平安京大内裏の蘭林坊があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。
聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地
このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだった内裏跡にあたります。
なかでも当地は、陽明文庫蔵「内裏図」により、蘭林坊跡と考えられています。
蘭林坊とは、天皇一代の大イベント大嘗祭などに使用される品物の保管場所です。
昭和49年(1974)、平安博物館の行った発掘調査によって、蘭林坊の築地に関わる溝のような痕跡がみつかっています。
その後、火災などにより内裏は別の場所に営まれ、この地は荒野になりました。
内裏跡ですので「内野」とよばれました。
天皇への遠慮(タブー)があったようで、ながくここに住居などが建てられることはありませんでした。
この地の再利用に着手したのは、豊臣秀吉でした。
ながい戦国時代をおわらせ、天下統一の実現が求められていました。
秀吉は関白となり、天皇の伝統的権威をかりての政権構想をもちます。
そのため本拠は、大坂ではなく京都に定まりました。
それが内野に建設された城郭、聚楽城です。
聚楽城はながく正確な位置が不明でした。
が、森島康雄さんや百瀬正恒さん、馬瀬智光さんたちの考古学的研究により、全貌が明らかになりつつあります。
聚楽城の周囲には全国の大名の屋敷がいとなまれました。
安芸広島浅野家旧蔵の「諸国古城之図」の聚楽城図には具体的な人物の名前が記されています。
馬瀬智光さんの復元図によって推定すれば、当地には秀吉の姉の子(甥)で、養子でもあった豊臣秀勝(丹波少将)の邸宅があったといえそうです。
豊臣秀勝の妻は、淀殿(浅井茶々)の末妹・江です。
ふたりは天正13年10月18日(1585年12月9日)結婚し(「兼見卿記」同年同月20日条)娘をさずかりました(完子。誕生年不明)。
この一家の住居こそ当地であった可能性があります。
天正20年9月9日(文禄元年、1592年10月14日)、不幸にも秀勝は、出兵中に朝鮮で急死します。
その後、江は徳川秀忠と再婚しますが、完子は同行しませんでした。
豊臣家の大事な娘ですので、おそらく秀吉が禁じたと思われます。
秀吉の死後も生母(江)と暮らすことはなく、淀殿の猶子として大坂城で養育され、慶長9年6月3日(1604年6月29日)、豊臣家から五摂家の九条忠栄(幸家、のち関白)に嫁ぎます(「慶長日件録」)。
完子は多く子を産み、その子孫は公家社会の維持に寄与しました。
近代に入り子孫のひとり九条節子は、嘉仁親王(のち大正天皇)に嫁ぎ、裕仁親王(のち昭和天皇)を生みます。
豊臣家の血統は、完子を通じて現在の皇室にも及んでいるようです。
当地は現代にも通ずる日本史の重要な舞台地のひとつといえましょう。
ゆえに標石を建て顕彰いたすものです。
歴史地理史学者
中村武生