青い鳥の世界へ

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責任を負うのは

2014年03月25日 | 短歌に政治や社会

安倍晋三の安倍政権は、相も変わらず憲法解釈変更して集団檀的自衛権行使容認に向けて、突き進んでいる。
集団的自衛権とは、知っての通り「アメリカなどの同盟国が武力攻撃を受けた際に、日本が直接攻撃を受けていなくても、自国への攻撃とみなして反撃できる権利のこと。」である。
しかしこうした集団的自衛権を行使した場合、どういう結果が想定されるかという事は、何等の提示もされていない。ただ日米安保条約を強化するということへの言葉しか聞かれない。

かって我が国は、太平洋戦争によって三百万人もの戦死者を出している。その上に米軍の沖縄上陸戦や、全国各地で受けた空襲に、広島と長崎での原爆投下による被害者を加えると、五百万近い被害を出している。
こうした大きな被害は、たった数人といっていい戦争指導者によって開始された戦争によって、これら数人の戦争指導者の責任を負ったといえる事になる。
これら数人の戦争指導者は東京裁判で裁かれ、処刑されたり投獄された。この投獄されたものの内の「岸信介」は、米国におもねって釈放され、政治家となり、首相の地位にまで駆け上っている。そして現日本国憲法は「押し付け憲法」と言って憚らず、自主憲法を叫んでいる。
「押し付け憲法」といっても、現憲法は複数の連合国の英知を集めて提起されたものであり、むしろ米国との「安全保障条約」を結んで米国寄りの憲法を制定しようとする方が、「押し付け憲法」と言わなければならない。そればかりでなく岸信介は、更に米国におもねりたくて「集団的自衛権」も容認することを企てていた。しかし安保闘争らの国内混乱の責任を取って退陣している。

その岸信介の孫の安倍晋三が、祖父の遺志を継ぐつもりのように集団的自衛権行使容認に向かっている。
ここで国民である我々は、考えなければならない。
集団的自衛権を行使して「アメリカなどの同盟国が武力攻撃を受けた際に、日本が直接攻撃を受けていなくても、自国への攻撃とみなして反撃できる権利のこと。」をすると、「自国の攻撃とみなして反撃できる」という事は、戦争に自国を巻き込むという理屈になる。
先にも述べたように、戦争をしていけば、必ず勝利するものではないし、犠牲を払わなくてもいいという訳らにはいかない。それに近代戦争の兵器は強力になっているし、また核ミサイルも保有したりしている。
先頭に参加することによって敵対関係になれば、反撃攻撃を受ける市、報復復讐攻撃も受ける。これらが国内各地への攻撃につながらないとは言えず、核ミサイル攻撃の10数発を受ければ、日本国内は焦土と化してしまう。そしてその損害は太平洋戦争の損害や被害を上回ることになる。

こういった局面になると、あちこちの独裁者首脳のように、政治家たちは足元が危なくなるとさっさと雲隠れしていく。海外逃亡とか地下にもぐったりしていく。そうして、自分たちが行ったことの責任は取らない。取らずに、逃げていく。
そうなると、責任を取らせられて負うのは国民となる。
犠牲も負って払うのは、国民が負い払う事になる。
こうした大きな責任と、犠牲を負わないように、政治家などのしたいがままな身勝手はさせてはならない。

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3月24日(月)のつぶやき

2014年03月25日 | 宗教観
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