久徳定高(多賀定高)は、多賀氏一族として京極氏に仕え、長享元年(1487)、合戦における功により現在の犬上郡多賀町久徳の地を賜り、芹川を外堀にした久徳城を築き、久徳を称するようになりました。
滋賀県多賀町久徳は、六角氏と浅井氏の係争の地でした。
久徳一族は六角氏の庇護を受けていましたが、浅井長政の攻撃を受け、久徳城は永禄3年(1560)に落城。
永禄11年(1568)織田信長の上洛に抵抗して六角氏が没落すると、織田氏に属するようになります。
元亀元年(1570)浅井長政が織田信長と対立するようになり、姉川の合戦が起ると織田方として浅井勢と戦い、当主宗重は信長から三千石の黒印状を賜り、久徳氏は久徳城に復帰。
元亀2年には、浅井氏の命を受けた高宮三河守の攻撃を撃退。
浅井氏滅亡後は豊臣氏に仕えましたが、関が原の合戦に際して西軍に加担したことから、所領を没収され、その後久徳家は帰納する者、他家に仕える者などに分かれました。
久徳城の城跡は現在、市杵島姫神社の境内となっており、周囲には土塁の跡、壕跡と思われる遺構がみられます。
神社の前の植え込みの中に、久徳城跡の碑があります。
「浅井長政」の文字が見えます。