赤坂見附跡からさらに坂をのぼると(ほんのわずかです)江戸城外堀跡 赤坂御門があります。
史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。
赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。(案内板より)
黒田忠之
慶長7年(1602年)黒田長政の長男として福岡で生まれました。
黒田官兵衛の孫に当たります。元和9年(1623年)、父の死去により家督を継いで、筑前福岡第2代藩主となりました。
初めは父・長政の字を用いて忠長や忠政を名乗っていましたが、「忠」字徳川秀忠から偏諱として「忠」の字を賜り、名を「忠之」に改めました。
重臣の栗山利章(栗山利安の嫡子)と衝突を繰り返し、御家騒動「黒田騒動」を招き、幕府から除封の処分を下されますが、父祖の功績により、忠之は改めて城地を与えられたのでした。
明治初期の写真と比べると、ずいぶん街並みが変わってしまいましたね。
帰りは坂をさらに上って、永田町の駅から帰りました。
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史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。
赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。(案内板より)
黒田忠之
慶長7年(1602年)黒田長政の長男として福岡で生まれました。
黒田官兵衛の孫に当たります。元和9年(1623年)、父の死去により家督を継いで、筑前福岡第2代藩主となりました。
初めは父・長政の字を用いて忠長や忠政を名乗っていましたが、「忠」字徳川秀忠から偏諱として「忠」の字を賜り、名を「忠之」に改めました。
重臣の栗山利章(栗山利安の嫡子)と衝突を繰り返し、御家騒動「黒田騒動」を招き、幕府から除封の処分を下されますが、父祖の功績により、忠之は改めて城地を与えられたのでした。
明治初期の写真と比べると、ずいぶん街並みが変わってしまいましたね。
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