暴れてみようか、となりそうなところで、先手陣にはおあつらえむきのキズがあるのだが……。
△37角成、▲同桂、△75銀が、森下の実力を見せた好手順。
ここは一目、銀を取ったあと△67銀と飛車金両取りに打ちたくなるが、これは中原が用意した誘いの罠。
銀打には▲74飛と出て、△56銀成と金を取れば▲71飛成。
△73歩なら、▲64飛、△63歩に▲54飛と切って、△同銀に▲45金とハンマーをぶつけていけば、先手の駒も目一杯働いている。
後手は△67の銀と△59のと金が、1手遅れている印象だし、歩切れなのも痛い。
そこを見破った森下は、飛車のさばきを押さえることこそが急務と、△75銀で▲同角、△同歩、▲同飛に△73歩。
意外なことに、これで存外に先手から手がない。
受け一方なうえ手番を渡すため、中原はこれを軽視したようだが、ここをじっとして自分のペースと判断できるのが、森下の強さだ。
以下、端から暴れてくるのを丁寧に応対して、後手が快勝。森下が初の名人挑戦を決めた。
この将棋は森下が相当に強い内容で、この結果を見て、こちらとしては、ふと思うわけだ。
「あれ? この森下とか、あと谷川に、森内とか、佐藤康光、郷田なんている中で、タイトル戦に出るのって超ムズくね?」
当時中原は、最後のタイトルだった名人を失って無冠だった(称号は「永世十段」)。
年齢も40代後半で、今の羽生と同じく全盛期は過ぎてしまった感はあった。
その状態から、他の棋士たちを蹴散らしながら、台風かイナゴの襲来のごとき勢いで暴れまわる「羽生世代」に谷川や森下や屋敷といった面々の壁を突破するのは、いかな中原でも、ちょっと苦しくなってきているのではないか。
その懸念は現実となった。
1996年の棋王戦では、またも羽生棋王への挑戦者決定戦に進むが、森下に再度はばまれてしまう。
中原はその後、タイトル戦とは縁遠くなり、A級からも陥落。
フリークラスにも転出し、事実上「引退」といってもいい状態になっては、とうとう夢の実現もついえたか。
と思われたが、ここでただ終わらないのが「大名人」だった中原の凄味か。
なんと2003年の第16期竜王戦では、2組で準優勝し決勝トーナメントに進出。
そこでも準決勝で佐藤康光棋聖を破って、とうとう挑戦者決定三番勝負までコマを進めたのだ。
最後の関門として立ちはだかるのが、森内俊之九段。
この強敵を打ち破れば、ついに待望の「中原-羽生」のタイトル戦が実現するところまで、こぎつけた。
「4度目の正直」をねらったこの大一番は、「森内有利」の予想の中、世論の大声援もあり、中原が力を発揮しての激戦となるのだった。
(続く)