「子供手当」を貰っても、親が生活費が足らないからといって、その「子供手当」分を使ってしまうかもしれない。
さて、どうする・・・・・・。
「自由」とは、憲法で保障された「民主主義の人権」ではある。
この「自由」、自由だからといって、野放しに自由に何でもやり、行えばよいというものではない。
おのずと制限があり、制約がある。
その制限と制約を超えると、支障をきたし、災いとも災難ともなって降りかかる。自業自得になる。
先日のニュースに
「2001年夏に起きた兵庫県明石市の歩道橋事故で神戸第2検察審査会は警察上層部を「起訴相当」と議決」
という記事が載せられていた。
この事故で傷ついた人、そして親しい人が傷つき無くしたした人たちは、悲嘆に暮れている人だろう。
だが、なぜこのような所へ行くという「自由」に惑わせられたのだろう。
それは「豊かさ、楽しさ、楽(快適、便利)」を求め過ぎるという自由の行い過ぎからではなかったのか。
花火というイベントもやはりこの「豊かさ、楽しさ、楽(快適、便利)」を呷るもので、その呷りにつられて制限も際限もなしにみんなが押し寄せたものだから、溢れてしまい持ち堪えらりず崩れて、そして折れてしまうのは、自明の理として言える帰結である。
これは「東京・秋葉原の無差別殺傷事件」で被害にあった人たちについてもいえる。
なぜこのように、繁華街に出掛けていたのか、出掛けなければなら中ってのか。
「豊かさ、楽しさ、楽(快適、便利)」という自由は、際限もなく制限もなく行使できるものではない。自制を利かせて程々にしないと、その反動は恐ろしい。
それは今度問題になった「トヨタ自動車」のリコール(回収・無償修理)事態が、それを証明している。
「製造の自由、販売の自由、購買欲を呷る自由」の果てに、こういう事態に陥っている。
それは、狂いである。その狂いが、悲を招いている。
「悲と狂」から、歩道橋事故事件では、警察幹部に責任を取らせようとしている。花火というイベントを催した者や、それに群がった者は「お咎めなし」となると、それがまた「悲と狂」を招いて行くだろう。
何もイベントや催し、コンサートとかにワーッと出かけなくとも、子供や家族と水入らずに和気あいあいと過ごす事が、何よりもいいことなのではないだろうか。
自由という事の「制御と自制」、それは人の心の思いの「制御と自制」でもあり、それが「行動と言動の制御と自制」につながっていく。