私たちは、その生活において迎える事柄に対して、「姿勢を正し、行儀よく」対応していかなければならない。
そして又、「生活する」という事柄においては、必ずと言ってよいほど残骸が残る。「ゴミ、残滓、使い捨てにしたもの」らが所狭しと捨てられる。
そして又、生活する「場」を確保する時、そこに存在する諸々のものを片付けなければ、生活の場を確保できないし、その確保したところにも、自然と「ゴミや汚れ、チリ」にまみれてゆく。
こうしたものを「後片付けし、整理整頓」する必要がある。
「姿勢を正し、行儀よく」して行くためには、こうした「ゴミやチリ」などの「跡片付け、整理整頓」なしには、「姿勢を正し、行儀よく」して行けなくなる。となると、「姿勢を正し、行儀よく」するということと、「後始末し、整理整頓」するという事とは、車の両輪のような意味を持っている。
私たち人間は、この「姿勢を正し、行儀よく」するということと「後始末をし、整理整頓」をするという事を、思想として立てている。
「道徳、哲学」、そして「宗教」である。
この内「道徳、哲学」は、思想的のように思え、また一般的な宗教も、やはり思想的なものといえる。
その中で「釈尊」の教えだけが、「思想」と「理論」、「行動論(行為)」を併せ持つ教えとなっているものと感じられる。
尤も、釈尊の教えである仏教も「宗旨宗派」に分かれてしまっていて、車の両輪的な体をなしていなくなっていると思われるようになっている。
それはさて置き、釈尊の教えに「姿勢を正し、行儀よく」するということと、「後始末をし、整理整頓」をするという事を当てはめてみると、「八正道」の教えが当てはまる。
「八正道」とは、
正しい見解。
正しい思惟(しい)。
正しいことば。
正しい行い、責任負担、主体的行為。
正しい生活。
正しい努力。
正しい気遣い、思慮。
正しい精神統一、
この八つの行為と思いという生活上の心がけが、「姿勢を正し、行儀よく」し、「後始末をし整理整頓」させるものとなる。
それは苦しい。辛い。忍耐がいる。悲しみにも寂しさにも、耐えていかなければならない。
我々が普通望む「豊かさ、楽しさ、楽(快適、便利)」などは欠片もない。いや、そうしたものを、望めば望むほどに、この苦しみや辛さや悲しみ、寂しさはいやが上にも増してくる。
だがこの苦しみや辛さ悲しさ、寂しさに忍耐して耐えた時、私たちの目の前に本当の幸せの道が開ける。
それが「青い鳥の道」である。
青い鳥の道 おわり