日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鞆の浦の寺社・史跡めぐり(19)鞆の港の常夜灯~力石

2015-12-28 | 史跡

鞆の港









瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、古代より潮待ちの港として知られていた。また、鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている。(Wikipediaより)

鞆の浦のシンボル・常夜灯


安政6年(1859年)に建てられた船の出入りを誘導してきた燈台。

燈の高さは5.5m、基礎石は3.6mとかなり大きなものです。

雁木や船番所とともに鞆の港の歴史を物語っています。


鞆の浦の町のあちこちに、力石を見かけました。







石の表面には「力石」や年号や人名が刻み込まれています。

沼名前神社の祭礼の日に、力くらべの奉納興行が行われ、力自慢の者が集まって、この力石を持ち上げたそうです。
この力石が港町に多く存在し、力仕事の仲仕の力を競う「はかり」の道具として用いられました。



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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(18)いろは丸展示館

2015-12-22 | 建築物
いろは丸展示館は、いろは丸と明光丸の衝突事件の概要を展示する博物館で、

1989年(平成元年)7月に開設されました。





入り口から坂本龍馬さんがお出迎え~





龍馬像


龍馬グッズがずらり~



海底20mに眠るいろは丸の一部が原寸の70%のジオラマで再現されています。

ブルーの照明が海の雰囲気を醸し出しています。



和紙人形


いろは丸より引き揚げられた陶器や部品が展示されています。







2階には坂本龍馬の隠れ部屋が再現されていて、等身大の龍馬の蝋人形があります。



周りに誰もいなかったので、このリアルな蝋人形には驚きました(@_@;)

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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(17)龍馬観音~いろは丸事件談判跡

2015-12-16 | 史跡
坂本龍馬は数回、鞆の浦に寄港したと言われています。

いろは丸事件(幕末の1867年、鞆の浦沖の瀬戸内海で、龍馬率いる海援隊の蒸気船「いろは丸」と紀州藩の軍艦が衝突した事件。
いろは丸は沈没し、賠償金を巡って龍馬と紀州藩が鞆の浦で談判を繰り広げた。)の際には浄泉寺の観音様に海難審判(裁判)の勝利を祈願したと伝えられています。

その観音様は、台風で海に流されたままになっており、2009年に当時の再現がされています。







台座の説明には

「幕末を駆け抜けた龍馬はこの地に立ち、世界の平和と自由を発信した」

とあります。

いろは丸事件談判跡






慶応3年(1867)、いろは丸事件の賠償交渉の場所として使用されました。

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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(16)圓福寺・大可島城跡

2015-12-04 | 史跡

圓福寺の前身は、釈迦堂と呼ばれ、沼名前神社の南に位置していたそうです。




1342(康永元)年、城主の桑原重信一族が、足利氏に敗北した後は村上水軍の手に渡り、戦国時代には毛利元就の水軍の軍事拠点になりました。





大可島は、以前は独立した島でした。
慶長5年(1600年)頃の鞆城建造に伴い陸続きとなり、圓福寺は、慶長15年(1610年)頃に大可島城の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。



江戸時代は真言宗明王院の末寺となり、朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。

また、いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。

境内には芭蕉の句碑もあります。





桑原一族の墓所







ここからは、島や鞆の港が一望できます。






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