日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

浜松の龍潭寺 その壱

2011-12-27 | 井伊家
井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。
井伊家は藤原鎌足の後裔で、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。

保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。
室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。

戦国時代になると、24代・直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。

幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。
こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。
境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、井伊家霊屋などの建物が立ち並び、国指定名勝の小堀遠州作「龍潭寺庭園」は、石組みを配した築山と心字池からなる池泉鑑賞式庭園となっています。

山門





井伊家発祥の地の石碑





庫裡



              
開山堂



井伊家のお籠



左甚五郎の龍の彫刻



井伊家霊屋



元祖・共保公、22代・直盛公、24代・直政公の木像が安置されています。



元祖・井伊共保公像



22代・井伊直盛公像



24代・井伊直政公像



井伊家24代。永禄4年2月9日井伊領内祝田で誕生。15歳の時浜松城で徳川家康公に仕え、関ケ原の戦いでの武勲により、彦根へ。彦根藩江戸時代三百年の基を築き、42歳、慶長7年2月1日逝去。龍潭寺に葬れました。

次は墓地と庭園です。

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井伊氏祖・共保公出生の井

2011-12-24 | 井伊家
奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。
井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。
井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・直弼を輩出した家として知られています。

遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「共保出生の井戸」です。



白壁の塀に囲まれているので、車に乗っていてもすぐにわかります。

共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた井伊氏の元祖です。共保は、藤原冬嗣6世孫で、遠江国主・藤原共資の子に当たりますが、この地には、次のような伝説が残されています。

井伊氏祖 共保公出生の井

 この井戸は井伊家の始祖井伊共保公出生の井戸として往古から伝承されています。一條天皇の寛弘年間藤原鎌足十二代の子孫 備中守共資公が遠江介として村櫛へ下向、元旦 領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し当地方の宰主となり家紋をこの聖井を型取り、井桁に橘を以ってし、名門井伊氏の基を開いたと謂われます。
 又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります。
(浜松市教育委員会)






碑文は、第39代当主・井伊直愛氏(井伊直弼の曾孫)の撰述。




共保公出生の井戸



周りはこんなのどかな風景です。



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彦根の長久寺

2011-09-16 | 井伊家
彦根の長久寺は、1041年(長久2年)後三条天皇の皇后の祈願所として創建されました。





創建時より寺勢は大いに振るい、比叡山延暦寺を凌ぐほどの勢力でしたが、1510年(永平7年)に、六角・京極両氏の兵火により大打撃を受け、さらに1571年(元亀2年)、信長の比叡山焼き討ちの際、堂塔伽藍を焼き尽くされてしまいました。

その後、彦根藩主となった井伊氏は後水尾天皇の勅を奉じて、普門山常心院の山号院号を賜り、徳川将軍家の助力も受けながら、長久寺の再建に努めました。
本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。

寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿と、お菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。 お皿の常設展示はされていません。事前に電話予約が必要だそうです。





境内には、源頼朝手植えと伝わる梅があります。





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彦根の北野神社

2011-09-12 | 井伊家
1620年(元和6年)彦根2代藩主・井伊直孝が、上野国北野寺の鎮守社である天満宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。



社殿は、北野天満宮とよく似た造りで、撫で牛もあります。





ご祭神は菅原道真公。学問・文筆の神様として崇められ、道真公をお祀りする滋賀県内唯一の旧県社です。









また境内には白山神社、金比羅神、彦根えびす神社も祀られています。

隣接する北野寺は、1849年(嘉永2年)異国船来航の折り、井伊直弼の命で祈祷を行うなど、江戸時代、井伊家の祈願寺となり、神仏習合の形態をとっていましたが、明治の神仏分離令により北野寺と北野神社に分かれました。

1月には「彦根十日ゑびす祭」が行われます。



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大洞弁財天(長寿院)

2011-09-04 | 井伊家
龍潭寺の北側、大洞山の中腹に長寿院があります。
長寿院は、大洞弁財天とも呼ばれ、彦根城の鬼門除けとして、1695年(元禄8年)に彦根藩4代藩主・井伊直興の発願により創建されました。
直興は、5代将軍・綱吉の頃、日光東照宮建立の総奉行であったたため、長寿院弁財天堂は、日光東照宮を思わせる極彩色の権現造で、本尊を祀る阿弥陀堂には東照宮の眠り猫や像に似た彫刻があります。

阿弥陀堂





弁財天堂(本堂)





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