壽聖院は、慶長4年(1599年)に石田三成により、父・正継の菩提寺として建立されました。その翌年、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こりました。
敗戦後は、縮小を余儀なくされ、境内はもとの四分の一の大きさになりましたが、当時の書院は、現在、本堂として利用されているそうです。
庭園は狩野永徳が設計したもので、庭園の瓢箪池は、三成が豊臣秀吉の戦勝の瓢箪印を記念し、それを模して造られているそうです。
また、こちらには、石田三成の父・正継、母・瑞岳院、三成、三成の長男・済院宗享の肖像画(レプリカ)が展示されているそうです。
三成は関ヶ原の戦いの後、六条河原で斬首されこの世を去りましたが、三成の長男・重家は徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗享と名を変え、壽聖院の三世の住職となりました。
敗戦後、壽聖院は全面解体されましたが、宗享が龍安寺の末寺の材を集めて再建しました。
41歳でこの世を去った父三成に対し、宗享は104歳まで生きたといわれています。
石田三成の親族9人が、壽聖院の墓所で眠っています。
※一般公開は行っていません。
(壽聖院HP参照)
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敗戦後は、縮小を余儀なくされ、境内はもとの四分の一の大きさになりましたが、当時の書院は、現在、本堂として利用されているそうです。
庭園は狩野永徳が設計したもので、庭園の瓢箪池は、三成が豊臣秀吉の戦勝の瓢箪印を記念し、それを模して造られているそうです。
また、こちらには、石田三成の父・正継、母・瑞岳院、三成、三成の長男・済院宗享の肖像画(レプリカ)が展示されているそうです。
三成は関ヶ原の戦いの後、六条河原で斬首されこの世を去りましたが、三成の長男・重家は徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗享と名を変え、壽聖院の三世の住職となりました。
敗戦後、壽聖院は全面解体されましたが、宗享が龍安寺の末寺の材を集めて再建しました。
41歳でこの世を去った父三成に対し、宗享は104歳まで生きたといわれています。
石田三成の親族9人が、壽聖院の墓所で眠っています。
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