⑦ 追加
先に「余所見や脇見」をしないようにと「アーメン、南無阿弥陀仏」と唱える「祈りと念仏」という、こういうものを持つ心が大事だと述べた。だがこの「祈りと念仏」にはもう一つの心があり、それを述べて終わりとする。
我々は「自分が可愛い」というところから「自我」を持ち、その「自我」故に「楽をしたい、楽しみたい、遊びたい」という事になり、それが「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」に狂い「六道輪廻」していく。この「自我」を無くし「無我」にしていけばいい訳だが、だからといって「我」そのものを無くしてしまえばいいというのではない。
「我」が無くなってしまえば、生きる気力そのものも無くなってしまう。それ故にこの「生きる気力」という「我」は残し、その他の「我」を無くしてしまうということが要求される。それが「無我」である。
これはどういう事かというと、我々が望み願って止まない「楽をしたい、楽しみたい、遊びたい」というところの「自分が可愛い」というものを、では無くせばいいというものではなくて、この「楽をしたい、楽しみたい、遊びたい」当いうことを他の人や他の者と一緒にするということに、「無我」の「無我」たるのがある。即ち自分一人が、自分だけが「楽をしたい、楽しみたい、遊びたい」というのではなく、みんなと共に「楽をしたい、楽しみたい、遊びたい」ということである。
ここに「祈り」の心と、「念仏」の心がある。
ちなみにお釈迦様は、怒りも怒りもしなかったかというと、大いに怒り怒られている。だがそれは、自分本位で怒り怒られたのではない。
お釈迦さまが怒り怒られたのは、こういう時だ。
お釈迦さまがお説教をなされようとしたのに、弟子たちが「ガヤガヤ」と私語を発して騒いでいた。それを戒めるためにお釈迦様は、
(貴方達は、真の人間としての道を見付けるためにここに集うているのではなかったか。それなのに「ガヤガヤ」と私語を発して騒いでいるとは何事か)
といって怒り怒られている。
この怒りや怒られているのは、弟子たちの身を思って怒り怒られていた。
★ 我が道は 我より他に 誰がする
人を頼りに できるものなら