松平直政公の銅像から歩くとすぐに松江城のお堀が見えてきました。
松江城保存につくした人たち
明治4年(1871)4月、松江城の廃城が決まり、明治8年(1875)に利用できる釘やかすがいなど金物が目的の入札が始まりました。木材は燃やし、石材は壊されるしかありませんせんでした。
この危機を救ったのが、元松江藩士 高城権八と出雲郡出東村(現 斐川町坂田)の豪農 勝部 本右衛門(かつべ もとうえもん)家の人たちでした。
高城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営を行っていたので、本右衛門栄忠(しげただ)と息子の景浜(かげはま)は、高城権八と公私にわたり、親しい間柄でした。その時、松江城を管理していたのは、陸軍広島鎮台でした。入札で松江に来ていた責任者の斉藤大尉と会い、「入札額と同金額を納めるから、せめて天守閣だけでも残してほしい」と懇願しました。天守閣の入札額は、180円だったと伝えています。
こうして高城と本右衛門の努力で松江城天守閣は残り、全国に現存する十二天守の一つとして、今も戦国の威風を漂わせて、松江の町を守っています。
史跡松江城二の丸下の段の遺構
この二の丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。
米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢饉がしばしば発生するようになったので米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。
城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ二棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。 延宝七年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)とそのこ民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。
さらに十八世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに五棟も新造されたが、この内三棟は天保年間に建てられたものである。やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治八年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。その後、一帯は運動場となり明治三十三年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行われたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
松江市では、昭和四十七年度から三次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。(松江市教育委員会)
天守閣へと向かいます。
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