日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

多賀町を巡る(10)高源寺 その弐

2021-07-18 | 井伊家

また、境内には、井伊直弼が始めたと伝えられる石州流直弼派「一会流」の「茶筅塚」があります。

石州流 (せきしゅうりゅう)は、片桐石州(貞昌)を流祖と仰ぐ武家茶道の流派の総称。一口に石州流と言っても様々であり、初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられるほか、地域ごとに様々なグループを形成している。

井伊直弼は、元来は300俵扶持の部屋住みで、その頃からおそらく石州流の茶湯を学んでいたと考えられる。片桐宗猿に事細かな質問をしており、『茶湯一会集』その他の著書などから当代一流の茶人であったと考えられている。家臣に宇津木左近があり、維新後に茶道教授をはじめており、この系譜が復元されて一会流と称している。(Wikipediaより)

塚は、75センチ立方の台座の上に75センチの茶筅が置かれ、ともに御影石製。

鐘楼

多賀観光協会HP参照

 

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豪徳寺

2013-06-05 | 井伊家
豪徳寺は、世田谷区豪徳寺にある曹洞宗の寺院で、招き猫発祥の地とされています。
文明12年(1480年)、世田谷城主・吉良政忠が伯母・弘徳院のために建立した「弘徳院」が前身とされています。当初は臨済宗に属していましたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じました。



寛永10年(1633年)彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備しました。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によるものです。



仏殿



本堂



梵鐘



三重塔



井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたという伝説があり、招き猫が祀られています。





絵馬





境内に、井伊家の墓所があり、その一角に井伊直弼の墓があります。

国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所

井伊家は遠江国とうとうみのくに井伊谷いいのやを中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。
井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。
合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。
続く2代直孝なおたかも大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。
以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間たまりのまに控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。
直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時なおとき(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。
直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風からはふ笠付位牌いはい型で造られている。
以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子せいし、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。
これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺せいりょうじ(滋賀県彦根市)、永源寺えいげんじ(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。
各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。
世田谷区教育委員会(説明板より)



井伊直弼の墓



都史跡 井伊直弼墓

井伊直弼(1815~60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで安政5年(1858)4月大老になる。
勅許を待たず日米修好通商条約など安政5ヶ国条約に調印。
また13代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。
さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危機にさらされ、遂に安政7年3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬された。
墓石の高さは342センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将暁覚翁大居士」とある。

東京都教育委員会(説明板より)

4月下旬、つつじやボタンが見頃でした!(^^)!







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井伊谷城跡

2012-01-09 | 井伊家
井伊谷宮から井伊谷城跡へ。
井伊谷城跡は、浜松市引佐総合事務所の背後の丘陵にあり、山頂は、城山公園として整備されています。



城山公園入口から、急な坂道をてくてくと上っていきます。

普通に歩けば、7分ほどで到着しますが、この坂道結構キツかった~



井伊城は井伊氏の居城だった場所で、井伊谷宮近くの城山の上にあります。

城山の頂上付近には御所丸跡や井の宮石稜が残っています。









南北朝時代、戦時には、三嶽城(井伊谷城から北東2.5kmにそびえる三岳山に築かれた城)を本城とする井伊氏・宗良親王は、北朝方と戦っていたといわれます。
井伊城はこの城山の南麓にあり、南麓には本丸・二の丸・三の丸に分かれ、井伊家の居城であったとされている。
延元元年(1337)遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えしてより、元中2年(1385)8月10日宗良親王この地で薨去し給うまで約50年、親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦された。
平時にこの城山の御所の丸に居られ
  夕暮れは湊もそことしらすげの 入海かけてかすむ松原
  はるばると朝みつしおの港船 こぎ出るかたは猶かすみつつ 
の御歌が残されている。(説明版より)


城跡には、テーブルやベンチも設置されていて、引佐周辺や浜松アクトタワーの展望を楽しむこともできます。





また、城山全体に桜の木が植えられているので、桜の季節には花見客で賑わうそうです。

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井伊谷宮 宗良親王の墓

2012-01-04 | 井伊家
龍潭寺に隣接する井伊谷宮は、1872年(明治5年)井伊家によって建てられた神社で、南北朝の動乱期に、井伊家のもとに身を寄せ、北朝方と戦った後醍醐天皇の皇子の宗良親王を祀ってあります。本殿の背後に宗良親王の墓と伝えられる塚がありますが、宗良親王の晩年は不明な点が多く、終焉の地については諸説あります。

宗良親王の墓所の入り口



墓所は、立入禁止になっていて見ることはできません。



宗良親王に従った信濃国の知久監物源頼人が奉納した宝筐院塔があるそうです。
龍潭寺から、この墓地を通り過ぎて、井伊谷宮に通り抜けることができます。







慈母観音菩石



母親が子どもを抱いている姿に見えます。



宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、南北朝時代・室町時代の皇族で後醍醐天皇の皇子で、信濃の宮や大草の宮・幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。母は二条為子。
歌道の家であった二条家出身の母から生まれたことにより、幼い頃から和歌に親しんでいた。妙法院に入り1325年(正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。
父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。1338年(暦応元年/延元3年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(福島県伊達郡霊山町)へ渡ろうとするが、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。
1340年(暦応3年、興国元年)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国(新潟県)の寺泊(現、新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現、富山県射水市)などに滞在した後、1344年(興国5年/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現、長野県大鹿村)に入った。宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。
晩年については、新葉和歌集の選集がほぼ終わったと思われる1378年(天授4年)に大河原に一度戻った事が判明しているが、1381年(弘和元年/永徳元年)に吉野に戻って新葉和歌集を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されていない。
終焉場所については、1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。また昭和15年に長野県旧長谷村常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。その他に浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。柳原紀光の「続史愚抄」には、南朝紹運録や入野谷長谷説と同じ1385年(元中2年)8月に没したと記されており、花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述から、1389年(元中6年/康応元年)以前に没したことがわかる。長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓と伝えられており、静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。(Wikipediaより)

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浜松の龍潭寺 その弐

2011-12-30 | 井伊家
続いて、龍潭寺の墓地と庭園です。

井伊家歴代墓 元祖共保公より二十四代直政公までの墓地





左から、直政、直政の母、父の墓


庭園







小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で、「遠州流」の茶道を興し、二条城二の丸庭園などの作庭をしました。また、駿府城の作事奉行を井伊家・25代直孝とともに勤めたことが縁で、当寺の作庭を依頼したといわれています。

境内では、ツツジやアジサイに代わり、ガクアジサイがあちらこちらで咲き始めていました。
(訪問したのは6月です。)











撮影 2011.6

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