文科・林氏、防衛・小野寺氏=世耕経産相は留任―3日に内閣改造
明日の内閣改造を前に、留任や内定者の名前が報じられている。
ここには安倍首相の語った言葉の重みが、全く出ていない。
安倍首相は、「全てのことは私に責任がある」と言いながら、その責任をこのように内閣改造して転嫁している。
これは責任を実感してのことではなく、誤魔化しているにすぎない。
ここには稲田朋美前防衛相が離任式に挑んだ際に、「防衛省を風通し良くしなければならない」と言っていたが、その「風通し良く」できなかったのが自分なのだとは思っていない。だから親分の安倍首相も、こうした混乱を引き起こしたものを変え、その者たちに尻拭いさせるつもりでいる。
国有地売却や加計学園と、それらも尻拭いさせて凌ごうとしている。
安倍首相は内閣改造して、安定した政権を保つという。ということは、いじめ自殺や虐待死や、長時間労働自殺や貧困家庭心中とかが絶え間ない社会の安定には、まったく無関心になっていると言える。
社会や世の中の安定こそ、みんなの願いなのに…・
「祈り」というと、「拝む、礼拝する、合掌する」らも含まれる。
これらの「祈る」という行為は、願いや望み、あるいは悲しみや苦しみからの救済を願い望んでのことと言えるだろう。
しかしこうした行為の祈りは、邪道と言わなければならない。
何故かというと、祈りなどの相手として「神仏」を対象にして行っているが、それは神仏に対して「自分の望むようにしろ」と圧力を加えるに等しい行為だからだ。
「神仏」よりも高い位置にたって、見下しているといってもいい。
「祈りや拝み、礼拝合掌」とは、そういった態度に立ってすべきものではない。
ではどういう態度にたって、なってすべきかというと、「願いや望みや救済」を願ってするものではないのである。
「祈りや拝み、礼拝合掌」するという行為は、「神仏の思いや気持ちを受け取ります」とするがための行為であらねばならない。
「神仏」の望まないことは、行わない。
常に「神仏」の喜んでいただけるように努める。
それは「目配り、気配り」して、何か手伝い手助けして、役立つことを書かめていってこみそ、「祈りや拝み、礼拝合掌」を行った甲斐が表れよう。
この世は全て「相対する二面性」をもってと成り立っている。
「祈りや拝み、礼拝合掌」にしても、自分と「神仏」の相対があり、その相対に対して一方的になって依存しようとしていくのが我々だ。ただ身勝手になって、願いや望みを叶えてもらいたがっている。
しかしいくら「神仏」が望みを叶えて挙げようとして働きかけようとしても、受け取るべきこちらが、開け取るに相応しさを持っていないがために、尻切れトンボになっている。
叶え上げようとする働きかけの能動性に、しっかりと受け取りましょうとする受動性が備わっていない。
それ故に「祈りや拝み、礼拝合掌」を熱心に行っても、無意味になっている。
PKO日報「公開すべきでなかった」自民部会、意見続出(朝日新聞) - goo ニュース 自民党政権は、「隠蔽」を国策とする政党である。news.goo.ne.jp/article/asahi/…
— えちぜん (@itibanmasasan25) 2017年8月1日 - 20:35
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— えちぜん (@itibanmasasan25) 2017年8月1日 - 20:48