日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

江戸城外堀跡 赤坂御門

2014-06-27 | 史跡
赤坂見附跡からさらに坂をのぼると(ほんのわずかです)江戸城外堀跡 赤坂御門があります。





史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
 
 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。
 赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。(案内板より)





黒田忠之
慶長7年(1602年)黒田長政の長男として福岡で生まれました。
黒田官兵衛の孫に当たります。元和9年(1623年)、父の死去により家督を継いで、筑前福岡第2代藩主となりました。
初めは父・長政の字を用いて忠長や忠政を名乗っていましたが、「忠」字徳川秀忠から偏諱として「忠」の字を賜り、名を「忠之」に改めました。
重臣の栗山利章(栗山利安の嫡子)と衝突を繰り返し、御家騒動「黒田騒動」を招き、幕府から除封の処分を下されますが、父祖の功績により、忠之は改めて城地を与えられたのでした。



明治初期の写真と比べると、ずいぶん街並みが変わってしまいましたね。

帰りは坂をさらに上って、永田町の駅から帰りました。

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黒田家江戸上屋敷跡

2014-06-15 | 史跡

黒田家の江戸上屋敷は、現在の外務省の位置にありました。



霞が関坂を隔てた現在の中央合同庁舎第2号館(総務省など)や大三号館(国土交通省)の場所は広島藩浅野家の上屋敷跡で、両家のあった景色は、浮世絵や錦絵に描かれるほどの江戸の名所であったといいます。



黒田家と浅野家は、当時ライバル関係にあり、黒田家の黒い海鼠壁に対して、浅野家は朱色の門といったところにも対抗心が表れていたとか。

明治政府は霞ヶ関、大手町、丸の内等のは大名藩邸跡を接収し、官庁街や軍事施設として利用しました。
1871年(明治3年)に外務省は銀座から霞が関に移転し、福岡藩黒田邸をそのまま使用していましたが、1877年(明治10年)2月1日に焼失。

旧黒田邸時代の外務省

(画像:Wikipediaより)

1881年(明治14年)、フランス人建築家ボアンヴィルの設計により新庁舎が誕生しました。



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赤坂見附跡

2014-06-05 | 史跡
弁慶橋より赤坂見附跡に向かいます。







見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には36の見附があったとされています。
赤坂見附はその江戸城三十六見附のひとつで、紀尾井町の国道246号沿いに石垣が残されています。













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赤坂の弁慶橋

2014-06-03 | 地名の由来
東京メトロの赤坂見附駅で下車し、駅の周辺を散策してみました。

赤坂見附交差点北側に面した濠は、江戸時代に江戸城警護のために作られた外堀の一つで、弁慶橋は、清水谷・紀尾井町方面への近道として(明治22年)1889年に架けられました。



橋の名前の由来は、江戸城普請の大工の名棟梁であった弁慶小左衛門が作った橋であることによるといいます。



武蔵坊弁慶とは関係ありません(^_^;)



弁慶橋ができるまでは、清水谷公園前の道は人通りも少なくさびしい道で、それまで遠く迂回して行き来していた両側の住民は大変喜んだそうです。

現在の弁慶橋は、昭和60年(1985)11月に改架した、長さ44.75m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。

ここ弁慶橋にはボート場もあり、釣りも楽しめます。

弁慶濠は河川の流入がなく、水源は雨水と井戸水なのですって。



向こうには、ホテルニューオータニが見えます。


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