「愛」について知ろうとするには、自分というものを知らなければならない。
自分というものを知ろうとすることは、「自分は何のために産まれ、何のために生きていくのか」を知るみことである。
それは「自意識」について、知ろうとすることでもある。
我々は、それは人間だけでなく全てののは、何のためにこの世に産まれ、姿を現したのだろう。
単なる偶然で、こうしたこの世に産まれてきたのだろうか。そして漠然と、一生を送っていけばいいのだろうか。
我々生命を持つものは、一様に産まれてきたわけではない。また同じような生き方を、皆が皆等しく送れるものでもない。
それぞれが、それぞれの目的と願いと望みの元にこの世に産まれてきた。そして、それぞれがそれぞれのままに、生きていくべき宿命を帯びていくことになっている。
こうした個々の宿命ともいえる生命の道に、そこにそのままに生きていくことを望まれたのが、我々生命あるものの役割になっている。
こうした自己の役割に気付くことに、「愛」がある。「愛」とは、自分への敬愛でもあり得る。
「自分への敬愛」を知るならば、他の生命への敬愛も知ることになる。
「自己を愛し、他己を愛する」ことに、真の愛がある。
これは道徳では得られるものではなく、信仰によってしか得られない。
何故なら、道徳はある一定の枠内にしか通用しないのに比べて、信仰は普遍的なものだからである。