日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

妙心寺の塔頭寺院(4)壽聖院

2017-09-26 | 仏閣
壽聖院は、慶長4年(1599年)に石田三成により、父・正継の菩提寺として建立されました。その翌年、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こりました。



敗戦後は、縮小を余儀なくされ、境内はもとの四分の一の大きさになりましたが、当時の書院は、現在、本堂として利用されているそうです。

庭園は狩野永徳が設計したもので、庭園の瓢箪池は、三成が豊臣秀吉の戦勝の瓢箪印を記念し、それを模して造られているそうです。

また、こちらには、石田三成の父・正継、母・瑞岳院、三成、三成の長男・済院宗享の肖像画(レプリカ)が展示されているそうです。

三成は関ヶ原の戦いの後、六条河原で斬首されこの世を去りましたが、三成の長男・重家は徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗享と名を変え、壽聖院の三世の住職となりました。
敗戦後、壽聖院は全面解体されましたが、宗享が龍安寺の末寺の材を集めて再建しました。
41歳でこの世を去った父三成に対し、宗享は104歳まで生きたといわれています。

石田三成の親族9人が、壽聖院の墓所で眠っています。



※一般公開は行っていません。

(壽聖院HP参照)

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妙心寺の塔頭寺院(3)智勝院

2017-09-15 | 仏閣
妙心寺の塔頭智勝院



開祖は妙心寺七十四世単伝士印(たんでんしいん)大光普照禅師。

慶長二年(一五九七)、稲葉貞通が父一鉄(いつてつ)の菩提をとむらうため、単伝を請じて創建された塔頭。貞通は早くから南化玄興(なんかげんこう)に帰依しており、その関係で当院の開祖には南化の法嗣(はっす)単伝が招かれた。
単伝は春日局の帰依を得ていたが、紫衣事件に連座して出羽由利(でわゆり)郡本荘(ほんじょう)藩(秋田県)の泉流寺に配流されている。

ちなみに智勝院の称は、貞通の法号にもとづいたものである。(妙心寺塔頭寺院案内より)

山門からほんのり紅葉した庭が見えました。



こちらも通常非公開です。

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妙心寺の塔頭寺院(2)麟祥院

2017-09-02 | 仏閣
麟祥院は、徳川家光の乳母・春日局追福のため碧翁(へきおう)和尚を開山として建立された寺院です。







御霊屋は、仙洞女御所にあった釣殿を後水尾天皇より下賜されたものです。

方丈の襖絵を描いた海北友松の子の海北友雪です。

普段は非公開ですが、特別公開の時のみ海北友雪の方丈襖絵「雲龍図」を見ることができます。

海北友雪
江戸初期の海北派の画家。京都生。父は画家海北友松。名は道暉(道輝)、通称は忠左衛門。画を父友松、のち狩野探幽に学ぶ。春日局によって徳川家光の推挙を受け海北家を再興した。狩野派や大和絵の影響を受けた装飾的画風の海北派を樹立し、晩年は禁裏諸建築の障壁画制作にも関与した。延宝5年(1677)歿、80才。(コトバンクより)

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